تسجيل الدخول実加は立ち尽くしていた。
理玖が生まれてから半年、片時も離れずに育ててきた。トイレに行く時でさえ、ドアを開けて目の届く場所に置いていたのだ。他人に預けて、自分は仕事へ行く。心配ないと頭では分かっていても、心がブレーキをかける。
「……チビ」
実加は理玖の小さなおでこを指でつついた。
「いい子にしてろよ。母ちゃん、稼いでくるからな」
喉の奥が熱くなって、何かがつかえたような音がした。
実加はうつむいた。
不安なのだ。本当に大丈夫なのか。寂しくないか。 彼女のいないところで息子が泣いているなんて、今まで想像もしなかった。もしも何かあったらどうするのか。その肩に、小夜子が手を置いた。
「安心して働きなさい」
小夜子の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「ここは私の管理下、テリトリーです。チリ1つ、ウイルス1匹近づけません。あなたの息子は、私が責任を持って守ります」
「よし。これならチビも置ける」 実加はニヤリと笑い、手の甲で汗を拭った。「どうだ、師匠!?」「……初心者としては及第点ですね。甘い部分はこれからしごいて差し上げましょう」 小夜子はそう言って、掃除機を受け取った。 見る間に始まる舞い踊るような掃除に、実加は再び目を見開く。「うわ、しまった! まだそんなにホコリが!」 実加はぎゅっと手を握りしめた。「さすがだぜ、師匠。でも必ず追いついてみせるからな!」「ふふふ。楽しみですね」◇ 翌日の夜。実加は遅番のシフトに入っていた。 チェックアウトしたばかりの客室に、清掃に入る。老夫婦が泊まっていた部屋だ。 リネンを交換しようとして、枕を持ち上げた時だった。 コロン。 何かが床に落ちた。 拾い上げてみると、古びた布袋だった。色褪せた赤色のお守り。 刺繍はほつれ、何度も握りしめられたのか、手垢で黒ずんでいる。「……なんだこれ」 ゴミとして捨てようとして、実加の手が止まった。 汚い。ボロボロだ。 けれど、ただのゴミじゃない。 実加には分かった。これは、誰かがとてに大切にしていたものだ。擦り切れるまで身につけているものだ。 理玖の産着を、彼女が捨てられないのと同じように。 時計を見る。チェックアウトから経過した時間は、10分。 まだ間に合うか?「やるしかねーわ!」 フロントに内線している時間は惜しい。実加はお守りを握りしめて、部屋を飛び出した。 廊下を全力疾走する。 支給品の黒いパンプスが、かかとに食い込んで痛い。「邪魔だッ!」 実加は走りながらパンプスを脱ぎ捨てた。 ストッキングごしの足裏に、冷たい床の感触が伝わる。 エレベーターは待てない。非常階段を駆け下りる。
「……無理だ」 実加の声がかすれる。 小夜子は座ったままの実加を見下ろした。「お客様は、単なる『金づる』ではありません。誰かの大切な家族です」「……家族」 小夜子の言葉は、実加の心を揺らした。「ホテルとは、人間が無防備になる場所です。自宅でくつろぐように、あるいはそれ以上の安全を保証しなければなりません。靴を脱ぎ、服を脱ぎ、眠る場所。一番無防備な状態の人間を、細菌や危険から守る。それがハウスキーピングの仕事です」 小夜子はしゃがみ込み、実加と視線を合わせた。「想像しなさい。ここを使う人の顔を。その人が安心して呼吸できる空間を作るのです。それが『プロ』の流儀(プライド)です」 実加は自分の手を見る。 さっきまでは、ただの労働だと思っていた。 適当にやって、金がもらえればいいと思っていた。 だが、違った。 彼女が雑な仕事をすれば、誰かを傷つける凶器になる。 そんな事は考えたこともなかった。 実加には誰よりも大事な息子がいるのに、他の人の家族に目を向けられていなかったのだ。 実加は拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むが、痛みは悔しさではない。決意だった。「……教えてくれ、師匠」 実加は顔を上げた。その瞳に、ヤンキー特有のギラついた闘志が宿る。「あたしの掃除じゃ、チビを守れねえ。完璧なやり方、叩き込んでくれ」 小夜子はニッコリと微笑んだ。◇ そこからは、修行の時間だった。 実加は客室に戻ると、鬼の形相でモップを構える。「オラオラ汚れぇ! 死角はそこかよ!」「そこだけではありませんよ。よく見なさい」「おうよ、師匠!」 口汚い言葉を吐きながらも、その手つきは繊細だ。まるで理玖を抱く時のように。 ベッドの下。這いつくばって覗き込んだ。
(動き、はやっ!?) 小夜子の動きは、掃除というよりも舞踏に近かった。 スポンジがバスタブの曲線を描く。無駄な往復運動が一切ない。一筆書きのように汚れを絡め取っていく。 シャワーで泡を流すと同時に、左手の水切りワイパーが走る。 キュッ、という小気味よい音とともに、水滴が一瞬で消滅した。 蛇口カランの磨き上げは、マイクロファイバークロスが残像に見えるほどの高速回転。 舞踏を通り押して何かの武芸の型のようですらある。 3分とかからなかった。 蛇口のステンレスが、鏡のような輝きを取り戻した。 掃除前もそこまで汚れているように見えなかったのだが、こうしてみれば違いは一目瞭然だ。 小夜子は息一つ乱さずにエプロンを外した。「……す、すげーけど」 実加は素直に驚いたが、同時に反発心も湧いた。「そこまでやる必要あんのかよ? 客なんてどうせ汚すんだろ。また明日には水垢だらけだ」「……」 小夜子は無言でバスルームを出て、ベッドルームへと歩いた。 ふかふかのカーペットの上で足を止める。「座りなさい」「あ?」「床に座って。ここを触りなさい」 言われるがまま、実加はあくらをかき、カーペットに手を触れた。 触れるのは、高級そうな柔らかな毛足だけ。「別に、ゴミなんて落ちてねえよ。きれいじゃん」「そう見えるかしら」 小夜子は冷ややかに言った。「実加さん。あなたはここで、理玖君をハイハイさせられますか?」 実加の手が止まった。 理玖。彼女の生後6ヶ月の息子である。 まだハイハイはできないけれど、最近はよく手足をばたつかせている。 活発な子だから、もう少しでハイハイを始めるだろうとベビーシッターの保育士が言っていた。 ハイハイを始めたら、理玖は楽しそうに動き回るだろう。 好奇心旺盛な子だから、落ち
ホテル・サンクチュアリの客室フロア、リネン室の前。 そこには今、一触即発の空気が漂っていた。「やり直し!」 ベテラン指導係の女性が、厳しい声を張り上げた。 彼女が指差す先には、山内実加が清掃を終えたばかりのツインルームがある。「シーツの四隅、甘い。シワが寄ってるわ。それに鏡。よーく見なさい、拭き跡が残ってるじゃない!」 実加は振り返ると、台車のハンドルを握りしめた。「あぁ?」 ドスの利いた声が出そうになるのを、慌てて喉の奥で押し殺した。「見た目はきれいじゃんか。そんなもん、虫眼鏡で見なきゃ分かんねーよ」「その雑な根性がダメなのよ!」 指導係はバインダーで実加の肩を小突いた。「やり直しをしないなら、あなたにはこの仕事は務まりません。ここは一流ホテルなの。ヤンキー上がりの小娘が、片手間でやっていい仕事じゃないわ。辞めなさい」 実加のこめかみに青筋が浮かぶ。 (うっぜえ……) 実加はぎりりと奥歯を噛み締めた。 右足が勝手に動きそうになる。このババアのすねを蹴り飛ばして、あの偉そうなバインダーをへし折ってやりたい。 だが、廊下の天井隅にある監視カメラの黒いレンズが目に入った。 器物破損は弁償。傷害沙汰は即解雇。 契約書の条項が脳裏をよぎる。 (チビのためだ。我慢しろ、実加) 実加は深く息を吐き出すと、視線を逸らした。「……チッ。細かいことウダウダと」「なんですって!?」「なんでもねーですよ。やりゃあいいんだろ、やりゃあ」 実加は乱暴にワゴンを回転させようとする。 と、その時。「そこまで」 凛とした声が、廊下の空気に響く。 いつの間にか、背後に白河小夜子が立っていた。 完璧な姿勢。足音もなく忍び寄るその姿は、まるで幽霊か忍者のようだ。「総支配人&
これまで翔吾は常に比較され、評価される対象だった。 毒母にとっては、金を引き出すための道具。 父にとっては、過ちで生まれた不必要な息子。 そして兄にとっては、出来の悪い弟。 そこには常に条件があった。優秀であれば愛する。金になれば愛する。 けれどこの赤ん坊は違う。 ただミルクをくれた、抱っこしてくれた、それだけの理由で、全幅の信頼と笑顔を向けてくる。「必要とされる」という感覚が、じんわりと胸の奥に広がっていく。 翔吾の強張っていた肩の力が抜けた。 彼は指を握り返すと、少しぎこちない笑みを浮かべた。「悪くない飲みっぷりですね」「あうー!」 理玖はご機嫌な様子で、無邪気な笑みを浮かべた。◇ 翌朝。 カーテンの隙間から差し込む朝日で、実加は飛び起きた。「やっべ、寝てた! チビ!?」 慌ててベビーベッドを確認する。 理玖は機嫌よく、天井のメリーを見つめて手足をバタつかせていた。「あれ、おかしいな……。夜中の授乳をしなかったのに、泣いていない。おむつも汚れていない?」 ふとサイドテーブルを見て、実加は目を丸くした。 そこには、きれいに洗浄・消毒され、乾燥スタンドに立てられた哺乳瓶があった。 さらに、その横にはメモ用紙が置かれている。『ミルク摂取時刻01時34分。摂取量180ミリリットル。排泄あり(おむつ交換済み)』 定規で引いたような几帳面な文字だった。「うそだろ……」 実加が呆然としていると、リビングのドアが開いた。制服に着替えた翔吾が入ってくる。 実加はメモを片手に彼を指差した。「おいメガネ! これ、あんたがやったのか?」 翔吾は視線を合わせずに答えた。「騒音でマニュアルが覚えられなかったからです。あくまで自分の環境を守るために対処し
翔吾はベビーベッドを覗き込んだ。 彼には母親違いの弟妹がいる。もう10年以上前のことだが、赤子の世話の経験はあった。 おむつのインジケーターを見る。変色はない。濡れてはいないようだ。 室温は23度。適温だ。 ならば原因は一つ。空腹である。(ミルクを与えれば、泣き止むだろう) これは人助けではない。環境改善のためのタスク処理だ。 翔吾はそう定義付けて、キッチンへと向かった。 棚から粉ミルクの缶と哺乳瓶を取り出す。缶の裏面に記載された調乳方法を一読する。 翔吾の瞳から、眠気が消えた。 彼の脳内でスイッチが切り替わる。「70度以上のお湯で溶かし、人肌まで冷却……」 ケトルでお湯を沸かす。電子スケールの上に哺乳瓶を置き、粉ミルクをスプーンですくった。 彼の手つきは、ミルク作りというよりも化学実験のそれだった。 スプーンの縁で粉をすりきり、0.1グラムの誤差も許さずに投入する。 お湯を注ぐ角度も計算済みだ。 泡立てないように、かつ粉が溶け残らないように、手首のスナップを利かせて哺乳瓶を回転させる。 すっかりミルクが溶けたのを確認し、彼は呟いた。「攪拌(かくはん)、完了、と」 次は冷却プロセスだ。流水に哺乳瓶をさらして、秒単位で温度を下げる。 仕上げに自分の手首の内側にミルクを一滴垂らした。「37.5度……適温。完璧だ」 教科書通りのミルクが完成した。 ◇ 翔吾は哺乳瓶を持ってベビーベッドに戻った。「待たせたね。今、ミルクをあげますよ」 泣き叫び続けていた理玖を抱き上げる。 その瞬間、翔吾の体が強張った。柔らかい。小さい。そして、温かい。 子供の頃、妹と弟を抱き上げたことはある。けれどこんなに小さかっただろうか。 壊れ物を扱うように、ぎこちない手つきで抱える。 既に首が座っているとはいえ、落としたら終わり
車内は深海の底のような静寂に包まれていた。 唯一の光源は、隼人の手元にあるタブレット端末が放つ蒼白い電子の光だけ。その冷たい青い光が、彫刻のように整った、しかし険しい彼の横顔を闇の中に浮かび上がらせていた。 小夜子はシートの端、ドアに張り付くようにして身を縮めていた。 高級な本革の香りが鼻孔をくすぐる。自分の纏う埃っぽい匂いがそれに混ざるのではないかと心配になって、呼吸さえ浅く保つ。 隣に座る夫――小夜子の所有者は、苛立っていた。指先が画面を叩く音が、鋭いリズムとなって車内に響く。 彼は明らかに殺気立っていた。それは、
(それなら、私にもできる) 今までこの家で、感情のない「機能」として扱われてきたのと同じだ。期待されないということは、失望されることもないということ。愛されないということは、憎まれることもないということ。 それは今の小夜子にとって、これ以上ないほど気楽で救いのある条件だった。 隼人は懐から小切手帳を取り出した。万年筆が走る音だけが、静まり返った部屋に響く。「3」と、「0」が8つ。ビリリ、と紙を切り離す音がした。それは、小夜子と白河家の縁を断ち切る音のように聞こえた。 隼人が小切手をテーブルに置く。父と義母が、浅ましくそれに飛びつ
隼人は無表情のまま、冷ややかに麗華を一瞥した。ゴミを見るような目だ。だが麗華はその視線の意味を理解しない。むしろ自分の美しさに圧倒されて言葉を失っているのだと勘違いして、さらに言葉を重ねた。「いいこと? 結婚してあげてもいいけれど、条件があるわ。まず、その無礼な態度を改めること。私の前ではひざまずいて挨拶なさい。それから、あなたの資産の管理権は全て私とお母様に――」「黙れ」 短く鋭利な一言が、麗華の妄言を断ち切った。隼人は書類をテーブルに叩きつけた。「勘違いするな。私が欲しいのは『白河の戸籍』という看板だけだ。お前個人のわ
(ここは人が暮らす場所ではないわ。まるで氷の城ね) そんな小夜子の迷いなど意に介さず、隼人はさっさとリビングへと進んでいく。 彼は上着を脱ぎ捨て、ソファの背もたれに無造作に掛けた。 広大なリビングの中央に鎮座する、黒い革張りのソファ。 隼人はそこに深く腰掛けて、ガラステーブルの上の瓶とグラスを手に取った。中にはウィスキーだろう、琥珀色の液体が満ちている。 カラン、と氷がグラスに当たる硬質な音が、広い空間に反響する。酒が注がれる音だけが、この部屋の沈黙を埋めていた。 隼人はグラスを傾け、氷越しに小夜子を見据えた







