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第138話

Author: 手足あせだく
実花は少し驚きながら、通話ボタンをスライドした。

「征二郎様?まさかご本人からお電話をいただけるとは思っていませんでした。何か私にお手伝いできることでしょうか」

「実花さん、実は君に折り入って話があるんだ。直接会って話したいのだが、少し時間をくれないだろうか」

電話の向こうから、征二郎の穏やかで慈愛に満ちた声が響いた。

「ええ、構いませんよ」

実花はふたつ返事で了承した。

黒田沙耶の陰湿な嫌がらせには辟易しているが、この国のアート界の重鎮である黒田当主には、なぜか初対面の時から不思議と惹かれるものがあり、自然な好感を抱いていたのだ。

ちょうど新しい車を手に入れたばかりだったこともあり、実花はさっそく運転手の鈴木に頼んで、征二郎が指定した会員制の高級プライベートクラブへと向かった。

入り口には屈強な黒服のSPが数名立っており、物々しい雰囲気が漂っている。

通された奥の特別室には、すでに征二郎が待っていた。

実花が入室するのを見ると、彼は傍らに置かれた立派な木彫りの杖を突き、ゆっくりと立ち上がった。

当たり障りのない挨拶をいくつか交わした後、征二郎は単刀直入に本題を切
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    実花は少し驚きながら、通話ボタンをスライドした。「征二郎様?まさかご本人からお電話をいただけるとは思っていませんでした。何か私にお手伝いできることでしょうか」「実花さん、実は君に折り入って話があるんだ。直接会って話したいのだが、少し時間をくれないだろうか」電話の向こうから、征二郎の穏やかで慈愛に満ちた声が響いた。「ええ、構いませんよ」実花はふたつ返事で了承した。黒田沙耶の陰湿な嫌がらせには辟易しているが、この国のアート界の重鎮である黒田当主には、なぜか初対面の時から不思議と惹かれるものがあり、自然な好感を抱いていたのだ。ちょうど新しい車を手に入れたばかりだったこともあり、実花はさっそく運転手の鈴木に頼んで、征二郎が指定した会員制の高級プライベートクラブへと向かった。入り口には屈強な黒服のSPが数名立っており、物々しい雰囲気が漂っている。通された奥の特別室には、すでに征二郎が待っていた。実花が入室するのを見ると、彼は傍らに置かれた立派な木彫りの杖を突き、ゆっくりと立ち上がった。当たり障りのない挨拶をいくつか交わした後、征二郎は単刀直入に本題を切り出した。「君の母親の旧姓は、黒田由紀子だ。彼女は黒田の人間であり……私もまた、黒田だ」すべてを語ることはしなかったが、その一言だけで、彼が何を伝えたいのか実花には痛いほど理解できた。実花の心臓が、トクンと大きく跳ねる。まったく予期していなかったわけではない。母の身内がまだこの世のどこかで生きていることは知っていた。それに以前、湊から「征二郎様は、君のご両親にずいぶんと興味があるらしい」と意味深に告げられたこともあり、心の準備はある程度できていた。だからこそ、今こうして征二郎から事実を突きつけられても、驚きで取り乱すようなことはなかった。だが、驚きがないことと、それを受け入れることはまったくの別問題だ。黒田家ほどの権力がありながら、なぜ母が苦しんでいたあの長い年月の間、ただの一度も手を差し伸べなかったのか。彼女の胸の奥には、拭いきれない怨嗟の念がくすぶっていた。それに、両親が他界し、自分一人で泥水にまみれながら必死に生きてきた今更になって、「血の繋がった家族」などと言われても困るのだ。実花はしばし沈黙した。やがて、凛とした冷ややかな瞳で目の前

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    「へえ、それならいいじゃないか。今度二人でゆっくりエステでも受けてくるといい。最近色々あったし、いい気分転換になるだろう」女性同士の付き合いや美容に疎い和真は、美佐子の苦し紛れの嘘をあっさりと信じ込み、それ以上深く追求しようとはしなかった。玄関に手配していたプロの撮影チームが到着したようで、和真は確認のために席を立った。リビングに実花と美佐子の二人きりになった瞬間、先ほどまでの張り詰めた虚飾の平和は跡形もなく消え去った。「美佐子さん。約束の『離婚協議書』をいただきに来ました」実花は一切の笑みを消し、氷のように冷たい声で切り出した。「何を言い出すの。まだ約束の時期ではないでしょう!」美佐子は声を潜めながらも、先ほど和真の前でサインの話を出された怒りを露わにした。「買収の契約は、あと数日のうちに終わるのでしょう?それなら一日や二日早まったところで、何の違いもないはずです。契約が正式に締結されるまで、世間には決して口外しないとお約束します」「そんな口約束、どうやって信じろと言うの!」「信じる以外の選択肢が、あなたにあるとは思えませんけれど」実花はふっと薄く笑い、ドレスの裾を優雅に払って立ち上がった。「これからカメラマンの前で、和真と仲睦まじい『おしどり夫婦』の写真を撮る予定です。……でも、もし離婚協議書を今いただけないのなら、私がカメラの前で何を口走り、どんな行動を取るか、保証いたしかねますよ」「あんた……っ!」美佐子は怒りで言葉を詰まらせ、胸を激しく上下させた。「よくもそんな口が利けたものね。以前はあんなにおとなしく従順だったくせに、これほど図太く口が達者な女だったなんて……!」撮影チームの足音が廊下から近づいてきても、実花は微動だにせず、優雅な笑みを浮かべたまま美佐子を見下ろしていた。美佐子がさらに罵声を浴びせようと口を開きかけたその時、瀬戸家の執事が静かにリビングへと入ってきた。「失礼いたします。静江様がお目覚めになられました。実花様をお呼びです」「お義母様が……?私も一緒に行きます」美佐子が慌てて立ち上がろうとすると、執事は礼儀正しく、しかし決して動かない壁のようにその行く手を遮った。「申し訳ございません。静江様は『実花さんと二人だけで話したい』と仰せです。静江様は静養を必要とされてお

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第133話

    「それなら、瀬戸グループの買収案件に傷がつくのだけは絶対に避けなきゃいけないわね」実花はあえて従順で思いやりに満ちたトーンを作り上げると、猫撫で声で探りを入れた。「今のところ、買収はもう大詰めを迎えているの?」「ああ、最終の契約段階に入っている。何もトラブルが起きなければ、ここ数日のうちには決着がつくはずだ」和真の声音は、先ほどよりもさらに甘く優しくなっていた。――実花はこんなにも瀬戸家のことを第一に考えてくれているのに、なぜ自分は今まで彼女を蔑ろにしてしまっていたのだろうか。そんな和真の痛切な後悔と反省など、実花が知る由もない。数日中……!よかった。実花は心の中でガッツポーズをした。今週さえ乗り切れば、この茶番から完全に解放される。どうかこのまま何事もなく、すべてがスムーズに進んでほしい。とはいえ、ただ果報を寝て待つほど実花はお人好しではなかった。離婚という最大の目的を果たすためには、自分でも確実に布石を打っておく必要がある。「じゃあ、まずは瀬戸の本家で待ち合わせるのはどうかしら?写真を撮りに行く場所は、その後であなたが決めていいから」実花は提案した。「ちょうど、お義祖母様のお顔も見に行きたかったところだし」世間に仲良し夫婦をアピールするためであり、祖母の静江を気遣う理由もある。完璧な提案に、和真が断る理由は一つもなかった。「分かった。それなら、今から僕が車で君を迎えに行こうか?」「ううん、お気遣いなく。自分で向かうから大丈夫よ」用件だけを済ませて通話を切ると、実花はすぐさま身支度を始めた。昨夜は一睡もしていない。鏡に映るクマの浮いた疲れた顔を、華やかなメイクで徹底的にカバーし、完璧な武装を施す。豊かな髪を高い位置でポニーテールにまとめ、ワンショルダーの黒いドレスに袖を通した。タイトな漆黒の生地が、白く滑らかな首筋からデコルテのラインをいっそうエレガントに、そして妖艶に引き立てている。マンションの階下に降りると、専属運転手である鈴木の送迎車がすでに待機していた。……瀬戸家の本家に到着すると、重厚な門の奥に広がる前庭には、すでに和真のマイバッハが停まっていた。車を降りた実花は、ふわりと風に揺れた額の横の後れ毛を優雅な仕草で整えながら、目の前にそびえ立つ瀬戸家の豪邸を見上げた。

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第4話

    胸の奥がひどく重くなるのを感じ、実花は深く息を吸い込んだ。次に、和真のスケジュール管理ツールを開く。画面に並んでいたのは、目を疑うような記録の羅列だった。【凛:人間ドック】【凛:航空券・ホテル手配】【凛:誕生日】【凛:……】実花に関する記述を探そうと画面をスクロールし続け、ようやく最下部で見つけたのは、三年前に入籍した日の短いメモだけだった。実花は背もたれに身を預け、冷え切った指先を見つめた。感情を無理やり押し殺し、別のフォルダへと手を伸ばす。和真が最近購入した不動産、株式の取引履歴――専門的な数字の羅列は完全には理解できなかったが、構わなかった。見つけ

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第3話

    夜、七時半。瀬戸家の邸宅にあるキッチンは、温かな湯気に包まれていた。白身魚の蒸し物が湯を上げ、牛肉の煮込みが照りよく仕上がっていく。綺麗に切り揃えられた豆腐が、コンロの上の出汁のなかでことことと心地よい音を立てていた。そこへ、リビングのドアを開けて和真が帰ってきた。ダークカラーのチェスターコートに、仕立ての良いスーツ。首元のネクタイは少しだけ緩められている。夕食の準備をしている実花の姿を目にして、彼の鋭い目元がほんのわずかに和らいだ。実花はキッチンで手を動かしたままだ。帰宅の気配に気づいても、振り返りもせず、作業の手を止めることもしない。以前の彼女なら、和真が時

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    場内は水を打ったような静寂に包まれた。和真の顔が瞬時に険しくなり、周囲の参列者たちは思わず息を呑む。言葉を失った凛は、目に涙を溜めていかにも「悲劇のヒロイン」といった体で震えていた。和真は結局、無言のまま焼香台へと進んだ。遺影の前に立つ彼の背筋はあくまで真っ直ぐだったが、どういうわけか、胸の奥が妙に締め付けられるような感覚に襲われていた。実花は最後まで、一度も彼の方を見ようとはしなかった。香炉に線香を立て、和真は振り返る。床に膝をつく実花の細い背中を見つめ、迷った末にようやく言葉を絞り出した。「実花……僕は、ここに残るよ」「和真くん……っ」その時、凛が不意に額を押さ

  • 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―   第1話

    斎場の中は、芯まで冷え切っていた。弔いの音楽が延々と繰り返され、香炉に落ちる灰の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂が重くのしかかっている。瀬戸実花(せと みか)は父の遺影の前で膝をついていたが、とうに感覚は消え失せていた。指先を掌に強く食い込ませ、辛うじて自分を繋ぎ止めている。今ここで糸が切れたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。背後から、参列者たちのひそひそ話が刺すように届く。「和真さんはどうしたんだ?まだ姿を見せないが」「知らないのか?空港だよ。ニュースになってる」「空港?こんな時に、一体誰を迎えに行ってるんだ。今日は義理の父親の葬儀だぞ」「例の『忘れられない

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