LOGIN――あのときは、本当にありがとう。
「あのとき……?」
心当たりがない小春は首を傾げる。
そんな小春に篠原渚は優しく微笑む。
「首都高速での多重事故。あの事故のとき、小春さんが病院に運んでくれた女性は私なの」
小春は驚く。
「あのときの……」
そして、ハッと気づいて樹を見る。
「ああ。あれは俺だ」
小春は大きく目を見開いた。
「あなたのおかげで、私は今こうして生きていられるの」
「そんな……私なんて……」
首を横に振る小春に渚は優しく笑う。
「謙遜なんてしないで」
「そうだとも」
葉は渚を宥めるようにその肩を抱き寄せ、そして小春に笑いかける。
「私たち家族は、あなたのことを忘れたことがない」
小春は言葉を失った。
あのとき
――あのときは、本当にありがとう。「あのとき……?」心当たりがない小春は首を傾げる。そんな小春に篠原渚は優しく微笑む。「首都高速での多重事故。あの事故のとき、小春さんが病院に運んでくれた女性は私なの」小春は驚く。「あのときの……」そして、ハッと気づいて樹を見る。「ああ。あれは俺だ」小春は大きく目を見開いた。「あなたのおかげで、私は今こうして生きていられるの」「そんな……私なんて……」首を横に振る小春に渚は優しく笑う。「謙遜なんてしないで」「そうだとも」葉は渚を宥めるようにその肩を抱き寄せ、そして小春に笑いかける。「私たち家族は、あなたのことを忘れたことがない」小春は言葉を失った。あのときは、目の前の命を助けることしか考えていなかった。まさか、あのときの女性が、その家族がずっと自分を覚えていてくれたなんて。しかもそれが。(樹さんたちだったなんて……)「それに」渚が優しく小春の頭を撫でる。「樹の初恋の子だもの」小春が固まる。そんな小春に渚は気づかない。「樹があなたを保護して同棲にまで持ち込んだと聞いたとき、私はすごく嬉しかったの」初恋。同棲。言葉の意味は分かるが、理解ができない。「あら?」ここでようやく、渚は小春が固まってしまったことに気づいた。「まだ言ってなかったの?」「母さん……」珍しく樹が困ったような声を出す。「あらあら、残念」「いい加減に黙って……」「ふむ」
「明日、旦那様と奥様がお帰りになったら、お夕飯の献立は何がいいでしょう」それは、篠原家のリビングで小春が橘と一緒に焼き菓子を皿へ並べていたときのこと。明日は晴れるから洗濯物を干そうか、と言うような橘だったが。「えっ?」聞いた小春の手が止まる。「旦那様と奥様って、樹さんのご両親、ということですよね?」「そうですよ。海外視察を終えて、久しぶりにお屋敷へ戻られますのでやはり和食がいいですよね」「そ、そんな……」小春は急に落ち着かなくなった。そんな小春の様子に橘は首を傾げる。「言っていませんでしたか?」「聞いていません!」小春にしては珍しく、大きな声で橘の言葉を遮った。「え、ご存知なかったの?」「樹様が橘さんに『伝えておけって』言っていたよね」「一週間くらい前?」「うん、そのくらい」周りの使用人の言葉を聞いて、小春は橘を見る。橘は何かを思い出すように中空を見たあと。「えへっ」小春を見て笑った。伝え忘れていたことを認めたようだが。「どうしましょう!」小春にとってはもうそれどころではない。何しろ明日。今はもう夕方だ。「私、ご挨拶したほうがいいですよね」「もちろんです。お二人とも、小春様にお会いするのを楽しみにしていらっしゃいますよ」「それ、首を洗って待っていろってことですよね」何しろ、自分たちが留守の間にできた居候。(よく考えたら私って……)居心地が良すぎてすっかり忘れていたが、樹の両親の視点で見れば。「私って、息子さんを誑かして居座っている悪女ではありませんか!」「あらあら、まあまあ」自分で『悪女』と言ってしまっている小春に橘は笑う。「大丈夫ですよ、樹様がきちんとお
樹は目を閉じる。いまでもあの事故のことは鮮明に覚えている。――あなたも来て!そう言って伸ばされた小さな手。まだ幼かった小春が。恐らくあの頃からあの家族に疎外されていたであろう小春が。父親が千夏のために呼んだ救急車を奪い取った。樹の母親を助けるために。早く自分の治療をしろと、悪役のように振る舞って。一人では嫌だからと、樹を指名して付き添わせて。保護者として母親についてくるように言って。「瀕死の母に保護者など務まるわけがないのにな」樹は静かに呟く。「小春がいなければ、間に合わなかったかもしれない」柳沢は黙って耳を傾ける。「礼をしなければいけない。それに気づいたのはかなり時間が経ってからで、俺は病院中を探した」樹は苦笑した。「見つけたと思ったら……小春は父親に叱られていた」叱られていたという言葉が相応しいか分からない。冷たい怒声。乾いた音。幼い小春の頬を張られ、廊下に投げ出された。その左腕は三角巾で吊るされていたのに。母親に縋るような千夏は頬に小さなガーゼを貼られていただけなのに。あの光景は、今でも鮮明に覚えている。扉の陰で立ち尽くすしかなかった自分も姿も。「家族は小春を放ってその場を去った。一人になってから、小さな声で言ったんだ」――私は間違ってない。――お母さんなら褒めてくれる。「俺が恋に落ちたのはあのときだな」柳沢は静かに目を見開く。「あんなに強くて優しい子を初めて見た」だから助けたかった。そのために力をつけた。ただ、それだけだった。「俺は、小春を助けられる人間になりたかったんだ」あの事故は樹の生活も一変した。今では仲睦まじい両親だが、樹が物心をついた
悠真が病院の未来について考え始めていた頃。篠原家の書斎では、樹が静かに庭を眺めていた。庭師たちと楽しそうに笑う小春の姿に樹の口元が緩む。「社長」柳沢が書類を持って入室してきた。樹はコーヒーカップを持って窓辺に立っていた。休憩していたのか。小春を見ていたのか。柳沢は口元が緩むのを必死に抑えた。「皆川様から連絡がありました」「何と?」「朝比奈総合病院は小春様が継ぐべき、という形でまとまったそうです」樹の眉間に皺が寄る。自分たちの希望に小春を巻き込むような形が気にくわなかった。そんな樹を見ながら、感情が表情に現れるようになったと柳沢は思った。そんな柳沢の目の前で樹がスマートフォンを取り出したので。「小春様がそうしたいと願ったならば、という話です」皆川に抗議の電話を入れる前に樹を止める。「誰かのための病院ではなくすべきだと思い至ったそうです」皆川にとって朝比奈総合病院は親友の遺したもの。だから皆川の行動理念は『親友のため』である。『自分のため』に病院を利用する朝比奈崇道よりはいいとは思うが、利己的であることには変わりはない。「患者のためと考えれば医者が犠牲になる。しかし、医者を優先すれば患者には足りなくなる」樹は大きく息を吐いた。「なかなか難しいな」病院の運営について自然と考えはじめる樹。これまでは金銭的支援しかしてこなかった。樹も変わってきていた。変えたのは小春だ。「社長は……」柳沢は窓の外へ目を向ける。「どうして小春様を受け入れたのですか?」樹が小春に興味を示したことはなかった。それでも篠原グループは朝比奈総合病院を経済的に支援していて。その関係で朝比奈小春についての噂は柳沢の耳にも入ってきた。異母妹を虐め、朝比奈家で好き勝手をし
悠真は一人で、皆川隆盛が滞在している朝比奈家の別邸を訪れていた。「門倉悠真と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」深く頭を下げると、皆川は静かに頷いた。「座りなさい」応接室へ案内され、二人は向かい合う。「篠原社長から、門倉先生が小春さんに会いにいったことは聞いている」皆川は穏やかな口調で切り出した。「君は、何をしている?」「朝比奈院長が退陣したあとの準備をしています」悠真は誤魔化すことなく真意を口にした。「私は、小春さんに取り返しのつかないことをしました」「……」「今日は、それの謝罪に来たわけではありません」皆川は少しだけ眉を上げた。「謝って済むことではないと分かっています」小春はどうでもいいと言った。だからと言って、『そうですか』と受け入れられるわけではない。悠真は膝の上で拳を握る。「私は、自分の責任を知りたくて参りました」皆川はしばらく悠真を見つめていた。「責任とは?」「何も考えなかった責任です」応接室に静かな沈黙が流れる。「皆川さん」悠真は深く頭を下げた。「私は千夏さんを連れて日本から……朝比奈総合病院から離れます」皆川は悠真をじっと見た。「院長の座を捨てると?」「千夏さんを選んだ時点で、それは私のものではありません」「そうか」皆川は静かに頷いた。「朝比奈総合病院は小春さんが継ぐべきだと思います」「なぜ?」なぜと言われても、悠真の中で言葉となるのは一つだけ。「なんとなくです」論理的ではない。根拠もなく、感情論ですらないもの。勘に近いことを口にしたが、悠真に恥じる気持ちは一切なかった。「小春さんならば、誰かのための病院ではなくしてくれる気がしました」これは一種の賭けだ。皆川隆盛がここまで朝比奈総合病院に尽くしたのは、親友が残したものだったから。つまり、朝比奈総合病院は親友のための病院。その本当の跡取りだった朝比奈花乃に悠真は面識がないため、そこは省略する。そして現院長。朝比奈隆盛にとっては、自分のための病院。「小春さんは医者ではありません」皆川隆盛は黙る。これまでならば、小春が医者ではないならば、医者の誰かを婿にすればいいと言っただろう。しかし今は言えない。「……そうだな」皆川の苦笑に、悠真の顔にも苦笑が浮かぶ。このとき二人とも同じ顔が浮かんで
篠原家の庭では、小春が見習い庭師たちと新しい花壇を作っていた。「小春様、この苗はもう少し間隔を広くしたほうがいいですよ」「どうしてですか?」「この花は根を広く張るんで、大きく育ったときに窮屈になってしまいます」そう言われた小春は感心したように頷くと、苗を掘り起こした。小春の横顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。その様子を少し離れた場所から見守っていた樹へ、柳沢が静かに近づく。「社長」「どうした」「門倉先生から連絡が来ました」柳沢が悠真から聞いたことを簡潔に報告する。「朝比奈花乃さんが医師だった頃の同僚か……盲点だったな。柳沢、調べてリストにしてくれ」「はい。併せて皆川グループが支援してきた学生についても調べます」樹は静かに首を縦に振った。「歪められた形がようやく元に戻ろうとしているな」そう言う樹の視線は花壇で笑う小春へ向けられていた。「小春が前を向き始めた」柳沢は小さく頷く。そのとき、小春がこちらへ振り返った。樹に気づく。「樹さん!」明るい声だった。「少し出る」小春の声に誘われて出ていく樹の背に柳沢は笑う。「春が楽しみです」しばらくすると、樹が小春のほうに向かうのが見えた。「随分と植えられたな」「花が咲くのが楽しみです」嬉しそうに話す小春を見ながら、樹は静かに微笑んだ。「俺も楽しみだ」「はい」花はすぐには咲かない。土を耕し、水を与え、長い時間を掛けて少しずつ育っていく。人の心も、きっと同じなのだ。傷つき続けた小春の心にも、ようやく新しい花が咲き始めている。その花はもう誰にも踏まれることはないだろう。小春の傍で優しく微笑み樹から目を逸らし、柳沢は自分の持つ手帳を見た。







