تسجيل الدخول「……次は、『BLANC』白河真白代表、前へ」厳かな声に背筋を正し、真白は一歩壇上へと歩み出た。 視界の端では、七色のサファイアの余韻に酔いしれる審査員団の興奮がまだ冷めやらずに残っている。その熱狂の只中で、審査員席の最前列に座る一条麗華だけが、微動だにせず、氷のように研ぎ澄まされた視線を真白へ注いでいた。真白は黒いベルベットの覆いに手を掛け、静かに息を吸い込んだ。「これが、私の『光の多重奏』です」覆いが外された瞬間、スポットライトを浴びて現れたのは――エミリアの放った華美な閃光とは対照的な、息を呑むほど静謐なネックレスだった。題名は『朝露のグラデーション』。 中心に据えられたのは、淡い青紫を帯びた小粒の糸魚川翡翠。その周囲を、氷のようなアクアマリン、朝靄の光を宿したトパーズ、そしてごく淡いペリドットが取り囲んでいる。 石同士は決して同じ主張をせず、互いのエゴをぶつけ合いながらも、日本の深い森の夜明けに滴る「朝露」の一瞬を切り取ったかのように、幽玄な陰影を織りなしていた。「……美しい。極細のプラチナ枠が見事に石の輪郭を引き締め、光が互いの色を殺さずに重なり合っている」 「派手さこそないが、鉱物の持つ静かな息遣いが聞こえてくるようだ」審査員たちから感嘆の声が漏れる。 真白の胸に安堵が広がりかけた――だが、次の瞬間、欧州から招聘された特別審査員が顎に手を当て、淡々と口を開いた。「確かに極めて高度な職人技だ。だが……エミリア氏の放った『現代アートとしての圧倒的な革新性と爆発力』と並べたとき、この静けさは、世界の広い会場で埋もれてしまわないだろうか?」その言葉に、審査員席の空気がわずかに揺らいだ。 伝統的な工芸としての完成度は完璧。だが、世界最高峰のビエンナーレという「巨大な舞台」を想定した際、エミリアの放った太陽のような色彩の暴力に比べ、真白の光はあまりにも繊細で、小さく見えてしまうのではないか――という懸念だった。審査が終了し、別室で行われた第一次選考の開票結果がボードに掲示された。――首位通過:一条麗華。 ――二位通過:エミリア・クロード。 ――三位通過:白河真白。通過は果たした。だが、エミリアの後塵を拝したという事実が、真白の胸に冷たい棘のように突き刺さった。控室へ戻る廊下。一人佇む真白の背後に、蓮の重厚な足音が響いた。「……黒羽さん。
表参道の『BLANC』新本店が軌道に乗り始めた矢先、宝飾界の勢力図を根底から揺るがす特大のニュースが列島を駆け巡った。――パリ国際デザイン・ビエンナーレ、日本代表選考会の開催決定。 世界各国のトップジュエラーが一堂に会し、国家の威信と審美眼を競い合う世界最高峰の舞台。その本戦への切符は、日本からはわずか「二枠」しか用意されていなかった。一枠は、長年日本の美を背負ってきた絶対の女王・一条麗華の選出が確実視されている。 となれば、残る最後の一枠を巡り、新進気鋭のジュエラーたちが血で血を洗う選抜戦を繰り広げることになる。その最右翼として、一条麗華に「生涯唯一の好敵手」と言わしめた真白の名が、業界紙のトップを飾っていた。「世界、か……」新本店の地下工房。真白は、一条麗華から贈られたヴィンテージの彫金机に両手を置き、深呼吸した。 机の奥には、海外から取り寄せた希少鉱物の標本がずらりと並んでいる。 糸魚川の青翡翠で学んだのは、石の歪みや傷すらも命の証として愛し、引き出すこと。だが、世界基準の審美眼に挑むとなれば、それだけでは足りない。硬度も結晶構造も異なる多種多様な世界の鉱物を、自分の手足のように理解する必要があった。真白は指の火傷の痕を庇いながら、顕微鏡を覗き込み、徹夜で鉱物の劈開面(へきかいめん)のスケッチを描き連ねていく。――コンコン、と重厚な靴音が階段を降りてきた。「朝まで籠もるなと言ったはずだが」白檀の微かな香りを纏い、蓮が現れた。 だが、その端正な顔立ちには、いつもの冷徹な落ち着きとは異なる、微かな険しさが張り付いている。「黒羽さん。……何かあったんですか?」真白がペンを置いて顔を上げると、蓮は無言のまま、手挟んでいた海外の業界誌を机の上に広げた。「選考会の勢力図が変わった。……最後の一枠を巡る争いは、国内のデザイナー同士の小競り合いではなくなったぞ」雑誌の紙面には、燃えるようなプラチナブロンドの長い髪をなびかせ、悪戯っぽく微笑む若き美女の写真が大きく掲載されていた。『――パリ宝飾界の神童、エミリア・クロード。電撃の日本国籍取得とビエンナーレ選考会への緊急参戦決定!』「エミリア・クロード……?」「日仏ハーフの二十二歳。老舗クロード・メゾンの総帥の愛娘であり、十代でヴァンドーム広場のコンクールを総なめにした天才だ。伝統に囚われない色彩感
ペントハウスのテラスを吹き抜ける風が、かすかに契約書の端を震わせた。 破棄する、という蓮の硬質な言葉。その真意を測りかね、真白の喉の奥がきつく引き絞られた。「破棄……って、黒羽さん、私は……」身代わりとしての役目が終わったなら、この居場所からも去らなければならないのか。胸の奥に冷たい棘が突き刺さる。 だが、蓮は何も言わず、テラスに備え付けられたバイオエタノールの暖炉へと歩み寄った。静かに揺らめく蒼白い炎。 蓮は迷うことなく、自らの手でその書類を火の中へと差し入れた。「あっ……!」紙の端が赤く燻り、やがて炎が紙面を舐め尽くしていく。 『身代わり婚姻契約書』――白河宗助への復讐と、偽りの夫婦を演じるために交わされた紙切れは、真白の目の前で音もなく灰へと変わり、夜風に吹かれて宙へと散っていった。「……これで、終わりだ」蓮が暖炉の前から振り返る。その相貌には、冷徹な取引相手としての影は微塵も残っていなかった。 漆黒の瞳に灯るのは、どこまでも深く、熱い、一人の男としての意志。「利害関係も、偽りの名目も、すべて灰にした。……俺が欲しかったのは、従順な身代わりの妻ではない」蓮は長い足で真白の前へと歩み寄り、膝をついた。 あの傲岸不遜で、誰の前にも頭を垂れたことのない黒羽グループ総帥が、夜空の下、真白の前にただ一人の男として跪いている。 蓮はポケットから、小さなベルベットの小箱を取り出した。 パチン、と開かれた箱の中央で瞬いたのは――純白のプラチナに抱かれた、奇跡のように澄み渡る大粒のブルーダイヤモンド。真白がかつて糸魚川の激流で掴み取った青翡翠を思わせる、深遠で気高い黎明の青だった。「身代わりの契約は、今この瞬間をもって消滅した」蓮の低く掠れた声が、真白の震える胸を打つ。「白河真白。……俺の生涯で唯一の女として、俺の隣で生きてくれ。お前の光を、誰よりも近くで一生見守らせてほしい」「黒羽、さん……っ」視界が涙で滲んだ。 虐げられ、偽物として捨て石にされるはずだった自分の人生。 その泥の中から掬い上げ、本物の光を見出してくれたのは、他ならぬこの人だった。 真白は溢れる涙を拭おうともせず、蓮の差し伸べた手に自らの手を重ねた。「はい……! 私でいいのなら、あなたの隣にいさせてください……!」蓮の顔に、これまでの人生で一度も見せたことのない、崩れるような優
深夜の表参道を抜け、蓮の車が滑り込んだのは、都心の超高層タワーの最上階だった。 専用エレベーターの扉が開いた先には、東京の夜景を三百六十度見下ろす、広大なペントハウスの展望テラスが広がっていた。冷涼な秋の夜風が吹き抜け、真白の長い髪をふわりと揺らす。 眼下には無数の光の粒が宝石箱をひっくり返したように輝き、見上げる夜空には、都会の喧騒を忘れさせる澄んだ星々が瞬いていた。「綺麗……こんな場所があったんですね」手すりに歩み寄り、息を呑む真白。 その隣に並び立った蓮は、手に持っていた上質なカシミアのストールを、そっと真白の華奢な肩へと掛けた。「風が冷たい。……風邪を引かれたら、明日のアトリエが困る」「ふふ、過保護ですね、黒羽さんは」「誰のおかげで過保護になったと思っている」蓮は微かに苦笑し、手すりに両手を置いた。 いつも完璧に纏い上げている冷徹な鎧が、この星空の下では静かに脱ぎ捨てられている。真白を見つめるその横顔は、驚くほど穏やかだった。「……思えば、遠いところまで来たな」蓮の低く滑らかな声が、夜風に溶けていく。「最初にあの屋敷の扉を開けたときのお前は、怯えを必死に隠した、今にも折れそうな小枝のようだった。白河の家に虐げられ、植物人間と噂された俺の元へ、生贄のように放り込まれて」「……あの時は、必死でしたから」真白は自らの手を重ね、遠い過去を思い返すように目を細めた。「実家では誰も私の目を見てくれませんでした。母の形見のノートを奪われ、デザインを盗まれ……私の居場所なんて、世界のどこにもないと思っていました。でも、あなたが私の手を引き上げてくれたんです。厳しい課題を与えて、石の命を教えてくれて……誰よりも私の才能を信じてくれた」「買い被るな。俺はただ、お前の燃えるような目を気に入っただけだ。泥水の中でも決して光を失わない、本物の宝石の原石をな」蓮は静かに身体の向きを変え、真白と真っ向から対峙した。 街の灯りを映す真白の琥珀色の瞳を、蓮の漆黒の双眸がどこまでも深く射抜く。「白河家も、神崎も消えた。征四郎と麗奈も、二度と日の当たる場所へは戻れない。お前の前に立ちはだかる障害は、すべて取り払った」「はい……。すべて、黒羽さんが私を守ってくださったからです」「だが、まだひとつだけ、清算していないものがある」蓮はスーツの内ポケットにゆっくり
表参道の『BLANC』新本店グランドオープンを翌日に控えた夕暮れ。 エントランスへ運び込まれた頑丈な木枠の梱包を前に、現場の空気は異様な緊張に包まれていた。木枠に貼られた送り状の文字――『一条メゾン 一条麗華』。 あの絶対の女王からの届け物という事実に、作業の手を止めた職人たちやスタッフが息を呑んで立ち尽くしている。「おい、バールを持ってこい!」片桐が皺だらけの手で木枠に手を掛け、荒々しく釘を抜いた。 軋む音を立てて外枠が外され、何重にも巻かれた保護布が取り払われた瞬間、地下へと続く吹き抜けのエントランスに、深く重厚な木の香りが立ち込めた。「こ、これは……」片桐の顎が震え、くわえていた煙草を床に落としかけた。 そこに姿を現したのは、一台のアンティークの彫金作業机(ワークベンチ)だった。飴色に光る極厚のフレンチウォールナット。 無数の鏨(たがね)やヤスリの擦れ跡、研磨粉が染み込んだ深みのある木肌は、百年の歳月を生き抜いた怪物のような風格を放っている。 机の中央には、金や銀の削り屑を受け止めるための、使い込まれた最高級馬革の受塵エプロン。引き出しの真鍮金具ひとつに至るまで、極上の職人技で仕立てられていた。「嘘だろ……パリ・ヴァンドーム広場の老舗メゾンが、創業期に伝説の名工のためだけに特注したっていう、幻のヴィンテージ彫金机じゃねえか……!」片桐が膝をつき、震える指先で天板をなぞった。「金を出しゃ買えるシロモノじゃねえ。世界の宝飾史そのものだぞ。一条の奴……こんな国宝級のブツを、一体どこから引っ張ってきやがったんだ」机の天板の隅には、一条麗華の直筆による、金箔押しのメッセージカードが添えられていた。『――灰の中から立ち上がり、泥臭く刃を研ぎ続ける我が好敵手へ。 道具に魂を宿す者だけが、この机に座る資格を持ちます。 背筋を伸ばし、あなたの至高を創り続けなさい。 いつの日か、世界の頂きで刃を交えるその時まで。 一条麗華』「一条先生……」真白はカードを胸元に抱きしめ、目頭を熱くした。 手加減も憐憫もない。ただ「対等な好敵手」として自らの背中を押し、高みへと誘う女王の苛烈で気高い愛。 真白は作業机の前に立ち、その滑らかな木肌にそっと両手を置いた。 指先を通して、何世代もの名工たちが命を削って石と対話してきた記憶が、静かに流れ込んでくるようだった。「…
表参道の一等地にそびえる、真新しいガラス張りのビル。 黒羽グループが買い上げたその五階建てビルの地下フロアには、まだ真新しいコンクリートと研磨水の匂いが混ざり合って漂っていた。「おい、そこの集塵ダクトの排気圧が足りねえぞ! プラチナの削り粉は目に見えねえほど細けえんだ。職人の肺に入ったらどうすんだ、付け直せ!」地下工房の真ん中で、片桐の怒号が響き渡る。 南青山の焼け跡から救い出された道具類が運び込まれ、内装業者や設備技師たちが慌ただしく行き交っていた。 だが、最新鋭の換気システムや耐震構造を誇るピカピカの空間に、職人たちの表情はどこか硬い。「片桐さん、機材の搬入は終わりましたが……どうにも落ち着きませんね」「ああ。綺麗すぎて、まるで病院の解剖室だ。こんな冷たいハコの中で、石の息遣いなんぞ聞こえるもんか」昔気質の職人たちが腕を組み、溜息を漏らす。どれほど巨額の資金を投じ、最新鋭の設備を揃えようとも、職人が長年かけて馴染ませてきた「工房の空気」まで買い取ることはできない。道具と身体が一体となり、無心で刃先を走らせるための土壌が、ここにはまだ欠けていた。その職人たちの迷いを打ち破ったのは、作業着の袖をまくり上げた真白だった。「片桐さん、皆さん。……これを敷きましょう」真白が抱えてきたのは、南青山の焼け跡から運び出した、焦げ跡の残る分厚いオーク材の床板だった。表面は黒く煤けているが、何千時間、何万時間と職人たちが足を踏ん張り、汗と研磨水を吸い込んできた記憶が、木目の奥に深く刻み込まれている。「真白、それは……」「どんなに新しいビルになっても、私たちが泥臭く積み上げてきた日々は消えません。火事の煙をくぐり抜けて、皆さんと一緒に生き残ったこの板を、作業台の足元に埋め込みたいんです。私たちの礎として」真白は跪き、煤けた板の表面を自らの手で丁寧に拭い始めた。火傷の痕が残る包帯の手。だが、その瞳には一切の迷いも妥協もなかった。片桐は目を細め、やがて太い腕で頭をガシガシと掻いた。「……ったく、言うことが職人以上に職人臭え小娘だ。おい野郎ども、突っ立って見てんじゃねえ! 床を剥がしてその板を嵌め込むぞ! 俺たちの魂を据え直すんだ!」「お、おうッ!」職人たちの顔つきが一変した。金槌の打撃音とヤスリの音が、熱気を帯びて地下工房に反響し始める。焦げた床







