LOGINその部屋には、色とりどりの星型モビールが天井から吊るされている。
パステルイエローの壁紙には、丸みを帯びた森の動物たちのイラストが規則正しい間隔で並んでいた。ホテル『サンクチュアリ』の裏手に併設された社内保育園「こぐまの森」は、常に一定の温度と湿度が保たれている。
もちろん、園児たちの体調を大事にしてのことだ。お昼寝の時間が終わり、おやつの気配が漂い始める午後3時。
5歳の理玖は、青と赤のプラスチック製ブロックを組み合わせる作業に没頭していた。 ブロックの凹凸がカチリと噛み合う音が、最近の彼のお気に入りである。 彼は父である翔吾の真似をして、安定した橋の形を組み上げようとしていた。「えーっと、父ちゃんはなんて言ってたかな。こうぞうりきがく? を応用すれば、ブロックをたくさん積める……?」
実加と翔吾が結婚して数年が経つ。
理玖は翔吾をすっかり父親として受け入れて、「父ちゃん」と呼ぶようになっていた。「えっ? ええと、その……」 言葉に詰まって視線を泳がせていると、見学席から実加の声が飛んだ。「こら理玖、男なら女の子の想いに答えてやれ!」 周囲の大人たちからドッと笑い声が起きる。「りくくん顔あかーい!」 他の園児たちも手を叩いて冷やかしてきた。 理玖は顔の熱をごまかすように、祭壇の手前で美夕に向き直った。「これからも友だちでいてね、美夕ちゃん」 美夕はニコニコと笑って頷く。「うん、わかった。およめさんになるまではともだちね」 その返事に、理玖の顔は再び真っ赤になった。(美夕ちゃん、なんなの! およめさんごっこ? やめてよ、もう!) それから理玖と美夕を囲んで、園児たちと親たちで記念撮影をした。 実加は「理玖がこんなに早く婿に行くなんてさあ……翔吾にも見せたかったぞ」と言って、さらに理玖を赤面させていた。 そうしてやっとイベントが終わった。 元のTシャツと半ズボンに着替えると、理玖は大きく息を吐いた。 首の周りが軽くなって、ようやくいつもの自分に戻った気分だ。 少し離れた場所で、美夕が小夜子の服の袖を引っ張っている。「おかあさま、わたし、またドレスをきたいわ」「また今度ね。ドレスは特別な時に着るからいいものなのですよ」「ふーん」 引率スタッフが園児たちの前に立ち、笑顔で告げた。「かわいい花嫁さんと花婿さんでしたね。みんなも大人になったら、ぜひサンクチュアリで結婚式をしてくださいね。さて、それでは次の部署に行きましょう」 一行はチャペルを後にした。◇ チャペルでのドキドキからやっと解放された理玖たちは、エントランスへ向かった。 自動ドアが左右に開いて、外の初夏の空気が少しだけ入り込んでくる。 ホテルの外には、真っ白な手袋をしたベル
(わかんない。服が多すぎて選べないよ。どれも同じに見えるし、なんだか重たそうだ) 返事に困って黙り込んでいると、スタッフは人の良さそうな笑みを浮かべた。「それじゃあ花婿さん役だから、これにしようか」 彼がラックの奥から引き出してきたのは、大人顔負けの黒いタキシードだった。「着替えはこっちでしようね」 理玖は別室に連れて行かれ、子供用のタキシードを着せられた。 黒い上着は肩のあたりが窮屈で、腕を動かしにくい。 首元に巻かれた蝶ネクタイの硬い布地が喉に当たって、唾を飲み込むのさえ苦しかった。「着心地はどうかな?」「苦しい……です」「そっか、ごめんねえ。少しの間だから我慢してくれる?」 そう言われれば嫌だと泣くわけにもいかない。理玖は渋々頷いた。◇ 一方の美夕は、衣装の山を前に目をキラキラと輝かせていた。 ラックの間を縫うように歩き回り、次々とドレスの裾をめくっては品定めをしている。「わたし、ウェディングドレスがいいわ」 美夕がおっとりとした、けれど芯のある声で宣言した。 スタッフは困ったように目尻を下げる。「さすがに子供用のウェディングドレスはないねえ」「そうなの?」 美夕は少しだけ唇を尖らせたが、すぐに気を取り直して別のラックを漁り始めた。「それなら、これがいいわ」 彼女が引っ張り出したのは、白を基調とした可愛らしいワンピースだった。 胸元には細やかなレースがあしらわれ、スカートの裾には小さな造花が散りばめられている。 着替えを終えて出てきた美夕は、まるで絵本から飛び出してきた花の妖精のようだった。 ふんわりとしたスカートには透けるような布が何枚も重なり、動くたびに擦れて微かな音を立てる。「どう? にあう?」 美夕がスカートの裾を軽くつまんで、理玖の前でくるりと回った。
ところが食器が割れる音は、いつまで経っても聞こえてこなかった。 理玖が恐るおそる目を上げると、そこにはテーブルクロスだけがきれいに引き抜かれたテーブルがあった。 セットされたカラトリーの位置はそのままに、テーブルクロスのみがスタッフの手にある。「すごい!」「本物の忍術だ!」 興奮した園児たちがスタッフに駆け寄り、テーブルクロスを触っている。「しっかり練習すれば、この『忍術』を使えるようになりますよ。でも失敗したら大変だから、大人の人と一緒にやってね」「はーい!」「すごかったね」 忍術を見た園児たちは、大満足して次の場所へと向かった。◇ 次に向かったのは、ウェディング部門のチャペルだった。 分厚い両開きの扉が開くと、高いアーチ状の天井が広がっていた。 正面のステンドグラスから太陽の光が入り込み、大理石のバージンロードに赤や青の光を落としている。 木の長椅子が規則正しく並び、祭壇の周りには白い花がたくさん飾られていた。甘い花の匂いが鼻をくすぐる。 引率スタッフが、箱を持って園児たちの前に立った。「ここでは特別イベントを行います。この箱の中の紙を一枚ずつ引いてください。『当たり』と書いてあったお友達に、花嫁さんと花婿さんになってもらいます。あ、もちろん、花嫁さん2人や花婿さん2人でもオッケーですよ」 ウェディング部門のスタッフが差し出した箱に、園児たちが順番に手を入れていく。 理玖も紙を1枚引いた。 二つ折りの紙を開く。 赤いペンで丸が描いてあり、「当たり」の文字があった。「あっ」 隣で同じ紙を見ていた美夕が、おっとりとした口調で言う。「りくくん、いっしょだね」「当たりは理玖くんと美夕ちゃんね。いいコンビが当たりましたね」 引率スタッフが可笑しそうに微笑んだ。「さあ、こちらへ」 ウェディング部
「さあ、次は広いお部屋に行きますよ」 引率スタッフに呼ばれ、みんなでもう一度通路を歩き出す。 次に向かったのは、宴会場という場所だった。 両開きの大きなドアが開く。足を踏み入れると、靴の先がふわっと沈み込んだ。 どこまで歩いても足音が鳴らない、長い毛の絨毯だ。 運動場みたいに広い部屋には、真っ白な布がかかった丸いテーブルがいくつも並んでいる。天井には、豪華なシャンデリアがキラキラと輝いていた。「わーい! ひろーい!」 興奮した男の子たちが、ぱっと手を離して走り出そうとする。「こらこら、走らない! ここはこれから、大切なお祝いをする場所だからね」 引率スタッフが慌てて子供たちを抱き止めた。 会場の中では、黒い服を着た大人たちが忙しそうに動いている。 白い手袋をして金属のメジャーをシャーッと伸ばし、椅子とテーブルの隙間を測っていた。「コップの位置、あとちょっと右にして」「了解」 耳につけたイヤホンから、短い声が聞こえてくる。 スタッフの人たちは、しゃがみこんでテーブルの上のナイフやフォークがまっすぐ並んでいるかを確認している。 手際は極めて素早い。 ふわりとテーブルクロスが広がったかと思えば、あっという間にカラトリーのセットが終わっている。 カチャリ、カチャリと金属の音が鳴った。「あのお兄ちゃんたち、忍者みたい!」 男の子が目を丸くして指を差した。理玖もこくりと頷く。(本当に忍者だ。耳の機械でこそこそ話して、一瞬でテーブルの上のものを並べ替えちゃう。僕も保育園のおもちゃの片付けをあんな風にやれたら、先生にすごいって言われるかな)「カラトリー……フォークやナイフなどの食器は、ミリ単位でセットします。細かすぎると思うかもしれないけど、お客様を最高の状態でおもてなしするのに必要なんですよ」 忍者もとい宴会場スタッフが説明した。「しつもんです! どうしてそんなに忍者みたいに動けるんですか
ウェディングケーキの前では、年配のパティシエが、先が鋭く尖ったピンセットを指先で操っていた。 ピンセットの先端には、青や紫色の極小のエディブルフラワー(食用花)が挟まれている。 パティシエは息を詰めて、ケーキの側面に花びらを配置していた。(ケーキ屋さんって、もっと楽しそうにクリームをぐるぐる塗るのかと思ってた。やってることはお医者さんの手術みたいだ。あんな小さい花をチマチマ置くなんて、ぼくなら3分で飽きちゃうよ) パティシエの指先の熱が伝われば、繊細な花びらは傷んでしまう。 だから金属製のピンセットと細いスパチュラだけを使い、ケーキ本体に触れることなく立体的な装飾を加えていくのだ。 やがて花びらがクリームの土台にピタリと吸い付くように配置された。 パティシエはふうと息を吐いて肩の力を抜く。「おじちゃん、これ、いまからたべるの?」 見学していた男の子が尋ねた。 パティシエは振り返り、目尻を下げて笑う。「これは今日の結婚式で使うケーキだよ。新郎新婦がケーキ入刀をする、一番大切な場面で登場するんだ。おいしくって、一口食べると、魔法みたいに幸せになれるんだよ」 パティシエの言葉に、子供たちは「まほう!」と声を弾ませる。 そこへ、オーブンを担当していたパティシエが、銀色の小さなトレイを持って近づいてきた。 トレイの上には、四角く切り落とされたスポンジケーキの切れ端が山積みになっている。「見学に来てくれたお礼だよ。みんなで食べてね」 引率スタッフが受け取り、園児たちに配り始めた。 理玖も小さなスポンジの欠片を受け取る。まだほんのりと温かい。 口に入れると、卵の優しい甘さがふわっと広がって、すぐに溶けてなくなった。「あまくておいしい!」「もっとたべたい!」 園児たちは大喜びで跳ね回る。理玖も口の周りについたケーキの粉を舐め取った。「すっごくおいしい。ケーキのきれはし、もっとないの?」 理玖が身を乗り出して聞くと、パティシエたちは顔を見合わ
搬入口の騒々しさを背に、引率スタッフが先頭を歩く。 一行は従業員専用の通路を通ってホテルの奥へと進んだ。 理玖は自分の背丈よりも何倍も高いコンクリートの天井を見上げる。グレーに塗られた太い配管が縦横に這い回っていた。「次は、ケーキやお菓子を作っている場所へ行きますよ。みんな、はぐれないように手をつないでね」 引率スタッフが声を張り上げる。コンクリートの天井に声が反響した。「はーい!」「ケーキだって。たのしみ!」 引率スタッフの案内に、園児たちが元気よく返事をする。「美夕ちゃん、手つなご」「ええ」 理玖は隣を歩く美夕と手を繋いだ。 美夕と手を繋ぐのはいつものことなのに、見知らぬ場所のせいかドキドキする。 やがて行く先に大きな扉が見えてきた。 分厚いステンレスの扉が開く。途端、焼きたてのバターの香ばしさと、焦がしキャラメルの濃厚な甘い匂いが鼻をくすぐった。「うわぁ……」 理玖は声を漏らした。口の中に溜まった生唾をごくりと飲み込む。 室内には、銀色に磨き上げられた巨大な作業台がいくつも並んでいた。「こちらがパティスリー部門です。大きい作業台とケーキが見えますね! 作業台はひんやりしているんですよ。チョコレートや飴細工が手の熱で溶けないための工夫です」 引率スタッフが言う。 園児たちは順に手を伸ばして、ステンレスの作業台を触らせてもらった。「ほんとだ。つめたい!」 純白のコックコートと高いコック帽を身につけたパティシエたちが、それぞれの作業台で作業に没頭している。 手前の台では、若いパティシエが自分の胸ほどもある金属製のボウルに向かっていた。 巨大なホイッパーで、卵と砂糖の混ざったもったりとした黄色い生地を力強くかき混ぜている。 シャカシャカというリズミカルな音が室内に響いた。 奥のオーブンからは、熱気とともにスポンジケーキが焼き上がる匂いが漂ってきた。 分







