LOGIN私は藤原真琴(ふじわら まこと)。 夫・藤原雅人(ふじわら まさと)がずっと忘れられずにいた初恋の人、森川沙耶(もりかわ さや)は、不治の病を患っていた。 その沙耶が雅人の子を産んだ日、分娩室の前には十人ものボディーガードがいた。 私が病院に押しかけて騒ぎを起こすのを恐れ、雅人の両親が手配したのだ。 ところが、その日、私は病院には現れなかった。 雅人の母は沙耶の手を握った。 「沙耶ちゃん、何も心配しなくていいのよ。真琴が何をしてきても、あなたもお腹の子も私たちが守るわ!」 雅人も沙耶のそばにつき、心配そうに額の汗を拭っていた。 「大丈夫だ。父さんたちが病院の入り口を見張ってくれてる。真琴が来ても中には入れないし、騒いだらすぐ追い返すから」 私が来ないと分かると、雅人はようやく胸をなで下ろした。 雅人にしてみれば、母親になりたいという沙耶の最期の願いを叶えてやりたいだけだった。なのに、私がなぜあれほどむきになって反対するのか、どうしても理解できなかった。 看護師に抱かれた赤ん坊が元気な産声を上げると、雅人はほっとしたように笑った。 雅人は、明日私が沙耶にきちんと謝りさえすれば、沙耶の出産をめぐって何度も言い争ったことは、もう持ち出さないつもりだった。それどころか、この子に私のことを母親と呼ばせてもいいとまで考えていた。 けれど雅人は、私がついさっき、国境なき医師団からの海外派遣要請を受ける手続きを済ませていたことを、まだ知らなかった。 一週間後には、私はこの国を離れ、国境なき医師団の医師として海外の派遣先へ向かうことになっていた。 たとえ生きて帰ってこられたとしても、雅人と二度と会うつもりはなかった。
View More幸い、私は大きなけがをせずに済んだ。だが、私をかばった蓮は爆発に巻き込まれ、片脚に重傷を負った。負い目を感じた私は、せめて蓮のそばで、彼の力になろうと決めた。その頃の私は、まだ蓮に恋愛感情を抱いていなかった。ただ蓮の身の回りの世話をし、少しでも恩を返したいと思っていた。けれど、一緒に過ごす時間が増えるにつれ、私の気持ちも少しずつ変わっていった。蓮はいつも穏やかで、どんな私も受け止め、変わらず大切にしてくれた。蓮と過ごすうちに、いつの間にか心から笑えるようになっていた。気づけば、蓮のことを本気で好きになっていた。私たちの様子を見ていた同僚たちに背中を押され、私はようやく自分の気持ちを認めた。迷いながらも、私は蓮にその思いを伝えた。蓮も私の気持ちを受け止めてくれ、私たちは恋人同士になった。これから先、何があっても2人で支え合っていこうと約束した。一人で生きていくしかないと思っていた私にとって、蓮との出会いは思いがけないものだった。だから今度は、そばにいてくれる人を、自分から手放したくなかった。……帰国の日、院長はわざわざ空港まで迎えに来てくれた。私の姿を見つけると、うれしそうに目を細めた。「ずいぶん痩せたな。この2年、本当によく頑張った」何気ないねぎらいの言葉だったのに、聞いた途端に胸が詰まった。鼻の奥がつんとした。涙をこらえながら両腕を広げ、そのまま院長と抱き合った。院長と一緒に空港を出ようと歩き出した。すると、少し離れたところで男の子の手を引く雅人が目に入った。雅人には帰国することなど知らせていなかった。それなのに、雅人は空港まで来ていた。2年ぶりに見る雅人は、以前とはまるで別人だった。無精ひげを生やし、目の下には濃いくまが浮かんでいた。充血した目には生気がなく、髪にも白いものが増え、以前の面影がほとんど残らないほどやつれていた。この2年、雅人が苦労してきたことは、ひと目で分かった。雅人はしばらくこちらを見つめていたが、結局近づいては来ず、伸ばしかけた手も途中で下ろした。私は表情を変えないまま、黙って見ていた。そのとき、隣にいた蓮がそっと私の手を取り、そのまま指を絡めた。「あの人が、前に話してた元旦那さん?挨拶しなくていいの?何か言いたそうだけど」そう言い
雅人は目を赤くしたまま私を見ていた。また何か言おうとしたが、私は先に口を開いた。「まだ仕事があるの。ここは危ないから、あなたも早く帰って」それだけ言って、私は拠点へ向かった。背後から雅人の声が聞こえた。「真琴、お前が帰らないなら、俺も帰らない。ここに残って、お前のそばにいる。やりたいことを全部やり終えたら、そのときは一緒に帰ろう」私は振り返らず、その言葉を聞き流した。すると、背後で雅人のスマホが鳴った。沙耶の入院先からだったのか、電話に出た雅人が声を上げた。「何だって?沙耶が……死んだ?分かった。今すぐ戻る!」そのとき、聞き慣れた轟音が響き、2機の爆撃機が頭上に現れた。私はとっさに雅人を突き飛ばし、自分も地面に伏せた。「何するんだ!」次の瞬間、すぐ近くで爆発が起き、雅人の声は轟音にかき消された。地面が大きく揺れ、爆風で巻き上がった土が私たちの上に降りかかってきた。揺れが収まると、私は顔を上げて周囲を見回し、すぐに立ち上がった。雅人は地面に座り込んだまま目を見開き、身動きひとつしなかった。私は雅人の腕をつかみ、無理やり立たせた。「とにかく、早く中へ入って」雅人はすっかり怯え、唇まで震わせていた。「今の……一歩間違えたら、俺たち死んでたのか?」私はこうした爆撃をすでに何度も経験していたが、雅人にとっては初めてだった。私は唇を引き結び、少し間を置いてから答えた。「あとで責任者に頼んで、空港まで送ってもらうから。もう二度と、ここには来ないで」雅人は顔についた土を払うこともなく、スマホを握りしめていた。しばらくすると、現地チームの責任者が呼んだ運転手が、古びたピックアップトラックでやってきた。車を止めた運転手は、雅人に早く乗れと手招きした。私は料金とは別に紙幣を2枚渡し、雅人を無事に空港まで送り届けてほしいと頼んだ。雅人への気持ちは、もう残っていなかった。それでも、危険だと分かっていて置き去りにはできなかった。雅人はまだ顔をこわばらせたまま、何も言わなかった。ふと振り返ると、雅人は慌てて車へ乗り込んでいった。ついさっきまで、ここに残ると言っていたのが嘘のようだった。その背中を見送りながら、私は小さく苦笑した。初めから、こうなるような気はしていた。
「真琴……お前がいなくなってから、いろんなことがあった。母さんも……亡くなったんだ」思わず雅人を見た。雅人の母が亡くなったとは、今の今まで知らなかった。驚きのあまり何も言えずにいると、雅人は私の返事を待たずに話を続けた。「真琴、本当に悪かった。あのとき、俺たちは最初からお前が嘘をついてると決めつけて、まともに話を聞こうともしなかった。でも、嘘をついてたのは沙耶だった。専門医の予約を取ったなんて話も、全部でたらめだったんだ。俺たちは沙耶の言葉を信じて、母さんの病気をそのままにしてしまった。あのとき、お前の話をちゃんと聞いて、あの先生に診てもらってたら……母さんは助かってたかもしれない。全部、俺が悪かった。お前をあれだけ傷つけたうえに、母さんまで死なせてしまった……父さんにも、全部俺のせいだって言われたよ。何も言い返せなかった」雅人は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。そのまま肩を震わせて泣き出した。私は何も言わず、ただその姿を見ていた。ここへ来てからの数か月、家族を亡くした人や、大切な人と引き離された人たちを毎日のように見てきた。人の死にも、いつしか慣れてしまったと思っていた。それでも、雅人の母が亡くなったと聞けば、やはり胸が痛んだ。沙耶が現れる前は、雅人の母も私にそれなりによくしてくれた。私が子どもを失ったときには、お粥を作り、寝返りを打つのを手伝い、体まで拭いてくれた。けれど、沙耶が現れてからは、子どもを産めないことを何かと責められ、口を開けば孫の話をするようになった。雅人の声で、ふと我に返った。「真琴、ずっと捜してた。どうしても会って、直接謝りたかったんだ。仕事を辞めたのも、俺への当てつけなんかじゃなかったんだな。海外の医療支援に行くためだったって、あとになって知った。それで、ここまで来た。頼む、一緒に帰ってくれ。ここは危険すぎる。母さんを亡くしたばかりなんだ。お前まで失いたくない」私は首を横に振った。「帰らないわ」私には帰る場所があった。けれど、今ここを離れるつもりはなかった。ここにはまだ、治療を待っている人たちが大勢いた。自分で引き受けた仕事を途中で投げ出し、雅人と帰ることなど考えられなかった。私がきっぱり断ると、雅人の顔に焦りが浮かんだ。次の瞬間、すがるように私の手
けれど、何度かけても私の電話はつながらなかった。その頃には、私はもう国外へ向かう飛行機に乗っていた。窓際の席で、私はぼんやりと外を眺めていた。滑走路脇の建物が次々と後ろへ流れ、エンジン音が大きくなった。体がシートに押しつけられ、やがて眼下の地面が遠ざかっていった。すべて現実に起きていることなのに、まだ自分のこととは思えなかった。それでも、もう後戻りはできなかった。これからは国境を越え、助けを必要としている人たちのために働いていく。そう心に決めた。十数時間後、現地の空港に着いた頃には、私も仲間たちも疲れ切っていた。空港の外には銃を持った兵士たちが立ち、遠くでは時折、砲撃音が響いていた。それまで暮らしていた穏やかな街とは、あまりにも違っていた。少しでも判断を誤れば、命を落としかねない土地だった。迎えの車に乗り込むと、現地チームの責任者が、派遣先までの道のりや危険な区域について説明し始めた。通ってはいけない道や、銃声が聞こえたときの避難場所などを、私たちは眠気に耐えながら一つずつ頭に入れていった。説明が終わると、一人ずつ防弾ベストと緊急用の無線機を渡された。「患者を救うことは大切だ。でも、自分が無事でなければ、誰かを助けることもできない。危険を感じたら、すぐに避難してほしい。まずは自分の命を守る。それだけは忘れないでくれ」自分の命を守る。その言葉を聞いて、ふと雅人と過ごした日々を思い出した。結婚していた頃の私は、いつも雅人のことばかり考えていた。何かを選ぶたびに雅人を優先し、自分の望みは後回しにしていた。自分の命よりも、雅人のほうが大切だと本気で思っていた。けれど、私だけを見て、大切にしてくれた頃の雅人は、もう思い出の中にしかいなかった。私たちは、とっくに終わっていた。もう二度と、雅人の言葉に振り回されたり、雅人が沙耶と寄り添う姿を見て傷ついたりはしない。雅人のために、仕事も自分の将来も諦めない。これからは、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑う。誰かに合わせるのではなく、自分で選んだ人生を生きていこう。そう決めた。それからしばらくして、車は派遣先に着いた。ぬかるんだ道の脇には、大勢の負傷者が座り込んでいた。腕や脚から血を流し、傷口に布を巻いただけの人もいた。現地スタッフに