تسجيل الدخولペーパーナイフで黒い封筒の封を切る。中から滑り落ちたのは、1枚の古い戸籍謄本の写しとDNA鑑定書。それらに加え、手書きのメモが入れられている。
『お前の汚れた血について話をしましょう』
小夜子の視線が、戸籍の記述に釘付けになる。
そこには彼女の出生の秘密が記されていた。父・白河清次郎。母・当時の使用人。そして、『認知』の2文字。
「……ああ」
小夜子は驚かなかった。ため息のような声が漏れただけだった。
母が白河家を追い出された理由。
自分が父から娘として扱われず、義母の緑から虫けらのように憎まれていた理由。母は白河家を追い出された後、たった1人で小夜子を育ててくれた。
不倫は許されることではない。 でも小夜子は、母の愛情を疑ったことはなかった。生前の母が漏らした当時の事情と、白河家に引き取られて以後、執事の藤堂が教えてくれた事実。
断片的なそれらを継ぎ合わせれば、答えは出ていた。<スタッフがバルブの調整を終え、額に浮いた汗を首に巻いたタオルで拭った。「巨大なボイラーでお湯を作り、ポンプでホテルの最上階まで汲み上げます。もしここで機械が止まってしまったら、ホテル全体が真っ暗になり、お湯も出なくなってしまいます。お客様の目には触れない場所ですが、彼らがいないとホテルは1日も機能しません」「すごいね」「ね!」 子供たちは巨大な機械の並ぶ光景に目を輝かせている。 理玖は壁に沿って走る青色の太い配管に近づいた。 指先でそっと表面に触れてみる。 結露した冷たい水滴が指を濡らし、金属の鋭い冷たさが肌に伝わってきた。 ごくわずか、ごうごうと水が流れる音も聞こえてくる。「あ、こら。危ないから触らないでね」 作業着のスタッフが慌てて声をかけてきた。理玖は「ごめんなさい」と言って壁から離れた。(ここは秘密基地みたいだ。ホテルの裏側に、こんなすごい機械がいっぱい隠れてるなんて知らなかった。この太いパイプの中を、客室に行く水が通ってるんだな) 理玖は配管の先が、天井のコンクリートを抜けて上の階へ繋がっているのを見上げた。 どこまでも続くパイプの列に、建物の巨大さを改めて思い知らされる。「配管の点検では、水漏れがないか、圧力メーターの数値が正常かを確認します。ちょっとした異音から故障の兆候を見抜く耳の良さも求められます」 スタッフが円形のメーターを指差しながら補足した。 赤い針が、緑色の安全な範囲の真ん中にピタリと収まっている。 理玖はメーターの数字をじっと見つめて、その針が微かに揺れるのを観察した。 理玖の目では細かい内容は分からないが、スタッフたちには分かるのだろう。 針の動きを見て、何事か言葉を交わすとまた作業を始めていた。(かっこいい。プロの仕事だ) 理玖はすっかり感心してしまった。「ありがとうございました!」「パイプ、すごかったです!」 子供たちは彼らに挨拶をして、地下の施設管理部門を出た。
「このおさかな、いくらでかったの?」 唐突な質問に、担当者が目を丸くした。まさか3歳児から原価を聞かれるとは思わなかったのだろう。「えっと、これは市場の価格変動があるから一概には言えないけれど、今日はキロあたり……」 美夕は小さな指で納品書の数字をなぞる。 価格に納得したようで、うんうんと頷いた。「きせつのかんりは、だいじよね。いいものを、やすくしいれるのが、けいえいのきほんよ」 引率スタッフや周囲の大人たちが、苦笑いを漏らした。 理玖は発泡スチロールの箱から漂う潮の匂いを大きく吸い込んだ。鼻の奥が少しツンとする。(ただ食材を買うだけじゃなくて、全部調べてからホテルに入れるんだ。入り口の門番みたいだな。ここで変なものを入れたら、お客さんがお腹を壊しちゃうかもしれないし) ピーッ。「はい、みんな! 危ないから下がってね!」 フォークリフトがバックする電子音が鳴って、引率係が前に出た子供を押さえた。 理玖は慌てて安全な場所まで下がる。 購買・研修部門はそれからも一通りの見学をして、終わりとなった。◇ 次に一行が向かったのは、地下の施設管理部門だった。 非常階段を降りるにつれて、空気が徐々にひんやりとしてくる。 重い鉄製の防火扉を開けると、そこはまるで別世界だった。迷路のように入り組んだ薄暗い地下空間が広がっている。 天井には銀色や青色、黄色に塗られた太いパイプが網の目のように這い回っている。「うわあ、すごい。迷路みたい」 子供たちは驚きに目を丸くしている。 部屋の奥には巨大なボイラーや発電機が並び、低い重低音が常に腹の底に響いていた。 オイルの匂いと、微かな埃の匂いが混ざった、機械室特有の空気だ。 作業着姿のスタッフが数名、巨大な配電盤や計器類の前に立っていた。 チカチカと点滅するランプの光が、彼らの真剣な横
引率スタッフに連れられて、いよいよ一行はホテルの裏側へと足を踏み入れた。「皆さん、はぐれないでくださいね。まずは購買・研修部門へ向かいます」 最初に訪れたのは、一階奥の搬入口に隣接する購買・検収部門だ。 自動ドアが開くと、大型トラックのディーゼルエンジンの低い振動が床から足裏へと伝わってくる。 排気ガスの匂いに混じって、土のついた根菜類や、段ボール箱の紙の匂いが入り交じっていた。「でっかいトラックがいるよ!」 子供たちは早くも大はしゃぎだ。 搬入口は外気に開かれており、初夏の風が吹き込んでくる。 木製のパレットに積まれた無数の食材や備品が、フォークリフトで次々と運ばれていく。 黒いゴムタイヤがコンクリートの床を擦る摩擦音が響き、警告音がピーッピーッと規則正しく鳴っていた。「わあ、すごい。車が荷物を運んでる」 フォークリフトの動きに、特に男の子たちが目を輝かせた。 検収担当のスタッフが、クリップボードを手に立っていた。 真っ白な白衣に身を包み、鋭い目つきで荷物を見下ろしている。 彼の前には、発泡スチロールの箱に氷詰めされた巨大な魚が数本並んでいた。銀色の鱗が、蛍光灯の光を鈍く反射している。 氷が溶けて水滴が落ちる、ピチャピチャという音が足元で聞こえる。 担当者は金属製の棒状の温度計を取り出し、魚の身の中央部に突き刺した。デジタル表示の数字がパラパラと切り替わる。「購買・検収部門は、ホテルの巨大な胃袋を満たす入り口です。つまり、お客様のお腹をいっぱいにするための最初の場所ですね」 引率スタッフが声を張って説明を始めた。「毎日何トンもの食材や備品がここに届きます。担当者は、注文した品物が正しい数量で届いているか、品質に問題はないか、温度管理は適切かを厳しくチェックします。少しでも鮮度が落ちていたり、規格に合わなかったりするものは、決してホテルの中には入れません」 担当者が温度計の数値を読み上げた。横のスタッフがチェックリストにペンを走らせる。 担当者も親なの
理玖は床に、母の実加は椅子に座っている。 実加は客室清掃スタッフの制服姿で、髪を後ろでキッチリと束ねて後れ毛一つ出していない。 彼女の服からは、業務用の柑橘系洗剤の匂いがほのかに漂っていた。 前方には小夜子が立っていた。タイトスカートのスーツに身を包み、手にはマイクを握っている。 マイクを通した小夜子の声が、プレイルームの壁に反響した。「本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。これより、サンクチュアリの裏側を巡る公式職場見学ツアーの概要をご説明いたします」 小夜子は手元の資料をめくった。「ホテルという巨大な組織は、お客様の目に見える華やかな表舞台だけでは機能しません。その土台を支える、数多くの裏方部門が存在します。本日は子供たちに、ご両親がどのような環境で、どのような役割を担ってホテルを支えているのかを学んでもらいます。これは情操教育の一環でもあり、また、従業員の皆さんも自分たちの部署以外の理解を深める機会でもあります」 保護者たちが頷いた。実加も真剣な顔つきで話を聞きながら、理玖の背中を見つめた。 サンクチュアリは大きなホテルだ。 それだけに、従業員と言えど自分の担当部署以外のことは詳しくない。(子供用の解説ツアーだが、良い機会だ) 実加はそう考えている。 小夜子はホワイトボードに貼られた館内図を指し示した。赤いマーカーで順路が引かれている。「本日のルートは、購買・検収部門、施設管理部門、システム管理部門の3箇所です。その後はウェディング部門とレストラン部門へ向かいます。ホテルを物理的、情報の両面から支える中枢神経とも言える部署です。普段は関係者以外立ち入り禁止のエリアですが、本日は特別にご案内します。各部門の責任者が業務内容を解説いたしますので、子供たちは質問があれば遠慮なく聞いてください」「はーい!」 子供たちの間から、わぁっと歓声が上がる。 引率の若手スタッフが、首から下げるお揃いの小さなネームプレートを配って回った。 そこには手書きで「ゲスト」と書かれている。
理玖は唇を噛んだ。 遊び半分の探検が、どれだけ危険で迷惑な行為だったのかを突きつけられる。 だが隣に座る3歳児は違った。 美夕は出されたカップを両手で持ち、陶器から伝わる温かさを小さな指先で確かめている。 ハーブティーを一口すすると、ほうっと息を吐き出した。「でも、おかあさま。げんばをみないと、けいえいできないわ。おへやがきれいにされてるか、ちぇっくするのはたいせつなことよ」 3歳児の堂々たる反論に、理玖は思わず口を半開きにした。(美夕ちゃん、あのお説教を聞いてまだ言い返せるの? 心が強すぎ) 小夜子は手元のスケジュール帳に視線を戻して、わずかに頬を緩めて柔らかく微笑んだ。 厳しくも冷静な支配人という仮面が外れて、そこには1人の親として、教育者としての表情がある。「なるほど、現場を知るのが経営の基本。その通りですね」 小夜子は万年筆を置く。優しく微笑みながら理玖と美夕を見下ろした。「ならば、コソコソと隠れるのではなく、正面から堂々と視察できる機会を設けましょう。来週、『従業員家族向けの公式職場見学ツアー』を開催します。あなたたちには、第1回のゲストとして参加してもらいます」 小夜子の即断即決に、理玖は目を丸くした。(小夜子おばちゃん、怒らないどころか新しいイベントを企画しちゃったよ。経営者って、頭がいいんだな……。普通なら正座のお説教なのに) 理玖は隣でティーカップを傾ける美夕と、手帳に予定を書き込んだ小夜子を交互に見比べた。「さて。そうと決まれば具体的な計画を詰めなければなりません。理玖くん、美夕。ホテルのどこが特に見たいですか?」 問われて理玖ははっと顔を上げた。 見たい場所はたくさんある。でも彼が一番興味があるのは、もちろんあそこだ。「父ちゃんが働いているところを見たいです!」「ええ、了解しました。翔吾さんのシステム部はもちろん見学に組み込みましょう」「わたしは、レストランとちゅうぼう。おしょくじはだいじ」
夕暮れの光が窓の向こうで何層にも重なり、東京の街並みをオレンジ色に染め上げている。 ホテル・サンクチュアリ最上階の社長室にて、来客用の本革ソファに、理玖と美夕は並んで座らされていた。 理玖が緊張のあまり姿勢を正そうと少し動くたび、柔らかな革が体重で沈み込み、キュッと軋む音が立つ。 座面の反発力は、5歳の子供の軽い体には強すぎた。足が床に届かず、宙ぶらりんになっているのがさらに居心地を悪くさせている。 小夜子はのデスクから離れ、サイドテーブルに置かれたティーセットに向かっていた。 コポポ……とお湯を注ぐかすかな音がする。カモミールとミントの爽やかな香りが、微かに漂った。 小夜子が歩み寄った。2人の前にティーカップを置く。 陶器のカップがソーサーに当たるカチンという硬質な音が、広い部屋に響いた。 理玖は両手を膝の上で重ねて縮こまっていた。(怒られる。絶対に怒られる) 小夜子は普段は優しいが、仕事に対してはとても厳しい。理玖はよく知っている。『小夜子師匠は優しそうに見えても、実はおっかなくてさー』 母の実加が実感を込めて話していたのを思い出す。 怖いもの知らずの実加があれだけ恐れるのだ。どれほど怖いのかと理玖はビクビクした。 けれど小夜子は表情を変えなかった。 向かいのシングルソファに腰を下ろすと、足を揃える。2人を正面から見つめた。「理玖くん、美夕。従業員専用通路は、カードキーを持ったスタッフしか入れない構造になっています。なぜだか分かりますか?」 小夜子の声は一定のトーンを保っている。怖い声ではないはずなのに、理玖は威圧感を感じた。「わかんないです」 理玖は言葉に詰まり、ふるふると首を横に振った。「ホテルには毎日、何百人ものお客様がいらっしゃいます。中には、悪意を持って入り込む人間がいるかもしれません。バックヤードは、そうした外部の人間からホテルの安全とお客様のプライバシーを守るための砦なのです」 小夜子はカップに手を伸ば







