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冷めゆく愛、涼やかな決別〜七年目の自由〜

冷めゆく愛、涼やかな決別〜七年目の自由〜

By:  珠玉Completed
Language: Japanese
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「宮本様、本当によろしいのですか?胎嚢と心拍が確認できて、赤ちゃんは順調に育っていますよ。ご主人様と、もう一度よく相談されては……」 「いいえ、結構です。処置をお願いします」 宮本涼子(みやもと りょうこ)は俯いたまま、か細い声で答えた。その言葉は、騒がしい診察室の慌ただしさにあっという間に掻き消される。 彼女は顔を上げ、待合スペースの大型モニターに目をやった。画面では、今年度の入社式が生中継されている。 そこには夫の宮本修司(みやもと しゅうじ)と、彼の初恋の人・佐々木舞衣(ささき まい)がいた。 七年間待ち続けても、修司の心を温めることはできなかった。 舞衣が帰ってきた今、この間違った結婚を終わらせよう。もう疲れた。温め続けることも、もう諦めよう。

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Chapter 1

第1話

「宮本様、本当によろしいのですか?胎嚢と心拍が確認できて、赤ちゃんは順調に育っていますよ。ご主人様と、もう一度よく相談されては……」

「いいえ、結構です。処置をお願いします」

宮本涼子(みやもと りょうこ)は俯いたまま、か細い声で答えた。その言葉は、騒がしい診察室の慌ただしさにあっという間に掻き消される。

彼女は顔を上げ、待合スペースの大型モニターに目をやった。画面では、今年度の入社式が生中継されている。

「それでは、新人代表の佐々木舞衣(ささき まい)さんから一言お願いします」

中央に立つ綺麗な人が、優雅な仕草でマイクを手に取った。

「最後に、ある方に心からの感謝を伝えさせてください。その方は、私のすぐ後ろにいらっしゃいます。この七年間、私が困難に直面し、心が折れそうになったとき、いつもそばで励まし、支えてくれました。

七年かかりましたが、ようやく戻ってこられました。待っていてくれてありがとう。修司くん」

舞衣はマイクを置くと、振り返り、背後の男に迷いなく抱きついた。宮本修司(みやもと しゅうじ)は目を細め、愛しそうに彼女を見つめる――その瞳には、隠しきれないほどの愛おしさが滲んでいた。

カシャリ。画面はそこで静止した。

「佐々木さん、本当に幸せ者ね。宮本家の御曹司を射止めるなんて、もう一生勝ち組確定よね」

「しっ、射止めるだなんて。佐々木さんって、宮本さんの初恋の人なんですって。七年前に海外へ行かれて、最近やっと帰国されたらしいわよ」

「でも宮本さんって、確か奥様が……」

「ああ、その噂の奥さんのこと?宮本さん、一度も奥さんを表に出したことないでしょ。結婚してるって言っても噂かもしれないし、それに七年も経つのに子供の一人もいないなんて、その涼子さんってひょっとして……」

二人の若い看護師が、口元を押さえながらひそひそと囁き合い、涼子のそばを通り過ぎていった。

手に握りしめていたエコー写真は、もうくしゃくしゃだ。ふと、涼子は力を抜いた。

七年間待ち続けても、修司の心を温めることなんてできなかった。彼女はそっとお腹に手を当てる。

ここに子供が加わったところで、どうなるのだろう。一人で背負ってきた罪を、二人で分かち合う必要はない。

七年前、涼子の実家・森山家は没落した。森山家の養子だった修司は、実の親元である宮本家に引き取られ、認知された。森山家への恩返しと、再建の手助けのため、修司は涼子と結婚した。

だが、涼子は知っている。この結婚はただの恩義で結ばれた形だけのものだと。修司の心には、涼子には決して立ち入れない場所がある――それは舞衣のためだけに空けられた場所だ。

修司がプロポーズしてきた日は、奇しくも舞衣が迷いなく先輩と海外へ旅立った、ちょうどその日だった。

もしあのとき、舞衣が何の迷いもなく去らずにいたら、涼子が「宮本夫人」になる機会なんて、最初からなかっただろう。いや、彼女にはその資格すらなかったのだ。

もっと早く気づくべきだった。何年も続く深夜の不在、何度も反故にされた約束――修司の心はずっと、別の誰かのために熱を注ぎ、輝いていたのだ。

涼子はただ一人、自分を騙し続け、愛という名の独り芝居を演じていただけだった。

舞衣が帰ってきた今、この間違った結婚を終わらせよう。もう心が疲れた。彼の心を温めようと藻掻くのは、もう諦めよう。

涼子は静かに人混みから抜け出し、修司と舞衣の華やかな世界から遠ざかった。

【どこ行ってた?】

スマホに一通のメッセージが届く。要件だけの素っ気ない文面、修司の苛立った表情が目に浮かぶようだった。いつも従順な自分だからこそ、余計に。

少し考えてから、涼子は電話をかけ直した。

「……病院よ、ちょっと息苦しくて。今日何かイベントがあったみたいで人が多かったから、気分が悪くなって外に出ちゃったの」

「ああ、入社式があったんだ。検査の結果は?」

修司は舞衣のことに一切触れない。それでも質問を投げかけてきたことに、涼子は少し意外な気持ちになった。

「特に問題はなかったわ。最近疲れが溜まってるんじゃないかって、先生に言われただけ」
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kogorou21
kogorou21
決断心のある強いヒロインが素敵です。もちろん自立出来る技術を持っているからだけどね。 そして最後まで人が死ななかったのが最高です♪ 胎児は死んでしまったけれど、さまざまな経験を持つ大人なのだから、死を選ばずに生きていて欲しい。
2025-12-25 13:26:55
2
0
蘇枋美郷
蘇枋美郷
他の方のレビューにもあるように、本当に最後の一文に尽きる。 自分でクズな行動しておいて、クズ女に騙されたと思ったら手のひら返しで元妻を執拗に追いかける。妻が自立出来る女性だったら愛が無くなれば戻るわけねーだろ!
2025-12-25 18:04:31
1
0
松坂 美枝
松坂 美枝
最後の一文が全てだよなー これほど恩のある人をよく裏切れたもんだわ 結婚記念日もすっぽかし、指輪捨てられても気づかないでさあ 偽装死されたんだからそのままクズ女と暮らせば良かったんだよ
2025-12-24 11:06:48
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ノンスケ
ノンスケ
クズ男にはつける薬がないのかな。結局は精神病院行き。自分を守り愛してくれた妻を蔑ろにして、愛人を作って妻は放置。散々人前で辱めたんだから。変な男を助けちゃったね。あ、恩を感じられないほどバカな男だったってことか。
2025-12-27 06:33:34
0
0
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第1話
「宮本様、本当によろしいのですか?胎嚢と心拍が確認できて、赤ちゃんは順調に育っていますよ。ご主人様と、もう一度よく相談されては……」「いいえ、結構です。処置をお願いします」宮本涼子(みやもと りょうこ)は俯いたまま、か細い声で答えた。その言葉は、騒がしい診察室の慌ただしさにあっという間に掻き消される。彼女は顔を上げ、待合スペースの大型モニターに目をやった。画面では、今年度の入社式が生中継されている。「それでは、新人代表の佐々木舞衣(ささき まい)さんから一言お願いします」中央に立つ綺麗な人が、優雅な仕草でマイクを手に取った。「最後に、ある方に心からの感謝を伝えさせてください。その方は、私のすぐ後ろにいらっしゃいます。この七年間、私が困難に直面し、心が折れそうになったとき、いつもそばで励まし、支えてくれました。七年かかりましたが、ようやく戻ってこられました。待っていてくれてありがとう。修司くん」舞衣はマイクを置くと、振り返り、背後の男に迷いなく抱きついた。宮本修司(みやもと しゅうじ)は目を細め、愛しそうに彼女を見つめる――その瞳には、隠しきれないほどの愛おしさが滲んでいた。カシャリ。画面はそこで静止した。「佐々木さん、本当に幸せ者ね。宮本家の御曹司を射止めるなんて、もう一生勝ち組確定よね」「しっ、射止めるだなんて。佐々木さんって、宮本さんの初恋の人なんですって。七年前に海外へ行かれて、最近やっと帰国されたらしいわよ」「でも宮本さんって、確か奥様が……」「ああ、その噂の奥さんのこと?宮本さん、一度も奥さんを表に出したことないでしょ。結婚してるって言っても噂かもしれないし、それに七年も経つのに子供の一人もいないなんて、その涼子さんってひょっとして……」二人の若い看護師が、口元を押さえながらひそひそと囁き合い、涼子のそばを通り過ぎていった。手に握りしめていたエコー写真は、もうくしゃくしゃだ。ふと、涼子は力を抜いた。七年間待ち続けても、修司の心を温めることなんてできなかった。彼女はそっとお腹に手を当てる。ここに子供が加わったところで、どうなるのだろう。一人で背負ってきた罪を、二人で分かち合う必要はない。七年前、涼子の実家・森山家は没落した。森山家の養子だった修司は、実の親元である宮本家に引き取られ、認知
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第2話
「問題ないならいいけど、体調には気をつけろ」「……ねえ、修司くん。今日は私と……」受話器の向こうから、柔らかな女の声が聞こえてきた。「じゃあ運転手に送らせる。会社で用事があるから、帰りは遅くなる」「……わかった」舞衣の声は聞こえなかったことにして、涼子は短く答え、電話を切った。曲がり角の向こうでは、舞衣が修司の腕に縋りつき、甘えるように何かを囁いている。修司は愛おしげに舞衣の頭を撫で、二人は廊下の奥へと消えていった。……涼子は運転手に電話をかけ、先に帰るよう伝えた。運転手は最初渋った。修司から、決して目を離すなと命じられていたからだ。だが、最終的には涼子の説得に折れた。「奥様、どうぞお気をつけて」涼子はわかっていた。運転手はすぐにこのことを修司に報告するだろう。でも、彼が気に留めるはずもない。涼子は道を歩きながら、目の前を流れる車の波を眺めた。すべてがどこか現実味がない。世間の目には、彼女は誰もが羨む宮本家の奥様だ。けれど、この愛のない結婚が、どれほど長く自分を縛りつけてきたか。宮本夫人という肩書きが、どれほど自分を息苦しくさせてきたかを、涼子だけが知っている。仕事もない。社交界の夫人たちとも馴染めない。唯一の親友である鈴原亜弥(すずはら あや)も、五年前に海外へ移住した。両親を心配させたくなくて、実家にもほとんど顔を出していない。涼子は長く息を吐いた。宮本家を出たところで、今の自分には行く場所がないのだと気づいてしまう。思い立って、涼子は亜弥に電話をかけた。すぐに繋がる。「ねえ、検査どうだったの?七年も修司と子供作らなかったのに、どうして急にできちゃったわけ?避妊に失敗したの?いや、そんなはずないよね」「……おろすから」向こうがしばらく黙り込んだ後、声を荒げた。「はぁああ!?涼子、それ正気?いきなりおろすって?自分の体のことわかってるの?ねえ、本当にそれでいいの?」「いいの。それに、修司とも離婚するつもり」この言葉を口にしたとき、涼子は自分でも驚くほど冷静だった。先に自分を惑わせたのは修司だ。彼に夢中になった後で初めて、彼の心が別の誰かのものだと知った。それでも彼女は深みにはまり込み、もう抜け出せなくなっていた。「あんたね、やっとその気になったのね!よくやった!」
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第3話
【ありがとうございます。できるだけ早く申請書類を準備します】ジェフがずっと待っていてくれたなんて……涼子の目がじんわりと潤んだ。それなのに自分は、宮本家の屋敷の中で萎縮し、自分を見失っていた。【ところでシンディ、修司さんとは何かあったの? 今日のSNSのトレンドで見たんだけど、彼が産婦人科病院の新人入社式に出席していたね。あの女性は妹さん?】涼子はしばらく黙り込んでから、文字を打った。【……いいえ。彼の本当の奥さんになる人ですよ】【君たち、離婚したのか?】【いいえ。でも、もうすぐです】ジェフもそれ以上は何も言わず、励ましの言葉をいくつかかけてチャットを終えた。多くのことは、涼子がセント・ランドに来てから直接話そう。涼子はSNSを開いた。普段はこういう芸能ニュースにはあまり興味がない。だがジェフが触れた以上、見ておくべきだと思った。トレンドのトップに【宮本御曹司×初恋の人、愛の復活】という見出しが躍っている。クリックすると、舞衣がマイクを持ってスピーチしている動画が再生された。よく撮れている。二人の目配せ、互いを思いやる様子が鮮明に記録されている。そして野次馬がコメント欄に一枚の写真を貼っていた。涼子が開いてみると、人混みの中の自分が写っていた。【これって宮本夫人の涼子じゃない?】【最近の愛人ってこんなに図々しいの?本妻がいる場でここまで親密なんて】【>>1、彼女は宮本さんの初恋の人だよ。初恋最強ってわかるでしょ。どんな男だって抗えないわ。今の奥さんが誰だろうが関係ない】【でも涼子さんが本当の……】【何が本当よ。佐々木さんが海外に行かなければ、宮本さんがおじい様に結婚を迫られることもなかった。涼子の出番なんてなかったの。とっくに譲るべきだったのよ、あの賞味期限切れの女】【あんた愛人本人でしょ!】コメント欄は荒れに荒れていたが、涼子は全く気にならなかった。ただ写真の中の自分が、こんなにも寂しげに見えることに驚いただけだ。その姿はすっかり傷ついた様子だった。彼女はスマホを閉じ、深く息を吐いた。やはりニュースなんて見るものではない。気が滅入るだけだ。涼子はカフェに足を踏み入れた。七年ぶりに、こうして一人でゆっくりとした時間を過ごせる。カフェラテを注文し、母・森山実里(もりやま みさと)に電話をかけた
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第4話
両親と一緒に、県外の孤児院で慈善活動に参加したあの日も、雨の日だった気がする。子供たちはみんな裕福な人たちの周りに集まっていた。修司だけが、黙って隅に隠れていた。雷鳴が轟き、夏の雨は突然やってきた。みんなが慌てて屋内に逃げ込む中、エナメルの靴を履いていた小さな涼子は走れず、盛大に転んでしまった。修司だけが土砂降りの中、彼女を雨から救い上げ、痩せた体で彼女を守り、建物の中へと送り届けた。それから何も言わず、また一人で去っていった。あのとき涼子は、両親にせがんで修司を引き取った。母の実里は折れて孤児院と養子縁組の手続きをし、修司を森山家に迎え入れた。何年も、実の息子のように育てた。また稲妻が閃き、涼子の意識を現実に引き戻す。彼女は苦笑した。コンコンコン。ノックの音がして、家政婦の川又(かわまた)が入ってきた。「奥様、先ほどご主人様からお電話がありまして。傘を忘れたので迎えに来てほしいとのことです」涼子は出かける準備をしていたが、ふと立ち止まった。「運転手に届けさせればいいんじゃない?」「奥様に来てほしいとおっしゃっていました。きっと奥様に会いたいんですよ」川又は涼子の後ろ姿を見つめ、ため息をついた。こんなに素敵な奥様なのに、どうしてご主人様の心はいつも外にあるのだろう。運転手はすぐに涼子を目的地に送り届けた。ブルー・メゾン・タワー――A市最大の高級ブランド販売センターだ。社交界の夫人たちがよく誘い合って訪れる場所だが、涼子は何度か付き合った後、もう応じなくなっていた。彼女にとって、商品があまりに高価で自分には必要ないと感じたほか、森山家は叩き上げの家で、こんな贅沢をする習慣がなかったのもあり、さらに修司のカードを使うことに慣れなかったから。彼がくれたカードでビル一棟買えるほどだったが、涼子はどうしても慣れなかった。亜弥には以前叱られたことがある。男の稼ぎは自分のために使うべきだ、年を取って若さを失ったとき、せめて何か手元に残しておくべきだと。でも涼子には必要なかった。そもそも彼女には何の拠り所もなかったのだから。「奥様、宮本様は四階にいらっしゃいます。お車は地下でお待ちしております。何かございましたらいつでもお呼びください」涼子は大きなガラス窓の前に立ち、映る自分の姿を見つめた。整った顔立ち、若
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第5話
「……佐々木様でいらっしゃいます」販売員はたどたどしく答えるのが精一杯だった。「……お前。今、彼女を何と呼んだ?」修司の声が少し高くなる。「誤解よ、修司くん。店員さんが勘違いしたみたいで……」舞衣は不満げに販売員を睨みつけ、販売員は恐怖に震え上がって口を閉ざした。「宮本夫人は涼子だけだ」修司は自分でも不思議だった。どうしてこんな言葉が口をついて出たのか。舞衣のことは、愛しているはずだ。だが涼子の存在にも、もう慣れきってしまっている。名義以外、舞衣に与えているもののほうが涼子より多いはずなのに。舞衣はしょんぼりと俯き、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。「修司くん、ごめんなさい。もう二度と言わないから」「もういいかしら。私、失礼するわ」舞衣の芝居に、涼子はもう付き合ってはいられなかった。手にしていた傘を修司に投げつけるように渡し、くるりと背を向けて歩き出す。「涼子」修司は追いかけようとしたが、舞衣に腕を掴まれた。「修司くん、私、この指輪が欲しいの。前に言ってたわよね。私の願いを一つ聞いてくれるって。これがいいの」修司は足を止め、追いかけるのをやめた。彼は涼子の遠ざかる後ろ姿を見つめながら、初めて彼女の従順さが恐ろしいと感じた。あの十カラットの指輪を見た瞬間、なぜか脳裏に浮かんだのは、涼子が身につけている姿だった。涼子の指は細く長い。手を繋ぐといつも冷たくて、自分の掌の温もりで温めてやっていた。そういえば、もう随分と手を繋いでいない。修司は首を振り、その考えを振り払った。目の前の舞衣を見つめれば、心が柔らかくなる。涼子は確かに悪くない結婚相手だ。しかし、こんなに長い年月を経て、ようやく舞衣の帰国を迎えられたのだ。涼子はビルを出た。雨はもう上がっていた。そもそも傘なんて届ける必要もなかったのだ。ただ帰国したばかりの舞衣が、涼子の前で自分の力を誇示したかっただけ。七年間――宮本夫人の座を逃したことを、舞衣は海外で修司の結婚を知った時から、ずっと後悔し続けてきた。七年間の我慢が、もう待ちきれなくなったのだ。……涼子は家に帰って熱いシャワーを浴びた。夜の冷たい風に吹かれて、少し頭が痛い。ベッドに横になると、お腹もずきずきと痛み出した。涼子は起き上がり、バッグから病院で予約した手術の予約票
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第6話
修司が舞衣の隣で眠っている――ただ残念なことに、アングルが悪く、修司が上着を着たままなのが見えてしまっていた。【一緒に寝るのに、ジャケットも脱がないのね】舞衣はすぐに写真を削除し、メッセージを送ってきた。【修司くんは昨日疲れてて、どうしても私の部屋で寝たいって。私の隣じゃないと安心して眠れないんですって。涼子さん、七年間で何回一緒に寝たの?これからはもう機会もないわね。さっさと修司くんと離婚しなさいよ。無駄に居座らないで】涼子は舞衣とこれ以上やり取りする気にもなれず、スマホの電源を切ってベッドに投げ出した。そろそろ準備を始めないと、日数を数える。部屋を見回して、彼女は初めて自分のものが驚くほど少ないことに気づいた。クローゼットを開けると、中には精巧な贈り物が並んでいた。毎年の誕生日、記念日、大小の祝日――修司は国内外から高価な品々を届けさせていた。だが涼子は知っている。これらの贈り物はすべて二つずつ。自分が持っているものは、舞衣も必ず持っているのだと。最初の結婚記念日のことを思い出す。涼子は心を込めて料理を作った。修司が今夜は家で食事をすると約束してくれたから。仕事では何の手伝いもできない涼子だったが、日々料理を研究し続けた結果、修司の舌も随分と贅沢になっていた。でもあの夜、涼子はずっと待った。日付が変わり、テーブルいっぱいの料理が冷え切っても、修司は帰ってこなかった。届いたのは冷たいメッセージだけ。【用事ができた。記念日は後日やり直す】彼が帰ってきたのは、一週間後だった。後で涼子は知った。修司の言う用事とは、海外にいる舞衣が発表した論文が盗作だと発覚し、医学生たちから猛反発を受けて退学寸前になったこと。修司は慌てて火消しに回ったのだ。名ばかりの結婚における、あってもなくても構わない記念日は、当然のように放棄された。涼子の誕生日もそうだった。修司は彼女を連れて花火とドローンショーを見に行った。だがドローンが描き出した英字は、【M・S love S・M】橋の上の人々は、どんなM・Sさんがこんな幸運に恵まれたのかと感嘆していた。しかし、M・Sは佐々木舞衣のイニシャルだと、涼子だけが知っていた。修司の驚いた表情を見なかったわけではない。でも彼は何も説明しなかった。本当に知らなかったというのか?涼子
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第7話
「妊娠したからって、子供で修司くんを繋ぎ止められると思わないで。あ……あんたは……」舞衣は言葉に詰まり、続きが出てこない。「怖いの?この子のせいで?」涼子は急に可笑しくなった。自分でさえ修司がこの子を気にかけるとは思っていないのに、舞衣が怯えている。彼女は興味深そうに舞衣を見つめ、指先でソファの肘掛けをリズミカルに叩いた。「宮本夫人の座なら譲ってあげる。ただ、一つだけ手伝ってほしいことがあるの。うまくいったら、子供はいなくなるし、私も消えるわ」舞衣は指が白くなるほど両手を絞り合わせた。「何をすればいいの?」涼子は立ち上がり、寝室から書類を持ってきて、テーブルの上に置いた。「これは?」「離婚協議書と離婚届。私はもう署名したわ。でも修司の署名は、あなたに任せるわ。署名が済んだら、私は役所に行って提出して、子供をおろす。もう時間がないの。この子がいる限り、宮本家は絶対に離婚を認めない……それでもいいの?」「自分で署名させればいいじゃない」「修司は同意しないから」「……わかった。引き受けるわ」書類を持って、舞衣は去っていった。涼子は舞衣の後ろ姿を見送りながら、心が信じられないほど軽くなるのを感じた。彼女はスマホを開き、ジェフに電話をかけた。「先生、申請書類は全部準備できました。国内の用事を片付けたら、C国に行きます。でもその前に、一つだけお願いがあります」「水臭いなシンディ、俺と君の仲じゃないか。絶対に力になるよ。次会ったときは、もう先生なんて呼ばないでくれよ。鳥肌が立つから」……【涼子、今夜のパーティー、忘れないでね】涼子が電話を切った直後、村上稔(むらかみ みのる)からメッセージが届いた。【修司のほうは……まあいい、僕から連絡しておく。君は忘れないでくれよ】稔は森山家と親しい。ここ数年で事業も好調に発展し、村上家も宮本家と肩を並べるまでになっている。だから今回の晩餐会は、稔が森山家と宮本家を招待する形で開かれた。涼子はクローゼットから控えめなイブニングドレスを選んだ。オートクチュールのドレスが彼女の体型を完璧に包み込む。涼子は痩せすぎた体型ではない。曲線美が際立つ体型だ。化粧をした顔は、一層繊細で小さく見えた。午後六時、涼子は運転手に村上邸まで送ってもらった。今日は村上家の当主、
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第8話
「……涼子?なんでここに……」「わしの晩餐会だぞ。涼子がいて何が悪い?修司、一体何をやっておるんだ!」修司は舞衣を背後に庇い、涼子を無視し、峰雄に向き直って言った。「舞衣が社会勉強をしたいと言うので、連れてきたんです」「修司くん、うう……涼子さんを怒らせるつもりじゃなかったの」「涼子、お前から舞衣のことを説明してやってくれないか?」はあ。涼子は呆れて笑った。何を説明すればいいというのだろう。舞衣は堂々と「宮本夫人」の肩書きを名乗っていたというのに。スタッフの勘違いだったとでも?それとも、自分が寛大な心で舞衣を招待したとでも?「涼子、おじいさん、修司」稔が慌てて駆け寄ってきた。「ここに集まってどうするんだ。宴会が始まる、さあ中へ」稔は修司が背後で舞衣を庇っている様子を一瞥し、目に暗い影を宿したが、何も言わず涼子を促して中へと向かった。「涼子、この何年も本当に辛かったじゃろう。稔が求婚したとき、君は断ったが、わしの孫の嫁になればよかったのに」「いいえ、私には分不相応でした」涼子は峰雄の手をぎゅっと握った。「お連れしますわ」舞衣の傍を通り過ぎるとき、涼子は彼女の耳元で小さく囁いた。「時間がないわよ」舞衣は足を踏み鳴らし、修司について宴会場へ入っていった。このささやかな騒動を除けば、家族宴会は順調に進んだ。峰雄の挨拶が終わると、人々はそれぞれに散らばり、食事をする者、酒を飲む者、商談をする者、気になる相手を物色する者――思い思いに過ごしていた。涼子はグラスを手に隅に身を隠していた。七年間、修司がこういう場に彼女を連れてくることは少なかった。だが涼子自身、こういう雰囲気が好きではなかったし、修司のこの稚拙な「籠の鳥のように囲い込む」行為も気にしなかった。メディアに撮られて、海の向こうにいる舞衣を嫉妬させるのが怖かったのだろう。彼女は側廊の入口に立っていた。夜風がひんやりとした涼しさを運んでくる。ぼんやりとした頭が少し冴えた。明日の朝早く、病院で中絶手術を受ける。舞衣が早く修司に署名させてくれることを願う。この間違いは、もうすぐ終わる。「涼子さん、あんたを見くびっていたみたい」舞衣がグラスを手に、ゆっくりと彼女の隣に立った。「七年も居座っていただけあるわね。でも、今日ではっきりさせてあげる」涼子
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第9話
稔は涼子を抱いて休憩室へ向かった。修司はその場に呆然と立ち尽くしていた。一瞬、涼子が本当に自分から離れていったかのような気がした。だが腕の中の人が動き、彼の意識を引き戻す。修司は顔を伏せて彼女を見た。「舞衣、行こう。病院へ」……休憩室で、稔は痛ましげに涼子の足の傷を見つめていた。それにしても、ひどい怪我だ。皮膚がところどころ剥がれている。彼が消毒しようとすると、涼子は足を引っ込めた。「稔、自分でやるわ」稔は諦めて手を引いた。仕方ない――涼子は修司の妻だ。さっきの行動だけでも出過ぎていた。「涼子……」稔は言いかけて口を閉ざした。「稔、数日後、私はA市を離れるの。もう会えないかもしれない。宮本修司とは、離婚することにしたわ」「離婚?彼は同意したのか?」「まだ知らないわ。でも同意するはず」涼子は天井のシャンデリアを見つめた。A市、ホテルブルー・メゾン。「修司くん、手が痛いわ。今夜は帰らないでほしいの」「医者は、打撲だけだと言っていたが。涼子の足のほうが、かなりひどそうだった」「でも、私もきっと、筋を痛めたんだわ。手が上がらないの。これからもう手術ができなくなったらどうしよう、くすっ……」舞衣が泣き出すと、修司はたちまち困惑した。彼は優しく舞衣の背中を撫でる。「大丈夫だ、舞衣。医者もちゃんと休めば影響ないって言ってた。万が一何かあっても、最高の医療チームを呼ぶ。必ず君の手を治す」「でも涼子さんのこと、償わせるって……」「はっ、あいつ?お前に何もなかったことを感謝すべきだな」「ふふ。修司くん、優しい」ちょうどそのとき、修司のスマホが鳴った。舞衣の瞳が、獲物を狙う獣のように光った。「そうだ、書類にサインしてほしいの」修司は電話を受けながら、舞衣が差し出した書類に署名した。中身を確認しようとしたが、舞衣がさっと引っ込めた。「ありがとう」舞衣はそっと修司の頬にキスをした。修司は愛おしげに彼女の鼻先を撫で、ベッドで休むよう促した。電話が終わり、修司は上着を手に取った。「舞衣、会社でちょっと用事がある。先に休んでいてくれ」「修司くん、戻ってきてくれる?」舞衣の目に涙が浮かぶ。「ああ、休んでいろ」修司がドアを出た途端、舞衣の表情が一変した。彼女はスマホを取り出し、離婚協議書と離婚届
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第10話
「川又さん、涼子は?」「奥様はもう数日お帰りになっておりません」「数日も帰ってないだと?どうして俺に言わなかった!」修司は声を荒げた。川又は驚いて身を竦めた。「と……とっくにお伝えしました。あの日は佐々木様が電話に出られて、お伝えしますとおっしゃっていました」修司の顔色が変わり、すぐさまスマホを取り出す。確かに三日前、執事から電話があった。だが舞衣は、そのことを彼に伝えていなかった。「ご、ご主人様」川又が躊躇いながら、涼子が去ったときの様子を伝えるべきか迷っている。「なんだ。何か言いたいことがあるなら早く言え」なぜこんなに理由もなく焦燥感が湧き上がってくるのか、修司にも分からなかった。心にぽっかり穴が空いたような感覚――つい先ほど舞衣のところから帰ってきたばかりだというのに。舞衣は最近ますます甘えてくる。子供の話まで持ち出した。子供といえば、修司は少し前、涼子と一緒にいたとき、わざわざ彼女のピルを別のものに替えたことを思い出した。この何年も、祖父に催促されなかったわけではない。修司も涼子との子供を望んでいた。女の子なら涼子似で、男の子なら自分似で……悪くない。そう考えているうちに、口元がほんの少し上がった。突然、また何かを思い出した。「何を言おうとしていた?」川又は、涼子がスーツケースを引きずって出ていったこと、もう奥様と呼ばなくていいと言い残していたことを修司に伝えた。「何だと!?涼子が本当にそう言ったのか?」「はい、ご主人様。奥様はあの日、顔色がとても悪く、お体の具合がよくないようでした」修司は寝室に駆け込んだ。すぐ目に入ったのは、ベッドサイドテーブルに置かれた書類と、その隣に静かに横たわるブレスレットだった。「署名済みの離婚届の控えと、離婚届受理証明書!?そっちは……死亡診断書!?涼子、よくもこんなことを……!離婚なんて、彼女が望めばできると思ってるのか!」修司は怒鳴り、離婚届受理証明書を掴み上げた。その勢いでブレスレットが床に落ち、劣化していた紐が切れた。ビーズが床一面に散らばる。修司は真っ赤な目でそれを見つめ、離婚届のコピーをがさがさとめくり、案の定自分の署名を見つけた。瞳孔が大きく開く。紙を顔に近づけた。確かに自分の筆跡だ。いつ署名したのか、まったく記憶にない。そ
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