LOGIN「あらあら、大変」
麗華は勝ち誇った目で小夜子を見下ろした。
口元を手で隠しているが、意地悪な笑みは隠しきれていない。「やっぱり成金のホテルには、芸術の神様も降りてこないのね。お寒いパーティーだこと」
「おい黒崎君、これはどういうことかね?」
郷田会長がニヤニヤしながら隼人に近づいてくる。
絶体絶命の窮地。 隼人が対応に追われて一瞬だけ意識を逸らした隙に、小夜子の姿がフッと消えた。◇ ホールのざわめきから離れた、ホテルのバックヤード。パニックになるスタッフの波を縫い、小夜子は一人で歩いていた。 向かった先は、厨房の奥にある専用の棚。彼女はそこから古びたが手入れの行き届いた、漆塗りのカップを取り出した。実家から持参した、唯一の私物だった。(お義姉様が壊した時間を、私が繋ぎ合わせます)
「ハーブはありますか? レモンバームとミントです」
小夜子の声に、厨房にいた料理人が返事を
激しい嵐の夜が明け、朝になった。 まさに台風一過。昨夜の猛威が嘘のように、せせらぎ亭の周辺には眩しい朝日が降り注いでいた。 雲一つない青空の下、鳥のさえずりが山の木々から聞こえてくる。 木漏れ日がきらきらと輝いて、木の葉に溜まった雨粒を光らせている。 嵐はすっかり過ぎ去った。 せせらぎ亭の里山は、美しい風景を取り戻していた。「うおおおっ! すっげえ、屋根も壁も無事だぞ!」 山内実加が、玄関前で歓声を上げた。元気よく水たまりを飛び越えている。 黒崎翔吾もタブレットを片手に外へ出て、建物の外観を鋭い視線でチェックする。 瓦が数枚ズレて落ち、庭の木の枝が折れている箇所はあるものの、致命的な損傷はどこにも見当たらなかった。「日本の伝統的な木造建築は、強風や地震の力を柳のように受け流す柔軟性を持っています。事前の補強データと照らし合わせても、建物の耐久性は見事に機能しましたね」「眼鏡の若旦那の言う通りだ! 俺たちが昨日、米の字に貼ったテープのおかげで窓ガラスも1枚も割れてねえ!」 番頭が作務衣の袖をまくり上げ、誇らしげに胸を張る。 仲居たちも「よかった、本当に無事だったのね」と顔を見合わせて、安堵の笑みを浮かべていた。「せせらぎ亭は無事だった。でも……」 翔吾は視線を山の斜面へと移した。 木々の隙間から見えるグラン・ヘリックスの巨大リゾート建設現場は、一夜にして瓦解していた。 2階建てプレハブ事務所は、土台のコンクリートだけをむき出しにして、建物そのものが丸ごと消滅している。 最新の資材で組み上げられて、非常に頑丈だったはずなのに、だ。 周囲の斜面には、飴細工のようにねじ曲がった太い鉄骨が散らばっている。 バキバキにへし折られた外壁パネルや、引き裂かれたグラン・ヘリックスのロゴ入り防音シートが、数百メートルにわたって散乱していた。(ひどい有様だ……) あまりの惨状に、翔吾は思わず息を吐き出した。
外では依然として台風が猛威を振るい、雨粒が窓を激しく叩き続けている。 窓の外は真っ暗で、この嵐がいつ終わるのかも分からない。 しかしランタンの小さな灯りに包まれたせせらぎ亭のロビーには、不思議な連帯感が生まれていた。 敵対していた者たちが今は同じ屋根の下で、同じ温かい食事を分け合い、肩を並べて夜を明かそうとしている。 翔吾は毛布にくるまって浅い寝息を立てる実加や、疲れ切って目を閉じる御子柴たちを静かに見つめた。(僕の計算式は、徹底的にリソースを節約し、敵を排除することで『目先の生存確率』を最大化しようとした。だがもしあの時、彼らを物置に追いやっていたらどうなっていた?) 翔吾の脳内に、もう1つのシミュレーション結果が浮かび上がる。 一時的に物資は守られたかもしれない。 けれども見殺しに近い行為に加担したことで、実加との信頼関係は大きな亀裂が入っただろう。 従業員たちの心には拭い去れない罪悪感が残ったはずだ。 彼らは人間の熱と信頼を大事にして、チームを結束させてきた。 それが敵とはいえ人を見捨てたとあれば、せせらぎ亭のチームは、嵐が去る前に内部から瓦解していたに違いない。(小夜子さんの示した『目の前の命を救う』という信念。それは一見、非効率でリスクの高い選択に見えた。しかし、その高いプライドを全員で共有し貫き通したことで、我々の組織はどんな予測不能な脅威にも揺るがない、強固な結束を手に入れたんだ) 数字で守れるのは、物理的な箱と資源だけだ。 しかし人間の持つ確固たる信念と誇りは、その箱の中にいる人々の心を守り抜く。結果的に組織全体の生存力を極限まで高める最大の防御力となる。 自分の信じていた非人間的で無機質な論理の限界と、小夜子が体現した「おもてなしの真髄」。 翔吾はその方程式の答えを、今、確かな実感として心の底から理解していた。(目の前の命を救う。お客様の安全を守る。ここにいていいのだと、「居場所」を提供する……) 彼はかつて、どこにも居場所を見つけられないで
「生き返る!」「ああ、芯から温まるよ」 彼の部下たちも、むさぼるように雑炊をかき込んでいる。 翔吾も自分の分の茶碗を手に取った。 一口食べると、出汁の深い旨味が五臓六腑に染み渡る。 極限状態だからこそ食事の温かさは価値を持つ。 どんなに高度な計算式を積み上げても導き出せない、温かな満足感だった。◇ 夜更けになった。 雑炊で人心地ついた御子柴たちは、配られた毛布にくるまって少しずつ落ち着きを取り戻していた。 御子柴はランタンの灯りを見つめたまま、ふと口を開いた。「……なぜ私を助ける」 その声はかつての威圧感を失い、どこか虚ろだった。 小夜子が手を止めて、彼の方を向く。「君の義弟の言う通り、物置に追いやって切り捨てればよかったはずだ。そうすれば君たちはより効率良く嵐がすぎるのを待てる。……ビジネスとしては、それが正解だ」 御子柴の問いに、翔吾も耳を傾けた。 自分の信じていた「論理」を、敵に突きつけられた気分だった。 小夜子はくすりと微笑む。穏やかだが迷いのない瞳で答えた。「目の前の1人を救えない人間に、大勢のお客様を幸せにすることはできません」「……何?」「私たちはホテルマンです。命を預かり、寛ぎを提供するのが仕事です。たとえ相手が誰であろうと、窮地にある命に最善を尽くす。それが、私たちの掲げる最高の『効率』――いえ、『プライド』です」 小夜子の言葉には一切の妥協がなく、信念が感じられる。「ホテルはお客様の家。家にいる家族を、どうして見捨てることができましょうか。少しでも安全に、安心して過ごせるように力を尽くす。それ以外にありません」 御子柴は絶句した。 彼は何かを言い返そうと口を開きかけたが、結局何も言わず、空になった雑炊の器をじっと見つめ続けた。(&hell
ロビーの中央では、小夜子が御子柴と向き合っていた。 御子柴は浴衣に着替えたものの、寒さのせいか、それとも極度の緊張のせいか、膝の上に置かれた指先が青白く硬直していた。「失礼します」 小夜子が救急箱を広げて、消毒液を浸したガーゼを取り出した。 彼女は御子柴の額にある傷を、一切の迷いなく拭い始める。「……チッ」 御子柴の口から、微かな声が漏れた。 彼は痛みに耐えるように奥歯を噛み締めている。小夜子の手つきは驚くほど優しく、そして淀みがない。 翔吾は少し離れた場所から、その様子を観察していた。 あんなに冷酷で、最新のAIや圧倒的な資本で武装していた男が、今はただの一人の無力な人間に見える。 小夜子の指先が触れるたび、御子柴の肩が小さく跳ねる。(どんなに偉そうなことを言っても、結局は血の通った人間なんだな。寒ければ凍えるし、怪我をすれば痛がる。……当たり前のことなのに、なぜか不思議な気分だ) 翔吾は自らの内にあった敵意が、妙な形に波打つのを感じていた。 そこへ奥から香ばしい出汁の匂いが漂ってきた。「はいよ! 出来立てだ。熱いうちに食いな!」 板前が、カセットコンロで熱せられた大きな土鍋を運んできた。 蓋を開けた瞬間、真っ白な湯気が立ち上って大地の香りがロビー全体を満たした。 それは先日集めた『里山の宝物』の残りを使った雑炊だった。 細かく刻まれた原木椎茸と甘みの強い大根、彩りの良いカブの葉。それらが、透き通った出汁の中で宝石のように輝いている。 ぐつぐつと湯気の立つ鍋は、いかにも美味しそうだ。「……何だ、これは。せせらぎ亭は物資不足ではないのか?」 御子柴が、警戒するように土鍋を見つめた。(物資不足を知っている。やっぱりこの前の業者の差し止めも、御子柴の仕業か) 翔吾は苦い思いを抱きながらも、表情にでないように注意した。「雑炊ですよ。この山で
実加は鬼のような形相で続ける。「そんなの、アタシの辞書にはねえんだよ! 喧嘩の時だって、弱ってる奴に追い打ちはかけねえぞ!」 実加の叫び声は、腹の底から絞り出されたような力強さがあった。 彼女の大きな瞳には、翔吾に対する純粋な憤りが見て取れる。「てめえ、人の命がかかってる時まで計算かよ! そんなに数字が大事か!?」「……計算しなければ、全員が共倒れになる。それがあなたの望みですか?」「共倒れになんてさせねえよ! ウチが自分の分を削ってでも、こいつらに食わせてやる! だから、今すぐ中に入れろ!」「感情論でリソースは増えません」 翔吾が反論しようとした時、一際大きな雷鳴が轟いた。 全員が思わず黙り込むほどの大きな音だった。 地響きとともに、せせらぎ亭の建物がみしみしと音を立てる。「翔吾さん」 小夜子が、静かな足取りで2人の間に入った。 彼女は騒ぎ立てることもなく、ただ御子柴の部下の1人に視線を向けた。 その男は飛来物が当たったのか、怪我をしたようで左足を引きずっている。顔面を蒼白にさせていた。「彼らの状態を見てください。あの物置では、この冷え込みに耐えられません。最悪、命に関わります」「……ですが、総支配人」「窮地にある方を救うのは、ホテルマンのプライド以前に、人としての義務です」 小夜子は一歩前に出て、力強く言った。「サンクチュアリの総支配人として、そしてせせらぎ亭の女将として、私は彼らの受け入れを決定します。皆様、どうぞ奥へ。すぐに乾いたタオルを用意させます」「助かった……」 御子柴の部下の1人が弱々しく言った。(小夜子さんがそう言うなら、僕に拒否権はない。……だが、資源の枯渇はどうするんだ? 嵐が長引けば共倒れになるだけなのに) 翔吾は不満げに口をつぐんだ。 実加は「最初からそう言
開け放たれた玄関から、冷たい雨のがロビーへ容赦なく吹き込んでくる。 ランタンの炎が激しく揺らめいて、壁に映る人影を映し出していた。 御子柴玲二は泥と雨にまみれ、肩で息をしている。 先日までの自信と傲慢さは、どしゃぶりの雨で洗い流されてしまったかのようだ。 黒崎翔吾は彼らを見下ろしたまま動かなかった。 脳内では、目まぐるしく計算が繰り返されている。(備蓄の米、根菜。カセットコンロのガスボンベ。これらは、僕たちが数日間生き延びるためのリソースだ。追加で4名を受け入れれば、生存可能期間は一気に40パーセント減少する) 翔吾の瞳の奥で数字が弾き出される。 相手はこの宿を潰しにきた宿敵だ。情をかける理由など、論理のどこを探しても見つからない。「……館内へ招き入れることはできません」 翔吾の声は、風の音に負けないほど低く冷たかった。「は?」 御子柴の隣にいた部下が、驚きの声を上げる。「現在、当館は孤立しており、資源は限られています。部外者を受け入れる余裕はありません。経営的にも、生存戦略としても、極めて非合理的な選択です」 翔吾は眼鏡を中指で押し上げ、続けた。「ですが、さすがに人命救助を放り出すわけにはいきません。裏の物置なら雨風はしのげます。あとは毛布くらいは貸し出しましょう。嵐が過ぎるまで、そこで耐えてください」(これが僕に出せる最大限の妥協案だ。これ以上は、せせらぎ亭の安全を脅かす) 御子柴が薄い唇を噛み締めた。 濡れた前髪から滴る雨水が、彼の険しい顔を伝う。「……フン。泥舟の分際で偉そうな口を叩く。情けを乞うつもりはない。だが私の命に何かあれば、君たちの雇用主……黒崎隼人への政治的ダメージは計り知れないぞ。災害の現場で助けを求めた人間を見殺しにした、と」「死にはしませんよ。物置であれば雨風も飛来物も防げる。今の僕には、目の前の資源管理の方が優先順位が高い」 2人の間に一
全てが終わった後のパーティー会場は、大きな熱気に包まれていた。 ヴァレンティンの演奏はゲストたちの心に深く刻まれた。彼らは口々に「素晴らしい体験だった」「これほどのホテルは世界にもない」と絶賛しては、グラスを傾けている。 そこへ郷田会長が歩み寄ってきた。その隣にピンク色のドレスの女――白河麗華の姿はもうない。「……完敗だ。素晴らしい演奏だった」 郷田は、隼人の前で足を止めた。「あの気難しいヴァレンティンを、あそこまで手懐けるとはな。まぐれでできることではない。正直、驚いた」
ホテル『サンクチュアリ』のメインホールは、計算され尽くした色彩の調和に満たされていた。 ドレスコードはシック&エレガンス。ゲストたちが着込むのは、深海のようなネイビーや濡れたカラスの羽のような黒、そして上品なシャンパンゴールド。 その洗練された空間で、小夜子はミッドナイトブルーのドレスを身につけて、隼人の隣に佇んでいた。 華美な装飾はない。けれど彼女の凛とした姿勢と所作は、どんな宝石よりも美しい品格を示していた。(実に美しい……。誰もこいつが元家政婦だとは思うまい) 隼人は一瞬、小夜子の
麗華は状況が理解できていない。ヴァレンティンが戻ってきたのは自分の魅力、あるいは郷田会長の権力に屈したからだと勘違いしたのだ。「やっぱり私のために弾いてくださるのね? 嬉しいわぁ、先生ったらツンデレなんだから!」 ショッキングピンクのドレスを揺らし、麗華が駆け寄ろうとする。その瞬間、ヴァレンティンが足を止めて麗華を見ることなく手をかざした。 完全なる拒絶のジェスチャー。「……静かにしてくれ」 低く、地を這うような声だった。「耳が汚れる」 その一言は、さ
(ここをあの部屋にするわけにはいかない。俺は『家』を作らないといけないんだ) 家を作るなど、少し前までの彼は考えてもみなかったことだった。 冷徹な成り上がりのホテル王として買収と統合を進め、効率的な経営をする。それこそが彼の本領だった。 しかしいつからだろう。彼の中にとうの昔に失ったはずの、温かさが灯ったのは。 Mに言われるまでもなかった。彼が作りたかったのは箱ではなく家なのだと、気づいてしまった。 けれども隼人は『家』を知らない。追い求めるもののぼんやりとした輪郭だけがあって、実態は未だに掴めないまま。







