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他の女が夫の子を産んだ日、私は夫を捨てました

他の女が夫の子を産んだ日、私は夫を捨てました

By:  ソフトクリームCompleted
Language: Japanese
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私は藤原真琴(ふじわら まこと)。 夫・藤原雅人(ふじわら まさと)がずっと忘れられずにいた初恋の人、森川沙耶(もりかわ さや)は、不治の病を患っていた。 その沙耶が雅人の子を産んだ日、分娩室の前には十人ものボディーガードがいた。 私が病院に押しかけて騒ぎを起こすのを恐れ、雅人の両親が手配したのだ。 ところが、その日、私は病院には現れなかった。 雅人の母は沙耶の手を握った。 「沙耶ちゃん、何も心配しなくていいのよ。真琴が何をしてきても、あなたもお腹の子も私たちが守るわ!」 雅人も沙耶のそばにつき、心配そうに額の汗を拭っていた。 「大丈夫だ。父さんたちが病院の入り口を見張ってくれてる。真琴が来ても中には入れないし、騒いだらすぐ追い返すから」 私が来ないと分かると、雅人はようやく胸をなで下ろした。 雅人にしてみれば、母親になりたいという沙耶の最期の願いを叶えてやりたいだけだった。なのに、私がなぜあれほどむきになって反対するのか、どうしても理解できなかった。 看護師に抱かれた赤ん坊が元気な産声を上げると、雅人はほっとしたように笑った。 雅人は、明日私が沙耶にきちんと謝りさえすれば、沙耶の出産をめぐって何度も言い争ったことは、もう持ち出さないつもりだった。それどころか、この子に私のことを母親と呼ばせてもいいとまで考えていた。 けれど雅人は、私がついさっき、国境なき医師団からの海外派遣要請を受ける手続きを済ませていたことを、まだ知らなかった。 一週間後には、私はこの国を離れ、国境なき医師団の医師として海外の派遣先へ向かうことになっていた。 たとえ生きて帰ってこられたとしても、雅人と二度と会うつもりはなかった。

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Chapter 1

第1話

雅人が沙耶を産後ケアホテルから連れて帰ってきた日、私はちょうど病院で仕事の引き継ぎを終えたところだった。

そのまま家へ戻ると、玄関の向こうから楽しそうな話し声と笑い声が聞こえてきた。

「まあ、なんてかわいいの。眉のあたりなんて、雅人にそっくりじゃない。沙耶ちゃん、本当によく頑張ったわね。こんなにかわいい孫に会わせてくれて、ありがとう」

雅人の母は、うれしそうに赤ん坊をあやしていた。そこへ雅人が、温かい食事を載せたトレーを持ってキッチンから戻ってきた。

「沙耶、大変だったな。食べやすいものを作ってみた。まだ体も本調子じゃないんだから、少しでも食べないと」

雅人はベッド脇に腰を下ろし、沙耶に一口ずつ食べさせていた。傍から見れば、どこにでもいる仲のいい家族だった。

雅人の父も、小さなぬいぐるみで赤ん坊をあやし、すっかり頬を緩ませていた。

「この子は沙耶ちゃんに似て、愛嬌のある子になりそうだな。真琴みたいに無口で、何を考えてるのか分からない女が母親じゃなくて、本当によかったよ。おまけにあいつは医者だろ。そんな女が母親じゃ、こっちまで気が休まらないからな」

ドアノブにかけた手に、思わず力がこもった。

雅人の父と初めて会った日のことが、ふと頭をよぎった。

あのときは私の肩をたたき、医者の嫁ができて鼻が高いと、あんなに喜んでいたのに。

それが今では、まるで医者には家庭を持つ資格がないとでも言いたげだ。

たった1年、海外研修で家を離れていただけなのに、私の居場所はもう、この家のどこにも残っていなかった。

私はうつむき、口元に苦い笑みを浮かべた。

雅人と結婚して3年になる。かつて、私たちにも子どもがいた。

けれど、ある事故でその子を失い、そのうえ子宮にまで損傷を負った。医師からもう二度と妊娠できないと告げられ、私は泣き崩れた。

雅人はそんな私を抱きしめ、自分が望んでいるのは私との子だけで、子どもがいなくても二人で生きていけばいいと慰めてくれた。

それなのに今、雅人は沙耶の「母親になりたい」という最期の願いを叶えるために、私との約束を破った。

私が海外研修に出発した日、雅人は子どものように泣きながら、いつまでも私を抱きしめていた。あの日のことは、今でも忘れられない。

離れて暮らしたこの1年も、私たちは毎日欠かさず電話をし、その日にあったことを話していた。同僚たちからは、結婚して3年も経つのに、まるで付き合いたての恋人同士みたいだと、よく冷やかされていた。

そんな中、1か月前にようやくまとまった休みが取れ、1年ぶりに家へ帰れることになった。

9時間のフライトを終えたばかりだったが、疲れなど気にも留めず、その足で家へ急いだ。

ところが、自宅マンションの敷地内まで戻ったとき、私の目に飛び込んできたのは、手をつないで歩く雅人と沙耶の姿だった。

しかも、沙耶のお腹は、ひと目で妊娠していると分かるほど大きく膨らんでいた。

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第1話
雅人が沙耶を産後ケアホテルから連れて帰ってきた日、私はちょうど病院で仕事の引き継ぎを終えたところだった。そのまま家へ戻ると、玄関の向こうから楽しそうな話し声と笑い声が聞こえてきた。「まあ、なんてかわいいの。眉のあたりなんて、雅人にそっくりじゃない。沙耶ちゃん、本当によく頑張ったわね。こんなにかわいい孫に会わせてくれて、ありがとう」雅人の母は、うれしそうに赤ん坊をあやしていた。そこへ雅人が、温かい食事を載せたトレーを持ってキッチンから戻ってきた。「沙耶、大変だったな。食べやすいものを作ってみた。まだ体も本調子じゃないんだから、少しでも食べないと」雅人はベッド脇に腰を下ろし、沙耶に一口ずつ食べさせていた。傍から見れば、どこにでもいる仲のいい家族だった。雅人の父も、小さなぬいぐるみで赤ん坊をあやし、すっかり頬を緩ませていた。「この子は沙耶ちゃんに似て、愛嬌のある子になりそうだな。真琴みたいに無口で、何を考えてるのか分からない女が母親じゃなくて、本当によかったよ。おまけにあいつは医者だろ。そんな女が母親じゃ、こっちまで気が休まらないからな」ドアノブにかけた手に、思わず力がこもった。雅人の父と初めて会った日のことが、ふと頭をよぎった。あのときは私の肩をたたき、医者の嫁ができて鼻が高いと、あんなに喜んでいたのに。それが今では、まるで医者には家庭を持つ資格がないとでも言いたげだ。たった1年、海外研修で家を離れていただけなのに、私の居場所はもう、この家のどこにも残っていなかった。私はうつむき、口元に苦い笑みを浮かべた。雅人と結婚して3年になる。かつて、私たちにも子どもがいた。けれど、ある事故でその子を失い、そのうえ子宮にまで損傷を負った。医師からもう二度と妊娠できないと告げられ、私は泣き崩れた。雅人はそんな私を抱きしめ、自分が望んでいるのは私との子だけで、子どもがいなくても二人で生きていけばいいと慰めてくれた。それなのに今、雅人は沙耶の「母親になりたい」という最期の願いを叶えるために、私との約束を破った。私が海外研修に出発した日、雅人は子どものように泣きながら、いつまでも私を抱きしめていた。あの日のことは、今でも忘れられない。離れて暮らしたこの1年も、私たちは毎日欠かさず電話をし、その日にあったことを話して
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第2話
沙耶に声をかけられ、私ははっと我に返った。「真琴さん、いつ帰ってきたんですか?どうして玄関に立ったまま、入ってこないんです?」その声で、雅人たちも一斉にこちらを振り返った。雅人の母は、私が手にしていた退職届を見るなり、露骨に顔をしかめた。「まったく、あのときの私はどうかしてたわ。よりによって、あんたみたいな疫病神を雅人の嫁にするなんて。仕事まで辞めて、これからは働きもせず、雅人の稼ぎを当てにするつもり?」雅人の父も、すぐさま口を挟んだ。「せっかく医者になったくせに、その仕事さえ続けられないのか。そんなお前に何ができるっていうんだ。こんな役立たずだと知ってたら、最初から嫁になんか迎えなかった!沙耶ちゃんは出産したばかりで、まだ体も戻ってないんだぞ。これからは子どもにも何かと金がかかる。雅人を支えるどころか、お前まで重荷になってどうする。それでも妻か!」あまりに身勝手な言い分に、笑いがこみ上げた。「じゃあ、雅人はどうなんですか。私が研修で家を空けている間に、別の女との間に子どもまで作った。それでも夫と言えるんですか?」「いい加減にしろ!俺はお前のことを思って、ここまでしたんだぞ!」雅人は眉をひそめ、冷ややかな目を私に向けた。「お前は子どもを産めないだろ。だから沙耶に産んでもらい、その子をお前が育てればいいと思ったんだ。お前のためを思ってしたことなのに、どうしてそれが分からない?沙耶は母親になりたいという願いを叶えて、悔いを残さずに済む。お前は自分で産まなくても母親になれる。どっちにとっても悪い話じゃないだろ。いったい何がそんなに気に入らないんだ?」雅人はなおも続けた。「2年前、交通事故に遭った俺を助けてくれたのは沙耶だ。あのとき沙耶がいなかったら、俺はとっくに死んでた。両親を亡くして身寄りもないのに、今度は末期がんで、もう長くないんだ。このままじゃ、沙耶のことを覚えてる人間さえいなくなる。同じ女なら、少しくらい沙耶の気持ちが分かるだろ。どうしていつも沙耶を目の敵にするんだ?それともお前は、俺が自分の欲を満たすために、沙耶との間に子どもを作ったとでも思ってるのか?」沙耶は雅人の手をそっと握り、私のほうを見た。「真琴さん、もうそれ以上言わないでください。悪いのは全部私です。これからは二度とお二人の前に現
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第3話
ふと、1か月前に帰ってきた日のことを思い出した。あの日、私は海外で雅人のために選んだ土産を手に、家へ急いでいた。家の前まで来ると、手をつないで散歩から戻ってくる雅人と沙耶が見えた。私に気づいた雅人はさっと顔色を変えたが、沙耶は不思議そうに私を見ていた。「あの……どちらさまですか?ここ、うちなんですけど……もしかして部屋を間違えてません?」私は何も答えず、大きく膨らんだ沙耶のお腹をじっと見つめた。私が家を空けていたわずか10か月の間に、雅人は初恋の人を家に住まわせ、その人との子どもまで作っていた。私のいない間に二人の間で何があったのかは、沙耶のお腹を見れば嫌でも分かった。雅人は慌てて沙耶の前に立ち、私を紹介した。「……妻の真琴だ」私が妻だと分かれば、少しは遠慮すると思っていた。ところが沙耶は当然のように玄関を開け、客でも迎えるように私を中へ招き入れた。私の横を通るとき、沙耶は私にしか聞こえないほど小さな声で言った。「雅人と結婚して、もう3年になるそうですね。でも、代わりは何年たっても代わり。雅人が本当に愛しているのは私ですよ。私が戻ってきたんだから、そろそろ身を引いてくれません?」その言葉を聞いた途端、10か月間募らせてきた雅人への思いが一気に怒りへ変わり、私はこらえきれず沙耶の頬を思いきり叩いた。騒ぎを聞いた近所の人が警察を呼び、私たちは警察署でそれぞれ事情を聞かれた。結局、大事にはならず、その日のうちに家へ帰された。家に戻ると、騒ぎを聞いて駆けつけた雅人の両親が、私の顔を見るなり怒鳴り始めた。帰国したその日に近所まで巻き込むなんて恥ずかしくないのかと、二人に散々責められた。人の命を預かる医者が人を叩くなんて信じられない、沙耶に何かあったら絶対に許さないとまで言われた。話を聞くうちに、雅人の両親が二人の関係を前から知っていたことも分かった。止めるどころか、むしろ二人の背中を押していたのだ。たった1年で、沙耶は雅人の両親にとって理想の嫁になっていた。何も知らされずにいたのは、私だけだった。何とも言えない苦さが込み上げた。目を赤くした雅人が私に近づき、手を握ろうとした。「真琴、違うんだ。俺はお前を裏切るつもりなんてなかった。沙耶は医者から、あと半年しか生きられないと言われてる
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第4話
「雅人、拓耶をあやしてくれない?さっきからずっと泣いてるの」すると、雅人の笑い混じりの声が返ってきた。「俺は沙耶のそばにいられれば、それでいいんだ。拓耶なら、少しくらい泣かせておいても平気だろ。赤ん坊は泣くのが仕事なんだから」私は二人の笑い声を遮るように、毛布を頭までかぶった。目を閉じると、雅人に初めて告白された日のことが、ふいに浮かんできた。あの頃の雅人はいつも笑顔で、私のことを何よりも大切にしてくれていた。けれど、そんな雅人はもういない。眠ったのかどうかも分からないまま朝を迎え、まだ外が薄暗いうちにスーツケースを引いて家を出た。市役所で国外転出届を出したあと、国境なき医師団の事務局へ向かい、出発前の最終確認を済ませた。必要な書類はすべてそろっていたため、手続きは思ったより早く終わった。担当の女性も、私の事情には深く触れなかった。帰り際、その女性が私を呼び止め、フルーツ味のキャンディーをいくつか手渡してくれた。「どうか、あなたの願いがかないますように」私は笑ってうなずき、事務局を出たあと、近くのホテルに部屋を取った。ホテルに荷物を置き、何か食べようと外へ出たところで、雅人たちとばったり会った。沙耶は見るからに高そうなブレスレットをつけ、得意げな顔をしていた。とても余命わずかな人には見えなかった。「やっぱり真琴さんだったんですね。遠くから見て、そうじゃないかと思ったんです。でも雅人ったら、こんなところにいるはずないって言うんですよ」沙耶は私が持っていた求人チラシを見ると、ふっと笑った。「仕事を探してたんですね。でも、医師免許があるのに、どうして飲食店の求人なんか見てるんですか?雅人とけんかしたからって、そんな意地にならなくてもいいのに……」私は何も言わなかった。そのチラシは、さっき道端で若い女性から受け取ったものだった。寒い中でチラシを配っていたので、つい受け取っただけだった。私が黙ったままチラシを握りしめていると、沙耶はますます得意そうに笑った。「仕事を探してるなら、先に相談してくれればよかったのに。もう家族みたいなものなんですから、遠慮しなくていいんですよ。これから先、雅人と拓耶のことは真琴さんにお願いするんですから、もっと先のことを考えて仕事を選んでもらわないと。これで
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第5話
「そんな態度ばかり取っているから、雅人にも愛想を尽かされるんだ。沙耶ちゃんを見習って、少しはかわいげのある女になったらどうだ」二人は人目も気にせず、さらにひどい言葉を浴びせてきた。通りすがりの人たちも、何事かとこちらを振り返っていた。私は爪が手のひらに食い込むほど、両手を強く握りしめた。何か言い返そうとしたそのとき、沙耶が一歩前に出た。「私たち、これから家族写真を撮りに行くんです。真琴さんも一緒にどうですか?これから先も、雅人と拓耶のことをよろしくお願いしますね」私は返事をせず、黙って沙耶を見返した。すると雅人は沙耶をかばうように抱き寄せ、私を見て鼻で笑った。「沙耶が気を遣って誘ってくれてるのに、その態度は何だ。そんな顔で来られても迷惑なんだよ。来たくないなら来なくていい。お前まで写ったら、家族写真が台無しだからな」雅人はそれだけ言うと、沙耶の手を引いて写真館へ向かった。「それじゃ、お先に。真琴さんも、仕事探し頑張ってくださいね」去り際、沙耶は一度だけ振り返り、勝ち誇ったような目を私に向けた。雅人たちが遠ざかっていくのを、私は黙って見送った。もう、何も感じなかった。ほかの人には、きっと仲のいい家族に見えるのだろう。これが雅人の望んでいるものなら、私はもう、おとなしく身を引こう。……海外へ発つまで、あと3日。その日、院長からメッセージが届いた。以前紹介を頼んでいた喘息の専門医が、ちょうど国内の学会に出席しているらしい。すでに話も通してくれていて、今日なら雅人の母を診てもらえることになった。雅人の母は昔から喘息持ちで、ここ数年は薬で症状も落ち着いていた。それでも時折発作を起こし、ひどいときには救急搬送されたこともあった。私もずっと気にかけていて、海外研修中には、何か治療の参考になればと、同僚に頼んで似た症例の資料を集めてもらっていた。もうすぐこの家を出るとはいえ、長年一緒に暮らしてきた人を放っておく気にはなれなかった。せめて診察だけでも受けてもらえれば、心残りなくここを離れられると思っていた。ところが、病院の話を切り出した途端、雅人の母はあからさまに顔をしかめた。「何よ、急に。私はどこも悪くないわよ。病院まで行くなんて、時間の無駄でしょう。この前の健康診断でも異常なしだったん
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第6話
私に気づいた親戚や知人たちは、すぐに顔を寄せ合った。声までは聞こえなくても、私の噂をしていることくらいは分かった。雅人の伯母が私の腕に手を添え、親しげに声をかけてきた。「真琴ちゃん、いつ帰ってきたの?雅人ったら、何も教えてくれないんだもの。子どもが生まれたことまで黙ってるなんて、びっくりしたわ。海外研修から戻ったら、中央総合病院で診療科長になるんでしょう?若いのに大したものね。これからますます忙しくなるんじゃない?」私は何も言わず、軽く会釈だけ返した。顔を上げると、何人かがこちらを見て、嘲るように口元を歪めていた。入り口の家族写真に私はいなかった。会場でも、雅人のそばにいるのは沙耶だった。すると、親戚の一人が、雅人にデザートを食べさせている沙耶へ目をやり、声を潜めた。「真琴ちゃん、あの人は誰なの?」私は口元だけで笑った。「雅人の新しい奥さんです」私がそう答えると、何食わぬ顔でこちらの会話を聞いていた親戚たちが、一斉に目を見開いた。次の瞬間には、またあちこちでひそひそ話が始まった。雅人たちが人目も気にしていないのなら、私がわざわざ隠してやる必要もない。そのとき、雅人が壇上に上がり、マイクを手にした。「今日は拓耶のためにお集まりいただき、本当にありがとうございます。少し前まで、自分が父親になるなんて想像もしていませんでした。ちゃんと父親になれるのか、不安もありました。でも、拓耶の産声を聞いた瞬間、父親としてこの子を守っていこうと決めました」すると、近くにいた親戚の一人が声を上げた。「お父さんだけじゃなくて、お母さんの話も聞きたいわ。拓耶くんのお母さんはどこ?」そのひと言で、会場のざわめきが一瞬にして消えた。皆が私を見たあと、今度は沙耶へ顔を向けた。誰が母親なのかは、すでに分かっていた。それでも雅人本人に言わせたいのか、誰も口を開かなかった。壇上にいた雅人が、戸惑ったように私のほうを見た。私は席を立ち、雅人をまっすぐ見ながらゆっくり壇上へ上がり、驚いている彼の手からマイクを取った。「おい、何する気だ。余計なことは言うな。変な真似をしたら、ただじゃおかないぞ」雅人は私の袖をつかみ、周囲に聞こえない声でそう言った。その目には、一瞬、焦りが浮かんでいた。私は雅人のほうを見ず、
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第7話
そう言って、私は用意していた離婚協議書をバッグから取り出し、雅人の足元に叩きつけた。雅人と沙耶が一緒にいるのを見たあの日から、ずっとこうして離婚を突きつけたかった。雅人の顔から、さっと血の気が引いた。会場の騒ぎを収めようとマイクに手を伸ばしたかと思えば、今度は私の腕をつかみ、慌てて言い訳を始めた。「真琴、何をそこまで意地になってるんだよ。前にも言っただろ?このことはもう忘れて、これからは三人で、家族としてやっていけばいいって」三人で?雅人にとっては、私でも沙耶でも、どちらでもよかったのだろう。雅人と拓耶のそばにいてくれる女なら、それでよかったのだ。もう、気づかないふりをするのはやめた。私は雅人の手を振り払い、きっぱりと言った。「もう話すことはないわ。サインして。あとは沙耶と仲よくやればいい」雅人は足元の離婚協議書を見下ろし、声を荒らげた。「サインなんかするか。離婚する気もない。何を言われても、俺は別れないからな!」離婚協議書を作る前、私は弁護士に相談していた。雅人の不貞の証拠は十分にあり、財産分与とは別に慰謝料も請求できると言われた。婚姻中に、別の女との間に子どもまで作ったのだ。どんな事情があろうと、不貞の事実は変わらない。ただ、話し合いでまとまらなければ調停や裁判になり、決着までかなりの時間がかかる。私はもうすぐ海外へ発つ予定だった。長い手続きに付き合ってまで、多額の慰謝料を求めるつもりはなかった。受け取るのは、財産分与で認められる自分の分だけにした。そのお金も、国を離れたあとに児童養護施設へ寄付するつもりだった。これ以上、雅人の言い訳を聞く気はなかった。ざわつく会場を横目に、私はそのまま出口へ向かった。雅人はまだ諦める気がないらしく、抱いていた拓耶を母親に預けた。「真琴、待ってくれ。頼む、ちゃんと説明させてくれ……」私のあとを追いかけようとしたそのとき、沙耶が突然胸を押さえ、苦しそうにあえぎ始めた。「雅人、苦しい……さっき、あんな騒ぎになったからかも……急に息ができなくなって……」雅人はぴたりと足を止め、すぐに沙耶のもとへ引き返した。倒れかけた沙耶を、そのまま腕に抱き留めた。「沙耶、大丈夫か?しっかりしろ。すぐ病院へ連れていく!」雅人が沙耶のもとへ戻っていくの
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第8話
雅人の母と沙耶が同時に苦しみ出し、雅人はどちらに付き添えばいいのかも分からず、眉間にしわを寄せたまま立ち尽くしていた。やがて、雅人の母が処置室へ運ばれようとしたときだった。廊下の向こうから、院長と喘息治療の権威として知られる千田宗一郎(せんだ そういちろう)が歩いてきた。二人の姿を見つけた雅人は、なりふり構わず駆け寄り、その前に膝をついた。「院長先生、千田先生……母を助けてください!喘息の発作を起こして、まともに息もできないんです。以前、千田先生に診ていただく予定になっていたはずです。お願いします、今すぐ診てください!」宗一郎はすぐには答えず、雅人の顔をじっと見た。やがて何かに気づいたように口を開いた。「もしかして、真琴さんのご主人ですか?」雅人は一瞬目を見開き、勢いよく顔を上げた。「はい、そうです。先生は真琴をご存じなんですか?」宗一郎は不思議そうに雅人を見返した。「私にお母さまの診察を頼んできたのは、真琴さんですよ。院長から話をいただき、真琴さんとも直接連絡を取りました。そのときにあなたの写真も見せてもらったので、お顔を覚えていたんです。お母さまのことをとても心配されていて、本当によくできたお嫁さんだと感心しました。ところが2日前、診察を取りやめたいと連絡があったんです。それが、どうして今になってこんなことに?」雅人は言葉を失い、宗一郎を見上げた。「真琴が……先生にお願いしていたんですか?でも、先生に連絡したのは沙耶のはずじゃ……」その言葉に、宗一郎は不快そうに眉をひそめた。「私が嘘をついているとおっしゃるんですか?」雅人は宗一郎を怒らせたことに気づき、慌てて何か言おうとした。だが、宗一郎は聞く耳を持たず、そのまま立ち去った。宗一郎の姿が廊下の向こうに消えると、雅人はその場に力なく座り込んだ。雅人たちは、私に名医の診察を取りつけられるはずがないと決めつけ、診察の手配も沙耶がしたものだと思い込んでいた。だが、実際に院長へ頼み、宗一郎と連絡を取っていたのは私だった。私が嘘をついていたわけではない。雅人たちが、初めから私の話を信じようとしなかっただけだ。雅人は何も言えず、床を見つめたまま動かなかった。やがて我に返ると、立ち上がって宗一郎のあとを追った。「千田先生、待って
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第9話
けれど、何度かけても私の電話はつながらなかった。その頃には、私はもう国外へ向かう飛行機に乗っていた。窓際の席で、私はぼんやりと外を眺めていた。滑走路脇の建物が次々と後ろへ流れ、エンジン音が大きくなった。体がシートに押しつけられ、やがて眼下の地面が遠ざかっていった。すべて現実に起きていることなのに、まだ自分のこととは思えなかった。それでも、もう後戻りはできなかった。これからは国境を越え、助けを必要としている人たちのために働いていく。そう心に決めた。十数時間後、現地の空港に着いた頃には、私も仲間たちも疲れ切っていた。空港の外には銃を持った兵士たちが立ち、遠くでは時折、砲撃音が響いていた。それまで暮らしていた穏やかな街とは、あまりにも違っていた。少しでも判断を誤れば、命を落としかねない土地だった。迎えの車に乗り込むと、現地チームの責任者が、派遣先までの道のりや危険な区域について説明し始めた。通ってはいけない道や、銃声が聞こえたときの避難場所などを、私たちは眠気に耐えながら一つずつ頭に入れていった。説明が終わると、一人ずつ防弾ベストと緊急用の無線機を渡された。「患者を救うことは大切だ。でも、自分が無事でなければ、誰かを助けることもできない。危険を感じたら、すぐに避難してほしい。まずは自分の命を守る。それだけは忘れないでくれ」自分の命を守る。その言葉を聞いて、ふと雅人と過ごした日々を思い出した。結婚していた頃の私は、いつも雅人のことばかり考えていた。何かを選ぶたびに雅人を優先し、自分の望みは後回しにしていた。自分の命よりも、雅人のほうが大切だと本気で思っていた。けれど、私だけを見て、大切にしてくれた頃の雅人は、もう思い出の中にしかいなかった。私たちは、とっくに終わっていた。もう二度と、雅人の言葉に振り回されたり、雅人が沙耶と寄り添う姿を見て傷ついたりはしない。雅人のために、仕事も自分の将来も諦めない。これからは、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑う。誰かに合わせるのではなく、自分で選んだ人生を生きていこう。そう決めた。それからしばらくして、車は派遣先に着いた。ぬかるんだ道の脇には、大勢の負傷者が座り込んでいた。腕や脚から血を流し、傷口に布を巻いただけの人もいた。現地スタッフに
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第10話
「真琴……お前がいなくなってから、いろんなことがあった。母さんも……亡くなったんだ」思わず雅人を見た。雅人の母が亡くなったとは、今の今まで知らなかった。驚きのあまり何も言えずにいると、雅人は私の返事を待たずに話を続けた。「真琴、本当に悪かった。あのとき、俺たちは最初からお前が嘘をついてると決めつけて、まともに話を聞こうともしなかった。でも、嘘をついてたのは沙耶だった。専門医の予約を取ったなんて話も、全部でたらめだったんだ。俺たちは沙耶の言葉を信じて、母さんの病気をそのままにしてしまった。あのとき、お前の話をちゃんと聞いて、あの先生に診てもらってたら……母さんは助かってたかもしれない。全部、俺が悪かった。お前をあれだけ傷つけたうえに、母さんまで死なせてしまった……父さんにも、全部俺のせいだって言われたよ。何も言い返せなかった」雅人は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。そのまま肩を震わせて泣き出した。私は何も言わず、ただその姿を見ていた。ここへ来てからの数か月、家族を亡くした人や、大切な人と引き離された人たちを毎日のように見てきた。人の死にも、いつしか慣れてしまったと思っていた。それでも、雅人の母が亡くなったと聞けば、やはり胸が痛んだ。沙耶が現れる前は、雅人の母も私にそれなりによくしてくれた。私が子どもを失ったときには、お粥を作り、寝返りを打つのを手伝い、体まで拭いてくれた。けれど、沙耶が現れてからは、子どもを産めないことを何かと責められ、口を開けば孫の話をするようになった。雅人の声で、ふと我に返った。「真琴、ずっと捜してた。どうしても会って、直接謝りたかったんだ。仕事を辞めたのも、俺への当てつけなんかじゃなかったんだな。海外の医療支援に行くためだったって、あとになって知った。それで、ここまで来た。頼む、一緒に帰ってくれ。ここは危険すぎる。母さんを亡くしたばかりなんだ。お前まで失いたくない」私は首を横に振った。「帰らないわ」私には帰る場所があった。けれど、今ここを離れるつもりはなかった。ここにはまだ、治療を待っている人たちが大勢いた。自分で引き受けた仕事を途中で投げ出し、雅人と帰ることなど考えられなかった。私がきっぱり断ると、雅人の顔に焦りが浮かんだ。次の瞬間、すがるように私の手
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