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第七大陸に渡り鳥はいない

第七大陸に渡り鳥はいない

By:  ゼンエツCompleted
Language: Japanese
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十五歳まで、私は路傍の雑草のように生きていた。 白石朔也(しらいし さくや)と夏川奈々(なつかわ なな)に出会うまでは。 私が初めて食べた生姜焼きは、奈々が作ってくれたものだった。 初めて着たワンピースは、奈々が買ってくれたものだった。 彼女は繰り返し私に言ってくれた。私が一番の親友なのだと。 そして、白石朔也。 彼は、下卑た笑い声をあげる不良グループから私を救い出してくれた。 四十度の高熱を出した私を、必死の形相で病院へ運んでくれた。 酔った義父がまた私に手を上げようとした時、その頭を拳で殴り飛ばしてくれた。 後に彼は私に告白した。その瞳は愛おしさで満ちていた。 私の灰色の人生は、彼らのおかげでようやく鮮やかな色を取り戻したのだ。 二十三歳の誕生日、あの日までは。 私は聞いてしまった。朔也が奈々に向かって感情的に叫ぶ声を。 「この気持ちはどうしようもないんだ!俺がお前を好きになってしまった、それがどうした!お前だって同じ気持ちだろう?」 美しい奈々は、苦渋に満ちて赤くなった男の目を見て、ついに泣きながら彼の胸に飛び込んだ。 「でも……詩織はどうするの?」 私は物陰に隠れ、苦い笑みを浮かべた。 どうするもこうするもない。 二人とも、私が最も愛する人たちだ。 あなたたちを困らせるなんて、私にはできない。 指導教官に電話をかけ、私は静かに言った。 「あの、二十年間の南極科学探査プロジェクトですが、申請してもよろしいでしょうか?」

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Chapter 1

第1話

十五歳まで、私は路傍の雑草のように生きていた。

じめじめとした暗闇の中で、ただその日をやり過ごすだけの日々。

白石朔也(しらいし さくや)と夏川奈々(なつかわ なな)に出会うまでは。

私が初めて食べた生姜焼きは、奈々が作ってくれたものだった。

初めて着たワンピースは、奈々が買ってくれたものだった。

手のあかぎれを見て、彼女は心を痛めながら薬を塗ってくれた。

そして、私が一番の親友なのだと、周囲に何度も公言してくれた。

彼女は繰り返し私に言ってくれた。私が一番の親友なのだと。

一方、白石朔也。

彼は、下卑た笑い声をあげる不良グループから私を救い出してくれた。

四十度の高熱を出した私を、必死の形相で病院へ運んでくれた。

酔った義父がまた私に手を上げようとした時、その頭を拳で殴り飛ばしてくれた。

彼に告白された日のことだ。

震える手と早鐘のような鼓動に、私は思わず涙が溢れた。

「誓うよ。俺が一生、お前を守り抜くから」

私の灰色の人生は、彼らのおかげでようやく鮮やかな色を取り戻したのだ。

二十三歳の誕生日、あの日までは。

私は聞いてしまった。朔也が奈々に向かって感情的に叫ぶ声を。

「この気持ちはどうしようもないんだ!俺がお前を好きになってしまった、それがどうした!お前だって同じ気持ちだろう?」

美しい奈々は、苦渋に満ちて赤くなった男の目を見て、ついに泣きながら彼の胸に飛び込んだ。

「でも……詩織はどうするの?」

私は物陰に隠れ、苦い笑みを浮かべた。

どうするもこうするもない。

二人とも、私が最も愛する人たちだ。

あなたたちを困らせるなんて、私にはできない。

指導教官に電話をかけ、私は静かに言った。

「あの、二十年間の南極科学探査プロジェクトですが、申請してもよろしいでしょうか?」

……

雨が激しく降り注いでいた。

でも、私は微動だにしなかった。

ただ無表情で、ガラスの壁の向こうにいる二人を見つめていた。かつて絶望の廃墟から私を救い出してくれた二人が、今は固く抱き合っている。

美男美女。溢れ出る愛。天に恵まれるカップル。

あまりにも美しい光景に、割って入ることなど到底できない。

傘を持っていなかったけれど、私、瀬戸詩織(せとう しおり)は街角に十五分間立ち尽くした。

約束の七時きっかりになるまで。

私は濡れた髪を拭きながら、軽い足取りで個室に入っていった。

「もう参ったよ、途中で車が故障しちゃって。新しいタクシーも全然捕まらないし、ここまで雨の中走ってきたんだから!凍え死ぬかと思った!」

奈々は躊躇なく自分の高価なジャケットで私の髪を包み込み、怒ったように言った。

「バカね、迎えに行くから電話してって言ったじゃない!風邪ひいたらどうするのよ!」

いつもなら一番に気づかい、私の指先にささくれができただけで涙ぐんで心配してくれた朔也が、数秒ためらってからようやく近づいてきた。

彼は十七歳のあの時のように、義父に家を追い出されずぶ濡れになった私を抱きしめたりはしなかった。

数メートルほど離れた場所で立ち止まり、申し訳なさそうに言った。

「ごめん、詩織。お前の誕生日なのに学校まで迎えに行けなくて……俺の配慮が足りなかったせいで、こんなに濡れさせてしまった」

私は寒さで震えながらも、へらへらと笑ってみせた。

「何言ってるの?全然平気だよ、大げさだなあ!」

私の能天気な様子が彼の罪悪感を刺激したのかもしれない。

彼はついに一歩踏み出し、私の氷のように冷たい手を包み込むと、口元に寄せてハァと温かい息を吹きかけた。

私の髪を拭いていた奈々の手が止まる。

その瞳に一瞬、暗い色が走った。

朔也も彼女の動揺に気づき、慌てて手を離して私から距離を取った。

そして入り口のウェイターに声をかけた。

「ミルクティーを一つ」

また私の方を向いて、取り繕うように笑った。

「温かいものを飲んで、寒気を払おう」

私は何も知らないふりをして、大雑把に席についた。

背中に感じる男の灼熱のような視線が、私には注がれていないことを知りながら。

すぐにミルクティーが運ばれてきた。

奈々が丁寧に息を吹きかけて冷まし、私に渡してくれた。

普段なら甘すぎて嫌がるものだが、今は耐え難いほど苦く感じた。

それでも私は一滴残らず飲み干した。

器を置き、お腹をさする。

「お腹空いた。料理頼んでいい?」

例年の誕生日は、いつも賑やかだった。

二人は私の鼻の頭に最初にクリームをつける権利を争い、「これで運が来るぞ」と言い合ったり、私とのツーショット写真を撮ろうと取り合ったりした。

どちらのカメラを見ればいいのか分からなくなるほどだった。

でも最終的に残る写真は、いつも三人一緒だった。

朔也は私を強く抱きしめ、世にも稀な宝石を見るような慈愛に満ちた目で私を見ていた。

そして奈々は親しげに私の肩に頭をもたせかけ、目を細めて大笑いしていた。

でも今年は、何もかもが違っていた。

ケーキは相変わらず繊細で美しく、二人も変わらず私のそばに座っている。

けれど空気は、まるで重たい蝋の膜が張ったように凝固していた。

ねっとりと、息苦しい。

奈々は静かに料理を食べ、朔也はずっと心ここにあらずだった。

私は深呼吸をして、努めて明るく振る舞った。

「二人とも何企んでるの?誕生日おめでとうの一言もないし!まさか私が油断してる隙に、ケーキを顔面にぶつける気じゃないでしょうね?」

奈々は無理やり笑顔を作った。

「何言ってるのよ!図書館に一日中いたあなたが空腹だろうと思って、先に何かお腹に入れさせようとしただけじゃない!

さあ、本題に入りましょう!」

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第1話
十五歳まで、私は路傍の雑草のように生きていた。じめじめとした暗闇の中で、ただその日をやり過ごすだけの日々。白石朔也(しらいし さくや)と夏川奈々(なつかわ なな)に出会うまでは。私が初めて食べた生姜焼きは、奈々が作ってくれたものだった。初めて着たワンピースは、奈々が買ってくれたものだった。手のあかぎれを見て、彼女は心を痛めながら薬を塗ってくれた。そして、私が一番の親友なのだと、周囲に何度も公言してくれた。彼女は繰り返し私に言ってくれた。私が一番の親友なのだと。一方、白石朔也。彼は、下卑た笑い声をあげる不良グループから私を救い出してくれた。四十度の高熱を出した私を、必死の形相で病院へ運んでくれた。酔った義父がまた私に手を上げようとした時、その頭を拳で殴り飛ばしてくれた。彼に告白された日のことだ。震える手と早鐘のような鼓動に、私は思わず涙が溢れた。「誓うよ。俺が一生、お前を守り抜くから」私の灰色の人生は、彼らのおかげでようやく鮮やかな色を取り戻したのだ。二十三歳の誕生日、あの日までは。私は聞いてしまった。朔也が奈々に向かって感情的に叫ぶ声を。「この気持ちはどうしようもないんだ!俺がお前を好きになってしまった、それがどうした!お前だって同じ気持ちだろう?」美しい奈々は、苦渋に満ちて赤くなった男の目を見て、ついに泣きながら彼の胸に飛び込んだ。「でも……詩織はどうするの?」私は物陰に隠れ、苦い笑みを浮かべた。どうするもこうするもない。二人とも、私が最も愛する人たちだ。あなたたちを困らせるなんて、私にはできない。指導教官に電話をかけ、私は静かに言った。「あの、二十年間の南極科学探査プロジェクトですが、申請してもよろしいでしょうか?」……雨が激しく降り注いでいた。でも、私は微動だにしなかった。ただ無表情で、ガラスの壁の向こうにいる二人を見つめていた。かつて絶望の廃墟から私を救い出してくれた二人が、今は固く抱き合っている。美男美女。溢れ出る愛。天に恵まれるカップル。あまりにも美しい光景に、割って入ることなど到底できない。傘を持っていなかったけれど、私、瀬戸詩織(せとう しおり)は街角に十五分間立ち尽くした。約束の七時きっかりになるまで。私は濡れ
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第2話
ケーキの箱を開け、蝋燭に火を灯す。三人のグラスがカチンと音を立てて触れ合った。私の唯一にして最高の親友と、私が深く愛する男が声を揃えて祝ってくれる。「詩織、誕生日おめでとう!」「早く願い事を!」「詩織、これからの誕生日もずっと俺が一緒に祝うよ!誓う!」「はいはい、お呼びじゃないって。詩織は私と一緒に祝いたいの!あなたがいようがいまいが関係ないから!」「お前こそ無理言わないでくれよ。俺は詩織の彼氏なんだから、これからの誕生日は俺が祝うのが当然だろ!」「私と詩織はズッ友なんだから!洪水だって引き裂けない仲なの!詩織だって私に祝ってほしいに決まってるわ……」目を開け、蝋燭を吹き消した。煙がゆらゆらと立ち上る。その向こうにある二人の晴れやかな笑顔が霞んでいく。ああ、違う。あれは十八歳の誕生日の記憶だ。今回。私のそばにいる二人は笑いもせず、騒ぎもせず、ただ乾杯の後に「おめでとう」と言っただけだった。奈々はどこか放心状態で、グラスを置いた拍子に手首をテーブルの角にぶつけてしまった。彼女は思わず「っ」と声を漏らし、眉をひそめた。朔也が慌てて立ち上がる。「大丈夫か?」言い終わるや否や、まずいと思ったのか言葉を切った。二つの不安げな視線が同時に私に向けられる。私はただ、目の前の美しいケーキをじっと見つめていた。例年通り、このバースデーケーキは奈々の手作りだ。今回も同じ。ケーキのてっぺんには、フォンダンとチョコレートで作られた二人の女の子の人形が乗っている。彼女たちの手はしっかりと繋がれている。十五歳のあの日と同じように。生理が来たのにナプキンを買うお金がなかった私を、クラスの女子たちが血の滲んだズボンを指差して大声で嘲笑ったあの日。転校してきたばかりの奈々は、有無を言わさず自分の制服の上着を脱いで私の腰に巻きつけた。そして私の手を引き、悪意のある視線を一つ一つ睨み返してくれた。あの日から、彼女は温かい春風のように、私の貧しく暗い生活に強引に入り込んできたのだ。さっき心の中で三回繰り返した願い事を思い出し、私は苦笑のような表情を浮かべた。「あーあ、また一つ歳取っちゃった。光陰矢の如しってやつね!さあ、ケーキ切ろう!」私の愛する人たちが、願いを叶え、永遠に幸せで
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第3話
往年の甘い思い出が次々と目の前に浮かび上がる。私の口角は自然と上がっていた。しかし、次のページへスクロールした瞬間、その笑みは凍りついた。【以前は、奈々のことをただの詩織の親友だと思っていた。詩織との時間を奪う彼女を疎ましく思うことさえあった。でも今回、ステージ上の彼女を見て、あまりにも輝いていて……心の中に奇妙な感情が芽生えた。神様、俺はどうしてしまったんだろう?】更新日は……なんと五ヶ月前だ。このソフト、二年前にバグで動かなくなったんじゃなかったの?私は急いで下へスクロールした。【今日三人で食事をした時、奈々が俺の正面に座っていた。俺はどうしても彼女を盗み見てしまった。彼女が笑うと薄いエクボができるなんて、どうして今まで気づかなかったんだろう?】【奈々のお祖母さんが亡くなって、詩織と一緒に彼女を慰めに行った。あんなに悲しそうに泣く彼女を見て、俺は……抱きしめてあげたいと思ってしまった】【彼女を想う気持ちが止められない。俺は本当にクズだ】【今日、うっかり奈々の手に触れてしまった時、彼女は一瞬で顔を赤らめて、しばらく顔を上げられなかった。もしかして、彼女の気持ちもとっくに変わっていたのか?罪悪感はあるけど、本当に嬉しかった】【俺が鈍感すぎたんだ。普段は俺の粗探しばかりして、『詩織を悲しませたら切り刻んでパン粉にするから』なんて警告してくる彼女が、この一年あんなふうに騒がなくなったし、時々俺を避けていた。そういうことだったのか】【詩織を送っていくと言ったら、彼女はずっと自分で帰れると断った。俺と二人きりになるのを避けているのは分かっていたけど、追いかけた……最近痩せたみたいで、背中がとても華奢だった……彼女はずっと下を向いて黙っていたけど、呼吸が早くて乱れていた。俺も……同じだった】【今日、詩織が珍しく恥ずかしがらずに、大勢の前で俺にキスをした。でも俺は少しも嬉しくなかった。奈々の目が、明らかに悲しそうだったから。だめだ、どうあっても、彼女に俺の気持ちを伝えなければ!】胸の奥から強烈な酸味が込み上げてきた。そうか。あのダンスコンテストで彼がステージを見つめて呆然としていたのも。夕食時の上の空も、葬儀での焦燥と心痛に満ちた眼差しも、デート中の言いたげな沈黙も……すべての答え合わせができた。朔也が心を
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第4話
丸五日間、私は朔也の電話に出なかった。私の資料はすべて登録が完了した。指導教官も多くの準備を手伝ってくれた。明後日には私の計画通り、誰にも告げずに静かに旅立てる。しかし明らかに、私は朔也の「すべてを説明したい」という固い決意を見くびっていた。彼は遅すぎた真実の愛を追い求めるために、一刻も早く決着をつけたかったのだろう。午後、大学院の寮を出たところで、彼を見つけた。私は思わず弱々しく笑ってしまった。入り口で静かに待つ、長身で端正なその姿は昔と変わらない。でも以前彼が学校に来るのは、デートのためだったり、彼のお母さんの手料理を届けるためだったり、「会いたかった」と一言伝えるためだけに飛んでくる時だった。けれど今日は……逃げられないと悟り、気力を振り絞って挨拶をした。「やあ、どうしてここに?」彼が顔を上げる。その美しい瞳に一瞬、心配の色が走った。「なんでそんな薄着なんだ?秋になって冷え込んできたのに、風邪ひくぞ」そう言いながら、白く長い指で私の薄い襟元を詰めてくれた。もう片方の手は、無意識に私を抱き寄せようとする。その瞬間。私は彼がまだ一途に私を愛してくれているのだと、私と一緒になるために一年間も家族と冷戦を続けたあの少年のままだと錯覚しそうになった。だが次の瞬間、私は悟った。付き合って六年。これらの気遣いや優しさは、ただの習慣になってしまったのだと。私が一歩下がろうとした時。彼は私より早く反応し、伸ばしかけた手をきまり悪そうに引っ込めた。心臓がえぐられるように痛んだ。彼は一呼吸置き、しわがれた声で言った。「ここ数日、どうして電話に出なかったんだ?」私は努めて明るく笑った。「スマホが壊れちゃって。論文で忙しくて修理に出す暇もなくて」彼の視線が数秒私の顔に留まり、やがて逸らされた。「……ああ、そうか」そして長い沈黙。カーテンの隙間から吹き込む風が骨身に染みる。彼が口を開かないので、私も意地を張って黙っていた。冷たい風に当たるとすぐにアレルギーが出る私の顔に、痛々しい赤みが広がり始めた頃。彼はようやく低い声で言った。「詩織、どうしても話さなきゃいけないことがあって……」彼のスマホが突然鳴り響いた。眉間がピクリと動く。着信音
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第5話
奈々の体が心配だったからなのか。それとも、別の女性のために焦り、心配する朔也の姿を最後にもう一度見ておきたかったからなのか。なぜ病院までついて行ったのか、自分でもよく分からない。廊下に漂う消毒液の匂いが鼻をつく。奈々の病室はすぐに見つかった。あいにくドアは半開きになっていて、中の様子がはっきりと見えた。奈々はベッドに横たわり、顔色は蒼白で、右足にはギプスが巻かれている。病弱な疲労感を纏っているが、それでも彼女は美しかった。朔也は彼女の前に立ち、焦燥しきった声で言った。「どうして教えてくれなかったんだ?」「教えてどうするの?あなたは私の親友の彼氏でしょ、あなたに……」「奈々!」朔也が低い声で叫んだ。「まだそんなことを言うのか?あの日、俺たちは互いに……気持ちを確かめ合っただろう?分かってるくせに……」「もういいわ」奈々は目を閉じた。「あの日のは一時的な衝動よ。気にしないで……忘れて。今はもう冷静になったわ。詩織は私にとって一番大切な友達なの。彼女を傷つけるなんて絶対にできないし、あなたにもさせない。だから、すべてを元の軌道に戻さなきゃ。気持ちを整理して、詩織のところに戻って。私たちの間には何もなかったことにして」語尾の震えが、彼女の本心を裏切っていた。その声は男の涙を一瞬で決壊させた。「奈々、嫌だ……頼むからそんなこと言わないでくれ……」奈々は顔を背け、彼の視線を避けた。「もう決めたの。帰って」彼の背中が激しく震えた。そして何かを決意したように、長く息を吐いた。「分かった。お前は事故に遭ったばかりで体調も悪い。この話は一旦置いておこう。でも、お前の世話は俺がする。お前が良くなるのを見届けるまでは、安心できない」そう言うと彼はお粥をスプーンですくい、丁寧に息を吹きかけて冷まし、奈々の口元へ運んだ。奈々が無視すると、彼は方向を変えて差し出す。何度か繰り返すうちに、奈々は突然感情を爆発させ、腕を払ってお椀とスプーンを床に落とした。「白石朔也、頭おかしいんじゃないの?まとわりつかないでって言ったでしょ!帰ってよ!」彼の手は空中で止まったが、声は優しく、しかし拒絶を許さない響きがあった。「食べなくてもいい。でも言っておくけど、お前が雇ったヘルパーはさっき俺
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第6話
朔也が八歳の時、道端で小さな捨て猫を見つけた。毛色は薄汚れた灰色で、雨に濡れてずぶ濡れだった。痩せこけた小さな体に、毛が束になって張り付いている。あまりに小さすぎて、鳴き声さえか細かった。その小さな目は必死に見開かれ、彼を見つめていた。恐怖と、懇願に満ちていた。朔也の心の一番柔らかい場所が、瞬時に撃ち抜かれた。彼は急いで母親の手を振り払い、抱き上げて家に連れて帰ろうとした。しかし潔癖症でペット嫌いの両親は断固として認めなかった。彼が泣いて頼んでも、暴れても、雨の中で転げ回っても、声を枯らして叫んでも……返ってきたのは、母親が猫を奪い取って道端に投げ捨てる冷たい仕草と、父親の容赦ない平手打ちだけだった。そして強制的に連れ帰られた。まだ子供だった彼は、初めて無力感というものを味わった。結局、両親が決めたことには逆らえない。五歳から寝る前に英単語を100個覚えさせられることも。嫌いな野菜を無理やり食べさせられることも。近所の同い年の子供たちとドッジボールをするのを禁じられることも。彼は一度も逆らえなかった。けれどあの日から。あの濡れそぼった哀れな子猫の姿が、彼の心にずっと残り続けた。何度も夢を見た。あの子が全身の力を振り絞って、濡れた小さな前足で彼の方へ這ってくる夢を。淡いブルーの瞳に無力感と哀願を湛えた姿を。目が覚めるたび、枕カバーは涙でぐっしょりと濡れ、胸がえぐられるように痛んだ。後に彼は成長し、「執着」という言葉を学んだ。そしてようやく気づいた。あの少年時代の小さな子猫こそが、彼の生涯の執着になるのかもしれないと。そんな時、彼は詩織に出会った。狭く入り組んだ路地裏。色とりどりの髪をした、ガラの悪いチンピラたち。下卑た笑みを浮かべ、白いワンピースを着た痩せっぽちの少女を取り囲み、じりじりと追い詰めている。近道をして帰ろうとしていた朔也は、その場面に偶然出くわした。十七歳の彼はすでに背が高く逞しく成長していた。幼い頃から両親に体作りを強制されていたこともあり、まともな飯も食っていないような猿みたいに痩せた連中など、一人で片付けるのは造作もなかった。ただ、こういう揉め事に関わるべきかどうか……彼が迷っていた時。少女が足音に気づき、素早く振り返
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第7話
少年は三晩、寝返りを打ち続けた。四日目、あらゆる手を尽くして彼女を見つけ出した。彼は彼女のそばをうろつき始めた。なりふり構わず彼女に尽くした。不器用だが、真剣だった。少女は最初、強く拒絶した。だが次第に、彼に微笑みかけるようになり、彼がバスケで腕を擦りむくと心底痛ましそうな表情を見せるようになった。朔也だって恋愛小説くらい読んだことがある。理由もなく誰かを守りたいと思うこと、これが愛なのだと思った。だから、告白した。だから、誓った。一生守ると。そうして六年が過ぎた。彼は常に壊れやすい宝石を扱うように、細心の注意を払って彼女を守ってきた。誰もが彼を理想の彼氏だと言い、彼もそれを誇りに思っていた。あの日、ステージの上で、いつも「うるさい」と煙たがっていた少女を見るまでは。彼女が誇り高い白鳥のように舞うのを見て。彼は突然、心の中に小さな花が静かに咲いたような気がした。その瞬間、冷や汗が吹き出した。間違っていた。何もかも間違っていた。まさか……これが本当の「ときめき」というやつなのか?じゃあ詩織は……どういうことなんだ?その夜、夢に出てきた子猫が答えをくれた。もしかしたら最初から、自分は詩織を、あの少年時代に連れて帰れなかった哀れな子猫と重ねていたのかもしれない。同じ恐怖と無力感。同じ孤立無援。八歳の時、彼は両親の決定になす術がなかった。再び「同類」に出会った時、彼は何があっても手を離さないと固く決意した。彼女のために両親と対立し、一年間冷戦状態を続けてまで交際を認めさせたのも、少年時代の抵抗の続きに過ぎなかったのかもしれない。そして詩織の生い立ちと運命はあまりに悲惨で、彼の同情心を爆発させ、温もりを与えたいと思わせた……要するに、自分は六年間、詩織を子猫として飼っていたのだ。幼少期の欠落を埋め合わせるために。それだけのことだった。だが本当の恋愛は、そういうものではない。彼は無意識に二人の少女を比較し始めた。詩織はいつも静かで寡黙、敏感で脆い。長年彼女の顔色を伺い続けるのは、正直疲れることもあった。それに比べて奈々の明るさ、奔放さ、意気軒昂な姿、美しく余裕のある態度は……それこそが、自分のが本当に好きなタイプなのではないか?
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第8話
極夜の南極の星空。それはおそらく、地球上で最も衝撃的な美しさだ。無数に散らばる星々は、鋭利なダイヤモンドのようだ。息をのむほど美しい。分厚い防寒服に身を包み、マイナス数十度の極寒の中。一日の氷河脈動の記録作業を終えた。疲れ切って顔を上げると、この満天の星空が目に入る。つい、もう少し外に座っていたくなる。こうして一人で座っている時。私は大抵何も考えない。でもたまに、例えば今日のように。過去のことを思い出すこともある。思い出すと、胸の奥がまだ少し痛む。けれど、私がかつて最も愛した二人が、ようやく何の憂いもなく、堂々と一緒になれたのだと思えば。もう私の好みに合わせる必要もなく、二人が大好きな激辛ラーメンを思いっきり食べられるのだと思えば、私に付き合って退屈な図書館で一日を潰す必要もなく、もっと面白いことができるのだと思えば。私はまた、憑き物が落ちたような笑みを浮かべるのだ。「瀬戸さん、ちょっと来て!極地センターが南極探査隊員を訪問する企画を立ててね、メディアの記者がもう向かってるんだ。彼らと何を話すか、急いで打ち合わせしよう!」基地長の言葉に、私は一瞬きょとんとして、思わず失笑した。ここは毎年観光客に開放される、ペンギンが見られる南極半島ではない。南極内陸の、現在最も僻地にある場所だ。ナビゲーターの案内があったとしても、いつ暴風雪が襲ってくるか分からない氷床の上を、何日もかけて苦難の行軍をしなければ辿り着けない。ここにある観測基地も、当然ながら条件は最も過酷だ。記者か……仕事を全うしたいのは分かるけど、わざわざこんな苦労をしなくても……それに、無事にここまで来られるかどうかも大きな問題だ。だから私は口では返事をしつつ、気にも留めていなかった。まさか。五時間後、本当にその記者に会うことになるなんて。さらにまさか、隊長に連れられて入ってきた、明らかに体力を消耗しきって、帽子の縁やゴーグルに霜をつけたその姿が、白石朔也だなんて。なぜ彼が……どうして彼なの?私はショックで彼を見つめた。彼が他の隊員と簡単に挨拶を交わすのを。そしてフードを脱ぎ、私の方へ一歩一歩近づいてきて、半メートル手前で立ち止まるのを。「詩織……」「取材の件でしたら基地長にお願いしま
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第9話
南極は朔也が想像していたよりも遥かに広大で、恐ろしい場所だった。様々な極端な気象条件や突発的なブリザードのせいで、彼は毎回遠くまで行けずに、低体温症で真っ白な荒野に倒れ込んだ。意識が朦朧とする寒さの中で、彼は何度も自分に言い聞かせた。まだ詩織を見つけていない、このまま死ぬわけにはいかない……だからこそ、最後の力を振り絞って救難信号を発信することができた。後に、彼はこの方法が愚かで時間の無駄だと悟った。そして希望を別のルートに託した。探査隊の臨時後方支援スタッフなどに申請してみたが、すべて不採用に終わった。一年で、彼は見る影もなく痩せ細った。罪悪感、焦り、そして恋しさで。そんな時、元の上司が彼を訪ねてきた。この重要な取材プロジェクトを成功させれば、テレビ局に復帰させてやるというのだ。とっくに仕事への意欲を失い停職中だった彼は、それが南極最奥地の観測基地への取材任務だと聞いて、さらに尋ねた。あの二十年間のプロジェクトだと知った瞬間、彼は興奮のあまり気絶しそうになった。復職だの、記者の夢だの、そんなことはどうでもよかった!これは神がくれたチャンスだ。ようやく私に会える……ただ会いたかった。だが、どんなに焦がれても。ビザや煩雑な手続きで、さらに数ヶ月待たされた。ようやく砕氷船に乗った時、彼は嬉しさのあまり泣き崩れそうになった。それなのに今、私は彼に対してまるで他人のようだ。道中ずっと準備してきた言葉も、溢れるほどの思慕も心配も。一言も言い出せなかった……データ計算の合間に、何気なく窓の外を見た。朔也はまだ呆然とその場に立ち尽くしていた。彼の今回の目的が取材なのか別なことなのかは知らないし、何を考えているのかも見当がつかない。まあ、私には関係のないことだ。「詩織、とにかく、まずは謝らせてほしい」翌日、朔也はそんな言葉から切り出した。私は驚かなかった。昨夜、微弱なネット回線を使って古いメールボックスを開いたからだ。そこは彼と奈々からの……謝罪メールで埋め尽くされていた。一年半の間、ほぼ途切れることなく、字句の端々が切実で悲痛だった。奈々に至っては、私がS市を離れてU国の合宿に参加した直後にメールをくれていた。彼女は確かに朔也に心を動かされた
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第10話
私は驚いて振り返った。朔也の瞳にある心痛の色は、溶かしきれないほど濃厚だった。「お前がいなくなってすぐに、気づいたんだ……」彼は子猫の話をして、目を真っ赤にして言った。「俺は奈々にときめいたと思い込んで、勝手に賢しらに分析したんだ。子供の頃の執着をお前に転嫁して、同情を愛だと勘違いしていたんだって。でもお前が何も言わずに去ったと知った時、俺は心臓が止まるほど痛かった……その時やっと分かったんだ。奈々に対する感情なんて……」彼は眉を寄せ、苦しげに唇を動かした。「ただのときめきの錯覚だった。妙な新鮮さを感じただけだった……俺が馬鹿だった。自分の選択は本心に従ったものだと信じ込んでいたのに……自分の心さえ見えていなかったなんて!」彼は突然激昂し、私の手を強く掴んだ。「詩織、本当に後悔してる。どうしてあんなに馬鹿だったんだろう、お前をあんなに傷つけて!今なら分かってもらえるだろう?俺は奈々を愛してなんかいなかった、心にはお前しかいないんだ!最初から最後まで!だから、俺たちはまだ元に戻れるよな?頼む、償うチャンスをくれ……詩織、愛してる、本当にお前なしじゃ生きていけない……」最後の言葉を言う頃には、朔也は泣き崩れていた。私は、支離滅裂に愛と不安、悔恨と謝罪を語る彼を聞きながら、いつの間にか涙がこぼれていた。私が身を引いて成就させたのに、彼は惨めな姿で私を追いかけてきた。奈々への愛は本物じゃなかったと言う。心には私しかいないと言う。あまりに理不尽で、笑えてくる。たとえ彼が本気だとしても、一年半遅れの「愛してる」に、今さら何の意味があるというの?「朔也、帰って」私は手を引き抜き、冷静に言った。その軽い一言が、氷の杭のように朔也をその場に釘付けにした。窓の外に広がる果てしない氷原を眺め、私は憑き物が落ちたように笑った。「最初は確かに逃げたかった。私が去れば、あなたたちは幸せになれると思って、ここに来た。でもここで過ごすうちに、この場所を知れば知るほど、自分の仕事を愛するようになったの。氷河の小さな気泡一つが新発見に繋がるかもしれないし、手の中のデータは私に安らぎをくれる……ここでは私の世界はとてもシンプルで、悩みもない。考えるのは気候、環境、生物の変化だけ。私はもう、本当に自分に合った生き方と、
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