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……綾はだんだん酔ってきて、語り始めた。「私、小さいころから湊と一緒だったの。もう十何年もよ。好きという気持ちはなくても、家族みたいな情はあった。湊は、私に後ろ盾がないと思って甘く見てるのよ。もし親が生きてて、20代の私がこんな風にしてるのを見たら、どれだけ悲しむでしょか。私が臆病なのは認めるわ。失うのが怖かった。でも……」綾は鼻をすすり、お酒をぐいっとあおった。「だって私には何もないもの。生きていくためには、何かにすがりつかないといけないでしょ?」綾は顔を上げた。涙で潤んだ瞳は、酔いのせいかどこかぼんやりしている。「湊のおばあさんとの約束があったから、湊の面倒を見るのが、私の責任になった。颯太さん、親がいない子ってね、1日生きるごとに、誰かへの借りが1日分増えていくようなものなのよ」本来は両親だけに感謝していればよかった。でも両親がいなくなり、他の優しい人たちが親の代わりになってくれた。その人たちへの恩は、親への恩よりもずっと重いの。親には甘えられるけど、他の人にはそうはいかないじゃない?颯太はティッシュを二枚取って綾に渡し、「これからは、俺が味方だから」と言った。「うん。今日、湊を私の身内リストから外す。まあ、リストには湊一人しかいなかったんだけど」綾は酒瓶を持ち上げて、乾杯のポーズをした。「これからは、颯太さんが、私が選んだ初めての家族よ」湊はへらへらと子供のように笑い、お酒を飲み干した。颯太はグラスを少し持ち上げ、一口だけ口をつけた。自分の知っている綾は、物静かで穏やかな子だった。学生時代、一番前の席に座っているようなタイプだ。それが酔っぱらうと泣いたり罵ったりして、鼻水まで垂らしている。ボロボロだが、生き生きして見えるその顔が、たまらなく愛おしかった。「ありがとう、颯太さん。こうやって全部話したら、体が軽くなったみたいで、なんだか飛べそうね」綾はテーブルに手をついて立ち上がると、ふらふらと外へ歩き出した。「もう帰るから。送らなくていいよ」……颯太は綾の後ろについていき、彼女が無事に寮へ戻るのを見届けてから、ようやく安心した。翌日、綾は電話の音で目を覚ました。「今どこだ?井上を迎えに行かせる」湊の声で綾は一気に目が覚め、パーティーのことを思い出した。「
以前の綾は、いつも湊のことが心配だった。湊が彼自身を追い詰めてしまうんじゃないかって。でも、今朝、凪が彼の部屋から出てくるのを見て、はっとした。ずっと自分を苦しめていたのは、こっちだったんだって。いつも一人ぼっちだったのはこっちだ。最後の砦を守っていたのもこっちだ。何度も我慢してきたのだって、こっちだった。それなのに、自分は人としての最低限の尊厳さえ、踏みにじられていた。湊は、綾の目が赤くなっているのに気づいて、驚いたように説明した。「凪とは何もない。海斗のそばにいただけだ。朝、俺の部屋に来たのは、はちみつ湯を持ってきただけだよ」湊は、綾がこんなことを気にするなんて、思ってもみなかった。今まで一度も、そんな素振りを見せなかったから。綾が隣で寝ていても手を出さずに我慢できたんだ。凪なんかに、気持ちが動くはずがない。「お正月が明けたら、あの二人には出て行ってもらう。だから、もう少し時間をくれないか」湊は怒るどころか、むしろ予想外のことなほど機嫌が良さそうだった。綾が自分に怒りをぶつけてくれるのが、嬉しかった。そうすることで初めて、綾の中で自分が存在していることを実感できるからだ。今までの綾は従順だったけど、自分に対してあまりにも淡白だった。まるで、ガラス越しに向き合っているみたいに。そこにあるのは形式ばった優しさだけで、愛情の温もりは伝わってこなかった。綾は、自分に触れようと伸ばされた湊の手を避けた。そして、信じられないものを見るような目で、目の前の男を見つめた。自分はこんなに訴えているのに、湊はなんと笑っているのだ。こっちは真剣に夫婦のあり方を問いただしているのに、湊はまるでドラマのワンシーンみたいに、余裕の笑みを浮かべている。綾は、あまりのことに言葉を失った。「私が出ていくか、あの二人を今すぐ追い出すか。湊、どっちか選んで」綾は固い表情のまま、湊をまっすぐに見つめた。心の中では、答えはもう決まっていた。だから、何も心配はしていなかった。案の定、湊はしばらく黙り込んだ後、疲れたように言った。「あの親子が落ち着く場所を見つけたら、迎えに行くから」綾は一歩下がり、スーツケースを引いて、迷わず背を向けた。玄関のドアを開けた瞬間、冷たい風が頬をなでた。まるで、心の中にずっと溜まっていた淀ん
【コーヒーでもどうだ?】健吾からのメッセージが来た。綾は、指を滑らかな髪の中に差し込み、いらだたしげにかきむしった。健吾からの誘いがろくなことにならないと分かっていた。それに、彼とはもう個人的な関わりを持つべきじゃない。帰国前夜、洋館での出来事を思い出すと、今でも怖くなる。ある偉人はこう言った。「人の欲望は、その人の運命を予言する」と。もしこの欲望に身を任せたら、自分の運命は地獄に落ちるに決まっている。【年末までのプロジェクトで私の担当はもうないから】綾は、やんわりと断った。健吾はすぐに返信した。【個人的に誘っている】【ごめんなさい。個人的に会うのは、ちょっと】綾はビアンカを思い出した。自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない。このまま高鳴る胸の衝動に身を任せていたら、凪と何が違うというのだろう?【中野のせいか?】【いいえ。私自身が、あなたに会いたくないの】この言葉を送るのに、綾は全身の力を振り絞った。会いたくないだと?健吾はスマホの画面に映る短い一文をじっと見つめ、自嘲気味に鼻で笑った。そうだ、忘れかけていた。あの日、綾がどれほど冷酷に自分の元を去っていったのかを。綾は、湊とは一番お互いを理解していて、一番お似合いの二人だと言った。自分の見た目がまあまあだから、遊びで付き合っただけだとも言った。そして、一度も愛したことはないと。健吾はタバコに火をつけた。5年前、綾と別れてから、タバコを吸うようになった。その後、一度はやめられた。しかしタバコへの依存が消えたと思ったら、今度は綾への依存が静かにぶり返してきたのだ。そして、馬鹿な決断をした。東都へ戻るという決断を。タバコはやめられても、綾への想いだけはやめられない。胸をかきむしるように苦しい。健吾は引き出しから、綾が描いた一枚の絵を取り出し、ゆっくりとタバコの火に近づけた。絵の中の少年は、少しずつ灰になっていった。健吾はUSBメモリを引き出しに放り込んだ。「マルス、屋敷でパーティーを開く」「健吾様、これは何か強制的な政治活動なのですか?」マルスは自分の耳を疑った。健吾は「もてなし好き」という言葉とは全く無縁の人間だったからだ。健吾とは一緒に育ってきたが、マルスが何かの集まりに熱心なところは一度も見たこと
綾は、自分たちの会話に聞き耳を立てている海斗をちらりと見て、「どうかしてる」と悪態をつき、足早にリビングを後にした。凪は5年前に会った時よりも、さらにどうかしている。こんな女に毎日狙われているなんて、まるで時限爆弾を抱えているようだ。翌日、出勤した綾は設計図を手に研究所にこもり、護身用のアイテム作りに没頭した。作るの自体はそう難しくない。市販の強力なストロボと超音波を組み合わせ、GPS機能と防犯ブザーを取り付けるだけだ。危険な目に遭った時、逃げられる確率を上げてくれるはずだ。それから、数日後の深夜、湊が帰ってきた。その顔色の悪さを見て、綾は思わず息を呑んだ。あれだけの人数を連れて行ったのだから、普通はここまで疲れるはずがないのに。「湊、大丈夫?」湊は眉間を揉みながら、「なんでもない。ちょっと疲れただけだ」と答えた。海斗が湊の手を引っ張った。「中野おじさん、一緒に寝ようよ」湊は海斗の頬に触れた。「いい子だから、先に寝てなさい。今夜は2階のゲストルームに泊まるから。明日の朝、お土産をあげるよ」海斗は唇をとがらせた。「でも、一緒に寝たい」「海斗が寝付くまでそばにいてやるから。な?」湊は海斗を抱き上げ、部屋まで連れて行った。綾はベッドに横になりながら、心配でたまらなかった。湊のことはもう気にしないと自分に言い聞かせても、どうしても彼のことが気になってしまう。翌朝早く、目を覚ました綾は、2階のゲストルームからネグリジェを着た凪が出てくるのを目にした。なるほど。湊は一人で抱え込んでいたのではなく、打ち明ける相手がちゃんといたということか。わざわざゲストルームで寝たのも、海斗に気付かれないようにするためだったんだ。綾は吹っ切れたように笑った。気分は晴れやかではなかったけれど、そこまで重くもなく、ただ、なんの感情も湧かなかった。人生とは、とかくおかしな方向へ転がっていくものだ。もう、そんなことには驚かなくなった。凪は肩ひもを直し、綾とすれ違いざまに、ふんと鼻を鳴らした。昼近くになって、綾が書斎で文献を調べていると、湊が小包を持って入ってきた。「年明けの手土産だ」「ありがとう」綾はそれを受け取った。中身は、甘ったるい香りの香水だった。綾は普段ほとんど香水をつけないし、たまにつけると
翌日の仕事終わりまで、綾が湊から返信をもらうことはなかった。綾は颯太と一緒に夕食を済ませ、家に帰ると、リビングで凪親子が湊とテレビ電話をしているのを見かけた。「中野おじさん、おもちゃ買って」「いいとも。ママにはどんなプレゼントがほしいか、聞いてみて」湊の声ははっきりとしていたが、その口調にはどことなく疲れが滲んでいた。凪はソファーの上で小さくなり、初恋の少女みたいに、恥ずかしそうにスマホの画面を見ていた。「あなたが早く帰ってきてくれるだけでいいの。わざわざ私たちにプレゼントなんて、買ってこなくていいから」綾は靴を履き替えると、エレベーターの方へ向かった。湊の声を聞くかぎり、体調は大丈夫そうだ。「綾、湊からテレビ電話よ。あなたも話す?」凪はスマホの向きを変えて、画面を綾に向けた。その時、画面の向こうから別の声が聞こえてきた。湊の姿が画面から見えなくなり、「まだ用事があるから、もう切るな」という声がした。「バイバイ」電話を切った凪は、得意げな笑みを浮かべた。「湊はあなたに話すことは何もないみたいね。でも、私たちは毎日テレビ電話してるから、明日また挨拶させてあげるわ」綾は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「本当に自分にそれだけの価値があるっていうなら、湊に私と離婚させてみなさいよ。私のために川に飛び込ませるんじゃなくてね。そういえば、あの拉致事件、あなたが仕組んだんでしょ?目的は分からないけど、結果的にあなたは負けた。それは明らかよ」拉致事件の後、黒幕が誰なのか、綾にはずっと分からなかった。湊に聞いてみても、彼は調べがつかなかったと言った。たぶん、仕事で恨みを買った相手だろうと。そして、このことはもう忘れるように言われた。でも、考えれば考えるほど腑に落ちない。もし仕事上のライバルなら、どうして湊が自分のために川に飛び込むと確信できたんだろう?そもそも、自分の正体を知る部外者は少ない。それに、わざわざ調べれば、自分と湊の関係が、決して仲の良い夫婦とは言えないことも分かったはずだ。もし湊が自分を大切に思っていなかったら?そうなると、黒幕は割に合わないことのために大きなリスクを冒したことになるんじゃないだろうか?足の不自由な湊を狙うなら、もっと簡単で手っ取り早い方法がいくらでもあるはずだ
今夜は海も穏やかで、しとしとと降る小雨が地面を濡らすだけだった。しばらく沈黙が続いた後、健吾が低い声で言った。「夜も更けた。早くお休み」「うん」綾は階段を上り始めた。でも、頭の中では悪魔がささやき続けていた。振り返って、健吾の元へ戻りなさい、と。健吾がほんの一言呼び止めてくれれば、自分は喜んで堕ちていくのに。幸いなことに……彼は何も言ってこなかった。綾はベッドに倒れ込むと、顔を布団にうずめた。ずっと止めていた息を、はあっと大きく吐き出す。健吾はその場に立ち尽くし、階段を上っていくそのしなやかな後ろ姿を、食い入るように見つめていた。綾がもし振り返っていたなら、燃えるように激しい自分の視線に気づいただろう。ありがたいことに……彼女は振り返らなかった。健吾はソファにどさりと身を沈め、重い体を背もたれに預けた。こわばっていた体から、ようやく力が抜けていく。深夜、風雨は激しくなり、荒波が唸りをあげていた。その音は、一晩中二人を眠らせなかった。――翌朝、綾が階下に下りていくと、健吾が電話をしていた。「ビアンカ、もうすぐ戻るから。いい子にしててくれないか?捨てるわけないだろう。いい子で、家で待っててくれ。プレゼントもちゃんと買ったから。お前が欲しがっていたもの、全部ね」その甘やかすような口調は、崖に吹きつける冷たい風のように綾の心を凍らせ、彼女を現実に引き戻した。綾は一瞬動きを止めると、黙って踵を返し、荷物をまとめに2階へ上がった。ビアンカのおかげで、今日帰れることになった。しばらくして、健吾が部屋に入ってきた。「車で待っていてくれ。スーツケースはマルスに運ばせるから」「ありがとう」綾はマルスが二往復しなくていいように、小さい方のスーツケースを自分で持って外へ出た。健吾が追いついてきて、綾の手からスーツケースをひょいと取り上げた。「これくらい、自分で持てる」「そうだろうな。介護の仕事は力仕事だろうから」もう、なんなのよ……深夜、飛行機は東都の空港に着陸した。マルスが到着口に車を寄せると、健吾が後部座席のドアを開けた。「乗りなよ」「ありがとう。でも、迎えを頼んであるから」前回のタクシーでの拉致事件以来、綾は気軽に車に乗ることができなくなっていた。剛に迎







