ANMELDENジェイドと仲直りして以来、白亜宮でのセラの日常は劇的な変化を遂げた。
出発の日までの時間は残り少ない。
セラは休む間もなく準備にあけくれることになった。
これまでセラの日常を占めていたのは、第一王子の婚約者として必要な知識を詰め込む座学や、作法の習得や、ダンスのレッスンといった内容だった。しかしそれらは撤廃され、すべての時間は、旅に出るための基礎的な知識と訓練と、体力をつくりあげるための時間へと一変した。
「そうそう、セラ様、前をむいて。バランスを意識して」
「は、はい……っ」
日差しが馬の茶褐色のたてがみを、赤く光らせている。
セラは、つい下げた視線を、前に戻す。
白亜宮の敷地内にある馬場で、レオンの指導する声が響いていた。
その日は、強い風が吹いていて、妙にそわそわとする日だった。 いつものように作業部屋で包帯を巻き、負傷兵の手当てを手伝いながら、セラは何度も窓の外へ視線を向けていた。どんよりと重い雲が垂れ込めている。吹き付ける風が、がたがたと窓を激しくたたくたびに、びくりとさせられる。 陽が傾き始めた頃、要塞の城門が開く音が響いた。いつもより早い帰還だ。胸を撫でおろし、ジェイドを出迎えようと部屋を出たセラだったが、回廊を駆けてくる足音の異様な乱れに、足が止まった。 現れたのは、ジェイドの補佐官を務める男だった。全身泥と煤に汚れ、その顔色は青い。「セラ様……」 息を切らし、崩れ落ちるように膝をついた補佐官の姿に、となりにいたリタが息をのむ。セラはおそろしい気持ちを握りつぶすように手をぎゅっとやり、補佐官の言葉を待った。「殿下は……ジェイド殿下は、敵の襲撃にあい……お戻りにはなれません」 頭上から冷水を浴びせられたような衝撃が、セラを襲った。視界が一瞬歪む。 うしろに控えていたレオンが、低い声で問う。「被害状況はどうなっている? ジェイド以外の者はどうした」「他の者は……見張りのために残した一部をのぞき、全員、要塞まで撤退しています」「ジェイドに何かあったんですね」 セラがそう問うと、補佐官は青い顔のまま答える。 視察の途中、突如として伏兵が現れたという。それ自体の数は多くなく、撃退できるはずのものだった。しかし、敵がジェイド率いる部隊めがけて投げ込んできたのは、尋常ではない数の魔道具だった。
山を越え、武骨な要塞に身を寄せてからというもの、セラの新たな日常は目まぐるしい忙しさに覆われていた。 白亜宮での日々も目まぐるしく忙しかったと感じていたが、あれは、今思うと穏やかで静かな日々だった。それも、遠い昔のことのように思える。この前線の要塞では、とにかく何をするにも人手が圧倒的に不足していた。セラも、侍女のリタも、護衛のレオンも、休む間もなく朝から晩までなにかしらのために動き回っていた。「セラ様、次の包帯が洗い上がりました」「ありがとうございます、リタ。こちらに置いてください」 石造りの作業部屋で、セラたちは積み上げられた布の山に向き合っていた。血や泥を洗い落とし、煮沸消毒された大量の包帯を、端からきっちりと固く巻き直していく。地味だが現場では欠かせない作業のひとつだった。 最前線で負傷した兵士たちがここまで担ぎ込まれてくると、要塞内で迅速に応急手当が施される。傷が浅い者はそのまま戦線へ戻り、自力で歩くことも叶わないような重傷者は、さらに後方へと送り返される。 作業部屋のすぐ外を、緊迫した声とともに担架が通り過ぎていく。セラは巻き途中の包帯を強く握り締めながら、ただ無事を祈るように一時目を閉じた。 ジェイドは、毎日朝早くから要塞の外へと出ている。 最前線へ赴いて剣を振るっているわけではないと聞かされていたが、それでもセラは、彼が無事に城門をくぐって戻ってくるまで、一日中心配で胸が押し潰されそうだった。 ジェイドの側についていけたら……。 そうは思うが、迅速な騎馬による移動を中心とする部隊に、乗馬を覚えたばかりのセラが同行できるはずもなかった。要塞に残り、自分の与えられた仕事をこなしながら帰りを待つ——それが、今のセラにできる唯一のことだった。 
「セラ……、本気で言ってる?」 夜のしずけさに包まれた要塞の一室で、ジェイドは自分の耳を疑った。情けないことに、思わず声がうわずってしまう。「はい。夜本に書いてあった、手や口を使って愛を与える方法を、最後まで実践してみたいです」「……⁉」 返ってきたのは、少しの淀みもない、あまりにまっすぐな答えだった。 椅子に座る自分の前に、ひざをついて見上げてくるセラ。 ジェイドは思わず目を泳がせ、どう答えるべきか分からずに動揺した。身の危険を感じるような戦況でも、複雑な政治の駆け引きの最中でも、これほど狼狽したことは一度もない。おそらく自分の人生の中で、今この瞬間が最も緊張している。 今……セラは何と言った……? 手と口で……最後まで……? 脳裏に瞬時に浮かんだ光景に、ジェイドの頭の芯がカッと熱くなった。それと連動するように、ズボンの下で男としての本能が一気に跳ね起きる。熱く硬く膨らんでいくのを止められない。 足元から自分を見上げてくるセラの瞳は、大真面目だった。だがよく見ると、どこか楽しそうにこちらの反応を窺っているようでもある。 王都の白亜宮を出発して以来、セラとまともに触れ合う機会は全くなかった。完璧な準備を済ませて出立したとは到底言い難い。あわただしく駆り立てられるようにして、出発した。そんな状況の中、毎日夜遅くまで、部隊の調整やあらゆる報告書の確認に追われ、セラとゆっくり時間を過ごす余裕はなかった。 正直に言えば、ようやくこの要塞に辿り着き、自分の部屋でセラが甲斐甲斐しく身体を拭いてくれるときも、やわらかな
山道を越えた先で、隊列は二つに分かれた。 カイルとは途中の分岐点で別れることになり、彼は右の道へ、セラとジェイドは左の道へと進んだ。それぞれの防衛拠点を固めるため、本拠地が異なるのだという。 短い間だったが、軽口を叩き合ったカイルの背中が見えなくなるのは、少し寂しかった。セラはお別れにカイルにいくつかのキャンディを押しつけて渡した。 カイルが同じ年だと聞いて、すごいなあと、しみじみ思う。 同じ年の人が、責任ある立場で軍を率いるというのは、どんな重圧だろうか。 日暮れ時、ようやく辿り着いた目的地は、武骨な要塞だった。 切り立った崖のへりにそびえ立つ巨大な石造りの建築物は、外敵の侵入を一切拒絶するかのような威圧感を放っている。要塞へと続く唯一の道は恐ろしいほど細く、馬が一頭通るのが精一杯だった。長い隊列が一列になって慎重にその細道を辿り、ようやく要塞の分厚い城門をくぐり抜けた。 城内へ入ると、セラはすぐに奥の部屋へと通された。 要塞の中は冷たい空気に満ちていたが、部屋の中は暖かい。暖炉でパチパチとはじける炎が、温かな光を部屋中に投げかけていた。 要塞には人があふれており、部屋の数にも限りがあるようだった。そのため、セラにあてがわれた部屋はジェイドと同室だった。 だが、ジェイドは、なかなか部屋に来ない。拠点に着いたばかりで、彼がなさねばならない仕事は山のようにあるのかもしれない。 水が貴重な要塞ではお風呂を使うことはできなかったが、侍女のリタが暖炉で湯を沸かし、丁寧にセラの身体を拭いてくれた。乗馬と山登りで泥と汗にまみれていた身体がすっかりさっぱりとし、セラはゆったりとした部屋着に着替えて、じっとジェイドの帰りを待った。 夜がすっかり更けた頃、ようやく部屋の扉が開いた。
木漏れ日が揺れる木の下へ、歩み寄ってくる対照的な二人の男。 銀糸のながれるように美しい髪をもつジェイドと、艶やかなハリのある黒曜石の髪をもつカイル。ふたりの王子だ。王宮で二人を見かけるときは、常に豪奢な刺繍が施された礼服や、身分を示す絢爛な装飾品を身にまとっていた。しかし今の二人は、過酷な山道を進むのにふさわしい、飾り気のない地味な色の、いかにも実用的な騎士服に身を包んでいる。 セラが立ち上がって迎えると、ジェイドが微笑む。「セラ、足が痛くなっていないかい?」 そう言ったジェイドの表情は、心配そうだった。「足の裏が痛いですが、まだまだ頑張れます」 レオンとリタと、訓練していたおかげで、旅にふさわしいごつめのブーツは足になじんでいて、靴擦れもしていない。すこし座って休んだおかげで息も整い、足の震えも幾分か収まっている。 それでも心配そうにセラの顔を見つめるジェイドと、その横で腕を組み、不機嫌そうな顔で明後日の方向を向いているカイル。二人の似つかない様子を交互に見比べながら、セラはふとあることに思い当たった。「おふたりは、そうやって落ち着いた恰好をされると、どちらも国王陛下に似た部分が際立ちますね」 思わず口から出た言葉に、ジェイドが意外そうに眉を上げ、面白そうな顔をした。「へえ、どこが似ているんだい?」「そうですね……」 セラは改めて二人の顔立ちをじっくりと観察した。「ジェイドは、口元が陛下によく似ておいでです。笑ったときの形の作り方や、何かを考えていらっしゃるときの唇の結び方など、そっくりです」「ふむ…&hell
山道を進むことになることなんて、ほとんどあり得ないだろうと聞いていた。しかし、セラがその厳しい道を自らの足で歩くことになったのは、王都を離れて間もなくだった。 二人の王子が前線から帰還する日まで、王宮で開催予定だったあらゆるお茶会や舞踏会、狩りなどの催しはすべて取りやめとなっていた。そのおかげで、セラは出発の日まで、他の何かに時間をとられることなく、白亜宮でひたすら準備に勤しむことができた。警戒していた王妃やオディールと顔を合わせることもなければ、実家であるローゼンタール家から接触されることもなく、静かで集中した時間を過ごせたのは幸いだった。 そうして、あっという間に出立の日を迎えた。 華やかな装いの騎士たち。 飾り立てられた騎馬。 ひるがえる旗。 王都を発つ隊列は、目を見張るほど華やかだった。立派な軍馬に跨がったジェイドとカイルが隊列の先頭あたりで並び立ち、市民たちの歓声に応える。セラはそのすこし後方で、王室の威光を示す豪奢な仕立ての馬車の中にいた。 だが、その華美な装いは、儀式的なものに過ぎない。 王都を通り過ぎて街道へ出ると、すぐに実用的な装いへと着替えが行われた。馬車もまた、飾り気のない質実剛健なものへと乗り換えられ、一行は速やかに街道を進む。「まあ、すごいわね。まるで色のある世界から、色のない世界に変わったようだわ」 セラは、馬車の中から、すっかり地味な姿に変わった隊列を見て、感心した。 十日ほど旅が続き、隣国との境界に近づく。 隣国との境界には、分かりやすい一本の国境線があるわけではないらしい。深い森や広大な草原地帯、厳しい渓谷や急流の河川を挟む荒れた土地、連なる山や人を寄せ付けない湿地帯。そういった広大な領域が、両国を隔てる自