LOGIN「……誰の手先だ、女」
低く、地を這うような声が真白の鼓膜を震わせた。
視界を埋め尽くすのは、植物状態と噂されていた男――黒羽蓮の顔。
外された酸素マスクはベッドの脇へ無造作に転がされ、彫刻のように整った美貌には、獲物を射抜く猛獣のような冷徹な光が宿っていた。
手首を握り込む力は強烈で、骨が軋むほどの痛みが走る。
真白はベッドの上に組み敷かれたまま、あまりの衝撃に息を呑んだ。
(起き上がっている……!? この人、意識がある……!?)
「答えろ。叔父の征四郎が送り込んできた暗殺者か? それとも、息の根を止めに来た競合のスパイか」
蓮のもう片方の手が、真白の細い喉元へと伸びてくる。
触れた指先は氷のように冷たく、しかしわずかな力加減一つで真白の命を断ち切れるほどの圧倒的な実力差を物語っていた。
寝室を支配する濃密な殺気。普通の令嬢なら、声も出せずに失禁するか気絶していただろう。
真白の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、恐怖で全身の毛穴が開くようだった。
(死ぬ……? こんなところで、何も成し遂げられないまま……?)
脳裏をよぎったのは、実母の形見を踏みにじった継母の嘲笑と、自分を裏切った元婚約者の冷たい目。
真白の奥底で、カッと熱い火が灯った。
(ふざけないで。誰が死ぬもんですか……!)
恐怖で震えそうになる膝に力を込め、真白は逃げ出すどころか、真正面から蓮の漆黒の瞳を睨み返した。
「……誰の手先でもありません!」
「なに?」
「私は、白河真白です! 父の借金三億円のカタに、妹の身代わりに売られてきただけの……ただの捨て駒です!」
真白の叫びのような言葉に、蓮の眉がわずかに動いた。
だが、その眼光は依然として刃のように鋭い。
「身代わりだと? 俺の寝室に入った人間が無事で済むと思っているのか。命乞いならもっとマシな嘘を吐け」
「嘘じゃありません! それに、命乞いなんてしていません!」
真白は喉元に当てられた蓮の手を、自由な方の手で力いっぱい押し返そうとした。びくともしないが、その指先は決して諦めていなかった。
「私は死ねないんです! あの強欲な家族に奪われた、亡くなったお母様の形見を取り戻すまでは……どんな泥水をすすってでも、絶対に生き抜くって決めたんです! あなたを殺す気も、黒羽家の財産を奪う気もありません!」
琥珀色の瞳から、一筋の悔し涙が頬を伝って零れ落ちた。
だが、その表情に怯えや卑屈さは微塵もない。
涙を流しながらも、瞳の奥に宿る「炎」は、蓮をまっすぐに見据え続けていた。
静寂が部屋を支配する。
カチ、カチと規則的に鳴る医療機器の偽装音が、やけに大きく響いた。
蓮は値踏みするように真白の顔をじっと見つめた。
やがて、喉元に置かれていた指先がゆっくりと離れる。
「……ほう」
蓮の薄い唇に、微かな嘲笑が浮かんだ。
「泣き虫のくせに、噛みつく気力だけはあるらしい」
拘束が解かれ、真白はベッドの上で息を整えながら身を起こした。
蓮は悠然と上体を起こし、乱れたナイトウェアの襟元を整える。事故の後遺症など微塵も感じさせない、洗練された無駄のない動きだった。
「あなたが……ずっと意識があったなんて、世間は誰も知りません。なぜ隠しているんですか?」
「俺を事故に見せかけて殺そうとした黒幕を、油断させて炙り出すためだ。――貴様が今ここで見たことを、一言でも外に漏らせばどうなるか、分かるな?」
蓮が冷酷な視線を向ける。その言葉の裏にある「死」の重みを、真白は肌で感じ取った。
「言いません。言えるはずがありません」
「いい返答だ。だが、ただ生かしておくわけにもいかない」
蓮は立ち上がり、真白を見下ろした。圧倒的な体躯と威圧感が、真白を包み込む。
「白河真白。貴様には、俺の『従順な花嫁』としてこの屋敷で芝居を続けてもらう。俺が完全に裏切り者を片付けるまでの、目くらましだ」
「……見返りは?」
真白が即座に問い返すと、蓮はわずかに目を細めた。
「度胸だけは一人前だな。――いいだろう。芝居を完璧に演じきり、俺の役に立つならば、貴様が奪われた母親の形見とやらも、白河家を叩き潰す力も、すべて俺の手でくれてやる」
「お断りします」
「……なに?」
真白はきっぱりと言い放ち、自分の足でベッドから床へと降り立った。
「形見は、私の力で取り戻します。あの人たちへの復讐も、他人の力でやってもらったんじゃ意味がありません。私の手で見返してやります」
「貴様のような無力な小娘が、どうやって戦うつもりだ?」
「今は無力でも、私は諦めません。……だから黒羽さん、私をここに置いてください。妻としての役割は完璧に果たします。その代わり、私をただの籠の鳥にしないでください」
真っ直ぐに自分を見上げてくる真白の姿に、蓮はフッと小さく鼻を鳴らした。
「面白い。……ならば見せてみろ、その覚悟を」
蓮が冷たい笑みを深めた、まさにその時――。
コン、コン、コン。
寝室の防音扉が、不躾にノックされた。
続いて、廊下から聞き覚えのある甲高い、下品な声が響き渡る。
『お姉様ぁ! 入るわよ? ……あら、鍵がかかっているわ! お父様、警察を呼んで! 真白のやつ、早速部屋の金目の物を盗んで閉じこもっているに違いないわ!』
義妹・結衣の声だった。
すでに実家の魔の手が、この屋敷にまで乗り込んできたのだ。
真白の表情が強張る。
蓮は無言のまま、真白の肩に手を置き、冷たく囁いた。
「――早速、最初の試練のようだな」
メキメキメキ……バリィィンッ! 頭上の太い梁が激しい火花を散らしながら砕け落ち、真白の頭上へと迫った瞬間だった。 煙を切り裂いて突入してきた蓮の腕が、床に倒れ伏しかけていた真白の華奢な身体を抱きすくめた。 蓮は身を翻して真白の上に覆いかぶさり、自らの背中で火の粉と破片を庇いながら、すぐ横の非常出口へと蹴り出すように身を躍らせた。 背後で、数トンの燃える瓦礫が轟音を立てて床を叩き潰す。 あと一秒でも遅れていれば、二人とも生きてはいなかった。 「……っ、掴まっていろ!」 蓮の肺を圧迫するような呼気が真白の耳元に落ちた。 非常階段を駆け上がり、外の冷気に飛び出した瞬間、アトリエの窓ガラスが一斉に爆発音を立てて吹き飛んだ。 「総帥ッ! 真白様!」 高杉と駆けつけた消防隊員たちが駆け寄る。 アスファルトの上に膝をついた蓮の腕の中で、真白は激しく咳き込みながら、煤で黒く汚れた顔を上げた。 全身は火傷の熱と煙で痛み、手のひらは水膨れと擦り傷で赤黒く爛れている。 だが、その腕の中に抱えられた耐火ケースの留め金は、一度たりとも外されていなかった。 「石……も、道具も……無事です……」 真白の掠れた声が、途切れ途切れに零れた。 顧客から預かった数億円相当の代々の宝石も、片桐たちが命を削って研ぎ澄ませてきた特注の研磨工具も、すべてそのケースの中で無傷のまま守り抜かれていた。 「馬鹿者が……」 蓮の低く硬質な声が震えていた。 眉間に深い皺を刻み、煤けた真白の頬をその大きな手でそっと包み込む。 だが真白は、自らの傷を顧みることもなく、蓮の肩口に焦げ付いたスーツと赤く腫れ上がった首筋を見て、震える手を伸ばした。 「黒羽さん……火傷、が……私のせいで……」 「これくらいで騒ぐな。お前が生きていればそれでいい」 蓮は真白の額に額を押し当てるようにして抱き寄せ、その生温かい息を確かめた後、駆け寄ってきた救護班へと真白の身柄を託した。 そして立ち上がった瞬間――蓮の顔から人間的な揺らぎは完全に消え去り、すべてを凍てつかせる絶対零度の「総帥」の貌へと戻っていた。 「高杉」 「はっ。包囲は完了しております」 蓮の冷徹な眼光が、アトリエから一本隔てた薄暗い路地へと向けられた。 その視線の先―
深夜二時三十分。 アトリエの仮眠室で浅い眠りに就いていた真白の鼻腔を、焦げ付くような異臭が刺激した。 ハッと目を開けた瞬間、耳をつんざく火災報知器のけたたましいサイレンが館内に鳴り響いた。 ジリリリリリッ! ウーッ、ウーッ! 「火事……!?」 飛び起きてドアノブを握ろうとした真白は、手のひらを引いた。金属のノブが異様な熱を帯びている。 隙間から噴き出してきたのは、喉を灼く濃厚な黒煙と、揮発油特有の刺激臭だった。 階下の工房の扉を開けると、そこはすでに阿鼻叫喚の地獄と化していた。 地下から吹き上がった紅蓮の炎が、木製の作業机や壁の装飾を舐め尽くし、猛烈な熱波となって渦を巻いている。 「真白! 早く逃げろッ! 裏口は完全に火で塞がれてるぞ!」 煙に咽びながら、泊まり込みの若手職人を誘導していた片桐が叫んだ。 真白は咳き込みながら、職人たちの背中を押して正面玄関へと押し出す。 「皆さん、早く外へ! 口をハンカチで覆って!」 「真白、お前も来い!」 「片桐さん、先に行ってください! 私は――」 真白の視線が、炎に呑まれつつある地下工房の階段へと向かった。 あの地下金庫には、代々受け継がれてきたVIP顧客たちの数億円相当の形見の宝石が眠っている。 そして何より、片桐たちが何十年もかけて自分の手の一部のように研ぎ澄ましてきた、替えの利かない特注の研磨工具の数々がある。 あれを灰にされたら、『BLANC』は信用を失って破滅するだけでなく、職人たちの魂そのものが殺されてしまう。 (守らなきゃ……! あそこにあるのは、皆が生きてきた証なんだから!) 「馬鹿野郎、降りるんじゃねえッ!」 片桐の絶叫を背に、真白はバケツの水を被った作業用毛布を頭から深く被ると、猛烈な煙と火の粉が渦巻く地下への階段を駆け下りた。 ゴオオォォッ! 地下はすでに灼熱の釜だった。酸素が薄く、肺が焼けるように痛い。 視界は一面の灰黒色。真白は床を這うように進み、壁際の耐火金庫のダイヤルへ震える手を伸ばした。 熱で鉄の表面が皮膚を焼き、ジュッと痛ましい音がする。涙と脂汗で視界が滲む中、真白は指の皮がめくれる激痛に耐え、狂ったようにダイヤルを合わせた。 カチリ。 重い扉が開き、真白は中の宝石箱と工具のジュラ
一条麗華からの賛辞によって『BLANC』の評価が絶対的なものとなったことで、南青山のアトリエにはかつてない重みが集まりつつあった。 政財界の重鎮夫人や旧家から持ち込まれたのは、数代にわたって受け継がれてきた家宝のハイジュエリーのリメイク依頼。カシミール産サファイア、非加熱のピジョンブラッド・ルビー、大粒のエメラルド――どれひとつとして金銭では取り返しのつかない、総額数十億円に及ぶ歴史ある逸品ばかりだった。 作業台の金庫にそれらを収めながら、真白はふと指先を止めた。 地下工房の空気に、わずかな違和感があった。 薬品棚の溶剤の並び、消火器の配置、そして非常口の電子錠のインジケーター。ほんの数ミリ、いつもと違う角度で影が落ちている。 「……気のせい、じゃない」 真白は作業日誌を開き、バーナー用の可燃性ガスボンベの残量と元栓の閉止状況を、指差し確認で三度確かめた。 泥臭く石と向き合い、過酷な現場で危険を察知してきた職人としての直感が、微かな警鐘を鳴らしていた。 征四郎と麗奈が追い詰められている。ダンプ事故の件で警察の包囲網が狭まる中、あの傲慢で残忍な親子の足掻きが、何事もなく終わるはずがないのだ。 「真白、まだ上がらねえのか」 階段の上から、作業着のエプロンを外した片桐が顔を覗かせた。 「片桐さん。薬品庫と非常口の施錠をもう一度見ておきたくて。……ここにある石は、お客様が命の次に大切にしてこられた想いそのものです。万が一にも、何かあっては取り返しがつきませんから」 「ふん……相変わらず心配性な小娘だ。だが、その神経の細やかさが石を殺さねえ秘訣でもある。俺も戸締まりを手伝ってやるよ」 片桐と共にすべての施錠と火気の遮断を完了させた真白は、アトリエの仮眠室へと戻った。 ◇ 同じ夜、黒羽グループ本社タワー・最上階の総帥執務室。 冷え切った夜景を見下ろす蓮の前に、高杉が静かにタブレット端末を差し出した。 画面には、征四郎の隠し口座から引き出された巨額の使途不明金と、都内のアンダーグラウンドで活動する悪質な放火ブローカーとの通話ログが、赤くマーキングされていた。 「……やはり動いたか」 蓮の双眸に、絶対零度の冷徹な光が宿った。 「征四郎は『BLANC』を全焼させるつもりです。アトリエを灰にし、預かり
迎賓館での指名コンペから数日。 一条麗華が公の場で放った「生涯唯一の好敵手」という言葉の波紋は、日本国内にとどまらず、海を越えて世界の宝飾界へと凄まじい勢いで波及していた。 南青山の『BLANC』本店アトリエには、政財界の重鎮夫人や旧華族、さらには欧州のバイヤーたちからのオーダー依頼と取材申し込みが殺到し、電話回線は朝から鳴り止む気配すらない。 だが、その喧騒の中にあっても、地下工房の真白の指先は静まり返っていた。 シャッ、シャッ、シャッ……。 ヤスリがプラチナの地金を削る規則正しい音だけが、薄暗い作業台に響く。 首筋に落ちる汗。ティアラコンペで負った右肩の打撲の痛みを湿布で抑え込みながら、真白は一心不乱に次の注文であるリングの爪を成形していた。 「……世間はお前を『若き天才』ともてはやし、メディアはこぞって持ち上げているというのに、相変わらず泥臭いヤスリ屑に埋もれているな」 重厚な革靴の足音とともに、蓮が地下工房へと降りてきた。 仕立ての良いスリーピースに身を包んだその姿は、相変わらず冷徹な美貌をたたえている。だが、作業台に向かう真白の背中を見つめる漆黒の瞳には、一切の揺るぎない信頼が宿っていた。 「黒羽さん」 真白は手を止め、ヤスリを置くと、微かに笑みを浮かべた。 「一条先生に勝ったわけではありませんから。あの日の惜敗の悔しさを忘れたら、私は本当にただの分不相応な小娘になってしまいます。手を動かしていないと、落ち着かないんです」 「それでいい」 蓮は無駄のない足取りで歩み寄ると、真白の額に張り付いた髪を指先で軽く払った。 「浮足立った職人は、己の刃で指を落とす。お前がその泥臭さを捨てない限り、一条麗華を越える日は必ず来る」 厳しいが、絶対の信念を込めた言葉。真白は背筋を伸ばし、力強く頷いた。 だが、蓮の引き締まった眉の奥には、氷のような冷ややかさが兆していた。 「……事故の件、裏が取れた」 真白の呼吸が微かに止まる。 迎賓館へ向かう途中で突進してきた、あの暴走ダンプカーのことだ。 「警察の取り調べに対し、運転手が暴力団関係者からの多額の報酬を白状した。資金の出所を辿ると、征四郎の第一秘書名義の裏口座に直結した。すでに警察の手は秘書へ伸びている。……征四郎と麗奈の逃げ道は、完
大審査場の正面壇上。 東條参与から差し出された宮内庁公式受諾のクリスタル・トロフィーを、一条麗華は手袋を嵌めた両手で優雅に受け取った。 一寸の乱れもない真紅のイブニングドレス。その完璧な立ち姿は、半世紀にわたり日本の頂点に君臨し続けてきた絶対の女王たる品格を、余すところなく誇示していた。パチパチパチ……と、会場を埋める皇族関係者や重鎮たちから、厳かな拍手が沸き起こる。 伝統と格式を重んじる宮内庁の儀礼において、一条メゾンの勝利は最も正統であり、最も揺るぎない結論だった。「……おめでとうございます、一条先生」控席の端で、真白は両手を胸の前で合わせ、惜しみない拍手を送っていた。 三対二。わずか一票差の惜敗。 胸を抉るような悔しさがなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に真白の胸を満たしていたのは、一条麗華という存在の圧倒的な巨大さへの敬意だった。 名門の血筋や権威にあぐらをかくことなく、誰よりもストイックに美を研ぎ澄まし、あの神業のようなシンメトリーと威厳を形にしてみせた人。一条麗華の背中は、やはり果てしなく高く、美しかった。「よく戦った」隣に立つ蓮が、低く滑らかな声で囁いた。 悔しさを噛み締めながらも、澄み切った瞳で壇上を見つめる真白の横顔。蓮の漆黒の瞳には、かつてない深い矜持と、誇らしげな光が宿っていた。「お前はあの女の胸元まで刃を突き立てた。一票差など、伝統の壁を考えれば実質的なドローにも等しい。……胸を張れ、真白」「はい。……悔しいです。でも、今の私のすべては出せました。一条先生の高さが、ちゃんと見えました」真白は力強く頷いた。 この敗北は終わりではない。いつか必ずあの高みへ届くための、確かな一歩なのだと。その時だった。「――東條参与、少々よろしいかしら」壇上のマイクの前、用意されていた受諾のスピーチ原稿を一瞥した麗華が、それを手元の台へと伏せた。 会場の拍手がふっと止まり、静まり返る。「一条先生……? スピーチを――」「定型の謝辞など、後で書面でお送りしますわ」麗華は東條の言葉を涼やかに遮ると、真紅の裾を優雅に翻し、まっすぐに控席の真白を見据えた。 その怜悧な瞳には、冷酷さなど微塵もなかった。 自らの刃を研ぎ澄ませてくれた唯一の存在を見つめる、絶対の女王たる誇り高い光。「白河真白代表。……壇上へいらっしゃい」「え……?」思
迎賓館のアーチ窓から差し込む柔らかな陽光が、純白の大理石フロアに細長い影を落としていた。 二つの展示台に並び立つ、日本の頂点を賭けたティアラ。 一条麗華の『戴冠の曙光』は、寸分の狂いもないプラチナの構築美と無数の特級ダイヤモンドによって、圧倒的な太陽の如き権威と王道美を放っている。 対する真白の『黎明の息吹』は、極細プラチナの有機的な曲線に抱かれた糸魚川の青翡翠が、淡い紫と蒼を息づかせ、暗闇を耐え抜いた者へ寄り添う生命の光を静謐に湛えていた。 「……これより、最終投票に入ります」 東條参与の厳粛な声が、凍りついた広間に落ちた。 皇族代表、宮内庁侍従長、文化庁長官、国立美術館長、そして東條参与の計五名。 伝統と格式、そして芸術の極致を見極めてきた五つの視線が、二つの冠の間を何度も行き来する。用紙にペンが走る音だけが、耳障りなほど鮮明に響き渡っていた。 控席の真白は、膝の上で両手を固く組んだ。 右肩の打撲痛がズキズキと脈打ち、裸足の足先は冷え切っている。それでも、胸の奥には一点の曇りもなかった。 流通を断たれ、北陸の豪雨に打たれ、濁流に腕を突っ込んで掴み取った原石。片桐と共に徹夜を重ねて削り出した命の脈。そして、何より自分を信じ、前へと押し出し続けてくれた蓮の言葉。 自分が持てる魂のすべて、泥の中から拾い上げてきた技術のすべてを、あのプラチナの線と翡翠の輝きに注ぎ込んだ。悔いなど、一欠片もあろうはずがなかった。 (どんな結果になっても……私は、私の信じる光を出し切った) 祈るように目を閉じた真白の指先を、不意に温かい大きな掌が包み込んだ。 驚いて顔を上げると、いつの間にか控席の真白の横に歩み寄っていた蓮が、微かに顎を引いて見下ろしていた。 「黒羽、さん……」 蓮の掌は驚くほど温かく、真白の強張った指先の震えを優しく、だが力強く鎮めていく。 周囲の重鎮たちを寄せ付けない冷徹な相貌のまま、低く硬質な声が真白の耳元だけに落ちた。 「どんな結果であれ、顔を上げて受け止めろ。……あの一条麗華が、お前の作品に息を呑んだ。その事実に一片の揺らぎもない」 「……はい」 真白は頷いた。 蓮が隣にいてくれる。それだけで、どんな審判が下されようと、堂々と前を向いていられる確信があった。 「――投票、