Se connecter作業台の上に料理が並んだ。
飴色に輝き、ごま油の香りを放つきんぴら。 脂が浮いて湯気を立てる、熱々のアラ汁。 そして真っ白でふっくらとした塩むすび。見た目は地味で、高級旅館の懐石料理とは比べるべくもない。けれど、これこそが働く人のための活力の源となる「まかない飯」だった。
噛むほどに染み出す大根の滋味深い甘みと、ごま油のコク。醤油の香ばしさ。最後に唐辛子のピリッとした辛味が追いかけてきて、後を引く。皮特有の硬さが、むしろ心地よい歯ごたえというアクセントに変わっていた。
「……美味い」
隼人は素直に認めた。驚きを隠せない顔でもう一口、箸を伸ばす。
「これが、あの捨てられていた皮か? 信じられん。身よりも味が濃いじゃないか」
「はい。手をかければ、どんなものでも美味しくなります。素材の声を聴いてあげれば」
隼人の言葉を聞いて、隠れていた板前たちがざわめいた。
「おい、聞いたか? あの社長が美味いって
「あの宿が元気になってくれるなら、安いもんだ。裏の納屋に、今朝採ってきたばかりの原木椎茸と、珍しい山菜が山ほどある。好きなだけ持っていきな」「マジで!? ありがとー!!」 実加は老人の手を両手で握りしめ、何度も上下に振った。「すまんな、源さん。あいつ礼儀知らずでよ」 実加が納屋に走っていった後、番頭は老人に頭を下げた。 老人は笑う。「構わん、構わん。若いやつはあのくらい元気があった方がいい。しかし急にどうしたね? 宿で俺のキノコを使うなんぞ、今までなかったろうが」「実は事情があってな……」 番頭が御子柴の話をすると、老人はため息をついた。「グラン・ヘリックスっちゅーと、あのでかいリゾートホテルだな。あんなでかい箱モノをおっ立てて、この里山に悪影響が出なけりゃいいがと心配していたんだよ。せせらぎ亭は昔からある、この町の宿だ。潰れずにまた客が来るなら、こんなに嬉しいことはない」「ありがとうよ。……それでキノコと山菜の代金は、いくら払えばいい?」「そういう事情なら、タダでも構わんぞ」「そうはいくかよ。里山と町を心配してくれる源さんが、干上がっちゃどうしようもないだろ。しっかり金を受け取って、これからも働いてくれ。何、心配いらん。予算ならうちの親会社が出してくれる」 番頭がニヤリと笑うと、老人も笑みを返した。「そういうことなら、きっちりもらおうかね。納屋にあるだけというと、こんなもんだが」「よし。受け取ってくれ」 番頭が老人に代金を渡したところで、両手いっぱいにキノコと山菜を抱えた実加が戻ってきた。「番頭さん! 見てくれよ、これ。すげー立派な椎茸と、他にも山菜が山ほどだ。香りがいいんだよ、これ!」「そうじゃろう、そうじゃろう。俺の自慢のキノコだからな」 老人が笑う。 番頭と実加は改めて礼を言って、たくさんの食材を軽トラに積み込んだ。「またいつでも来いよー!」「うん、また来るぜ
「それだ!」 実加が両手をポンと叩いた。「そいつらをかき集めりゃ、すっげえ夕食ができるんじゃねえの!」「……お待ちください」 翔吾が片手を上げて、議論を制止した。 彼の頭の中で、新たなビジネスモデルの構築が急速に進んでいる。「それは、経営戦略の観点からも極めて理にかなっています」 翔吾はタブレットを開き、画面を皆に向けた。「現代のリゾート産業において、『地産地消』――ローカル・ガストロノミーという概念は、非常に高い付加価値を生み出します。どこにでもある高級肉を出すよりも、『その土地、その季節でしか味わえない特別な食材』を提供する方が、顧客満足度は飛躍的に向上するんです」 翔吾の論理的な裏付けに、板前の顔が少しずつ上がり始めた。「つまり、ただの寄せ集めの妥協ではないってことか? 俺たち地元民にとってはありふれた食材でも、他の場所から来た客にとっては価値があると?」「ええ。妥協ではありません。これは、せせらぎ亭のブランド価値を高めるための、最強のアップデートです」 翔吾が断言すると、実加が弾かれたように駆け出した。「決まりだな! 番頭さん、軽トラ出すぞ!」「お、おう! 任せとけ!」 番頭が鍵を手に取り、実加の後を追う。 2人の足音が遠ざかるのを見送り、翔吾はタブレットを閉じた。(物理的な供給網が絶たれても、地域との繋がりという『無形のネットワーク』までは断ち切れない。御子柴の計算違いは、そこだ) にわかに活気を取り戻したスタッフたちを、小夜子は静かに見守っていた。◇ 午後になると、せせらぎ亭の軽トラックが、土煙を上げて山道を走っていた。 運転席の番頭がハンドルを握り、助手席では実加が窓を全開にして風を浴びている。「右だ、姉ちゃん! この先の坂を上ったところが、源じいさんの家だ!」 番頭の指示通りに進むと、古い日本家屋が見えてきた。
「チッ。なんてことだよ……」 板前が悔しそうに吐き捨てた。 翔吾は脳内で被害の規模を計算する。 明日の宿泊客は満室。 夕食の提供ができなければ、せせらぎ亭の信用は一瞬にして地に落ちる。 多額の違約金と、最悪の口コミがネット上にあふれ返るだろう。 板前が、フラフラとした足取りで調理台に手をついた。 彼の広い背中が、みるみると小さくなっていくように見える。「終わりだ……」 板前の声が、空っぽの厨房に虚しく響いた。「食材がなけりゃあ、料理人はただのデクノボウだ。明日の客に、出すもんが何一つねえ。……お客様に土下座して、予約をキャンセルしてもらうしか……」 調理台に突っ伏し、板前はがっくりと首を垂れた。 厨房に重苦しい空気が漂う。「おいメガネ、なんとかならねえのか?」「何とかと言われても……」 実加と翔吾も頭を絞るが、良い解決策は浮かばない。 ――と。「キャンセルなど、言語道断です」 凛とした声が、重い空気をまっすぐに貫いた。 入り口に、藤色の着物をまとった小夜子が立っていた。 彼女の歩みには一切の動揺がない。 百合の香りを漂わせながら、小夜子は板前の隣へと歩み寄った。「女将……。でも、肉も魚もねえんです。夕食の献立が作れません」 板前はのろのろと目を上げて、彼女を見る。「高級な和牛や、遠くの海で獲れた鯛が、本当に必要ですか?」 小夜子は厨房の窓を指差した。 そこからは、新緑に彩られた美しい里山の風景が広がっている。「画一的な高級食材がないのなら、この里山にある『宝物』を使えばいいのです」「宝物……?」「ええ。地元の方しか知らない美味しいもの、昔か
「これを見ろ! 明日の夕食に出す予定だった和牛も、鯛も、高級野菜も、何一つ届いてねえんだ! 業者のトラックは、空の箱だけ置いて帰っちまった!」「……届いていない? 発注ミスですか?」「馬鹿野郎、俺がそんなドジを踏むか! 3日前にきっちり発注した。業者の担当も『承知しました』って言ってたんだ! 伝票の控えもある!」 板前の呼吸が荒い。額にはじっとりと嫌な汗が浮かんでいた。(何が起きた?) 翔吾は即座に自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。馴染みの食材卸業者の番号を呼び出す。 数回のコール音の後、電話は繋がった。「お世話になっております。アーク・リゾーツの黒崎です。せせらぎ亭の明日の納品についてですが――」『あ、ああ……黒崎さん。申し訳ありません!』 電話の向こうの担当者は、ひどく歯切れの悪い声を出した。『うちからは、もうそちらへ食材を回せなくなりました。本当に、申し訳ない!』「回せない? どういうことですか。契約違反ですよ」『上からの絶対の指示なんです。そちらと取引をするなら、今後の大型契約はすべて白紙にするって……。うちみたいな小さな問屋じゃ、逆らえません!』 一方的にまくしたてると、担当者は逃げるように電話を切ってしまった。 ツー、ツー、という電子音が、翔吾の耳元で響く。「相手さん、何だって?」 実加が不審そうな顔をした。「上からの指示で、うちとは取引できないそうです」「はあ? 何だそりゃ? そんなの許されるのか?」「許されませんよ。明らかに契約違反です。……他の業者にも確認しましょう」 翔吾はすぐに別の水産会社、精肉店にも電話をかけた。 けれど答えはすべて同じだった。「急に取引できなくなった」「他を当たってくれ」 と、誰もが怯えたような声で謝絶してくる。
週末の活気から数日が経過した、水曜日の朝。 せせらぎ亭のロビーには、柔らかな春の陽射しが差し込んでいた。 黒崎翔吾はフロントカウンターの定位置に立ち、タブレット端末の画面をスクロールしていた。 視線の先にあるのは、今後の予約状況を示すカレンダーだ。週末だけでなく、平日のマス目にも次々と『予約完了』の文字が埋まり始めている。(SNSのバズ効果は、一過性のものでは終わらなかった。宿泊した顧客の口コミが新たな顧客を呼ぶ、理想的な好循環サイクルに入っている) 翔吾は無意識のうちに眼鏡を押し上げ、小さく息を吐き出した。 胸の奥に確かな達成感が広がっていく。自分たちの提供したサービスが、明確な数字となって表れているのだ。「フンフフーン、フフーン」 軽やかな鼻歌が聞こえてきた。 山内実加が、上機嫌でモップをかけている。金髪のメッシュを揺らし、ステップを踏むように床を磨く姿は、見ているこちらまで明るい気分にさせる。「ずいぶんと楽しそうですね、実加さん」 翔吾が声をかけると、実加はパッと顔を上げて満面の笑みを見せた。「おう、インテリ! 当たり前だろ! 今度の休みの日にな、チビがここへ遊びに来るんだよ!」 実加はモップの柄に体重をかけて、嬉しそうに目尻を下げる。「小夜子師匠が手配してくれたんだ。シッターさんが車で連れてきてくれるって。アタシがピカピカにしたこの宿を見たら、チビのやつ、絶対喜ぶぜ!」 小さな理玖が喜ぶ姿を想像し、翔吾も思わず微笑んだ。「それは良かったですね。ですが、よだれで床を汚されないように注意してくださいよ」「なんだと! ウチのチビのよだれはマイナスイオンが出てるんだよ!」 翔吾の冗談めかした言葉に、実加が口をとがらせて言い返した。 平和なやり取りだ。数日前の、あの重く沈んだ空気が嘘のように、せせらぎ亭には穏やかな時間が流れていた。 だがその平穏は、突如として破られた。「どうなってんだ! ふざけるな!」 厨房の方角から、板前の
(だが、目の前の母親の疲労度を瞬時に察知し、予定になかった貸切風呂のスケジュールを臨機応変に組み上げ、温度を調節することは絶対に不可能だ。そこにいる人間の『思いやり』がなければ、この結果は決して生み出せない) 翔吾の脳内に構築されていた冷たい数式が、温かなものに書き換えられていく。 御子柴が『ゴミ』と切り捨てた感情という変数が、いかに巨大な価値――顧客の生涯価値(LTV)を生み出すか。 翔吾は今、自分自身の体験として、それを完全に理解したのだ。「お疲れ様。見事な采配でしたよ、翔吾さん」 小夜子が音もなく現れた。 温かいお茶の入った湯呑みを、翔吾の前に置く。「総支配人……いえ、女将。ありがとうございます」 翔吾がお茶を一口飲むと、胃の奥まで温かさが広がった。「みんな、スタッフルームに集まっていますよ。あなたも来なさい」 小夜子に促され、翔吾が裏のスタッフルームへ向かうと、そこには実加や番頭、仲居や板前たちが車座になって座っていた。 全員の顔に心地よい疲労感と、大きな仕事をやり遂げた達成感が浮かんでいる。「おう、インテリ! 遅えぞ!」 実加が自分の隣の座布団をバンバンと叩く。 翔吾がそこに座ると、番頭がおもむろに立ち上がった。 番頭の手には、昨日御子柴が置いていった、グラン・ヘリックスの再就職契約書が束になって握られていた。分厚い紙の束だ。 部屋の空気が少しだけ引き締まる。 番頭は契約書を見つめて、ふっと息を吐いた。「あの赤ちゃん連れのお客さん……風呂上がりに、俺の顔を見て『ありがとう』って、泣きそうな顔で笑ってくれたんだ」 番頭の声は、深い感慨に満ちていた。「俺はあの笑顔が見たくて、何十年もこの宿で働いてきた。それを……すっかり忘れてた」 番頭は契約書の束を両手で掴むと、迷うことなく部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ捨てた。 バサッ、と重い音が響く。
「いい男になったじゃない、隼人ちゃん。誰のおかげでそんなに立派になれたのかしらねぇ」 彼女の瞳には、母親としての慈愛など少しもない。 あるのはギラつくような欲望と、歪んだ所有欲だけだった。 真澄は吸殻を空き缶に押し付ける。ジュッと鈍い音がした。 そうして彼女は立ち上がる。「会いに行かなくちゃね。ママの可愛い、打ち出の小槌ちゃんに。育ててあげた恩を返してもらわなきゃ」 床に積もった酒の空き缶を蹴飛ばして、真澄は部屋を出ていった。◇ 午後、ホテル『サ
小夜子と隼人が心から結ばれて、愛を確認し合った翌朝。 タワーマンションの最上階の部屋には、穏やかな朝日が満ちていた。 ダイニングテーブルには、土鍋で炊いた艶やかな白米、出汁の香りが立つ味噌汁、完璧な焼き色のついた鮭と、鮮やかな黄色の出汁巻き卵が並んでいる。 見た目にも優しく良い香り。もちろん味も保証されている。「美味い」 隼人は箸を動かしながら、噛み締めるように言った。 かつては機能性ゼリーやサプリメントで済ませていた朝食が、今では1日の始まりで楽しみな時間だ。 彼の顔からは、血も涙もない氷
その重さに押しつぶされそうになった時、隼人の手が伸びてきた。 彼は小夜子の唇の端についた砂糖を親指で拭い、自分の口に含んだ。「バチなど当たるか」 隼人は自分のコーヒーを小夜子に差し出した。「お前が遊べなかった10年分、これから俺が全部埋めてやる」 彼は城を指差した。「次は隣のパークに行くぞ。あそこには世界一の清掃船があるらしいからな。お前の好きな洗剤の話も、いくらでも聞いてやる」 不器用な慰めに、小夜子は目を見開いた。 洗剤の話を聞いてくれる。この世界で、そんなことを
「初対面の方に、そのようなご指摘をいただく筋合いはございません。業務の一環ですので」 小夜子は半歩下がって、事務的な笑顔で壁を作った。 だが男は引かなかった。むしろ、その拒絶が面白かったらしい。「業務、か。堅苦しいねえ」 男はクスクスと笑い、名刺を差し出した。『株式会社ネクスト・フロンティア代表取締役社長 高塔蓮』。 新進気鋭のITベンチャーの社長だ。最近、メディアでよく見かける顔だった。小夜子も経済誌で見た覚えがある。「あの黒崎社長の奥様だよね? 噂は聞いているよ。没落した旧家から引き上







