FAZER LOGIN「面白くなってきたな」
若い記者から報告を受けると、デスクは椅子の背にもたれた。
机の上には数枚の写真が広げられている。
駅前で高倉と待ち合わせをしていた女性。
事務所の前で封筒を受け取る女性。
そして昨日。
高倉が美咲をかばうように記者との間へ入った場面。
どの写真にも決定的な証拠はない。
だが、共通していることが一つだけあった。
高倉が、必要以上に一般女性を気に掛けていること。
「専務は何て言ってた?」
デスクが尋ねる。
「業務で資料を預けただけだ、と」
若い記者が答える。
「法務を通じて対応する、とも」
デスクは小さく笑った。
「そこまで言うか」
「ええ」
若い記者も腕を組む。
「普通の会社なら、広報へ回して終わりですよ」
それが引っ掛かっていた。
なぜ専務本人が出てくるのか。
「桜井唯、か」週刊プライム編集部。石田は机の上に広げられた資料を静かに眺めていた。派手な経歴はない。ごく普通の会社員。離婚を経験し、現在は小さな事務所で働いている。以前の記事で調べた内容ばかりだ。新しい情報はほとんど増えていない。「もう一度、一から洗い直しますか」若い記者が口を開く。石田はすぐには答えなかった。高倉と話したあと、考えが少し変わっていた。美咲ではない。おそらく中心にいるのは桜井唯だ。では、高倉はなぜ彼女を守ろうとするのか。そこだけが、まだ見えない。「派手なことはするな」石田は静かに言った。「まずは行動を確認する」「張り込みですか」「ああ」石田は資料を閉じる。「思い込みで記事は書けない」その言葉は、自分へ言い聞かせるようでもあった。◇◆◇翌日。唯は事務所へ向かう途中、小さく肩をすくめた。朝から蒸し暑い。駅前では蝉が鳴き始めている。いつもと変わらない景色。いつもと変わらない朝。それなのに。高倉の話を聞いたあとでは、どうしても周囲が気になってしまう。信号待ちをしている人。スマートフォンを見ながら歩く会社員。ベンチへ座る老人。誰も自分を見ていない。そう思う一方で、視線を探してしまう自分がいた。「気にしすぎ、だよね」小さく笑って歩き出す。その姿を、通りの向かい側から一人の男が眺めていた。若い記者だった。スマートフォンを耳へ当て、小さく報告する。「今、事務所へ向かっています」電話の向こうで石田が短く答えた。
約束の時間ぴったりに、事務所のインターホンが鳴った。唯は席を立ち、ドアを開ける。「お疲れ様です」「お疲れ様です」高倉はいつもと変わらない穏やかな表情で軽く頭を下げた。けれど、その目には仕事の話をするとき特有の真剣さが宿っている。応接スペースへ案内すると、高倉は鞄から一枚のクリアファイルを取り出した。「先ほど、週刊プライムの編集担当者と話をしてきました」唯は息を呑む。「編集担当者と……ですか?」「向こうから会社へ来ました」驚きのあまり、唯は思わず言葉を失った。そこまで動いていたとは思っていなかった。高倉は淡々と説明を続ける。編集担当者が訪ねてきたこと。美咲への接触を控えるよう正式に伝えたこと。そして、今のところ美咲と高倉の間には特別な関係はない、と事実だけを説明したこと。唯は黙って耳を傾けていた。「では……」ようやく口を開く。「もう美咲は大丈夫なんでしょうか」その問いに、高倉はすぐには答えなかった。ほんのわずか、視線を伏せる。その沈黙だけで、唯には答えがわかってしまった。「残念ですが」高倉は静かに言う。「そう簡単には終わらないと思います」唯の指先に力が入る。「どうしてですか?」「記者は、一つの仮説が崩れると、別の仮説を立てます」高倉は机の上で指を軽く組んだ。「今回は、おそらく美咲さんへの疑いは薄れました」「じゃあ……」「次は」高倉は唯を見つめる。「桜井さんです」部屋が静まり返る。時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいた。唯はその言葉をすぐには飲み込めなかった。「私&he
「筋が通りすぎている、ですか?」エレベーターを降りると、若い記者が首を傾げた。石田は歩きながらネクタイを少し緩める。「高倉専務の話は矛盾がなかった」「じゃあ……」「だからこそだ」石田は足を止めることなく続けた。「こちらが聞きたいことを、あらかじめ整理して待っていたようだった」若い記者は黙って耳を傾ける。「ああいう人は厄介だ」石田は苦笑した。「感情では動かない。こちらが一つ質問すれば、必要な答えだけ返してくる」余計なことは一切言わない。嘘をついているようにも見えない。だから反論の糸口が掴めない。「ただ」石田は視線を前へ向けたまま言った。「一つだけ収穫はあった」「何です?」「桜井唯だ」若い記者が目を瞬かせる。「専務は終始、美咲さんではなく桜井さんを基準に話していた」「基準?」「『美咲さんは桜井さんの友人です』と最初に説明しただろう」石田はゆっくりと言葉を選ぶ。「つまり、高倉専務の中では、美咲という人物は桜井唯を介して認識している存在だ」若い記者は腕を組んだ。「じゃあ、本当にただの友人なんですかね」「その可能性は高くなった」石田は頷く。「少なくとも、美咲さん本人との特別な関係は見えなかった」若い記者は小さく息を吐く。「じゃあ、振り出しですか」「いや」石田は静かに笑った。「違う」高倉が本当に守ろうとしている相手。それは美咲ではない。では、誰なのか。答えは自然と一人しか浮かばなかった。「桜井唯か……」石田は誰に聞かせるでもなく呟いた。
応接室のドアを開けると、男はすぐに立ち上がった。「お忙しいところ恐縮です」四十代半ばほどだろうか。落ち着いた口調だった。名刺には『週刊プライム編集部 編集次長 石田』とある。高倉は一瞥しただけで席に着いた。「本日はどういったご用件でしょうか」単刀直入だった。石田は営業用の笑みを浮かべたまま口を開く。「少し誤解があるようでして」「誤解、ですか」「ええ」石田は頷く。「弊誌の記者が、ご友人にご不快な思いをさせてしまったようです」高倉は表情を変えなかった。「その件についてお話に参りました」「そうですか」短い返事だった。感情は何も読み取れない。石田は続ける。「もちろん、必要以上にご迷惑をお掛けするつもりはありません」「でしたら」高倉は静かに言葉を挟んだ。「今後、美咲さんへの接触はお控えください」石田は苦笑した。「取材という仕事柄、そう簡単には——」「取材対象ではありません」高倉の声は穏やかだった。だが、その一言で部屋の空気が変わる。「美咲さんは今回の記事の当事者ではありません。会社関係者でも、公人でもありません」石田は少しだけ姿勢を正した。「ですが、事実関係を確認する上で——」「どの事実ですか」高倉が尋ねる。石田は一瞬、言葉に詰まった。高倉は続ける。「確認したい事実とは何でしょう」静かな問いだった。責める口調ではない。だからこそ逃げ道がない。石田は咳払いを一つしてから答えた。「専務と親しいご関係だと伺っています」高倉はゆっくりと石田を見つめた。「ど
「何もありません」若い記者は資料を閉じた。デスクが顔を上げる。「本当にか?」「はい」机の上には、美咲について集めた資料が並んでいた。勤務先。学歴。家族構成。交友関係。どれもごく普通だ。芸能人でもなければ、会社役員でもない。SNSもほとんど更新していない。休日は学生時代の友人と会う程度。派手な生活を送っている様子もない。「面白いくらい普通ですね」若い記者は苦笑した。「借金もない。男関係も派手じゃない。高倉専務と繋がりそうな接点も見つかりません」デスクは黙って資料をめくっていた。普通。それがかえって引っ掛かる。高倉ほど慎重な人間が、偶然ここまで一般人へ肩入れするだろうか。「桜井唯との関係は?」「十年以上の付き合いらしいです」「親友か」「ええ」デスクは椅子へ深く腰掛けた。そこだけは事実らしい。ならば。高倉と美咲を繋ぐものは何だ。答えはまだ見えない。「焦るな」デスクが静かに言う。「見えないものほど、追う価値がある」若い記者は頷いた。その言葉を疑わなかった。◇◆◇その頃。唯は事務所で美咲と向かい合っていた。「本当にごめん」また謝ろうとした唯を見て、美咲は呆れたように笑う。「だから、それ禁止」「でも……」「でもじゃない」美咲は紙コップのコーヒーをひと口飲んだ。「高倉さんにも言われたんでしょ?」唯は苦笑する。図星だった。「もう三回くらい言
「面白くなってきたな」若い記者から報告を受けると、デスクは椅子の背にもたれた。机の上には数枚の写真が広げられている。駅前で高倉と待ち合わせをしていた女性。事務所の前で封筒を受け取る女性。そして昨日。高倉が美咲をかばうように記者との間へ入った場面。どの写真にも決定的な証拠はない。だが、共通していることが一つだけあった。高倉が、必要以上に一般女性を気に掛けていること。「専務は何て言ってた?」デスクが尋ねる。「業務で資料を預けただけだ、と」若い記者が答える。「法務を通じて対応する、とも」デスクは小さく笑った。「そこまで言うか」「ええ」若い記者も腕を組む。「普通の会社なら、広報へ回して終わりですよ」それが引っ掛かっていた。なぜ専務本人が出てくるのか。なぜ法務まで動くのか。なぜあそこまで冷静に、しかし強く止めようとするのか。「……逆なんじゃないですか」若い記者がぽつりと言った。「逆?」「最初から追っていた女性じゃなくて」机の写真を見つめる。「本当に守りたいのは、こっち」指先が美咲の写真を軽く叩いた。デスクは何も言わない。ただ、黙って写真を見つめていた。思い込みかもしれない。だが、長年の勘が囁いている。まだ何か隠れている、と。◇◆◇その頃。唯は事務所で高倉から昨日の出来事を聞いていた。「高倉さんが?」思わず聞き返す。高倉は静かに頷いた。「昨日、駅前で記者とお話ししました」「どうして教えてくれなかったんですか」
それから数日後。唯が仕事としてかかわった展示会の最終日、会場内のパーティールームは賑やかな笑い声に包まれていた。桜井唯は軽いワンピース姿で、緊張しながら会場に入った。高倉櫂がすぐ横に寄り添うように立っていた。「桜井さん、今日は僕がエスコートしますから。 安心してください」唯は少し照れながら頷いた。「ありがとうございます…… 高倉さんがいてくれて、心強いです」二人は並んで会場を回った。櫂は唯のペースに合わせて歩き、混雑したところでさりげなく唯の背中に手を添えた。
夜の街は、柔らかな灯りに包まれていた。桜井唯は新居の鏡の前で、軽く髪を整えていた。高倉櫂から「ディナーに誘いたい」とメッセージが届いたのは、数時間前だった。そんなの、まるでデートじゃないか。デート以外の何物でもない。唯の心臓が、少し速く鳴っていた。レストランは、キャンドルの灯りが優しく揺れる落ち着いた店だった。唯が入ると、櫂がすでに席で待っていた。櫂は立ち上がり、穏やかな笑顔で迎えた。「桜井さん、今日はありがとうございます」唯は少
午前の柔らかな光が、新居の部屋を優しく照らしていた。桜井唯はスケッチブックを閉じ、軽く伸びをした。事務所開業の準備が少しずつ進み、心に余裕が生まれ始めていた。スマホが震え、高倉櫂からのメッセージが届いた。【高倉櫂】桜井さん、こんにちは。もしよろしければ、今日のお昼、一緒にランチでもいかがですか?事務所の近くの落ち着いたレストランを知っています。唯は少しドキドキしながら返信した。【桜井唯】
数日後、唯は新居のベランダで夜風を感じていた。スマホが震え、高倉櫂からのメッセージが届いた。 【高倉櫂】桜井さん、こんばんは。今夜、時間がありますか?今、街で新しいデザイン企画をやっているようなんです。ネオンサインや新しいデザインの看板で街を活性化させるプロジェクトだそうです。良かったら、一緒に行きませんか? 唯は少しドキドキしながら返信した。







