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第3話

Penulis: 小川
澪は、ひどく力が抜けるような感覚に襲われた。まるで、思いきり拳を振り下ろしたのに、柔らかい綿に受け止められてしまったようだった。

怒る気力すら、湧いてこない。

「……それで、わざわざ何をしに来たの?瑠奈の芝居を最後まで成立させるために、彼女の前で土下座でもして謝れっていうの?」

澪は少しだけ皮肉を込めて言った。

「……瑠奈を叩いたことは、水に流す」隼人は言いにくそうに視線をそらした。「でも……俺と瑠奈の恋愛の手助けをしてほしい」

澪は、しばらく言葉を失った。だが、隼人は至って真剣な顔で続ける。「瑠奈は、俺たちを試そうとしてるんだ。澪が俺たちのことを見ても何とも思わなかったら、俺たちの間には本当に何もないって、瑠奈も信じてくれるだろう」

リビングには、重苦しい沈黙が落ちた。

しばらくしてから、澪は小さく笑った。

「隼人。私のことを、2人の恋愛のスパイスか何かだと思ってるの?……ごめんだけど、そんなことに付き合う暇はない。瑠奈が、そこまで私の存在を気にするなら、私はあなたたちの前から消えるから……」

「消えるって……どこに?」隼人が慌てたように遮った。「澪、俺たち、ずっと友達でいるって約束しただろ」

澪は、伝えようと思った言葉を飲み込んだ。

――もう退職願を出した。1週間後には、この街を離れる。

本当なら、そのことを今ここで伝えてもよかった。

けれど、隼人の性格を澪はよく知っていた。

彼は時々、妙なところに執着する。今この場で退職のことまで話せば、何を言い出すか分からない。

余計な騒ぎは起こしたくなかった。

そう思い、澪は何でもないように表情を整えた。「私は、あなたと瑠奈の間に立ちはだかる壁みたいなものなんでしょう?だったら、壊したほうがいいんじゃない?このままでは、邪魔になるだけだから」

隼人は、その言葉に一瞬、黙り込んだ。

瑠奈が好きだ。けれど、澪を失いたくはない。自分の一番の理解者で、何でも話せる存在まで手放すつもりはなかった。

「……澪」隼人は、澪の問いには答えなかった。その代わり、珍しく弱ったような声を出す。「頼むから、俺を助けてくれないか?菅野家の借金を肩代わりして、俺はこの5年間、ずっと澪を守ってきただろ」

澪は黙って目を閉じた。

しばらくの沈黙のあと、「分かった」とだけ答えた。

隼人が、この5年間の恩を口にする以上、澪にはもう、断ることができなかった。

……

それから数日間、澪はまるで隼人と瑠奈の恋を引き立てるための、都合のいい脇役のように、2人の仲睦まじい姿を見せつけられ続けた。

かつては買い物など面倒だと言っていた隼人が、今では瑠奈のために丸一日付き合って街を歩く。

屋台で食べ歩きをし、ゲームセンターでは、クレーンゲームにまで付き合っていた。

そんな2人の姿を見ていると、澪はふと、高校時代のことを思い出した。

隼人と映画を観た帰り、店先に並んだクレーンゲームを見つけた澪が、「一緒にやろう」と、そう誘ったことがあった。

けれど隼人は、「ガキっぽい」と一言だけ残し、振り返ることもなく歩いていった。

瑠奈の隣で楽しそうに笑う今の隼人を見て、澪は自嘲するように笑った。

――そうか。

隼人の「好き」と「好きじゃない」は、こんなにも分かりやすいものだったのだ。

隼人は瑠奈に、数え切れないほどの宝石やアクセサリーを贈った。

中でも澪の記憶に残っているのは、瑠奈にスポーツカーを贈った日のことだった。

隼人が車のサンルーフを開けると、中には大量の花が入っていた。その直後、夜空へ無数の風船が舞い上がり、そこには大きく、隼人から瑠奈への愛の言葉が書かれていた。

それほどまでに瑠奈を大切にする隼人を見ているうちに、澪の中にあった恋心は少しずつ冷めていった。いつの間にか、胸の痛みさえほとんど感じなくなっていた。

……

1週間後。澪の退職手続きがようやく終わった。

もうすぐ、この街を離れられる。

そのための航空券を予約しようとしたが、隼人に退職の件をどう切り出すべきか迷っていた。

けれど、そんな澪の事情など知らない隼人は、突然彼女を山へキャンプに誘った。

澪は思わず顔を曇らせた。

幼い頃、澪は菅野家の恨みを買った者たちに山中へ連れ去られ、危うく命を落としかけたことがある。あれ以来、山はどうしても苦手だった。

それでも隼人は引かなかった。「なあ、澪。俺を助けてくれるって約束しただろ?今夜、瑠奈にプロポーズするつもりなんだ。頼む。これが最後だから」

結局、澪は断り切れなかった。こうして、3人は山へ向かった。

キャンプ場に着いた頃には、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。

それなのに、隼人は澪に薪拾いを頼んだ。

胸の奥に恐怖が湧き上がる。けれど澪はそれを必死に押し殺し、一人で暗い森の中へ足を踏み入れた。

しかし、彼女が戻った頃には、キャンプ場に誰もいなかった。車もない。

澪は呆然と立ち尽くした。慌てて隼人に電話をかける。だが、10回かけても、誰も出なかった。

そこでようやく、澪は悟った。

――自分は置いていかれたのだ。

全身から血の気が引いていく。木々を揺らす風の音。どこからともなく聞こえる葉擦れの音。

その一つひとつに、澪の身体は敏感に反応した。背中に冷たい汗が流れ、肌には鳥肌が立つ。

この場所はあまりにも辺鄙で、車を呼ぶことすらできない。

最寄りの道路までは、およそ10キロ。

しばらく考えた末、澪は地面に落ちていた太い枝を拾い上げた。

自分の身を守るための武器代わりに枝を握りしめ、スマホのナビを頼りに歩き始めた。

どれほど歩いたのか、もう分からない。足には血のにじむほどの靴擦れができていた。

それでも澪は歩き続けた。そしてようやく――

遠くに、街灯の光が見えた。

澪は大きく息を吐いた。道路まで辿り着き、配車アプリを開く。

ようやくタクシーを呼び、スマホを下ろした、そのときだった。

1台の黒い高級車が、ゆっくりと彼女の前に停まった。

助手席の窓が下りる。そこから顔をのぞかせたのは、瑠奈だった。「澪、遅かったじゃない。早く乗って」

楽しそうに笑う瑠奈の声を聞いた瞬間、澪の表情が固まった。

運転席にいる隼人も、当然のように彼女の惨めな姿を見ていた。けれど彼は、心配するより先に、隣の瑠奈へ向かって言った。「澪は子どもの頃、山で死にかけたことがあるんだ。それでも俺が、あえてあいつを山に置き去りにした。これで、俺が澪のことが好きじゃないって証明できるだろ?」

その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥にあったものが一気に崩れ落ちた。

苦しさと、怒り。どうしようもない悔しさ。

さまざまな感情が一度に押し寄せ、胸を満たしていく。

「隼人……」澪は涙を堪えながら口を開く。「友達にこんなことをするなんて……」

「ごめんって……ただの冗談なんだから」

澪の瞳に浮かんだ涙を見て、隼人の表情がわずかに揺れた。

記憶を辿ってみても、澪が人前でこんなふうに弱さを見せることは、ほとんどなかった。

――少し、やりすぎたかもしれない。

そう思った隼人が何か言おうとしたときには、もう遅かった。

澪は彼の返事を待たずに、到着したタクシーへ乗り込んだ。

家へ戻った頃には、すでに深夜だった。彼女は静かに荷物をまとめた。そして、翌日の航空券を予約する。

翌朝、澪がキャリーケースを引き、玄関を出ようとしたところで、ちょうど隼人と鉢合わせた。

「澪、今日、俺の家の食事会がある。付き合ってくれないか」

そこまで言ってから、隼人の視線が澪の足元へ落ちた。そして、彼女のそばにあるキャリーケースに気づく。

「……何だ、これ」彼は片手をキャリーケースの上に置いた。「どこへ行くつもりだ?」

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