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6話. 午後五時の条件

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 14:53:21

手のひらに触れる赤いナイロンのテザーは、馴染みがなく、冷たかった。蓮は拳を固く握り、それを握り込んだ。

怒りと屈辱。そして、認めたくない、かすかな救い。それらが胸の中で激しく渦を巻いていた。

「俺に……これを持って走れって?」

声が、荒くかすれた。

「俺は日本代表だった。一人で10秒23を出した、神崎蓮だぞ。それが今度は、誰かと紐でつながなきゃ走れないっていうのか?」

千紗は一歩も引かず、冷静に返した。

「10秒23は、先輩が出した記録です。でも今は、通路のハードルも見落としたし、トラックで足も踏み外しましたよね。さっき検査を終えて出てきたときも、ちゃんと歩けなかった。私が見て見ぬふりをしたら、何か変わりますか?」

容赦なく現実を突かれ、蓮の唇が震えた。

「受け入れてください。目が見えなくなっても、心臓が止まったわけじゃないでしょう。脚が折れたわけでもないのに、どうして先に諦めるんですか」

千紗は、テザーを握る手を軽く叩いた。

「一人で走れないなら、二人で走る方法を覚えればいい。森川コーチに、今の状態を正直に話してください。安全な、ゆっくりした動きに慣れるところから始めるんです。選手としてトラックに残るには、それしかありません」

千紗は振り返ることなく、病院の出口へ歩いていった。

蓮はその場に立ち尽くし、手のひらの赤いロープを見下ろした。

手を開くたび、ロープが手相の溝に引っかかる。病院へ来るまでは、考えもしなかった道だった。蓮は千紗の消えた出口のほうを、長い間向いていた。

* * *

翌日、午後三時五十分。西都体育大のトラック研究室。

森川は、蓮が差し出した大学病院の精密検査の診断書を手に、深く黙り込んでいた。

「網膜色素変性症……そうだったのか」

目元に、深い無念と悲しみがよぎる。

日本短距離界の宝ともいえるエースを襲った、あまりに残酷な運命だった。

けれど、蓮の表情は昨日と違い、固く引き締まっていた。

「コーチ。陸上をやめたくありません。国際パラリンピック委員会、IPCのT11の規定を調べました。専門のガイドランナーと一緒なら、もう一度トラックに立てます」

森川が顔を上げ、蓮を見据えた。

「以前の記録ばかり考えていたら、つらいぞ。一人で走っていたときの癖から、覚え直さなきゃならない。ガイドと合わせる時間も必要だ。それでも、やるか?」

「やります。走れるなら、何でもします」

蓮が拳を握りしめた。

「いきなり速く走るのは無理だ。視界を遮った状態で、歩く感覚と歩幅を合わせる。まずは低速の並走ドリルからだな」

森川がストップウォッチを手に取った。

「千紗には頼んでおいた。当面、ウォーミングアップのパートナーをしてもらう」

そこへドアが開き、千紗が入ってきた。

サウナスーツを着たまま腰に手を当て、森川と蓮を見る。

「コーチ。練習には、条件があります」

蓮の顔が、千紗へ向いた。

千紗は、はっきりと線を引いた。

「午後五時以降です」

「何?」

「今日はコーチに相談して、私の春季選考会に向けた100メートルの個人練習を、四時から五時に繰り上げました。自分の練習を全部終えてから、五時から三十分だけ、先輩の歩行練習を手伝います。五時半になったら、きっちり終わりです」

蓮の眉が動いた。

かつての千紗なら、自分の練習など放り出して、一日中、蓮のそばにいただろう。

けれど今の千紗は、違った。

スマートフォンにアラームを設定し、机に置く。五時半。蓮は画面を読む代わりに、設定を終えた音を聞き、告げられた時刻をもう一度、頭の中で確かめた。

不快どころか、胸のどこかが、不思議と安堵していた。

自分のせいで、この子の人生が壊れない。そのことが、かえって蓮に息をさせてくれた。

「……わかった。五時にトラックで」

* * *

午後四時から五時まで、千紗が練習している間、蓮はトラック脇のベンチに座り、そのすべてを耳で追っていた。

タンッ、タン!

スパイクのピンが赤いウレタンを叩く、鋭い音。

千紗の荒く熱い息と、地面を押す、規則正しく無駄のないストライド。

(速い……数日前より、スタートの蹴り出しがずっと鋭い)

驚かずにはいられなかった。

千紗が、自分の速さで思いきり走る音を、こんなに長く聞いたことはなかった。そもそも後輩の練習に、どれほど関心を持ってきただろう。すぐには思い出せなかった。

走る音がベンチの前を通り、遠ざかる。スタートラインへ戻った千紗に、コーチが短く助言をする。少しして、また同じリズムがトラックに響いた。

自分をすり減らす、犠牲になる者の姿は、そこにはなかった。

午後五時ちょうど、補助トラック。

100メートルのスタートインターバルをきっちり終えた千紗が、荒い呼吸のまま、蓮の前に立った。

蓮は黒いアイマスクをつけ、硬い姿勢で待っていた。

「先輩、手首を出してください」

左手首に、赤いテザーの面ファスナーを巻く。

反対側の輪を、自分の右手首にかけた。

五十センチのナイロンが、ぴんと張った。

「まずは歩きます。私の右足が出たら、先輩は左足です。歩幅は六十センチで固定します」

「わかった」

「行きますよ。いち、に!」

最初の一歩から、リズムは大きく崩れた。

見えない恐怖に、蓮は無意識に歩幅を広げていた。千紗の手首を強く引き、前のめりになる。

「あっ……!」

千紗がよろめき、蓮の胸に倒れ込みかけた。

蓮は慌てて足を止め、肩をつかんだ。

息が触れるほどの、近さ。

アイマスクの下、蓮の顎を汗が伝い落ちた。

「すまない……怪我はないか?」

声には、隠しきれない動揺があった。

千紗は咳払いをして、胸元から離れた。

テザー越しに、蓮の熱い鼓動が手の甲へ伝わってくる気がした。

「大丈夫です。紐を、引っ張りすぎないでください。テザーは相手を引きずる縄じゃありません。合図を交わす神経みたいなものです。力を抜いて、張りだけ感じてください」

二人は、もう一度スタートラインに立った。

いち、に。いち、に。

十回、二十回と試行錯誤を重ねて、ようやく二人の足音が、一つのリズムに重なり始めた。

たっ、たっ。

一定の拍子で刻まれる、ランニングシューズの軽い音。それがトラックに、穏やかに響いた。

蓮の強張った肩が、少しずつ緩んでいく。

見えなくても、走れるかもしれない。ロープを通して届く千紗のリズムが、灯台の光のように進む道を照らしていた。

ピピピッ!

スマートフォンのタイマーが鳴った。

【17:30 終了】

千紗はためらうことなく、手首の面ファスナーを剝がした。

ベリッ。

ロープがほどけ、蓮とのつながりが切れる。

名残惜しさが、胸を突いた。

「もう終わりか? あと十分だけやろう」

蓮は思わず、ロープへ手を伸ばした。

千紗は手の甲を軽く押し戻し、きっぱり告げた。

「だめです。約束の三十分は終わりました。私、クールダウンのストレッチをして、シャワーを浴びないと」

蓮は伸ばした手を引っ込め、膝に置いた。

もっと引き止めたかった。それでも、千紗の引いた確かな線を越えて、わがままを言うことはできなかった。

「……そうか。ありがとう」

千紗はクールダウンを終え、寮へ向かった。

シャワーを浴びたあと、午後六時半。グラウンド脇のベンチを通りかかった千紗は、足を止めた。

薄い夕焼けに、トラックが赤く染まる一角。

蓮が、ベンチに一人で座っていた。

近づく足音を聞いて、顔を上げる。

膝の上には、コンビニで買った冷たいスポーツドリンクの缶が一本、置かれていた。

蓮はそれを、そっと千紗のほうへ差し出した。

「……飲めよ」

千紗は瞬きをして、受け取った。

缶についた冷たい雫が、指先を濡らす。

「先輩、一時間、ずっとここで待ってたんですか?」

「ああ」

サングラスを外して、蓮がかすかに笑った。

黒い瞳には、焦点の曖昧さが残っている。けれど、そこに宿る温もりは、春の夕焼けよりも暖かかった。

「さっきの最後のダッシュ、よかったって言いたくて。四時半に走った、三本目のインターバル。最後まで、足音が軽かった。シャワーから戻ったら渡そうと思って、買ってきた」

千紗の胸の奥が、じんと震えた。

待つ側が、変わっていた。

前の人生で七年間、蓮の練習が終わるのをひたすら待っていたのは、千紗だった。

今、その手には、蓮が渡してくれた缶がある。飲む暇もなく次の仕事を探していたころとは違い、どこかへ急ぐ必要はなかった。千紗は、ベンチの脇にバッグを下ろした。

「先輩、ありがとうございます」

缶を握り、明るく笑った。

二人のトラックに、まったく新しい季節の風が、心地よく吹き抜けていた。

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