LOGIN黒曜宮での生活は、セラに忘れていた人間らしさを取り戻させてくれた。
ジェイド王子との間に交わされる言葉は、どれも穏やかで、セラへの配慮に満ちている。
それに、黒曜宮につとめる者たちは、セラに好意的な目を向けてくれるようになった。
毎朝、直接、挨拶におとずれる侍従長は、ずいぶんと嬉しそうな顔で言う。
「セラ様のおかげで、殿下はずいぶんと、快方に向かわれているように思えます」
「あなたは、ジェイド殿下のことを、とっても思っているのね」
「殿下が幼いころよりお仕えしております。本当に、セラ様が来てくださって……」
そう言って、涙まで流す。
ジェイド王子は、どうやら、使用人からずいぶんと好かれているようだった。おそろしい魔獣の姿となり、近寄る者をむしばむ魔力を抑えきれない状況になっても、城につとめるものたちは、立ち去らなかったらしい。
人が少ない印象を受けたが、どうやら、それは、瘴気の影響で、弱っていった者たちから、離れざるをえなかったからだという。
セラは、昼下がりの、いつもの時間に、ジェイド王子の部屋の扉をたたいた。
すぐに足音がして、ジェイド王子が自ら、扉をあける。
「そろそろ、きみが来る頃だと思っていた」
セラは、ジェイド王子に笑顔を向けてから、部屋の奥のテーブルが用意されている定位置へと歩みを進めた。
開け放たれたテラスから、風が入る。
ひときわ、大きな風がふいたと思ったら、光が差し込んだ。
「……あ」
セラが黒曜宮にやってきてから、ずっと、どんよりとした曇り空か雨だったが、ようやっとの晴れ間のようだ。
隣にジェイド王子がやってきて言う。
「久しぶりの晴れ間だな。こんな風に、落ち着いた気持ちで、晴れ間を眺めることが出来るとは、思わなかった……」
「……」
セラは、ドキドキとした気持ちで、テラスに向かって数歩踏み出した。
開け放たれた扉の向こう側に、大きく広がる空。
雲が切れて、いくつもの光が地に降り注いでいる。
そして、そこに見える青。
青空だわ……。
「セラ? 泣いているのか?」
「……綺麗で、感動いたしました、殿下」
「セラ、言っただろう、ジェイドと呼んでくれ。きみは、わたしの、婚約者なのだから」
「ジェイド様」
「ジェイド」
「ジェ……ジェイド……」
セラがぎこちなく、そう呼ぶと、ジェイドは満足したようだった。
ジェイドがゆっくりと、大きな、灰緑色の腕を差し出してくる。セラは、そっと自身の手を重ねた。
そうすると、ジェイドが身にまとう呪いの魔力のうねりが、セラの内側へと流れ込んでくる。満たされるような感覚。
この儀式のようなやりとりが繰り返されるごとに、セラの感覚は鋭敏になっていくようだった。
自らの内側に取り込んだ、魔力に、形のようなものを感じる。
……これは、何……?
セラは、魔力の奥底にある、形にふれようと集中した。
形のようでもあり、香りのようでもあり、表情みたいなものにも感じる……。
そうね、気配、というのがしっくりくるかしら。
そこまで考えて、はっきりと魔力の気配にふれて、セラは、ハッとした。
これは……、ローゼンタール家の地下室にあったものと同じ気配……?
背筋に、氷水を流し込まれたようなおそろしい心地がした。
セラが閉じ込められていたローゼンタール家の地下室のとなりには、一族の宝物庫があった。そこから、わずかに魔力が漏れ出ていた。
セラは、地下室での孤独な生活の気を紛らわせようと、何度も、その魔力に触れて、自らの内側に取り込んだりした。
そのローゼンタール家の宝物庫から漏れ出る魔力と、ジェイドの身体からあふれる呪いの魔力の気配は、まったく同じものに感じられた。
ジェイドは、戦場で敵国と戦うなか、呪いを受けたはずだ。
なぜ、その呪いの中に、セラの実家であるローゼンタール家で感じた魔力の特徴が含まれているのか。
偶然であるはずがない。
ローゼンタール家は、ジェイドが魔獣へと変じるその原因に、深く関わっているんだわ。
セラの思考が乱れるなか、呪いの魔力はセラの身体の内へと消えてゆき、ジェイドの身体から灰緑色の皮膚が剥ぎ取られてゆく。白銀の髪と、深い青の瞳を持つ、本来の美しいジェイドの姿が現れる。
切れ長の瞳が、至近距離でセラを見つめる。
しかし、その美しい瞳に映るセラの顔は、恐怖と動揺で青ざめていた。
「……セラ? どうした、顔色が悪い」
ジェイドの声は、人に変じると、甘く美しい響きをもつ。
彼の暖かな手が、セラの冷えた手をそっと包み込んだ。
もし、目の前にいる優しい人が、ローゼンタール家の陰謀によって呪われたのだとしたら。
セラの目の前で、すぐにジェイドの人としての姿は失われ、魔獣オークの姿へと戻ってゆく。
「セラ、手をはなせ。きみの身体にもやはりこの魔力は毒だ」
「いいえ」
セラは、魔獣の大きな手を、握りしめた。
両手で、ぎゅっと握りしめる。
「すこし、疲れただけです。ジェイドのせいではありません」
赤くなったジェイドの魔獣の瞳が、こちらを心配げにのぞきこむ。
「では、きみに触れて、きみを部屋まで運んでも?」
セラがうなずくと、ジェイドはそうっと、まるで壊れ物をあつかうようにして、セラを抱き上げ、セラの部屋に向かった。
セラは、力を抜いて、ジェイドに身をあずけた。
暖かい。
急に背や肩の傷が痛んだ気がした。
あの冷酷な家族は、自分だけでなく、この優しい王子までも、傷つけているのかもしれない。
ジェイドが、この事実を知れば、どう考えるかしら……。
セラは、おそろしい気持ちになって、あたたかなジェイドの胸によりかかった。
夢のような一曲を踊り終え、鳴り止まない拍手に包まれながら、セラはジェイドの手をしっかりと握ったまま、大広間の一角にある階段へと導かれていった。 案内されたのは、貴族たちが集うフロアからは一段高く作られた、王族専用の観覧席だった。 重厚なベルベットの垂れ幕でいくつかに仕切られたその空間は、会場全体を一望できる特別な場所だった。中央に位置し、金糸の刺繍が施された豪華な垂れ幕がかけられているのが国王夫妻のための席で、その両脇に、第一王子と第二王子のための席がそれぞれ設けられていた。 ふかふかのソファに腰を下ろすと、先ほどまでの熱気が嘘のようで、セラはそっと息を吐き出した。手首に結ばれたダンスカードを見つめると、びっしりと名前が並んでいる。 休む間もなく、このまま次の曲もずっと踊り続けなくちゃいけないのかしら……。 先ほどの興奮が冷めるにつれ、あまりの運動量と緊張に身体がもつかどうかの不安が、じわじわと押し寄せる。ダンスカードを見つめたまま身構えていると、隣に座ったジェイドがセラの緊張を察したように優しく微笑んだ。「大丈夫だよ、セラ。そんなに緊張しなくても。それにしばらくは休憩だ。それぞれの曲の間には、しっかりと時間が設けられているからね」「そうなんですか……?」「ああ。そうしないと、広い会場の中で次に踊る相手を見つけ出すことも、挨拶を交わすこともできない」「そっか……そうですよね。それを聞いて、安心しました」 ほっと胸を撫で下ろしたものの、それでもやはり、手首で揺れるカードに刻まれた名前の多さを思うと、これから始まる長丁場への不安はぬぐえない。 ジェイドがセラの手首にそっと触れる。結びつけられた小さなダンス
オディールとカイル王子が去ったあとは、セラのもとに次々と、第一王子派に属する貴族たちが近づいてきては、挨拶を交わす。 会場の雰囲気や、お菓子と飲み物を堪能する暇もなく過ごしていると、やがて、会場の雰囲気が一変した。 鳴り響く音楽がぐっと大きくなり、天井でかがやくシャンデリア以外のいくつかの灯りがすっと落とされていく。窓の向こうの昼光は分厚い幕で覆い隠され、大広間の中央だけに、息をのむほど強い光が集められた。 シャンデリアのクリスタルが光を複雑に乱反射させ、まるで星屑を散りばめたような眩い空間が立ち現れる。「セラ様、あちらへ」 リタにそっと手を引かれ、セラは中央の開けた場所へと導かれた。 大勢の淑女や紳士たちが輪を描くように周囲を囲み、中央に視線を注いでいる。その輪の中心には、第一王子ジェイドと、第二王子カイルが立っていた。 カイルの隣に寄り添うオディールが、セラに向けて、刺すような冷たい視線を一瞬投げかけてきた。 セラはリタの手を離し、ゆっくりとジェイドのもとへ進み出た。 互いに歩み寄り、至近距離で対峙する。ジェイドの青い瞳が、セラを柔らかく包み込んだ。「セラ、今日のきみは、本当にきれいだ」 さっきまでの不安も、そのひとことで吹き飛ぶ。 セラはまっすぐにジェイドを見上げ、思ったことをそのまま言った。「ジェイド、とっても、かっこいいです。わたしが物語のなかで想像した素敵な王子様が、そのままここにいるみたいです」 ジェイドの唇が、綻んだ。 彼はうやうやしくセラに向かって礼をつくし、セラの手をそっと救い上げた。そして、セラの指背へ、唇を静かに寄せる。 音楽が変わった。
せっかく緊張がすこしほぐれかけていたセラの身体が、一瞬で氷のように硬直する。 声をかけられて、振り返った先には、豪華なドレス。女らしさを際立たせるような、胸元のあいたドレスには、たっぷりと宝石がぬいつけてある。華美な意匠だが、華やかな顔立ちを持つ、セラの姉、オディール・ローゼンタールの堂々とした態度には、そのドレスがよく似合っていた。優雅に扇を揺らして、親しみは感じられない微笑みをセラに向けている。その隣では、感情の見えない無表情で、黒曜石のような瞳をセラに向けて、第二王子カイルが立っていた。「ごきげんよう、セラ。あら、そんな表情をされるなんて。わたしが、何か気に障ることをしてしまったかしら。……ああ、お気に入りの護衛騎士とお菓子を堪能しているところを邪魔してしまったから? それでそうやっていじわるな顔をしてわたしを見るのね」 オディールが、眉をさげ、悲しげにため息をついてつづける。「あなたは、いつもわたしにいじわるだけれど、わたしはあなたが心配だわ、セラ。ジェイド殿下は、あなたのことを、大切にしてはおられないのね。はじめて参加する舞踏会だというのに、こんなふうにひとりで置いておかれるなんて……。わたし、とっても心配になって、声をかけにきたのよ」「……っ」 セラの喉がぎゅっとなった。 まわりにいる人々が、ひそひそと、こちらを見ながら話している。 何か言い返さないと。 そう思うのに、オディールの顔を近くで見ると、喉が引きつり、声が出てこない。意見を言えば、痛みを与えられる。泣いても、痛みを与えられる。やめてほしいと懇願するほど、痛みを与えられる。ただ、黙って、オディールの関心が自分から離れるまで、待つしかない。今までの恐怖。 セラは、その場から逃げ出してしまわないよう、ぐっ
大広間に一歩足を踏み入れた瞬間、セラは目も眩むような光と熱気に包まれた。 天井で煌めく無数のシャンデリアが複雑に光を反射している、色鮮やかなドレスを纏った淑女たち、胸元に勲章を誇らしげに輝かせた紳士たち。立ち込める甘い香水の香りと、楽しげな歓談の輪、そして奏でられる美しい音楽。 まだ昼すぎのはずだが、窓には分厚い布が美しい曲線を描いていくつもかけられていて、室内はいくつもの灯りがまるで競い合うように、そこかしこを照らしている。 セラは、明暗の強さに、くらっとした。 これが、王宮の舞踏会——。 セラは、国王夫妻と同じ壇上に導かれ、大勢の紳士淑女が見つめる中で、第一王子の婚約者として紹介された。次々に訪れる、立派な服装の人々。見たこともない人々が、次々と祝福の言葉を口にする。 笑顔のもの。 笑顔のように見えるもの。 セラは、極度の緊張で、ほとんど記憶を保てなかった。こんなに大勢の人を見るのも、声を聞くのも、生まれて初めてのことだ。震えないよう、ぐっと手足に力をこめるので、精一杯だった。 そうして、挨拶の波が引き、壇上から降りると、すぐに大勢の貴族たちがジェイドのもとへと押し寄せてきた。立派な姿の男性たちが次々とジェイドを囲み、何やら眉をひそめて難しそうな政治の話もしたりしている。「セラ様、こちらへ」 リタがそっとセラの手を引いた。 ジェイドがセラに一度微笑みかけてから、またすぐに男性たちとの話にもどる。 リタが移動しながらセラの耳元に顔を寄せ、こっそり教えてくれる。「ああやって、殿方は舞踏会だろうとどこだろうと仕事や政治の話をしたがるものなんです。まあ、あれも勢力固めの一環です。その間、淑
セラとジェイドが、国王との雑談をしばらく続けていると、謁見の間の扉が再び開かれた。 入室してきたのは、豪華なドレスに身を包み、身の内側から自信があふれんばかりの堂々たる仕草で進んでくる、セラの母親と同じ年ごろに見える女性と、立派な礼服に身をつつんだ若い男性、そして、そのすこし後ろにいたのは、オディール・ローゼンタールだった。 セラは、その姿を見て、思わず震えそうになる指先を、ぎゅっと握ってたえた。 ローゼンタール家は、第二王子との婚約の話を進めている。たしか、ジェイドがそう言っていた。 セラの姉、オディール・ローゼンタールを連れているという事は、若い男性は、第二王子のカイル王子かもしれない。そして、いかにもこの玉座のある謁見の間にふさわしい者という堂々とした態度の女性は、カイル王子の母親、現王妃だろうか。 ゆったりとした歩調で進み出てきた女性は、美しく整った顔立ちにも、華やかな仕立てのドレスにも隙がない。迫力のある女性だった。 女性が国王の隣へと歩み寄り、立ち並ぶ。 国王は、気さくな様子で女性に声をかける。「やあ、きみ。今日も美しいね」「あら、陛下も素敵ですわ」 いかにも仲睦まじい夫婦のやり取りに見えた。その雰囲気のまま、国王が若い男に目をやって言う。「カイル、お前ももう婚約者持ちかあ。しかもジェイドの婚約者の姉君とはな」 カイル王子に促され、オディールが優雅な所作で礼を尽くす。「オディール・ローゼンタールと申します」 国王は、セラに向けたの同じように、オディールの瞳をじっと見つめた。しばらく見つめた後、ふっとオディールから視線を外し、カイル王子に向かって軽い調子で言う。
謁見の間に、しずかな時間があった。 どれほどの時間だっただろうか。セラは、己の内側まで見透かしそうな、不思議に美しい国王の視線を、逃げることなく見つめ返しつづけた。努力して、見つめていたという感覚はない。美しいものを眺めるような、ゆったりとした心地もあった。短い時間のようにも、長い時間のようにも感じる。 ふと、国王の口元がゆるみ、ふわっと親し気な笑顔があらわれる。「ジェイドが気に入ったのも、なんとなく分かる」 国王のその言葉をきっかけに、張り詰めていた空気が、霧散する。彼は、ほがらかな人好きする笑顔で、気楽に言った。「可愛い子じゃないか、ジェイド」「はい、父上」 ジェイドがすんなりうなずくと、国王はからかうような視線を息子に向ける。「お前が、女の子を家に返したくないと駄々をこねるなんてなあ。女は苦手そうだったのに」「別に、苦手ではありません」「うそつけぇ。追いかけまわされて嫌そうにしていたくせに」「……」 ジェイドが珍しく、嫌そうな顔で視線を逸らす。なんだか幼くて可愛い様子に思えて、セラは微笑んだ。 国王はセラに向かって、楽しそうに、ちょっといじわるそうな顔をして身を乗り出して言う。「気をつけろ、セラ。こやつは、追いかけられて嫌そうな顔をしていたわりには、多分経験豊富だぞ」「父上!」 ジェイドが普段の冷静さからは想像もつかないような、あせった声で父親を牽制する。国王はその様子を見て、はっはっはと大きな笑い声を謁見の間に響かせた。







