LOGIN野乃花は何も言わなかった。青ざめた顔のまま、その場を離れる。海舟の執務室へ戻ると、脇に下ろしていた指が、ゆっくりと握り込まれていった。それでも、ついに我慢できなくなる。「社長。先日、私に買わせたネックレスは……あの方への贈り物だったのですか」野乃花は数年、海舟のそばにいた。けれど温子とは会ったことがなく、二人がどういう関係なのかも知らなかった。海舟の視線は、手元の書類に落ちたままだった。声だけが、いつも通り穏やかだった。「俺が何をするか、秘書に説明する必要があるのかな」野乃花は、美しい女だった。そして商談の場では、ひどく鋭い。その鋭さを、苦手に思う取引先も多かった。だが、実力があるのも確かだった。海舟の代理として交渉に出れば、頑として首を縦に振らなかった相手でさえ、最後には署名させてしまう。どんな手を使っているのかまでは、誰も知らない。海舟はそばの箱を指で示した。「夕方の会食に同行してくれ。夜は篠崎家へ行く。そちらには来なくていい」仕事絡みの会食で、海舟が連れていくのはいつも野乃花だった。けれど、いわゆるあの界隈の集まりになると、必ず外される。野乃花は、うっとりするような目で海舟を見つめた。海舟は魅力的で、紳士的で、強い。けれど、まるで心というものだけが抜け落ちているような人だった。野乃花の目元が赤くなる。それでも彼女は休憩室へ向かい、服を着替えた。美しいドレスだった。商談の席に出れば、男たちの視線が自然と彼女に集まる。野乃花が何より誇っているのは、その脚だった。誰もが一度は目を留め、褒めずにはいられない。そこに、海舟の秘書という肩書きが加わる。その肩書きは、彼女をいっそう魅力的に見せた。近づきたい。支配したい。そう思わせる光をまとわせた。野乃花は、海舟の思惑に気づいていないわけではない。それでも、海舟のそばに置かれる人間が自分である限り、彼女は秘書でいられる。それだけでよかった。そう思いながらも、入社したばかりの温子のことを考えると、胸の奥に小さな棘が残った。けれど、それ以上は聞けない。海舟が買わせたのは、ペアネックレスだった。温子の首元にあったのは女物。では、男物はどこにあるのか。野乃花はそっと海
悦加の顔は、憎しみで歪んでいた。温子が伊吹のそばにいる。その席を当然のように占めている。そう思うだけで、あの女への憎しみが、胸の奥でどす黒く膨らんでいった。温子は手元の書類を整理しながら、悦加にどう返すべきかを考えていた。そのとき、机の上にふっと影が落ちた。海舟だった。海舟は外では、いつも穏やかで、物腰の柔らかい紳士として知られている。その彼が、温子のデスクを指先で軽く叩いた。ついてきなさい、という合図だった。温子はすぐに立ち上がり、海舟の後について執務室へ入った。その横で、野乃花の顔に一瞬だけ浮かんだ強ばりには気づかなかった。「お兄様、何かありましたか」海舟はこめかみを軽く揉んだ。「昨夜、母がかなり怒っていた。しばらく灰原家には近づかないほうがいい。外で会ったとしても、できるだけ避けなさい」里奈は曲がりなりにも上流の夫人だ。灰原グループまで乗り込んできて、騒ぎ立てるような真似はしないだろう。温子は小さくうなずき、まつげを伏せた。温子自身も、里奈には会いたくなかった。「温子、キヨチクでの暮らしには慣れたか。使用人を二人ほど回そうか。体が強くないだろう」「大丈夫です。自分で簡単に作れますから」家に誰かがいるほうが、かえって落ち着かなかった。海舟は小さく息をつき、手を振った。「今夜、篠崎家でパーティーがある。伊吹も行くだろうが、おそらく君は連れていかない」篠崎家の人間は、温子を骨の髄まで憎んでいる。もし姿を見せれば、その場で追い出されてもおかしくなかった。今夜のパーティーは、梓穂が篠崎家の後継者となることを正式に披露する場だった。歌舞音曲の世界に関わる名士たちも多く来る。国の関係者も顔を出すだろう。何しろ、それは国の文化そのものに関わる場なのだから。梓穂は、あの五曲によって、名実ともに上流の中心へ押し上げられた。温子は、胸の奥がひどくざわついた。この界隈の人間は、皆、梓穂を大事に扱う。そんな中で、今さらあの五曲のことを口にしたところで、温子はただの笑い話にしか見えないだろう。「お兄様、ほかに何かありますか」海舟はそばに置いていた小さな箱を取った。見ただけで、ネックレスだと分かる。「少し前に用意していたものだ。仕事を始めた祝いに。
クラウディ・コーヴに、温子の荷物はもうほとんど残っていなかった。キャンバスバッグひとつで、十分だった。キヨチクへ戻るつもりだった。どうしても、伊吹と同じ屋根の下にいたくなかった。「温子!」伊吹が追いかけて外へ出たときには、温子はもう見知らぬ車に乗り込んでいた。戻ってくる前に、呼んでおいた車だった。温子は振り返りもしなかった。伊吹はその場に立ったまま、車がゆっくり遠ざかっていくのを見ていた。やがて手を上げ、眉間を押さえる。頭が痛かった。温子がキヨチクへ戻ると、割れていた掃き出し窓はもう直っていた。前よりも丈夫なガラスに替えられている。シャワーを浴び、ベッドに横になる。そのまま、ネット上の流れを少しだけ確認した。温子は新しい投稿をしていなかった。トレンドも、上位三位以内から二十位台まで落ちている。林家が金で押さえたのだろう。金があるだけで、人は少し強くなれる。今の温子の手元には一億二千万円がある。それだけで、胸のざわつきはずいぶん薄れた。寝返りを打ち、目を閉じる。そのまま眠ろうとしたとき、スマホが短く鳴った。また、あのときと同じ気味の悪い画像だった。流れてきた音楽も、聞き覚えのあるものだった。けれど今回は、体が強ばることはなかった。音が鳴った瞬間、温子はスマホの音量を最小にした。そして、そのままベッドの下へ放り投げる。ベッドサイドの灯りだけは、つけたままにした。誰がこんなものを送りつけてくるのか、まだ分からなかった。うとうとしたまま朝を迎えた。温子は身支度をし、タクシーで灰原グループへ向かった。部署では、最近の騒ぎの話で持ちきりだった。いちばん話題になっているのは、やはり人間型ナイチンゲールの復帰だった。「知ってる?人間型ナイチンゲール、鬱だったって噂あるよ。家庭環境もよくなかったらしい」「家庭環境がよくなかったなら、なんであの頃に配信で投げ銭を受けなかったんだろうね。あの人が配信してた頃って、まだ今ほど配信ブームじゃなかったけど、ほぼ一人勝ちだったじゃん。一日で数億円くらい投げられててもおかしくなかったよ」「噂なんていろいろあるよ。妊娠してたとか、旦那に浮気されたとか。もう何でもあり」「なんか、もう亡くなってるって話まで出
目の前の山を越えれば、見える景色は増えていく。見えるものが増えれば、人の心も変わる。伊吹はシートに背を預けたまま、スーツのポケットの中にある封筒を指先でつかんでいた。それでも、どうしても取り出せなかった。後ろからクラクションが続けざまに鳴った。その音でようやく、伊吹は車を前へ出した。クラウディ・コーヴに戻っても、車から降りる気にはなれなかった。そのまま、運転席に座り続けた。一時間ほど経ってから、ようやくあの封筒を取り出した。けれど、見なかった。腹立ちまぎれに封筒ごと二つに引き裂き、車の窓から外へ投げ捨てる。破れた紙が、夜風にあおられて散った。まるで、誰かの隠してきた心が、ばらばらにこぼれていくようだった。さらに三十分ほど経ってから、伊吹は車を降りた。しゃがみ込み、散らばった紙片を一枚ずつ拾い集める。背後から足音がした。振り返らなくても、温子だと分かった。温子は誰かと電話をしていた。伊吹が車の陰にしゃがんでいたため、彼女はまだ気づいていない。「はい。離婚を考えています。裁判になった場合の流れを、先に確認しておきたくて。もし相手がどうしても書類に署名してくれないなら、訴訟に進むしかないと思っています。ありがとうございます。お手数をおかけします」温子が着ているのは、相変わらず自分で買った服だった。何度も洗われているせいか、生地はくたっと柔らかく見えた。温子は伊吹に気づかないまま、車の反対側を通って、リビングへ続く扉を開けた。家の中からは、料理の匂いがした。けれど、食欲は少しも湧かなかった。玄関でうつむき、靴を脱いでいると、背後で扉が開いた。伊吹が入ってくる。かすかに酒の匂いがした。温子は反射的に、横へ身を引いた。伊吹は強く扉を閉めた。その余光が、温子のその動きを捉える。思わず、笑いが漏れた。「そんなに避けるなら、いっそ壁に張りついてろ。ヤモリのふりでもするか?」温子は胸の奥がむかついた。この人の口からは、どうしていつもこんな言葉しか出てこないのだろう。黙って靴を履き替える。少し迷ってから、できるだけ穏やかな声で言った。「話をしよう」「時間がない。お前と話すことなんてない。離婚もしない」「伊吹、そんなことして楽しい?」こ
伊吹は、急にすべてが煩わしくなった。眉間に皺を寄せる。「知らない。俺は帰る」そう言って、そばの上着を取った。残された聡史は、不機嫌そうな浩司へ視線を向けた。「梓穂のことが気になるなら、本人に電話すればいい。お前、梓穂とは悪い仲じゃないだろう。どうして伊吹から聞き出そうとする」「忠告したかっただけだ。温子みたいな女とは、さっさと離婚しろってな。梓穂は何年も待ってる。あんなにいい子を待たせておいて、片方では温子と夫婦面を続けるなら、ただの最低男だろ」聡史は眉をひそめた。それ以上は、何も言わなかった。伊吹が車に乗り込むと、里奈から電話が入った。「手紙が出てきたの。来て見なさい。どう見ても、温子の字なのよ」七年前。温子が灰原家の養女という形で迎えられたとき、彼女は二か月ほど灰原家で暮らした。けれど、ほどなくして伊吹の袖をそっと引き、声を潜めて言った。ここは落ち着かない。二人で借りていた部屋に戻りたい。伊吹は断らなかった。昔から、温子の頼みを拒むことだけは苦手だった。車を灰原家へ向けた。里奈はこめかみに指を当て、怒りを抑え込んでいるようだった。肩がかすかに震えている。伊吹を見るなり、テーブルの上へ一通の手紙を投げ出した。「よく見なさい。あなた、自分がどんな女を妻にしたのか分かっているの?」封筒は薄いピンク色だった。若い女の子が選びそうな、少し甘い色。表には何も書かれていない。伊吹が中の便箋を広げると、見慣れた筆跡が目に入った。【お兄様へ瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ】それだけだった。けれど、たったそれだけで十分だった。里奈は、堪えきれないようにテーブルを叩いた。「こんなもの、何年前に書いたと思っているの。あの女が前に使っていた部屋の隙間に、ずっと隠してあったのよ。今日、使用人が見つけなければ、私だって知らないままだった。これはどういう意味?海舟が今も結婚しないのは、まさかあの女が妙な気を持たせたからじゃないでしょうね」伊吹は便箋をたたみ、ポケットへ入れた。「お母様。こんな時間に俺を呼んだのは、そのためですか」里奈は怒りのまま立ち上がった。「とぼけないで。この句の意味くらい分かるでしょう。どう読んでも、恋
その夜、伊吹は家に戻らなかった。外で、何人かと酒を飲んでいた。聡史が顔を出したのは、少し遅れてからだった。機嫌は、見るからによくない。伊吹はグラスを指先で弄びながら、まだ帰る気になれずにいた。聡史は席に着くなり、伊吹の手元を見た。強い酒だった。何も言わずにグラスを取り上げ、中身を脇のごみ箱へ流し込む。「おい。それ一本四百万円だぞ。もったいないだろ」聡史は空になったグラスを置いた。「まだ体を潰す気か。二年前、溺れかけたときだって、運よく助かっただけだ。胃も悪いくせに、そんな飲み方をしていたら、温子を若後家にするぞ」伊吹は背もたれに体を預けた。どこか投げやりな仕草だった。「あいつが俺のために若後家でいると思うか?俺が死んだら、数日もしないうちに、次の男を探すだろうよ」聡史は、その言い方に引っかかるものを覚えた。伊吹と知り合って、もう七年以上になる。もっと前にも、一度、温子を見たことがあった。温子が体調を崩し、伊吹が検査に連れてきたときだ。あの頃の伊吹は、ようやく自分で金を稼ぎ始めたばかりだった。それでも温子には、惜しみなく使っていた。病気といっても、重いものではない。それなのに伊吹はひどく落ち着かず、担当医をつかまえては、同じようなことを何度も尋ねていた。最後には担当医が音を上げ、聡史のところへ回してきた。聡史はその頃、まだ二十代前半だった。家の病院で、研修をしていた。少し開いた病室のドアの向こうに、伊吹の姿が見えた。ベッドのそばに座り、温子のために果物を剥いていた。温子は冷たい水を飲んだことがきっかけで、急性胃腸炎を起こしていた。もともと体が弱かったせいもあって、発作のように倒れたのだという。入院していた数日間、食事はいつも伊吹が持ってきた。自分で作ったものらしかった。温子はそれを、嬉しそうに食べていた。けれど、伊吹の目の下に濃い隈を見つけると、すぐに泣きそうな顔になった。「伊吹、最近すごく忙しいんでしょ?私、病院の食堂で食べられるから、無理して持ってこなくていいよ」「お前に食わせないで、誰のために稼ぐんだよ。忙しいのは忙しいけど、これくらいの時間はある」そんな時間など、あるはずがなかった。当時の伊吹は、いくつもの取引先に足元を見られてい
百合子は安堵のため息をつき、こめかみを揉んだ。「疲れたよ。この一ヶ月はここに泊まるから、余計な騒ぎを起こすんじゃないよ」伊吹は「はい」と頷き、その夜のうちに准平に指示して、従順な使用人を数人手配させた。主寝室に戻ると、聡史がちょうど中から出てくるところだった。聡史は医者で、他の誰よりも穏やかな性格だ。「じゃあ、俺はこれで。彼女の体はゆっくりと養生させる必要があるんだ。そうだ、近いうちに病院で全身検査を受けさせたほうがいい」「ああ」聡史はまだ何か言いたそうだったが、伊吹が今、機嫌が悪いと感じて、そのまま立ち去った。伊吹は主寝室のドアの前でしばらく立ち尽くし、指先をドアノブ
百合子はホッと胸をなでおろし、再び温子に優しく語りかけた。「温子ちゃん、いつ帰ってくるの?昨日雨が降ったから、また風邪を引いてないか心配で、栄養のあるスープを持ってきてやったんだよ」伊吹は契約書をめくりながら、冷笑した。「うちには、スープを作る使用人がいないとでも思っているんですか?」どうやら百合子は、世間の噂を聞きつけ、二人の様子を見にわざわざやって来たらしい。温子は目を伏せ、従順に答えた。「今日、仕事を探しに出ていたんです。すぐに戻ります」百合子は安堵の笑みを浮かべて言った。「いいよ。一人で家に閉じこもっていると、気が滅入って病気になってしまうんじゃないかと心配だったんだよ
鈴木社長の顔色が一瞬で青ざめた。どこでこのお方の機嫌を損ねたのか分からず、恐怖で身動きが取れなかった。伊吹は大股で去っていき、もう温子を一瞥することさえなかった。鈴木社長は呆然と立ち尽くし、皆の姿が見えなくなってようやく、背中に冷たい汗が流れていることに気づいた。彼はひどく恥ずかしく思い、それ以上健吾に何も言わず、すぐに言い訳をして立ち去った。それはまるで一目散に逃げ出すかのようだった。他の者たちも次々とそれに続いて去っていった。温子は健吾のために車のドアを開けた。健吾は車に乗り込むと、契約書を手に取って眺め、「今夜はなかなかやるじゃないか。てっきりその場で顔をしかめるかと
温子は立ち上がり、鈴木社長の元へ向かうと、身をかがめて酒を注いだ。鈴木社長の視線が温子の顔をなぞり、手を伸ばして腰に触れようとしたが、彼女はグラスを盾に巧みにそれをかわし、「鈴木社長、乾杯です」と告げた。鈴木社長は気まずそうに顔をしかめ、それ以上続けることもできず、酒を飲み干した。温子は健吾の傍に戻ると、再びあの従順な態度に戻った。中年男たちはようやく本題に入り、今夜のメインディッシュである仕事の話を始めた。話が終わると、誰かが言った。「さっき一階のロビーで灰原社長を見かけたんだが、あのオーラは半端ないな。灰原家はあの次男を後継者にするつもりなのか?長男はそれで納得するのか







