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閉ざされた花屋の前に、和也は長い間立ち尽くしていた。夕陽が彼の影を細く長く引き伸ばしていくまで。ようやく花屋が再び開いた日、風鈴の音がまた鳴り響いた。だが和也は中に入る勇気が出なかった。通りの向かい、路地の陰に身を潜め、まるで人目を避けるようにそっと覗き見るしかなかった。彼の視線の先で、雨子と文雄が一台の車から降りてきた。二人とも軽やかで心地よさそうなカジュアルウェア姿。雨子は顔を上げ、文雄に何かを話している。その目は三日月のように細まり、眩しいほどの笑顔を浮かべている。それは和也が一度も見たことのない、曇りのない笑顔だ。風に髪が乱され、雨子が手を伸ばして治めようとするわずかな間に、文雄はさりげなく近寄った。彼女の頬に触れた髪を耳の後ろへそっと掻き上げると、その手から広縁の麦藁帽を受け取った。その仕草はあまりにも自然で、まるで何度も繰り返してきたような親密さがあった。和也は呆然と見つめ、冷たい何かが心臓を強く締め付けるような感覚に、つい、息を殺した。彼が知っている雨子は、いつもおそるおそるで、笑顔は相手の顔色をうかがうようなものだった。たとえ一瞬だけ明るく笑っても、彼の冷たい反応の前ではすぐにその光を失ってしまった。彼は知らなかった。彼女がこんなにも自由に、こんなにも生き生きと笑える人だったなんて。厚い氷を割って顔を出した花が、陽光を浴びて咲き誇るように、のびやかに輝いている。――自分はいったい、彼女に何をしてきたのだろう。かつては光を放ち、瑞々しく輝いていた雨子を無視し、遠ざけ、自分の手で少しずつ傷つけてきたのか。そして最後には、水分を奪われた薔薇のように、音もなく静かに枯れていったのだ。そのときようやく、自分の過ちは単なる間違いではなく、ほとんど許されざる罪だったのだと気づいた。彼はその場に立ち尽くし、まるで地面に打ちつけられたように動けず、文雄が雨子の肩を抱き、耳元で何かを囁くのをただ見つめていた。雨子は笑いながら軽く文雄の胸を拳で叩き、二人は並んで花屋の中へ入っていく。その光景は穏やかで温かく、完璧な調和に満ちていた。だが、それはもう彼とは何の関係もなく、これからも決して関わることのない世界だ。彼ははっきりと悟った。壊れたものは、もう二度と元には戻らない。踏み外した道は、どんなに悔い
文雄はいつの間にか立ち上がり、雨子のそばへ歩み寄ると、和也が再び近づこうと伸ばした手を遮り、雨子を背中にかばった。彼の表情は静かだったが、その瞳には冷たい光が宿り、まるで領有を示すようだ。「あなたの妻?」和也はその言葉の意味を理解できないかのように、視線を文雄の顔に移し、次にゆっくりと雨子の指にはめられたダイヤの指輪へと移した。瞳孔が一瞬にして縮む。文雄が何か言おうとしたその瞬間、雨子がそっと彼の腕に触れ、下がるように合図した。彼女は半歩前に出て、和也との間に安全な距離を保ち、平静なまなざしのまま、氷のように冷たい声で一言一言を胸に突き刺すように告げた。「秦野さん、どうかお引き取りください。今日のことも、過去のすべても、もう水に流してください。二度と顔を合わせないで。カメラに向かってあなたのあの言葉が本当なら、私に対して僅かでも同情や罪悪感があるというのなら――私を放っておいてください。もう、これ以上私の人生に干渉しないで。それがあなたにできる最後の優しさよ」和也の顔は血の気を失い、唇が震えていた。謝りたかった。懺悔したかった。言いたいことは山ほどあった。だが、雨子の冷えきった瞳を見た瞬間、すべての言葉が喉の奥で詰まった。彼は怖かった。言葉を重ねれば重ねるほど、彼女が遠ざかっていく気がした。わずかに残されたはずの希望が、完全に泡のように消えてしまうのが怖かった。長い沈黙が続く。花屋の空気さえ固まってしまったように感じるほどに。再び口を開いたとき、和也の声は聞こえないほどかすれ、疲労と卑屈さが滲んでいた。「雨子、俺は本当に……」言葉を探そうとしたが、思考はぐちゃぐちゃだった。「美月はもう政略結婚に出した。俺と彼女の関係は完全に終わったんだ。戻ってこい、俺のもとに。約束する、秦野夫人はお前だけだ。お前しかいない。永遠に、ずっとお前だけだ」昔なら、こんな言葉を聞いた雨子はきっと飛び上がるほど嬉しかっただろう。やっと全ての苦しみが報われたと思ったに違いない。けれど今の彼女は、ただひどく疲れていた。かつて彼のために燃え、そして凍りついた心の大地は、もうすっかり荒れ果て、草一本生えていない。彼女はふっと微笑んだ。その笑みには温もりもなく、ただ嘲りが滲んでいた。「あのね、時々不思議なの。私がようやく、
「雨子、きっと僕の気持ちは伝わっていると思う」彼はゆっくりと口を開いた。声は大きくないが、誠実さが滲んでいた。「実はな、昔お母さんから援助を受けた頃の僕は、筋金入りの不良少年だった。両親は早くに亡くなり、誰にも見向きもされなくて、生きることに必死だった。いじめられないように喧嘩ばかりして、未来なんて真っ暗で、勉強する気も希望もまるでなかった」彼は一瞬言葉を切り、口元に自嘲気味の笑みを浮かべた。「そんな僕を泥沼から少しずつ引き上げてくれたのが、お母さんが定期的に送ってくれた手紙と、当時の僕には大金だった送金だったんだ。手紙の中で彼女は僕を励まし、未来にはいくらでも可能性があると教えてくれた。善悪を見分けることを教えてくれたし、時にはお前のことも話してくれたんだ」雨子はわずかに目を見張った。「お母さんはこう言ってたよ。『雨子はね、私の人生で一番あったかくて、美しいひだまりみたいな子なんだよ。明るくて、優しくて、周りの人をみんな笑顔にしちゃうんだから』って」文雄の視線が彼女の顔へと戻り、穏やかに続けた。「お母さんはね、あなたがいるからこそ、どんな苦労も努力も報われると感じていた。だからこそ、その『美しいものを守る気持ち』を、助けを必要としている人たちにも伝えたいと願っていたんだ。そのとき、ふと思ったんだ」彼の声は少しだけ柔らかくなった。「彼女にそこまで大切に想われ、あんなふうに語られる女の子って、どんなに可愛くて、どんなに素敵なんだろうって。そして、君に対してぼんやりとした興味が湧いていた。きっと、そんな家庭のぬくもりを持つ人は、運命に愛されていて、この世界でいちばん優しく扱われるべき存在なんだろうって思ってた」雨子は思わず、息を呑んだ。胸の奥深くが、ふと何かに触れられたように震え、切なさと、どこからか湧く温もりがほんのりと溶け合っていく。母の口から語られる自分が、そんなふうに映っていたなんて、考えたこともなかった。そして、自分も知らないあの手紙の数々が、見知らぬ少年の心に「美しさ」という種をまいていたとは、想像さえしていなかった。文雄は戸惑いを浮かべる彼女の表情を見つめ、これ以上その話題で彼女を困らせまいと口を閉ざした。彼は立ち上がり、ポケットから深い藍色のベルベットの小箱を取り出す。蓋を開けると、シンプル
文雄はスクリーンから目を離し、雨子の顔に視線を戻して、そっと尋ねた。「帰りたいのか?」雨子はゆっくりと首を横に振り、少しかすれた声で答えた。「まだ……心の準備ができてません」だが、文雄は彼女の指先がわずかに強張り、掌に食い込んでいるのを見逃さなかった。彼は立ち上がり、彼女の前に歩み寄ると、しゃがみ込み、視線を同じ高さに合わせた。自然な動作で手を伸ばし、指の腹でそっと彼女の目尻ににじんだ涙を拭う。その瞳は、彼女の痛みすべてを包み込むような優しさを帯びていた。「大丈夫。準備ができる時でいいんだ」低く穏やかな声には、不思議と心を落ち着かせる力があった。「君が望むなら、いつでも付き添ってあげる。あるいは、君が行きたい場所へ、どこへでもいい」雨子は、彼の瞳に映る自分の姿を見つめ、そっとうなずいた。再び視線をテレビ画面に戻すと、そこでは和也がカメラに向かって、「彼女がいなければ、僕の人生には意味がない」と力強く語っていた。「どうして……」雨子の声はかすかで、理解しがたい震えを帯びていた。「どうして、あんな根っから腐った人間が、こんなにも完璧に『良い夫』を演じられますか?どうしてみんな信じてるの?誰も彼を暴こうとしないの?」文雄の胸が、きゅっと痛んだ。彼は手を伸ばし、震える雨子をそっと抱き寄せる。その掌で彼女の背を優しく撫でながら、穏やかな声で言った。「だからこそ、外へ出よう。きちんと陽の光を浴びよう。彼のためじゃない。君自身のために、あの男の嘘を暴き、奪われたもの全てを取り戻すんだ。君が当然手にすべきものを。そして、彼にも、世間にも、はっきりと示してやるのだ。雨子は、彼に勝手に消されるような、勝手に定義されるような付属品じゃないって」雨子は文雄の胸に身を預け、彼の穏やかな鼓動に耳を傾けた。彼の言う通りだ。こんな最低な男のために、自分の人生を台無しにするなんて、絶対に嫌だ。そのとき、文雄はそっと彼女を離し、立ち上がって部屋を出ていった。しばらくして戻ってきた彼の手には、小さくて上品なスーツケースがぶら下がっている。「足りないものがないか見て。いつでも出発できるようにしよう」彼はそのスーツケースを彼女の足元に置き、まるでちょっとした旅行の相談でもしているかのように、自然な口調で言った。雨
画面の中の和也はやつれた表情で、カメラに向かって妻がどれほど自分にとって大切な存在かを切々と語り、世間に情報提供を懇願していた。その声には真摯な想いが滲んでいた。雨子は柔らかいソファに腰を下ろすと、画面に映った、見慣れたはずなのに、どこか他人めいたその顔をじっと見つめ、長い間、ただ黙ったままだった。あの甘く響く言葉の数々が、彼女の耳には皮肉にしか聞こえず、胃の奥がきゅっとねじれるように痛んだ。そのとき、ふわりとした温もりのある厚手のブランケットが、そっと彼女の肩に掛けられた。振り返ると、湯川文雄(ゆかわ ふみお)の静かで穏やかな瞳と視線がぶつかった。彼はわずかに微笑み、彼女の隣の一人掛けソファに腰を下ろす。くつろいだ姿勢のまま、余計な言葉はなく、ただ静かに寄り添っていた。雨子の思考は、自然と一か月前へと戻っていった。あの時、彼女は必死にもがきながら別荘から逃げ出した。衣服は裂け、全身泥まみれのまま、通りに飛び出して車を止めようとした。間一髪でブレーキをかけ、彼女をはね飛ばさずに済んだ黒いセダンの中にいたのが、文雄だった。後から分かったことだが、あの一見控えめで穏やかに見えるその男が、実は驚くほどの地位を持つ人物だったのだ。彼はここ数年で急速に台頭した男である。謎めいた背景を持ちながら圧倒的な実力を誇る多国籍財団「湯川ナショナル」の実質的な支配者だ。その事業網は世界に広がり、影響力は計り知れない。あの日、文雄は彼女をあの悪夢のような場所から連れ出し、何も聞かずに、自身名義のプライベートな屋敷へと彼女を匿った。その屋敷は郊外にあり、静かで人目を避けた環境に包まれ、厳重な警備が敷かれていた。彼は最高の医師を見つけ、雨子の身体の傷を治療させた。さらに名高い心理カウンセラーを招き、彼女が心の闇から抜け出せるようにし、最も信頼できるメイドたちを手配して、日々の世話を任せた。雨子は不安げに彼へ尋ねた。どうして、見ず知らずの自分にそこまでしてくれるのか、と。文雄はすぐには答えず、書斎の金庫から一通の手紙を取り出した。黄ばみはしていたが、大切に保管されていたそれを、彼は静かに雨子の手に渡した。それは、雨子の母が何年も前に自筆で書いた手紙だった。手紙の中には、「文雄」という名の貧しい少年への励ましと支援の言葉が綴られ、いく
「美月!この恥知らずの女!」京子は怒りで全身を震わせ、彼女を指差して怒鳴った。「一度離婚したくせに、よくも和也を誘惑しようなんて思えるわね!あなたみたいな女、もらってくれる人がいるだけでも奇跡よ!思い上がって和也を狙うなんて!いいか?すぐに相手を見つけて嫁がせるわ。これ以上うちを汚さないで!」美月は叩かれて呆然とし、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。彼女は助けを求めるように和也を見上げ、泣き声で呼んだ。「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」だが和也は目を閉じたまま、ソファにもたれて何も聞こえないかのように沈黙していた。美月は冷たい和也と激怒する京子を見つめ、突然わっと泣き崩れた。「私は離婚したばかりで、誰も助けてくれないの。秦野グループでちゃんと生きていきたいだけなのに、何が悪いの?お兄ちゃんまで私を見捨てるなら……もう死んだほうがましよ!誰も私のことなんて気にしてくれない。誰も私を愛してくれない。お兄ちゃんだって、『愛してる』なんて口では言うけど、結局は私をそばに縛りつけたいだけなんでしょ」その言葉に、和也はようやく目を開けた。重く沈んだ視線が美月に向けられ、恐ろしいほど静かな声で言った。「じゃあ、結婚しよう」美月の顔に浮かんでいた哀れさが一瞬で凍りつく。聞き間違えたかのように震える声で問い返した。「お兄ちゃん……今、なんて言ったの?」「言っただろ。俺たち、結婚するんだ」和也はもう一度、はっきりと繰り返した。京子が甲高い声を上げた。「だめよ!絶対に許さない!和也、あんた正気なの!?」その瞬間、美月はまるで尻尾を踏まれた猫のように飛び上がり、もう哀れを装う余裕もなく叫んだ。「結婚って何よ、誰があんたと結婚なんかするもんか!お兄ちゃん、どうして私の気持ちをわかってくれないの?私は言ったでしょ、これからどうなろうと、私たちの関係は変わらないって!それに、やっと海運王の御曹司を落としたのよ。もうすぐ最高の名門に嫁ぐの。今さら手放せないわ」和也は、怒りと打算で歪んだ美月の顔を見つめ、その胸の奥に残っていた最後の温もりさえも消えていった。彼は口元をわずかに引き、苦笑に近い笑みを浮かべた。「美月、俺はお前が好きだ。でも、どうして好きなのに、ずっとそれを隠してきたのか……わかるか?」美月は突然の問いに