LOGIN沙耶香の小さなリュックは、肩に斜めがけされたままだった。初めて会ったときと変わらない。ただ、あのうさぎのチャームだけがなくなっている。胸の奥がツンと痛み、喉元までせり上がっていた不安がすっと落ちていく。気づけば目の奥がじんわり熱くなっていた。「沙耶を送り届けた。ちゃんと面倒見てやれ」彼の声は、夜風のようにひんやりしているのに、どこか落ち着いていて頼もしかった。私は高司を見つめ、喉が詰まりながら「……ありがとうございます」と、かすれた声でつぶやいた。彼は手を上げ、指先でそっと私の目の下の涙をぬぐった。その仕草には、どこか抑えた優しさがにじんでいる。思わずその手を避けて、体をずらし、彼と沙耶香をリビングへと通した。私はしゃがみ込み、沙耶香をぎゅっと抱きしめると、頭から足先まで確かめるように見回して尋ねた。「沙耶、誰かにいじめられたりしてない?」沙耶香は何もわかっていない様子で、にっこり笑って小さな八重歯をのぞかせる。「昭乃おばさん、誰にもいじめられてないよ!高司おじさんがね、会いたがってるって言って、こんな夜なのにパパに送ってもらったの!」そう言ってから、不思議そうに私を見上げる。「昭乃おばさん、どうして泣いてるの?」「ううん、なんでもないの……ただ、沙耶に会いたくて」私は鼻をすすり、涙をぐっとこらえて、沙耶香の肩に手を添えて立ち上がった。高司に目を向けると、彼もこちらを見ていた。しかし、視線がぶつかった瞬間、その深い瞳はすぐに逸らされた。そのとき、沙耶香があくびをひとつした。もうこんな時間なんだ、とようやく気づく。「眠い?」とやわらかく聞く。沙耶香は目をこすりながらうなずいて、「心菜は?もう寝てるの?」と尋ねた。私はうなずいた。沙耶香はもう一度あくびをして言う。「じゃあ、私も寝るね。そーっと行くから、起こさないよ」こんなにいい子を、あのとき見捨てなくて本当によかった。もしあのまま手放していたら、きっと一生後悔していたと思う。そうして沙耶香は、足音を忍ばせながら心菜と一緒の寝室へ入っていった。リビングには、また私と高司、二人きりが残る。あの夜のようにここに留まることはなく、彼はあっさりと「もう行く」と言った。立ち去ろうとしたそのとき、私は思わず声をかけてしまう。「桐生家には…
高司は椅子の背にもたれ、冷たい声で言った。「よくそんなこと聞けるな。だったら自分で沙耶香を桐生家から連れ戻してみろよ。こんなに長い間、君は里奈と中途半端なまま引きずって、今になっても何の結論も出てない。あの子が君についてるなんて、ただの苦労だ。どうしても無理なら、その養子縁組の契約、変更できないか見直せ。昭乃のところにいたほうが、まだましだ」晴臣は少し間を置いてから言った。「あの日、里奈が沙耶香を連れて行ったときから、俺はずっと桐生家を見張らせてる。あいつらがあの変態ジジイに沙耶を差し出そうなんてしたら、絶対に俺が止めるつもりだった。でもまさか、君がこんなに早く動いて、先に首を突っ込んでくるとはな」高司はその言葉に苛立ち、こめかみがぴくぴくと動いた。「今さらそんな後出しの言い訳して、何になる? もっと早く動けただろ!」電話の向こうで、晴臣はふっと笑った。どこかからかうような口調だった。「なあ、昭乃さんに連絡されたんだろ? 俺のこの動き、ある意味君にチャンスを作ってやったってことじゃないか? 彼女の前でいい顔できるようにさ。沙耶を助けるためにここまでやったって知ったら、感動して泣き崩れて、そのままなんでも君の言うことに従うんじゃないのか?」高司は眉をきつく寄せ、低く言った。「そういえば聞き忘れてた。君、あいつに何を吹き込んだ?」晴臣は一瞬言葉に詰まり、とぼけたように返す。「いやあ、いろいろ話したけど? どのことを言ってるんだ?」「これからは、俺のことに首を突っ込むな」高司の声にはわずかな怒気が混じっていた。「もう一度でもあいつの前で余計なことを言ってみろ。本気で縁を切るぞ」そう言い終えると、晴臣の返事を待たずに電話を切り、スマホをテーブルに放り投げた。目の奥にはまだ消えない苛立ちが残っている。……夕方、私は心菜を迎えて家に帰ったけど、二人とも食欲がなかった。適当にうどんを作って、心菜は食べ終わると部屋にこもってレゴを組み始めた。私はというと、ずっと高司からの連絡を待っていた。気がつけば、もう日付はとっくに回っていて、深夜十二時を過ぎてもスマホは静まり返ったまま。どうしても落ち着かなくて、頭の中でいろんな可能性が次々に浮かんでくる。高司は気が変わったんじゃないか? 沙耶香はもうあの変態に渡されてしまったんじゃないか
最後まで言い切れなかったけれど、その声には必死な願いがにじんでいた。高司は顔も上げず、手元の書類に目を落としたまま、淡々と「うん」とだけ返した。私はそれ以上何も言わず、そっとドアを閉めて、彼のオフィスを後にした。事務所を出た瞬間、外の冷たい風が正面から吹きつけてきて、春先のひんやりした空気を運んでくる。それでも、頬に残る熱はまったく冷めなかった。さっきのあの恥ずかしくて気まずい光景が、頭から離れない。……オフィスの中。高司は秘書に氷水を持ってこさせた。そのままグラスを傾け、一気に飲み干す。冷たい水が喉を滑り落ちていくのに、体の奥で渦巻くざわつきは、まるで収まらなかった。デスクに座ったまま、無意識にグラスの縁を指でなぞる。しばらく考え込んだあと、ようやく内線を取り、亮介を呼び入れた。「桐生家に伝えてくれ。あの提案、受ける」高司の声は淡々としていて、まるでどうでもいい話でもするかのようだ。けれど亮介は一瞬で固まり、信じられないという顔をした。「高司さん……冗談、ですよね? 桐生家のあの案件、どう見ても先がないって誰でもわかりますよ。最初はきっぱり断ってたじゃないですか。それに最近、あちこちに声をかけてるみたいですけど、業界じゃ誰も乗り気じゃないです。江城家でさえ手を出してませんよ」亮介は慎重に言葉を選びながら、遠回しに止めようとする。長年そばで見てきたからこそ、高司がどれだけ抜け目なく、損をする取引をしない人間かをよく知っている。急に考えを変えたのは、何か赤字を覆す手があるからだと思っていた。けれど様子を見る限り、そんな当てがあるようにも見えない。高司は何も説明せず、ただ淡々と繰り返した。「いいから、行け」それでも亮介は腑に落ちないまま、ふと思い出したように付け加える。「そういえば桐生家、もう別の協力先は見つけてるみたいですよ。ただ、まだ契約は結んでないとか。このタイミングで割って入るのは……ちょっとまずくないですか?」つい口を挟んでしまう。高司は一度決めたことは必ずやり通す人で、こんなふうに横から割って入るような真似はほとんどしない。外に知れたら、評判にも関わる。しかも、損をするのが目に見えている話のためにそんなことをするなんて、どう考えても、いつもの彼らしくない。高司だってわ
高司ははっきりと「出て行け」と言ったのに、私の足は鉛のように重く、どうしても動かなかった。だって分かっていたから。この扉を出た瞬間、沙耶香は桐生家によってロリコンの変態男に差し出されてしまう。そうなれば、彼女の一生は終わりだ。目の奥と鼻がつんと痛み、必死に涙をこらえながら、震える指で一つ、また一つ……ニットのボタンを外していく。絶望と無力感に押し潰され、息が詰まりそうだった。高司の視線が熱を帯びる。深い黒い瞳の奥で、複雑な感情が渦巻き、喉仏が無意識に上下した。彼はただじっと私を見つめ、視線を一瞬も逸らさなかった。オフィスは暖房が効いているはずなのに、私は寒さで震えている。ニットが肩から滑り落ち、中に着ていた薄手のトップスもゆっくり脱いでいく。上半身に下着だけが残ったそのとき、高司が突然立ち上がり、こちらへ歩いてきた。怖くなって、思わず目をぎゅっと閉じる。体の震えが止まらない。けれど、予想していた触れられる感覚は来なかった。彼はわずかに身をかがめ、温かな吐息が耳元をかすめる。だが、その言葉は氷のように冷たかった。「どうして俺が、既婚者に手を出すと思った?昭乃、自分を買いかぶりすぎだし、俺を見くびりすぎだ」その一言は、強烈な平手打ちのように私の頬を打った。私ははっと目を開き、顔が一気に熱くなる。恥ずかしさが足元から一気にこみ上げてきて、今すぐどこかに逃げ込みたくなった。慌てて背を向け、背中に手を回してブラのホックを留めようとする。けれど手が震えて、どうしても留まらない。焦れば焦るほど、うまくいかない。そのとき、高司がゆっくりと私の後ろに回り、私の乱れた手をそっと取った。指先が背中の肌をかすめ、その瞬間、体がびくっと震える。私はその場に固まって、息をするのも忘れてしまった。彼の動きはとても優しく、あっという間にホックを留めてくれた。終始、ひと言も発さないまま。留め終えると、彼はそのままデスクへ戻り、書類を手に取って何事もなかったかのようにサインを始めた。まるで今の一切が存在しなかったかのように、半裸同然の私など最初からそこにいないものとして扱われていた。私は慌てて床に落ちた服を拾い、必死で身につける。着終えても、彼を見ることができず、声もかけられないまま、うつむいてドアへ向かった。ドア
高司は眉をきつく寄せ、晴臣に電話をかけた。高司本人からの連絡だったため、里奈もごまかすことができず、会社で会議中だった晴臣に取り次いだ。向こうで何が話されたのかは分からないが、高司の眉間のしわはさらに深くなっていく。やがて、彼は電話を切った。私は食い下がるように聞いた。「どうでしたか? 沙耶は今どこにいるんですか?」高司はため息をつき、言った。「里奈さんがあの子を桐生家に置いてる。まだ送られてはいないらしい」胸がずしんと沈む。「じゃあ、晴臣は桐生家の人たちが沙耶を……差し出そうとしてること、知ってるの?」苦しくて、その先が言えなかった。高司は私の視線を避けながら言う。「江城家の事情はかなり複雑だ。晴臣にも、どうにもできない事情がある」「それ、どういう意味ですか?」信じられずに問い詰める。「じゃあ、晴臣さんは沙耶を見捨てるってことですか? 奥さんがあんな狂ったことをしているのに、止めないんですか?」高司の表情はほとんど動かない。冷めた声で言った。「晴臣が見て見ぬふりをするとは思わない。ただ、他人の家のことに俺が口出しするのは難しい。俺たちみたいな家は、一つ動けば全部に影響が出る」「でも、沙耶はどうなるんですか?」胸が引き裂かれるようで、言葉を出すのもやっとだった。「彼女、あんなに私たちを信じてたのに。あなたのことを『高司おじさん』って呼んで、私のことも『昭乃おばさん』って……自分の両親みたいだって言って……」そのとき、高司が私の言葉を遮った。声は冷たい。「まずは自分のことをどうにかしろ」私は、高司は他の人とは違うと思っていた。たとえ時生の裁判を手伝っていたとしても、どこかで彼には期待していた。でも結局、彼も、権力を持つ人間と何も変わらない。冷酷で、自分本位で、利己的――それが彼らの消えない本性だ。私はぎゅっと拳を握る。あの日、結城家で晴臣に言われた言葉を思い出したからだ。そして、このところの高司の距離の詰め方も重なり、私は覚悟を決めて、やっとの思いで口を開いた。言いづらさで声が震える。「その日、晴臣さんは……あなたは結婚する気はなくて、その……都合のいい相手が欲しいって」高司の眉がぴくりと動き、顔を上げて私を見る。その目には感情が読めない。「それで?」私は息を整えて言った。「も
もうこれ以上聞いていられなくて、淑江を押しのけて応接室を飛び出した。スマホを取り出し、慌てて晴臣の番号に電話をかける。緊張で指先が震えて止まらない。淑江の話がでたらめなのか、それとも本当なのか、私には分からない。だから本人に確かめるしかなかった。それと同時に、沙耶香をちゃんと守ってほしいと伝えるためにも。何度かコールが鳴って、ようやく繋がった。けれど、聞こえてきたのは里奈の甲高い声だった。「昭乃さん、あなたみたいな黒澤家に捨てられた女が、何度もうちの夫に電話してくるなんて、どういうつもりですか?」「奥さん、私が用があるのは旦那さんじゃなくて、沙耶のことなんです!」焦りで声が上ずる。彼女は鼻で笑い、見下した口調で言った。「四年間も育ててあげて、いいものを食べさせて、いい服も着せてあげたんです。お嬢様気分はもう十分でしょう? 今度は家のために少しくらい役に立ってもらって何が悪いんですか? それがあの子の幸せなんです! それに晴臣は今忙しいんです。あなたみたいなくだらない人間に構っている暇なんてありません。もう電話してこないでください!」そのまま電話は一方的に切られた。私は廊下に立ち尽くしたまま、スマホを握りしめる。足元から一気に冷たいものが這い上がってきた。つまり、淑江の話は脅しなんかじゃなくて、本当のことだ。必死に自分に言い聞かせる。沙耶香は私と血の繋がりなんてない。ただの他人。よその家のことに口を出すべきじゃない……でも、この間ずっと一緒にいた、あの柔らかくて愛らしい小さな子。あんなに優しくて、無垢で。まだ四歳なのに。あの子を、変態の男のもとに差し出すなんて。そんなの、想像すらできない……結局、理性よりも良心が勝った。上司に休みの連絡をする余裕もなく会社を飛び出し、タクシーをつかまえてそのまま君堂法律事務所へ向かった。今頼れる人は、高司しか思い浮かばなかった。……君堂法律事務所。記者証を取り出して言う。「高司さんに取材で来ました」受付が確認してから首を横に振った。「申し訳ありませんが、ご予約の確認が取れません」平静を装って言う。「高司さんの助手の亮介さんと直接約束しています。確認していただけますか?」受付がうなずいて電話を取ろうとした瞬間、私はそのままエレベーターに駆け込み、
胸の奥がきゅっと詰まり、言い返そうとしたその瞬間、時生は話題を変えた。「でも、親子鑑定をしたいって言うなら、別に無理ってわけでもない」身をかがめて私に迫り、額にかかる彼の吐息は生ぬるいのに、声は真冬のように冷え切っていた。「家に戻って、おとなしく黒澤家の妻をやれ。俺が満足したら、その時に願いを叶えてやる」「あり得ないよ」押し殺していた怒りが声に滲み、私は思わず大きく後ずさって距離を取った。彼は私の結婚生活を壊し、娘を奪った。私を愛してもいないくせに、どうしてこんな歪んだ結婚で、まだ私を苦しめ続けるの?時生は手を伸ばし、怒りで歪んだ私の頬を軽くなぞる。「よく考えてから答えろ」
時生は二秒ほど私を見つめた。底の見えない視線で、何かを探るような目だった。そしてようやく、淡々と口を開く。「違う」張り詰めていた神経が一気にほどけ、力が抜けてその場に崩れ落ちそうになる。「もう危険な状態は脱している」時生は冷たい声で言い、私を見た。「黒澤グループ社長の娘が食中毒。お前たち、スクープ狙いの記者にとっては、かなりおいしいネタだろ?」まさか、私の行動が彼の目には、話題のためなら何でもする記者と同じに映っていたなんて。しかし、もう説明する気力も残っていない。心菜が無事だと確認した瞬間、急に目の奥が熱くなる。私はうつむき、くぐもった声で言った。「……無
グレースは首を振りながら言った。「実は以前、詩恩さんの病室には監視カメラがあったんです。でも後に、彼女が監視されるのを嫌がって絶食で抵抗したので、時生さんが監視カメラを撤去したんです。だから、あの日部屋で何が起きたか、私たちは知らないんです」私は訊ねた。「彼女って精神的な病気があったんですよね?でもさっきの話だと、けっこう普通に考えてるみたいに見えますけど」グレースは言った。「詩恩さんの精神状態は良くなったり悪くなったりで、私たちはもう慣れっこなんです」あのイヤリングのことを思い出し、私は探るように訊ねた。「彼女の遺品は全部整理されたんですか?」グレースは頷いた。「はい、全部整
胸の奥に渦巻く苛立ちを押さえ込みながら、私は言った。「明音さんや晴人がどんな人かなんて、もうどうでもいい。どうせあなたが、二人とも国内から追い出したんでしょ。これからは遠く離れて、あなたに何かできるわけでもない」時生の視線が私の顔に落ち、かすかに鋭さを帯びる。「あいつらを追いやったことで、お前は随分と辛いんだな?」胸の内で一気に火がついた。冷たく彼を見返す。「辛いかどうか、あなたに関係ある?私を裏切ったとき、優子と公に関係を発表したとき、昨夜私を置き去りにしたとき――そのときは、私が辛いかどうか、聞いてくれた?」時生の表情が沈み、空気が凍りついたみたいに重くなる。私は深く息を吸