ログイン食事の席で、夫の久世智紀(くぜ ともき)は箸で生姜をたっぷり取り、私・白川彩葉(しらかわ いろは)の皿へ載せながら「もっと食べて」と勧めてきた。 どの料理にも生姜が入っている食卓を見つめながら、私は黙って涙を流した。 「生姜が好きなのは私じゃない。勘違いしてるよ。私は生姜を食べると吐いちゃうの」 かつて私が飛行機事故で行方不明になったあと、夫は幼い息子のために、私とよく似た女を身代わりとして家に迎えた。 ところが、ようやく戻ってきた私を待っていたのは、家族がすでにその女・白川真奈(しらかわ まな)を私の代わりとして受け入れている現実だった。 私は彼らを家族だと思っていた。 それなのに、真奈に何度陥れられても、彼らが選ぶのはいつも彼女だった。 そしてある晩、3年ぶりに会った息子が、初めて自分から私の部屋を訪ねてきた。 私は嬉しくてたまらず、久しぶりに会った息子を抱きしめようとした。 だが、息子が最初に口にした言葉に、全身が凍りついた。 「僕の家から出ていって」 私は力なくその場に崩れ落ち、そっと目を閉じた。 「分かった。それがあなたの望みなら」
もっと見る智紀はなおも食い下がったが、私にはこれ以上付き合っている時間はなかった。立ち上がってその場を去ろうとした瞬間、星夜が突然口を開いた。「そう呼んでほしいなら、呼んでもいい。でも、僕たちと一緒に帰って」その言葉に、私は一瞬立ち止まった。だが、すぐに意味を理解すると、笑って首を横に振った。「もういいの」……あれだけはっきり断ったのだから、さすがに諦めると思っていた。ところが智紀と星夜は、いつまでも帰ろうとしなかった。智紀は嫌がらせのように、隣の民宿を丸ごと借り切り、そこに居座った。私はうんざりしていたが、どうすることもできなかった。隣の宿の客まで、私の都合で追い出すわけにはいかない。そのうち諦めるだろうと思い、放っておくことにした。だが、彼らが諦めるより先に、私たちの民宿で騒ぎが起きた。その日、直樹は客を駅まで送りに行っていた。すると突然、体格のいい男たちが何人も民宿へ押し入ってきた。彼らはほかには何もせず、目についた物を片っ端から壊し始めた。客たちは怯え、慌てて外へ逃げていった。そのとき、ちょうど智紀が中庭に立っているのが見えた。私は当然、彼が連れてきた男たちだと思い、眉をひそめながら歩み寄った。「智紀、もう何度も言ったでしょう。私たちはもう何の関係もないの。いい加減、星夜を連れて帰ってくれない?」智紀は驚いた顔で振り返った。「俺じゃない……」そこで初めて、私は智紀の腕から血が流れていることに気づいた。そして、その向こうには、彼に行く手を阻まれている大柄な男たちがいた。男たちは誰かに雇われ、嫌がらせをしに来ただけだったらしい。人を傷つけてしまったと分かると、我先に逃げていった。智紀を誤解していたと気づき、私はすぐに直樹へ電話をかけ、急いで戻ってきてほしいと伝えた。そのあと、智紀を病院へ連れていき、傷の手当てを受けさせた。医師が丁寧に傷口を処置する間、診察室には重い沈黙が流れていた。その静けさを破るように、智紀が突然言った。「悪かった」私は少し驚き、顔を上げた。智紀の目は赤く、必死に涙をこらえているようだった。意外には思ったが、何も答えず、ただ静かに笑った。あまりにも遅すぎる言葉は、言わなかったのと変わらない。「それでも、本当に俺
その後、私たちは結婚した。さらに3年が過ぎ、私は直樹と海辺で小さな民宿を営み、かわいい娘にも恵まれた。娘には瀬戸月乃(せと つきの)と名づけ、家では「つきちゃん」と呼んでいた。星夜が私のそばにいたくないのなら、これからは月乃がそばにいてくれればいい。智紀がここを見つけたとき、月乃はちょうど歩き始めたばかりだった。月乃を見ても、智紀はすぐには何も言わなかった。だが星夜は、先に目を赤くした。「その子、誰?」星夜は感情を抑えきれない様子で近づき、月乃を突き倒そうとした。「星夜、何をするの!」私は慌てて月乃の前に立ちはだかった。私にこれほど強い声で叱られたのは初めてだったのか、星夜は目を赤くし、信じられないという顔で私を見た。「この子は、私の娘よ」その言葉を聞いた途端、二人の表情が変わった。智紀は目を見開き、複雑な表情で月乃を見つめた。その視線に怯えた月乃が泣き出しかけたので、私はすぐに抱き上げた。星夜はさらに一歩前へ出て、警戒するように月乃をにらんだ。「僕が本当の息子だ!その子じゃない!」私は気にする様子もなく、薄く笑った。「本当の息子だと言うなら、どうして一度も私を『ママ』って呼ばなかったの?でも、この子はちゃんと私をママと呼んでくれる」そう言って、腕の中の月乃を軽くあやしながら、優しく問いかけた。「つきちゃん、私は誰?」「ママ!」月乃の愛らしい声は、向かいにいる二人をさらに深く傷つけたようだった。けれど、私は二人の気持ちを気遣うつもりなどなかった。月乃を抱いたまま、家へ戻ろうと背を向けた。すると智紀が素早く前へ回り込み、私の行く手を遮った。「彩葉、少し話せないか」「分かった。少し待ってて」正直、今さら彼らが私を捜し出して、ここまで来るとは思ってもみなかった。だが、もう怖くはなかった。ここできっぱり縁を切っておくのも悪くない。私は直樹を呼び、月乃を連れて帰ってもらうことにした。直樹が姿を現した瞬間、智紀が目を見開き、そのあと強く拳を握りしめたのが見えた。私は気にせず、娘の額に口づけた。「パパと先に帰っててね」月乃は素直にうなずき、帰り際にも私へ手を振った。「ママ、またあとでね」直樹は目の前の奇妙な状況を見回したが、何も尋
その女のせいで、危うく自分の妻まで死なせるところだった。智紀から連絡を受けた真奈は、かえって喜んだ。放火の件が明るみに出てから、智紀に家を追い出されていたからだ。それでも呼び戻されたということは、この3年間は無駄ではなかったのだ。結局、智紀は自分なしではいられない。そう思いながら屋敷へ入った真奈は、目の前の光景に言葉を失った。智紀は玄関の正面にあるソファに座り、その両脇には私の両親がそれぞれ腰を下ろしていた。どう見ても、真奈を問い詰めるために待ち構えていたのだ。真奈は踵を返して逃げようとしたが、もう遅かった。智紀は証拠の束を、真奈の顔に叩きつけた。「全部お前がやったことだろ。お前さえいなければ、俺たちが彩葉と何年も離れ離れになることはなかった!」真奈は状況を察すると、すぐに非を認めた。自分から智紀に歩み寄り、その腕にすがった。「智紀くん、全部私が悪かったの。あなたのことが好きすぎて、あのときはどうかしてた。お願い、許して。これからは家族みんなで、仲よく暮らそう?」だが智紀は、真奈を乱暴に突き放した。「ふざけるな!全部お前のせいだ。お前がいなければ、彩葉が出ていくこともなかった!」「きゃっ……赤ちゃんが!」強く突き飛ばされた真奈は、そのまま床に倒れ込み、お腹を押さえて悲鳴を上げた。「芝居はやめろ。彩葉もそうやってお前にはめられたんだ。同じ手が俺に通用すると思うな!」「智紀くん、病院に連れていって。今度は本当に嘘じゃないの」真奈は目に涙を浮かべ、か細い声で懇願した。「まだそんな芝居をするつもりか!」真奈は痛みに耐えきれず、床の上で身をよじった。スマホを取り出して救急車を呼ぼうとしたが、智紀はそれを蹴り飛ばした。「痛いか?彩葉もあのとき、同じように絶望していた。お前にも、あの苦しみを味わわせてやる!」追い詰められた真奈も理性を失い、声を張り上げた。「久世智紀、今さら善人ぶらないで!彩葉さんを疑ったのはあなたたちでしょう!火の中へ戻れって言ったのもあなたたちじゃない。私に何の関係があるの!」「何だと?」痛いところを突かれた智紀は目を血走らせ、真奈の襟元をつかんだ。真奈にはもう抵抗する力も残っていないようだった。真奈の身体の下には少しずつ血が広がっていたが、
その男は、自分は久世智紀で、私の夫だと言った。そばにいた男女と子どもは、私の両親と息子なのだという。けれど、私にはどうしても信じられなかった。この人たちを見るたび、胸の奥がかすかに痛んだ。本当に家族なら、どうしてこんなにも悲しい気持ちになるのだろう。医師によると、私は一時的に記憶を失っているだけで、いずれ戻る可能性もあるらしい。それを聞いて、私は嬉しくなった。そうすれば、この人たちのことも、もう一度思い出せる。ところが智紀は、険しい表情を浮かべていた。まるで、私に過去を思い出してほしくないかのようだった。不思議には思ったものの、私は何も聞かなかった。退院すると、智紀は私を家へ連れて帰った。両親と星夜も、そこで一緒に暮らしていた。ただ、みんな時折、何とも言えない複雑な目で私を見ていた。息子の星夜もそうだった。私は星夜を抱きしめるのが好きだった。けれど星夜は、いつもどこかぎこちなく、私によそよそしかった。まるで、私が本当の母親ではないように。そんな考えが浮かんで、私は自分でも怖くなった。そのたびに智紀は、考えすぎだと私をなだめた。この家には、ひどく懐かしい感じがした。それなのに、どうしても居心地が悪かった。そんなある日、本を探していた私は、偶然、物置の扉を開けた。まるでパンドラの箱を開けてしまったかのように、そこで私は、ずっと感じていた違和感の正体を知った。物置には雑貨も置かれていたが、それ以上に多かったのは写真だった。彼ら家族の、何枚もの家族写真。写真に写る女は、私と同じ顔をしていた。けれど私は、あれが自分ではないと分かった。私は何とかして、以前使っていた自分のスマホを手に入れた。日記をつける習慣があったことは覚えていた。自分ならどこに隠すかを考え、あるフォルダの中から日記を見つけ出した。【〇〇年7月8日ようやく家に帰れた。でも、どうしてだろう。家には、私と同じ顔をした女がいた。星夜も、その女をママだと思っている】【〇〇年7月9日あの女に陥れられた。でも、誰も私を信じてくれない】【〇〇年7月12日もう、ここを出よう】その短い一文が、私の記憶を完全によみがえらせた。思い出した。家族が、どれほど私を信じなかったのか
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