INICIAR SESIÓN午後の柔らかな光が、事務所の部屋に差し込んでいた。
桜井唯はデスクに座り、クライアントからの返信メールを何度も読み返していた。
事務所をオープンさせてから数日が経ち、少しずつ仕事の依頼が来始めていた。
まだ小規模ではあるが、自分の名前で動いている実感が、唯の胸を静かに満たしていた。
インターホンが鳴った。
唯はモニターを確認し、微笑んだ。
高倉櫂が、資料の少しはみ出したバッグを持って立っていた。
唯はドアを開けた。
「高倉さん、どうぞ」
櫂は穏やかな笑顔で入ってきた。
「桜井さん、こんにちは。 少し早いけど、事務所オープンのお祝いの続きです」
唯はくすっと笑った。
「もうオープンしてから何日も経つのに、まだお祝いしてくれるんですか?」
櫂はテーブルに資料を置きながら言った。
「実は、桜井さんに持ってきたものがあるんです」
唯は少し警戒しながら聞いた。
「何です
「高倉さん?」唯が呼びかけると、高倉はすぐに顔を上げた。駅前の灯りが、その横顔を淡く照らしている。「申し訳ありません」そう言ってスマートフォンを伏せる。けれど。ほんの一瞬だけ浮かんだ表情の変化を、唯は見逃さなかった。高倉は普段、感情を顔へ出さない。だからこそわかる。何かあったのだ。「お仕事ですか?」問いかけると、高倉は少しだけ間を置いた。人波が二人の間を流れていく。遠くで電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえた。やがて高倉は小さく頷く。「ええ」短い返事だった。それ以上は語らない。けれど隠そうとしているわけでもないらしい。唯も無理には聞かなかった。聞けば答えてくれる気がする。それでも踏み込まなかったのは、たぶん信頼しているからだ。高倉が話さないなら理由がある。そう思えた。しばらく並んで歩く。さっきまで心地よかった沈黙が、少しだけ違う色を帯びていた。胸の奥がざわつく。その理由に気づいて、唯は自分で驚く。心配しているのだ。高倉のことを。「大丈夫ですか」気づけば口からこぼれていた。高倉がわずかに目を見開く。意外そうな顔だった。「私なら大丈夫です」反射のような返事。その声音がおかしくて、唯は小さく笑った。「それ、この前も聞きました」「え?」「無理しないでくださいって言ったときです」高倉は数秒考え、それから苦笑した。「覚えていましたか」「覚えています」即答すると、高倉が少しだけ視線を逸らす。その仕草が珍しくて、唯の胸がふっと温かくなった。夜風が吹く。
店を出ると、夜風が頬を撫でた。昼間の熱気はすっかり薄れ、街には穏やかな空気が流れている。駅へ向かう人々が行き交う中、唯は高倉の隣を歩いていた。来たときと同じ道のはずなのに、不思議と違って見える。胸の奥に残る余韻のせいだろうか。食事の時間はあっという間だった。もっと緊張すると思っていた。何を話せばいいのかわからなくなると思っていた。けれど実際は違った。気づけば笑っていて。気づけば時間が過ぎていた。沈黙さえ心地よかった。隣を歩く高倉へそっと視線を向ける。街灯の光が横顔を柔らかく照らしていた。仕事中に見る表情とは少し違う。いつもより穏やかで、肩の力が抜けて見えた。その姿を見ていると、唯まで不思議と落ち着く。高倉は歩幅を合わせるように歩いていた。急ぎもせず。遅れもしない。自然と隣にいる。そのことが妙に嬉しかった。駅が近づく。人通りが増える。改札まで行けば今日の時間は終わりだ。そう考えた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。唯はそっと視線を伏せる。こんな気持ちは久しぶりだった。いや、久しぶりというより——初めてかもしれない。もっと一緒にいたい。そんなことを思うなんて。高倉がふいに口を開く。「今日はありがとうございました」唯は思わず吹き出した。「またそれですか」高倉が少し困ったように笑う。「やはり口癖ですね」「かなり重症です」そう返すと、高倉も小さく笑った。その笑顔を見るだけで胸が温かくなる。どうしてだろう。離婚してからずっと。恋愛なんてもういいと思っていた。誰かに期
「今は、それだけではありません」高倉はそう言ったきり、言葉を続けなかった。唯もまた、その先を聞くことができなかった。聞けば答えてくれる気がした。けれど、聞いてしまえば何かが変わってしまう気がして。その一歩を踏み出す勇気が出なかった。店内には穏やかな音楽が流れている。窓の外では夜の街が静かに灯り始めていた。唯はグラスへ手を伸ばし、水をひと口飲む。冷たいはずなのに、少しも熱が下がらない。高倉も無理に話を続けようとはしなかった。その沈黙が不思議と心地よい。昔の唯なら耐えられなかっただろう。何か話さなければ。気まずくならないように。そんなことばかり考えていたはずだ。けれど今は違う。何も話さなくても、隣にいることが自然だった。しばらくして、高倉がふっと表情を和らげる。「そういえば」空気を変えるように口を開く。「以前、美咲さんがおっしゃっていましたね」「美咲が?」「桜井さんは甘いものがお好きだと」唯は思わず笑った。確かに好きだ。けれど、美咲は本当に余計なことまで話しているらしい。「否定はできません」そう答えると、高倉も小さく笑った。その表情はどこか安心したようだった。「実は、この店を選んだ理由の一つなんです」唯は目を瞬く。高倉は少し照れたように視線を逸らした。「デザートが評判だと聞きましたので」その言葉に胸が温かくなる。落ち着いて話せる店だから。それだけではなかった。高倉は、自分のことを考えて店を選んでくれたのだ。そんなことをされるのは久しぶりだった。いや、もしかすると初めてかもしれない。「ありがとうございます」唯がそう言うと、
「職業病かもしれません」高倉の言葉に、唯は思わず笑った。肩の力が抜ける。さっきまで感じていた緊張が、少しずつ和らいでいくのがわかった。料理が運ばれてくる。落ち着いた照明の下で見る料理はどれも美味しそうだった。「いただきます」「いただきます」自然に言葉を交わし、食事が始まる。最初は仕事の話だった。記事の件。会社の対応。法務とのやり取り。唯も聞いておきたかったことがあったため、話題としてはちょうどよかった。けれど。しばらくして高倉がグラスへ手を伸ばしながら言った。「今日はその話ばかりするつもりではなかったんです」唯は顔を上げる。高倉は少しだけ視線を逸らした。「仕事ではなく、とお誘いしたので」胸が小さく揺れる。そうだった。今日は仕事ではない。その言葉を思い出しただけで落ち着かなくなる。「じゃあ、何を話すつもりだったんですか?」思わず聞いていた。高倉は少し考える。そして、小さく笑った。「それを考えていませんでした」唯は目を丸くした。「考えてなかったんですか?」「はい」意外だった。もっと綿密に準備している人だと思っていた。高倉自身もおかしかったのか、少しだけ笑う。「お会いしたいと思ったので誘いました」その言葉に。唯の手が止まった。お会いしたいと思った。ただそれだけの言葉なのに。胸の奥へ真っ直ぐ落ちてくる。高倉は気づいていないのか、そのまま続けた。「最近は記事の件もありましたし」「はい」「桜井さんも大変だったと思います」穏やかな声だった。責任感でも義
肩が触れそうで触れない距離を保ちながら。唯と高倉は駅前の通りを歩いていた。夕暮れの街は人通りが多い。仕事帰りの会社員。買い物帰りの家族連れ。楽しそうに笑い合う学生たち。いつもと変わらない光景のはずなのに、唯にはどこか現実感が薄かった。隣を歩く高倉の存在ばかりが気になってしまう。「お店、遠いんですか?」沈黙に耐えきれなくなって尋ねる。高倉は少しだけ視線を向けた。「もうすぐです」そう言って微かに笑う。その横顔を見て、唯は慌てて前を向いた。心臓が忙しい。高校生でもあるまいし、と自分へ呆れる。やがて高倉が足を止めた。案内されたのは、大通りから一本入った静かな路地にある店だった。大きなチェーン店ではない。落ち着いた雰囲気の、小さなレストラン。ガラス越しに見える店内は柔らかな照明に照らされていて、どこか温かみがあった。「素敵なお店ですね」思わずそう呟く。すると高倉が少しだけ安堵したような顔をした。「良かったです」その反応に、唯は首を傾げる。高倉は少し言いづらそうに続けた。「実は少し悩みました」「お店ですか?」「はい」珍しい。高倉がそんなことを言うのは。「桜井さんが落ち着いて話せる場所がいいと思ったので」その言葉に胸が温かくなる。自分が好きな店ではなく。唯が過ごしやすい店を選んでくれたのだ。そんな些細なことが嬉しかった。店内へ入ると、窓際の席へ案内された。注文を済ませる。飲み物が運ばれてくるまでの間、少しだけ沈黙が落ちた。不思議と居心地は悪くない。けれど、どこか落ち着かない。高倉も同じなのだろうか。
翌朝、唯は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。薄いカーテン越しに差し込む朝の光が眩しい。枕元のスマホへ手を伸ばし、時間を確認する。まだいつもより少し早い。それなのに、もう眠れそうになかった。今日は高倉との約束の日だった。ベッドの上で小さく息を吐く。落ち着こうと思うのに、胸の奥が妙にそわそわする。まるで遠足を待つ子どもみたいだ。そんな自分がおかしくて、唯は苦笑した。その日は仕事をしていてもどこか上の空だった。もちろん手は動く。依頼の確認も、デザインの修正もいつも通りこなしている。けれど、気づけば時計へ目が向いていた。まだ大丈夫。あと三時間。あと二時間。そんなふうに時間を数えてしまう。ようやく仕事を切り上げ、帰宅した頃には、心臓が少しずつ落ち着かなくなっていた。クローゼットを開ける。服を選ぶだけなのに、思った以上に時間がかかる。派手すぎるのも違う。気合いが入りすぎていると思われるのも嫌だ。だからといって、普段着すぎるのもどうなのだろう。何度か服を当ててみて、結局選んだのは自分らしい一着だった。鏡の前で身だしなみを整え、バッグを持つ。大丈夫。そう自分へ言い聞かせる。けれど、玄関のドアを開けた瞬間、また胸が高鳴った。待ち合わせ場所は駅前だった。特別な場所ではない。何度も通ったことのある場所だ。それなのに今日はまるで違って見える。人の流れの向こうに、一人の男性の姿が見えた。唯は思わず足を止める。高倉だった。いつものスーツ姿ではない。落ち着いた色のジャケットに、シンプルな私服。それだけなのに妙に新鮮だった。会社で見る高倉とも違う。事務所へ来るときの