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第4話

Author: 詩音
彼は彼女に薬を飲ませ、一晩中そばに寄り添って見守った。夜中、悪夢にうなされて震える彼女の手を握りしめ、そっと宥めた。

目の奥に赤い血管が浮き、何日もまともに眠っていないのがうかがえた。

医師たちはこっそりと感心しあった――「秦野さんの献身的な看護ぶりと」、「お二人の何と仲の良いこと」かと。

雨子の各種の数値がようやく安定し、回復に向かっていると知らされたとき、和也は目を赤くし、医師の手を握って何度も何度も感謝を述べた。

雨子は黙ってその光景を見つめていた。

かつて彼女は思っていた。一人の女性のために、男が徹夜で目を爛々と赤らめ、プライドを捨てて尽くす――それが愛というものの、最も美しい姿なのだと。

けれど今になってようやく分かった。男が眠る間を惜しんで看病し、プライドさえも捨てて尽くすのは、ただ……別の女性を守るため、彼自身が背負った罪悪感をひたすら償おうとしているだけだったのかもしれない、と。

ICUを出て一般病棟に移った最初の日、美月がやって来た。

彼女は上品なワンピースを着こなし、相変わらず名家の令嬢のような澄ました佇まいで、体調も悪くなさそうで、何の変調も感じさせなかった。

病床の上の雨子には目も向けず、自分の服の裾を指でいじりながら、おずおずと和也のそばに寄っていく。しばらく唇を噛みしめたあと、蚊の鳴くような声でつぶやいた。

「お兄ちゃん、謝りたくない。だって、私は悪いことしてないもん」

和也はちらりと彼女を見ただけで、何も言わなかった。

息が詰まるような沈黙が十数分も続いた。

やがて、美月はしぶしぶ和也の方に向き直り、悔しさをにじませた声で言った。

「……お兄ちゃん、ごめん。二度と、雨子さんには悪さしない。だって……だって、あの人がお兄ちゃんを奪ったって思ったから。ただ、それだけでむしゃくしゃしたの。もう絶対しないから、許して」

彼女が謝っている相手は、最初から最後まで和也だった。

けれど、和也の顔に張りついていた氷のような冷たさは、その言葉で目に見えて溶けていった。

彼は手を上げ、美月の髪をそっと撫で、穏やかな声で言った。

「分かっていればそれでいい」

それから彼はようやく雨子の方を向き直し、事務的な静けさを帯びた口調で言った。

「美月ももう過ちを認め、家でずっと反省していた。今回は大目に見てやってくれないか」

雨子は目の前の男を、見知らぬ他人でもあるかのようにじっと見つめた。

彼は仏典を読み、衆生救済を語り、慈悲を口にする。

けれどその「衆生救済」の中に彼女は含まれていない。彼の慈悲が向けられるのは、美月だけだった。

謝罪にしても、彼女は直接的な「ごめんなさい」の一言さえ値しない。

答えありきの問いに、彼女には選択の余地など一切与えなかった。

彼女が受けた傷も、彼は見ようとせず、彼女の気持ちなど、全く気にも留めない。

雨子はそっと目を閉じ、長いまつげが青白い頬に疲れた影を落とした。

「疲れたわ……あなたたち、帰って」

和也の顔にわずかな戸惑いが浮かび、低く呟いた。「ここで看病するって言っただろう……」

その言葉が終わる前に、美月がすぐさま彼の腕を取って、声を弾ませて言った。

「ありがとう、雨子さん!お兄ちゃん、私の大好きなあのオーダーメイドのお店、すぐ近くにあるの。ねぇ、一緒に行こう!」

雨子は顔をそむけ、もう二人を見ようとはしない。

彼女はすでに、和也がどんな選択をするか分かっていたから。

けれど今の彼女の心は、すでに完全に冷め切っており、もはや何の動揺も生じなかった。

案の定、和也はしばし沈黙したあと、雨子に言った。

「ゆっくり休んで。俺は美月と少し出かけてくる。夜にはまた様子を見に戻るよ」

雨子は何も答えなかった。

足音が遠ざかっていく。視界の隅で、美月が和也の腕にぴったりと寄り添い、甘えるように彼の肩に頭を預けている。

和也はそれを拒むどころか、優しく彼女の頭を撫でた。

彼が雨子に向けていた時の重苦しい表情とは対照的に、去りゆく背中には、どこか肩の力が抜けたような軽やかさがあった。

不意に、記憶が押し寄せてくる。

結婚したばかりの頃、和也は「修行の身だから」と言い、彼女に一メートルの距離を保つよう求めていたのだ。

やがて時が経つにつれ、その距離は半分まで縮まった。

けれど、美月のように親しげに触れることを、決して許したことがなかった。

あれは彼の冷ややかな自己抑制だと思い込んでいた。今やそれは、彼女だけが与えられなかった特権でしかなかった。

唇をひきつらせようとしたが、しかし自分には自嘲するような表情さえ浮かべられなかったと気づいた。

胸の奥は湿った綿で詰められたように重く、息苦しさで押し潰されそうだった。

雨子は病院で夜が更けるまで待ち続けた。廊下の灯りが次々と消えていっても、和也は戻ってこなかった。

――もう、彼は帰ってこない。

それなら、それでいい。

彼女はひとりで退院の手続きを済ませ、あの「家」と呼ばれる場所へ戻った。

そして、航空券を三日後の便に変更した。

今度こそ、すべての荷物をまとめ、この場所を永遠に離れる。

家の中は真っ暗で静まり返っていた。ただ、二階の寝室のドアの隙間からだけ、ほのかに温かな黄色い光が漏れている。

彼女は音も立てずに階段を上がった。だが、ドアに近づいた瞬間、中から声が聞こえてきた。

美月の甘えたような柔らかい声だった。「お兄ちゃん、もうずいぶん長い間一緒に寝てないじゃん。

お嫁さんをもらってから、急によそよそしくなったんだもん。雨子さんなんて、消えればいいのに」

それに続いて、和也のため息まじりの、けれどどこか甘やかすような声がした。「ばかなこと言うなよ。兄ちゃんだっていつかは家庭を持つもんだ」

「そんなの知らない」

美月の声はさらに甘く、拗ねたように響いた。

雨子は自分の口を必死に押さえ、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめた。喉の奥から溢れ出そうになる悲しみを、どうにか押し殺した。

堪えきれぬ涙が溢れ、熱い滴が冷たい頬を伝って落ちた。

彼女は扉にもたれかかりながら、力が抜けたように少しずつ滑り落ち、ついには床に崩れ落ちた。

そのわずかな物音が、とうとう中の人を驚かせてしまった。

「外、誰だ!?」
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