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第209話

Author: 木真知子
「大丈夫よ。少なくとも5時に来なかっただけマシね。閉まっていたら、明日まで待たなきゃいけないから」

桜子は冷淡な口調で言い、門へ向かって先に歩き出した。

隼人はその場に取り残され、喉が詰まるように感じた。

彼は三年前のことを思い出していた。あの日、二人は一緒に結婚証明書を取りに行く約束をしていた。しかし、急にY国のプロジェクトマネージャーから緊急の会議が入って、仕方なくグループで会議に出席することになった。

なんとか会議を終えたものの、重要な客が訪れ、応対が終わった時には、彼女に連絡をして別の日に役所へ行くよう伝えるのをすっかり忘れていた。

記憶はますます鮮明で、残酷だった。

あの日、彼が急いで役所に向かうと、ほとんどの人はすでに帰っていて、そこには小さな頭を垂らして待っている桜子だけがいた。

その儚くもか弱い姿が、今も彼の心に刺さっている。

彼女が一日中待っていたなんて、彼は全く想像できなかった。

世の中にこれほど頑なな女性がいるなんて、彼は思いもよらなかった。

その時、隼人は彼女に「ごめん」と言いたかった。だが、祖父に強制された契約結婚への嫌悪感、そしてちょうどその頃柔が彼の元を去ったばかりという複雑な感情が彼を引き裂き、結局その一言を口にすることはできなかった。

「隼人、やっと来てくれたんだね!」

今でも、彼が目を閉じれば、桜子がその時見せた太陽のような温かい笑顔が鮮やかに浮かんでくる。

その時、彼は理解していなかった。彼女が自分に対して完全に失望するのは、何がきっかけなのか。

今なら分かる。それは、彼女を見捨て、冷酷に突き放すことだった。それが彼女の心を完全に冷え切らせ、もう二度と戻らない決定打となったのだ。

隼人の胸にじわりと恥ずかしさが広がり始め、表情は硬直しながらも、彼は桜子の後を追って門へと入った。

「彼ら、結婚しに来たのかな?すごい美男美女のカップルじゃん!」

「でも、二人ともあまり幸せそうには見えないね」

「彼女、怒ってるんじゃない?彼が遅刻したの見えなかった?結婚手続きで遅刻したら、そりゃ怒るでしょ」

「この男、あの美人ほどお金持ちじゃないんだろ。タクシーで来たなんて、男としてどうなんだよ。最近はヒモでも偉そうにしてる奴が多いよな」

ヒ、モ、だと?!

隼人
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