ANMELDEN篠原家の庭では、小春が見習い庭師たちと新しい花壇を作っていた。
「小春様、この苗はもう少し間隔を広くしたほうがいいですよ」
「どうしてですか?」
「この花は根を広く張るんで、大きく育ったときに窮屈になってしまいます」
そう言われた小春は感心したように頷くと、苗を掘り起こした。
小春の横顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
その様子を少し離れた場所から見守っていた樹へ、柳沢が静かに近づく。
「社長」
「どうした」
「門倉先生から連絡が来ました」
柳沢が悠真から聞いたことを簡潔に報告する。
「朝比奈花乃さんが医師だった頃の同僚か……盲点だったな。柳沢、調べてリストにしてくれ」
「はい。併せて皆川グループが支援してきた学生についても調べます」
樹は静かに首を縦に振った。
「歪められた形がようやく元に戻ろうとしているな」
そう言う樹の視線は花壇で笑う小春へ
悠真は一人で、皆川隆盛が滞在している朝比奈家の別邸を訪れていた。「藤堂悠真と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」深く頭を下げると、皆川は静かに頷いた。「座りなさい」応接室へ案内され、二人は向かい合う。「篠原社長から、門倉先生が小春さんに会いにいったことは聞いている」皆川は穏やかな口調で切り出した。「君は、何をしている?」「朝比奈院長が退陣したあとの準備をしています」悠真は誤魔化すことなく真意を口にした。「私は、小春さんに取り返しのつかないことをしました」「……」「今日は、それの謝罪に来たわけではありません」皆川は少しだけ眉を上げた。「謝って済むことではないと分かっています」小春はどうでもいいと言った。だからと言って、『そうですか』と受け入れられるわけではない。悠真は膝の上で拳を握る。「私は、自分の責任を知りたくて参りました」皆川はしばらく悠真を見つめていた。「責任とは?」「何も考えなかった責任です」応接室に静かな沈黙が流れる。「皆川さん」悠真は深く頭を下げた。「私は千夏さんを連れて日本から……朝比奈総合病院から離れます」皆川は悠真をじっと見た。「院長の座を捨てると?」「千夏さんを選んだ時点で、それは私のものではありません」「そうか」皆川は静かに頷いた。「朝比奈総合病院は小春さんが継ぐべきだと思います」「なぜ?」なぜと言われても、悠真の中で言葉となるのは一つだけ。「なんとなくです」論理的ではない。根拠もなく、感情論ですらないもの。勘に近いことを口にしたが、悠真に恥じる気持ちは一切なかった。「小春さんならば、誰かのための病院ではなくしてくれる気がしました」これは一種の賭けだ。皆川隆盛がここまで朝比奈総合病院に尽くしたのは、親友が残したものだったから。つまり、朝比奈総合病院は親友のための病院。その本当の跡取りだった朝比奈花乃に悠真は面識がないため、そこは省略する。そして現院長。朝比奈隆盛にとっては、自分のための病院。「小春さんは医者ではありません」皆川隆盛は黙る。これまでならば、小春が医者ではないならば、医者の誰かを婿にすればいいと言っただろう。しかし今は言えない。
篠原家の庭では、小春が見習い庭師たちと新しい花壇を作っていた。「小春様、この苗はもう少し間隔を広くしたほうがいいですよ」「どうしてですか?」「この花は根を広く張るんで、大きく育ったときに窮屈になってしまいます」そう言われた小春は感心したように頷くと、苗を掘り起こした。小春の横顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。その様子を少し離れた場所から見守っていた樹へ、柳沢が静かに近づく。「社長」「どうした」「門倉先生から連絡が来ました」柳沢が悠真から聞いたことを簡潔に報告する。「朝比奈花乃さんが医師だった頃の同僚か……盲点だったな。柳沢、調べてリストにしてくれ」「はい。併せて皆川グループが支援してきた学生についても調べます」樹は静かに首を縦に振った。「歪められた形がようやく元に戻ろうとしているな」そう言う樹の視線は花壇で笑う小春へ向けられていた。「小春が前を向き始めた」柳沢は小さく頷く。そのとき、小春がこちらへ振り返った。樹に気づく。「樹さん!」明るい声だった。「少し出る」小春の声に誘われて出ていく樹の背に柳沢は笑う。「春が楽しみです」しばらくすると、樹が小春のほうに向かうのが見えた。「随分と植えられたな」「花が咲くのが楽しみです」嬉しそうに話す小春を見ながら、樹は静かに微笑んだ。「俺も楽しみだ」「はい」花はすぐには咲かない。土を耕し、水を与え、長い時間を掛けて少しずつ育っていく。人の心も、きっと同じなのだ。傷つき続けた小春の心にも、ようやく新しい花が咲き始めている。その花はもう誰にも踏まれることはないだろう。小春の傍で優しく微笑み樹から目を逸らし、柳沢は自分の持つ手帳を見た。
――朝比奈院長に何かを“お願い”されたのではありませんか?悠真の言葉に、皆川隆盛の主治医であるベテラン医師の体を震わせた。顔色も悪い。まさか。背中に汗が流れるのを悠真は感じた。冷水を浴びたようにゾッとした。悠真を見ていたベテラン医師が笑う。「ドラマの見すぎですよ」「……え?」ベテラン医師の目に、さっきまでなかった余裕を感じた。尋問したかったのだろうか。攻守が逆転してしまった今になって悠真はチャンスを逃した気がした。でも。「私は皆川さんの診断を間違えていませんし、投薬内容も、手術も、一切のミスはありません」ベテラン医師は肩を竦める。「カメラに薬の在庫チェック。医療ミスに備えて万全の準備をする現在の医療現場でそんなことができるわけないではありませんか」「あ……」確かにそうだ。手術は録画されている。薬の在庫管理は徹底している。医師である悠真はそれをよく知っていた。ベテラン医師は笑う。「それは朝比奈院長も同じです」朝比奈崇道も医師である。だからそんなことはしない。「でも、朝比奈院長は治療に積極的ではありませんでした」「え……?」ベテラン医師の笑いが自嘲的な、乾いたものになる。「皆川隆盛さんは、詳しい症状や病名は省きますが、意識不明の重体で運び込まれました」当時を思い出しているのか。ベテラン医師は少し遠くを見るような目をした。「正しい手術をしても目が覚めない。お年なので、意識が戻らないまま亡くなる可能性もあった」「でも」「はい、治験薬を使ったんです」「治験……」積極的な治療をしなかったことと矛盾する治療方針だ。「小春さんです」「え?」小春は医者ではない。治療について口を出す資格がない。「小春さんは……朝比奈先生の仕事をいつも代行していました」「院長の?」ベテラン医師は頷く。「学会や親睦会で自分は忙しいから、と。いつか門倉先生が院長になったときに支える立場にあるのだから学べと……」そんなこと知らない。悠真のため。自分の名前は出ているが、そんなことは知らなかった。「門倉先生がまだ知らなくて当然です。知っているのは私たち上の者たち……花乃先生と働いてきた者たちですから」「花乃先生……」小春の母親の名前。「そして私たちは皆川さんのお世話になった者たちです。特に、治験を行った医師二名は皆
朝比奈家が積み上げてきた嘘は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。翌朝、門倉悠真はいつもより早く朝比奈総合病院へ出勤した。「おはようございます、門倉先生」「おはようございます」すれ違う職員へ挨拶を返しながら、院内を歩く。これまでは気にも留めなかった職員たちの表情が、今日は妙に気になった。「あ……門倉先生」「おはようございます」看護師たちは一瞬だけ顔を見合わせ、小さく頭を下げる。その空気に、悠真は違和感を覚えた。「何かあったのですか?」声を掛けると、一人の若い看護師が困ったように笑う。「いえ……特には……」そう言って足早に去っていく。その様子を見送りながら、悠真は立ち止まった。(隠している……)自分には言いにくい。口にしてはいけない。悠真はそんな空気を感じた。(小春さんに関わることか……)自分がいなかった間に病院の空気が変わっている。全体的に暗く、不安定。そして職員の多くが悠真を不安げに見る。なぜそんな目を向けるのか――悠真が朝比奈院長側の人間だからだ。.帰国した目的である手術の準備を終えたあと、悠真は医局に向かった。カルテを整理していたベテラン医師へ声を掛ける。「先生、少しお時間をいただけますか?」ベテラン医師は首を傾げる。「手術のことで、何かありましたか?」今日の手術はそこまで難しいものではない。ただ悠真の担当患者で、患者本人が悠真が手術を担当することを希望していた。(千夏とのこともあると思われているだろうな)「いえ、朝比奈……小春さんのことでお聞きしたいことがあるのです」
千夏が顔を上げた。「お姉ちゃん……」「私があの家に戻らないことと、千夏たちを追い出すことは別の話でしょう?」千夏は何も言えなかった。「でも」小春は穏やかなまま続ける。「私のものを、私のものではないことにされるのは、もう嫌なの」その言葉に樹の目元がわずかに緩んだ。「権利については必要になったときに整理すればいい」樹が言う。「今すぐ誰が出ていくという話ではない」「……そう、ですね……」千夏は俯いた。少しずつ、自分が理解しなければならないことが見えてきた。自分が知っていた朝比奈家とは何だったのか。父親から聞かされていたことは、どこまで本当だったのか。そして――いま一番大事なこと。「お父様がお姉ちゃんを連れてこいって言ったのは……」千夏が顔を上げる。「病院を継がせるためなの? 私じゃ駄目だから?」「……それは、違うと思う」悠真は目を閉じた。これまでのことを思い返しても、朝比奈崇道が小春に病院を継がせるつもりはないと分かる。ただ、そう振る舞っていた。誰かに向けたパフォーマンス。その誰か――思い当たるのは一人しかない。「皆川隆盛氏が、小春さんに会いたいと言った……としか考えられない」千夏の顔から血の気が引く。すっかり忘れていた。「お父様は……」千夏の認識では、皆川隆盛は先代院長の親友で、息子のように思っている崇道のやることに口出しているのだと思っていた。力関係では、崇道のほうが上。でも、違った。後ろ盾。崇道が院長でいるために必要な存在。
――朝比奈総合病院は小春の母親が継いだものだと知らないのか?樹の言葉に千夏は首を傾げた。「どういうこと?」本当に分かっていないらしい。樹は面倒そうに肩を竦めると、悠真を見る。説明する気はない。そう察した悠真は小さく息を吐いた。「先代の朝比奈病院長は、小春さんの母親、花乃さんの父親なんだ」「……え?」「朝比奈家の直系は花乃さんだ。院長は花乃さんと結婚して、朝比奈家に入った」千夏の表情が固まる。「お父様が病院を継いだんじゃ……」「花乃さんと結婚したから、後継体制の中に入ったんだ」悠真自身、門倉家との縁談を通して聞かされていた話だった。いま理事会に強い影響力を持つ皆川隆盛も先代院長の親友であり、先代から頼まれて娘婿である崇道を支えてきた。その説明をしながら、悠真は別のことに驚いていた。「……知らなかったのか?」「知らない……」千夏は呆然と呟く。「多分、お母様も知らない……」その声には、先ほどまでの強気さがなかった。小春は黙って妹を見つめる。嘘をついているようには見えない。本当に知らなかったのだろう。(知らされていなかったんだ……)千夏は幼い頃から、自分も崇道の娘なのだから小春と同じだと言っていた。むしろ自分のほうが父親に愛されているのだから、何をしても許されるのだとでも言うように振る舞っていた。もちろん、それで千夏にされたことが消えるわけではない。大切なものを奪われた。千夏のついた嘘に傷ついた。それでも――。(千夏も、お父様に教えられたことを信じていたのね)そう考えてしまう自分に、小春は小さく息を吐