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あのキスの行方 02

Auteur: 市瀬雪
last update Dernière mise à jour: 2025-09-03 18:00:35

「そっか。じゃあ、大丈夫だな」

 いつもよりもずっと気苦労の絶えなかった教育係も、これで終わり。明日からはシフトも休みも合わせずに済むし、やっと全てから解放された――と思うのに、

 隣に、俺がいなくても、もう…….。

 実感するたび、なぜか切ないように胸が締め付けられる。

 何だこれ……。

 お世辞にもできが良かったとは言えない後輩が、ようやく独り立ちしてくれるのだ。なのにどうしてこっちがこんな心境になっているのか。本当なら清々するところじゃないのか……。

 これはあれか……? 娘を嫁に出すときの何とかっていう……。

 自虐めいた揶揄が頭を掠め、そんな自分に顔が引き攣りそうになる。

 終業時間からは、既に十五分ほどが過ぎていた。周囲にはもう、俺たち以外誰もいない。

「でも……」

 階段を上り始めた河原が、不意に足を止めて呟いた。

「でも?」

 俺はスイッチパネルに手をかけたまま、続きを待った。

 数拍後、河原がゆっくり振り返った。今度は身体ごとまっすぐに、俺へと向き直る。

「でもやっぱり……ここまで来られたのは暮科のおかげだから、できればこれからも……わからないことがあったら、暮科に聞きたいな」

「――…」

 その瞬間、俺はわずかに目を瞠った。

 ……なんて台詞ことを、なんて表情かおで口にするんだろう。

 見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、河原は心底嬉しそうに微笑わらっていた。

 彼の言動に他意がないのは明らかだ。付き合いは短くとも、それくらいはもうわかる。

 そのくせ、いきなり心臓を掴まれたような心地がして、そんな自分が信じられない。

 俺は部屋の電気を消した。

 自分がどんな顔をしているかわからなかった。こんな時、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。

 そんな心の内を悟られたくなくて、俺は視線を落とし、彼の隣を通り過ぎた。

 そうして、完全に背中を向けた頃、ようやくぽつりと呟いた。

「別に……仕事だから」

 だから河原お前に付き合ったわけだし……だからこれからも何かあれば聞いてくれて構わない。

 そう、伝えるだけで精一杯だった。

 彼の顔は見れなかった。見れなかったというより、こっちが見られたくなかったと言うのが本音だけど。

 ……そういえば。

 そして、同時にあることに気付いた。

 いつのまにか、あれほど引きずっていた胸の痛みが消えている。

 いつになったら消えるのか、もしかしたら永遠に消えないのではないかとも思っていた未練という名のおりが、凪いだままだ。

 時間の流れが、そうさせたのかもしれない。

 ……だけど、もはやそれだけじゃないことにも気付いてしまった。

 初日に交わした一方的なキスは、結局なかったことになっているが……。

 ……これって……。

 思えばあの一瞬から、俺の心は塗り替えられていたのかもしれない。

 とくんと高鳴る胸の音に、俺は今更それを自覚した。

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