LOGINJAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。
胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。 タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。
英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。
着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。 明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。 それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。
73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。 委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。 フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。 四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。 ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。
その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。
調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。 だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が搭乗する時は、久遠機長が操縦するフライトを選びたいです」
涼しい無表情で、臆すことなく言い切った彼に、久遠さんがチラリと視線を投げたのを、私はちゃんと見ていた。
その日の聴取は、午後十時半過ぎに終わった。
明日もまた、国交省のチームを交えて行われるそうだけど、後はコックピットの二人に対しての聴取で、私たちは招集があった時に応じればいいと言われた。無駄にだだっ広いのに、やけに気詰まりだった空間から解放された私は、
「はあああっ」
大きく肩を落として、息を吐いた。
後から出てきた穣が、冷ややかな目で私を見ている。「あ。なに、その目。『あんたはなにもしてないだろ』って言いたい?」
くるっと回れ右をして、腕組みをしてふん反り返った。
「ああ」
躊躇いなく肯定されて、「う」と口ごもる。
「まあ……その通りだから、なにも言えない」
頬を引き攣らせて、足を踏み出そうとして……。
「穣」
背後で短く呼ぶ声を聞いて、ピタッと動きを止める。
「……実可子」
穣が、名前で呼んで応じた。
それを聞いて、私は一度大きく息を吸って、そっと振り返った。私たちの後から、会議室から出てきた立花さんが、ドア口に立っていた。
彼女の上司が私の横を通り過ぎ、先を行く。 私は、反射的に頭を下げて見送って……。 正面向いて対峙している二人を、視界の真ん中で留めた。「っ……」
ズキッと痛む胸に手を当て、一歩後ずさった。
気配に気付いたのか、穣が私に横目を流す。彼につられた様子で、立花さんもこちらを見ている。
「あ。ええと……」
二人から注視される居心地悪さに、私は目を伏せた。
「氷室君、お疲れ様。遅番の勤務時間過ぎてるし……私、帰るね」
取ってつけたような早口で言って、その場から立ち去ろうとした。
ところが。「待って」
穣が、私の肘を掴んで止めた。
「え?」
驚いて、弾かれたように仰ぎ見る。
穣はムッと唇を結んで私を見下ろし、「予告しておいただろ。片付いたら、って。忘れたの」
やや不機嫌に顔を歪めて、しれっと言った。
「……っ」
意図せず、ひゅっと喉が鳴った。
もちろん、忘れてない。 それどころか、彼と久しぶりに会ってしっかり意識してしまい、業務が始まっても煩悩に苛まれた。だけど、立花さんの前で迷いなく口にされて、なんて答えていいかわからない。
穣は、なにも言えずに口をパクパクさせる私から目を逸らし、声に出して溜め息をつき、「み……立花さん」
彼女を名前で呼びかけて、一応私を気にしたのか、言い直した。
立花さんは私と彼を交互に見遣り、腕組みをする。「私を置き去りにして出ていった原因は、彼女?」
小気味よく首を傾げて、目を細める。
穣は悪びれることなく、「そう」と頷いた。 立花さんが、ちょっと不快げに眉根を寄せる。「この間も言ったけど。あなたがいろんな言葉をかけて教えてくれたから、俺は一人前のディスパッチャーになれた。あなたには、感謝してる」
そう言いながら、穣は私の肘を掴む手に力を込めた。
私は戸惑って、掴まれた肘と彼、そして彼女に順繰りに視線を動かした。「今日も……八巻さんを通して言ってくれた言葉のおかげで、頭冷やせた。ありがとう」
そう言って頭を下げる穣がレアで新鮮で、私は目を瞠った。
でも、立花さんには、そう珍しくないのかもしれない。 二人に恋人同士だった過去があることを、改めて思い知った気分で、ここでもまた胸がズキッと痛む。「…………」
彼に掴まれたままの腕と逆の手を胸に当て、俯いて奥歯を噛んだ。
「だから、さ」
穣がポツリと続けて、一度言葉を切った。
「この先も、憧れさせて」
感情が滲まない、静かな口調。
私が言われたわけじゃないのに、思わず顔を上げた。 立花さんは唇を結んで、彼を睨むみたいに見つめている。「あなたが俺にくれたいろんなもの……これからも大事にしたいんだ。こんなことで、あなたに幻滅したくない。……ごめん」
自嘲気味に告げられ、無言で長い睫毛を伏せた。
「……そう」
短い応答が、ほんのわずかに震えたのを、私は聞き流せなかった。
立花さんは、すぐにグッと顔を上げ、ふんと鼻を鳴らす。そして、私の肘を掴んで放さない、彼の手に目を落とし……。
「穣にそんな彼女ができたなんて知らずに、悪かったわ」
凛と胸を張って、彼の肩をポンと叩いた。
ほんの一瞬、彼に目線を上げて、颯爽と通り過ぎていく。 その視線から、彼女の本心が感じ取れた気がした。穣に、『理解不能』なんて言われても。
恋人だった時も、自分勝手に別れて、他の人と結婚した今でも。 立花さんも、本当に穣が好きだったから、手放せなかった――。「立花さん!」
私は、彼の手を解いて、一歩踏み出した。
立花さんが、ピタリと足を止める。「八巻さん?」
頭上から、穣の不審げな声が降ってくるけれど。
「あの……憧れに、限界はないと思うんです」
自分の心に突き動かされて、口走った。
「は?」
「え?」
二人には、ほとんど同じポカンとした顔で返される。
それでも。「今日、立花さんが氷室君に伝えてって言ってくれた言葉、私にもすごく響いて。それで、その……」
思い切って、ゴクッと唾を飲み……。
「カッコよくて! 私も、立花さんに憧れました!」
お腹の底から、吐き出すように言い切った。
「……はあ」
穣が額に手を遣って、なんとも言えない溜め息を漏らす。 立花さんも、鳩が豆鉄砲を食ったような、微妙な顔をしていたけれど。「……くっ」
小さく吹き出し、肩を揺らして笑い出した。
それを見て、私はスッと背筋を伸ばす。「これからも、氷室君共々、よろしくお願いします!」
勢いに任せて、腰を曲げて頭を下げた。
一拍分置いて、ゆっくり顔を上げると。「こちらこそ」
立花さんは口元に笑みを浮かべて、踵を返した。
カツカツと、ヒールを鳴らして通路を歩いて行く背中を見送って……。「はああ……」
「なにを言ってるんだ、あんたは」
深い息を吐いた途端、刺々しいツッコみが入る。
喉を仰け反らせて見上げると、穣が忌々しそうに顔を歪めていた。「ごめん」
私はひょいと肩を竦めた。
そして、「でも、すっきりした」
晴れ晴れした気分で、彼に笑顔を返す。
穣は呆れ果てたような顔で、私を見下ろしていたけれど。「……ったく」
ボソッと独り言ちて、私の肩に腕を回した。
「ひゃっ……」
グイと引かれて、私は意図せず、彼の胸に跳び込んでしまう。
とっさに離れようとしたのに、穣が後頭部に手を回したせいで、彼の肩口に額をぶつけた。 動けなくなって、思わず息を止める。「俺をそっちのけで、言いたい放題言うな、バカ」
穣は私の頭に顎をのせて、ボヤくように呟く。
「う。ごめ……」
「でも、まあ、うん。……あんたの方こそ、ちょっとカッコよかった」
さらりと髪を弄ぶ指先が視界を掠め、心臓がドキンと跳ねた。
「ありがとう、八巻さん。俺が言いたかったこと、代わりに伝えてくれて」
「っ、じょ……」
弾かれたように、顔を上げた時。
「……おい。事故調査委員が壁の向こうにいるってのに、イチャつくな」
ブリザード級のひんやりした声が割って入り、ビクッと身体を震わせた。
会議室から出てきた久遠さんが、苦虫を噛み潰したような顔で、じっとりと私たちを見ている。「す、すみません!」
私は慌てて穣を突き飛ばし、ガチガチに肩に力を込めた。
「久遠さん、お疲れ様でした! ええと、これは……」
「お前らがどういう関係でも、別に構わん。ドアの前を塞がれて、邪魔なだけだ」
久遠さんは、フライトや聴取の疲れも見せずに、私たちをひんやりと一瞥する。
「家に帰ってから、存分に楽しめ」
ふんと鼻を鳴らして皮肉られ、
「!」
私は条件反射で飛び退いた。
障害物がなくなり、悠々と通り過ぎていく、逞しい背中を見送って……。「す、すごい、威圧感……」
脱力しかけた私の肩を、穣がグッと抱き寄せた。
「俺たちも、帰ろう」
私に歩を促すように、腕に力がこもる。
「っ、え?」
「存分に楽しめ、ってさ」
上に向けた目線の先で、どこか不敵な笑みを浮かべる彼を見つけて、いやがおうでも、胸がドキッと跳ねた。
空港に隣接する本社ビルを出て、ものの三十分で、私は穣のマンションに連れて来られ――。
「ふ、んんっ……ふあっ……」
玄関に入ってからずっと、彼が施錠したドアを背に、何度もキスをしている。
穣は、『待て』が効かない犬みたいだ。 自分の身体で私を押さえつけ、両手でがっちりと頬を挟み、逃がそうとしない。「じょ、待っ、苦し……」
呼吸もままならず、私が途切れ途切れの声を挟むと、
「……はっ」
ようやく、唇を離してくれた。
邪魔そうに眼鏡を外して靴箱の上にのせ、濡れた唇をペロリと舐める。「なに? こっちはだいぶ前に予告してる。ノコノコ着いて来ておいて、『待て』はないだろ」
焦らすな、とでも言いたいのか。
不服そうに眉根を寄せ、鋭い瞳で、真っ向から私を射貫く。 心の奥まで裸にされそうな視線に、鼓動がドキドキと煽られる。「そうじゃなくて……あっ!」
穣は私の返事を待たずに、首筋に噛みつくみたいにキスをした。
急いた様子で、スカートから引っ張り出したシャツの裾から、手を差し込んでくる。 彼の大きな手が、躊躇いも見せずに胸に到達して、「んっ……!」
私はビクンと背を撓らせた。
彼のもう片方の手が、腰に回される。まるでダンスのリードをするみたいに、強引に回転させられた。「きゃっ……」
私たちは縺れ合うようにして、廊下に倒れ込んだ。
「いって……」
とっさに庇ってくれたのか、穣が私の下敷きになっていた。
片目を瞑って顔をしかめるのを見て、慌てて身体を起こす。「ご、ごめん、穣! 頭打ったんじゃ……」
「平気だから、騒ぐな」
穣は廊下についた肘を支えに、中途半端に上体を起こすと、
「なんだ。そっちの方が、やる気満々だな」
心ならずも、彼の腰に跨るような体勢の私を、マジマジと見上げる。
「っ! ち、違っ。誰のせいだと思って……!」
弾みで彼の胸に置いた両手を離そうとして、一瞬早く、彼に纏めて掴まれた。
「嫌?」
私が上から見下ろすという、稀な角度。
涼やかなのに、情欲に満ちた目元に匂い立つ色気が半端じゃなく、いやがおうでも鼓動が高鳴る。下から探られたら、逃げようがない。
私はこくりと喉を鳴らし、かぶりを振った。「嫌……なんじゃない。でも、その前に聞いて」
「いいよ。先に始めてるから、言って」
穣は不遜に言って、しっかりと上体を起こした。
成り行きで、彼の太腿の上に座り込む格好になった私の額、頬、耳にキスを落とす。「ん、ちょっ……」
目蓋に落ちてきた唇に、私は思わず片目を瞑った。
降ってくるみたいなキスに、背筋がゾクゾクする。 だけど、流されるな、私……!!「穣。私、穣が好きっ」
顎を引いて彼の唇から逃げながら、一気に言い放った。
最初の時、『言うな』と言われたせいで、次も拒まれたら……と考えてしまい、改まって告げることができなかった。とは言え、すでにバレバレなのもわかっている。
今さら感満載なのは重々承知だけど、頬がカッと茹った。穣が、私の首筋に顔を埋めたまま、ピタリと動きを止めた。
それも束の間。 私のシャツの襟を指でくいと下げ、鎖骨の上の窪み、皮膚が柔らかい部分を、ピリッと痛みを感じるほど、強く吸い上げる。「んっ……穣、聞いてる?」
私は、一心不乱といった感じで、私のいろんなところにキスを続ける、彼の肩に両手を置いた。
その横顔を、視界の端に映し……。「あー……うん。……知ってる」
穣はやけに間延びした曖昧な応答をして、視線を横に流した。
「知られてるのは知ってる。でも、ちゃんと聞いてほしいから言ってるのに」
照れ隠しもあって、私はムキになって捲し立てる。
「聞いてる」
「じゃあ、無視? 私、一応告白してるつもりなんだけど」
「無視してない」
「いや……だったら、リアクション? 欲しいんだけど……」
至極当然の要求をしているはずなのに、彼がぎこちなく視線を外したままだから、怖気づいた。
穣は、少しの間黙り込み、
「……はあ」
片膝を立てて、抱え込んだ。
「え。溜め息……」
地味に傷つき、ひくっと頬を引き攣らせる私の前で、ガシガシと頭を掻いて――。
「……ベッド、連れて行っていい?」
前髪を掻き上げた指の隙間から、チラリと私を見遣る。
「は」
「行くよ」
許可を求めたわりに有無を言わさず、私をひょいと抱え上げた。
「ひゃっ!? ちょ、ちょっと」
ふわりと浮き上がる感覚が覚束なくて、私は一瞬身を竦めた。
でもすぐ我に返り、「ず、ズルい。そりゃ、穣が本気になりたくないの、知ってるけどっ」
スタスタとリビングを突っ切って、寝室に向かう彼の胸を、ポカポカ叩く。
「『コイツ、俺のこと好きだから、拒まれるわけがない』とでも思ってる? 身体だけじゃなくて心まで弄ぼうってつもりなら、こっちだって……!」
ドサッとベッドに下ろされ、反射的にギュッと目を瞑った。
目を開けた途端、穣が覆い被さってきて……。「……俺も、好きだよ」
私に体重を預け、耳元を吐息でくすぐった。
意思に反して、私の心臓がドクッと震える。「……え?」
私は小さく首を捻って、肩口に顔を伏せる彼に目を凝らした。
「リアクション、欲しかったんだろ。だったら聞き返すな」
不貞腐れたように、くぐもる声。
私は自分の耳を疑って、瞬時に受け止めきれなかった。 理解が追いつくのと同時に、胸がバクバクと騒ぎ出す。「じょ、穣……んぷっ……」
無意識に動かした唇を、彼のそれに塞がれ、ゴクッと喉を鳴らした。
もっと聞きたい。 ちゃんと話したいのに、容赦なく舌を絡められて、脳神経が焼き切れ、痺れていく――。「っ、は……」
彼の方から、唇を離した。
私の上で顔を伏せ、なにか吹っ切るように、ブルッと頭を振る。 生理的な涙が滲んだ瞳で見つめる私から、揺れる前髪で顔を隠し、「……俺、さ」
ポツリと、呟いた。
「この半年の間に、あの人……立花さんに、何度も好きだって言われた」
「っ、え?」
彼の言葉で大きく拍動する心臓にギクッとして、ベッドに肘をついて上体を浮かせる。
「聞くたびに、冷ややかな気分になった。三年前は、言ってもらえるのが嬉しかった言葉なのに、薄っぺらくて空虚で。……それを、あんたにまで言われたくない。聞きたくない。そう思ってた」
「…………」
私は胸元でシャツをギュッと握り、前髪の向こうの彼の瞳を探した。
「だから言わせなかったのに、あんた駄々洩れだから」
「……!」
意地悪に上がる口角に、ドキンと胸が跳ねる。
「あんたの『好き』は、言葉じゃなくて五感に伝導した。やけにあったかくて、くすぐったくて満たされて……絆されてるのかと思ってたんだけど……」
穣は一度言葉を切って、顔を背けた。
「昼間、ドキッとした」
「え?」
「憧れって尽きない。いくらでも限界突破できる」
今まさに、そういう形に動く唇に、私の鼓動は高鳴る。
「まあ、あんたにとって、もっともっと好きになりたいのは、ディスパッチャーって仕事のことだったか」
再びこちらに向けられた目が、どこか自嘲気味に細く光る。
「あ、あの、穣。それ……」
「あんたは俺と違って、溺れてもがいたりしないって言った。ひたむきに頑張るあんたはカッコよくて。……そんな女に限界突破させて、俺自身を好きだって言わせたい……って、久々に突き動かされた」
穣は私の弁解に聞く耳持たず、身体を起こし、乱暴にネクタイを解いた。
ほとんど毟る勢いで、ワイシャツのボタンを外して、脱ぎ捨てる。「女に絆されたからって、こんなに欲しいとは思わない。自覚が追いつかないほど急ピッチで、あんたに惚れてた……って認めるしかない」
「っ……」
――らしくない。
今、一心に私に向けられる、彼らしくない渇望のようなものに、心を揺さぶられる。 穣は引き締まった上半身を露わに、私の顔の横に肘をついた。「……抱くよ。その間ずっと、俺のこと好きだって言ってて」
まっすぐ目を合わせて、不敵に微笑む。
私の鼓動は、いやがおうでも跳ね上がった。「じょ、穣……」
彼の名を紡ぐ唇に、チュッと軽いキスが落ちてくる。
穣はふっと目を細め、私に額をコツンとぶつけて――。「あんたの気持ち、放置したりしない。俺も、言うから。何度でも、何度でも」
どこかもどかしそうに、私のシャツのボタンを外し、勢いよくはだけた。
なんの躊躇もなく、ブラジャーをグイッとずり上げる。「ひゃっ……!」
ビクンと背を仰け反らせる私の胸元に、遠慮なく顔を埋めてきた。
「やっ、穣っ……」
久しぶりの彼の愛撫は、どこか熱っぽく、らしくないほど執拗で、背筋が戦慄くのを抑えられない。
「……ほら、言え」
穣は、私の胸元から上目遣いの視線を向けて、どこまでも意地悪に促す。
「あ、う」
顎を引いて目を合わせた私に、まるで見せつけるように、赤い舌先をチロチロと動かす。
堪らない。堪らない。
こんなの、嫌でも限界突破する――!「す、き」
私は、誘導されるがまま、声を出した。
「穣、好きっ……」
「……うん、俺も」
穣が身体を起こして、ギシッとベッドを軋ませる。
私に肌を重ねて、痛いくらいギュッと抱きしめ――。「お前が好きだ。……藍里……」
私の耳を直接唇でくすぐりながら、鼓膜に刻みつけてくれた。
さざ波も立たない静かな水面に浮かんで、ふわふわと漂っているような――。
心地よい気怠さに身を任せていると、目蓋の裏が白っぽく明るくなり、眩しさを覚えてぼんやり目を開けた。「ん……」
シンプルな濃いブルーのカーテンの隙間から、ギラギラの光が射し込んでいる。
――うちの、ボタニカル柄のカーテンじゃない。ハッとして横を向くと、とんでもなく綺麗な穣の寝顔が視界いっぱいに映り込んだ。
条件反射で、ドキンと胸を跳ね上げてから、「そっか、ここ、穣の家……」
思考回路が繋がり、ポツリと呟く。
それを自分の耳で拾って、ジワジワと実感が湧いてきた。「穣……」
モゾモゾと寝返りを打って、彼の方に向き直る。
伏せられた長い睫毛。 やっぱり見慣れない、小さな泣き黒子。 通った鼻筋に、わずかに開いた薄い唇。 どこもかしこも、私をきゅんとさせる。 彼の全部を網膜に焼きつけながら、指で順に触れていくと。「……人の顔触って、なにやってんの」
唇をなぞった指を、カプッと咥えられた。
「ひゃっ!」
ひっくり返った声をあげた私の目の前で、穣がゆっくり目蓋を持ち上げる。
途端に、バチッと目が合った。「っ……」
目覚めの一番で、彼の瞳に自分が映るのを、確認できるなんて……。
「……おあよ」
幸せを噛みしめる私の指を咥えたまま、彼が不明瞭な声で挨拶してくれた。
「う、うん。おはよ、穣……」
目を開けたもののまだ眠そうで、はむはむと唇を動かしながら、重力に負けたみたいに目蓋を閉じる。
――なに、この可愛い生き物……!!
一晩中愛し合って一緒に迎えた朝……昨日までとは全然違って、気を許してくれている彼の、寝起きの破壊力が半端じゃない!私はドギマギしてしまい、上体を起こした。
昨夜、いつ眠りに落ちたのか覚えていない。 ドッドッと早鐘のように打つ裸の胸に、薄い肌掛けを抱きしめる。 堪らなく幸せな気分で、しばらく彼を見つめていたけれど……。「あの……いつまで私の指、食べてるの?」
私の問いかけに、穣は目を開けた。
彼を見下ろしていた私と目が合っても、ほとんど身動きしないし、かなりリアクションが薄いから、やっぱりまだ寝惚けてる。下手したら、私の指を食べ物と間違えてる可能性がある。
齧られたら大変。 私が、そっと指を引っ込めようとした途端……。「んっ」
生温かいものが指を這った。
舐められたとわかる。「欲求不満?」
穣が、掠れた声で訊ねてくる。
「は?」
「手つき、やらしかったから。昨夜、足りなかった?」
顔つきも声も、覚醒し切ってない様子なのに。彼の唇は意味深に動き、手首に下りてくる。
「そ……そっちこそ、なんかエッチ……」
腕の内側を這うザラッとした感触に、背筋がゾクゾクする。
私の反応を見透かしたのか、穣がなんとも妖艶に、上目遣いの視線を向けてきた。「今日、夜勤だし。時間たっぷりあるな。……いいよ。シよっか」
まるで誘うように言って、寝そべったまま、私の腰に両腕を回す。
「じょ、穣!?」
胸に抱えた肌掛けの中で、彼の手がモゾモゾと動く。
「やっ、む、無理無理! 昨夜だって、あんなに……」
自分の全体重で、私をベッドに沈め込もうとする彼の肩を、無我夢中で押し返した。
「ね、ねっ、またにしよう? あんまりいっぺんだと、ありがたみが薄れちゃうっ」
必死になって、声を上擦らせると。
「ぶぶっ」
穣が、私の胸元で吹き出した。
「なに、ありがたみって。憧れてやまないディスパッチャーに抱かれるって、そんなにもったいないこと?」
クックッと、小刻みな笑いで揺れる髪が、くすぐったい。
「そ、そうじゃなくて、ええと……」
弁解しようと、両手の指を絡ませて目を泳がせる私を、穣はひとしきり愉快げに笑った後。
「彼女になったって言うのに、謙虚だね。……ま、いいや。また次回」
肌掛けの中からヒョコッと顔を出し、ベッドを軋ませて床に降りた。
「彼女……」
彼の言葉を反芻した途端、私の鼓動が高鳴り始めた。
穣は、私の独り言には耳も貸さない。 ハーフパンツ姿で、床からシャツを拾い上げ、「腹減ったな。朝メシ食べに行くか」
袖を通しながら窓辺に向かう。
シャッと音を立ててカーテンが開き、ピークは過ぎたものの、まだまだ真夏の日光が射し込んだ。 均整の取れた美しい身体に、金色の陽射しが注ぎ込む。 穣は両腕を天井に突き上げて、気持ちよさそうに伸びをしてから、ベッドの私をゆっくり振り返った。「いつまでもそんな格好してると、問答無用で襲うよ、藍里」
「っ」
朝陽を浴びて輝く身体と、まだ慣れない彼からの名前呼びにきゅんとした。
朝から憚らない欲情に、ドキッと心臓が跳ねる。 自分を抱きしめ、身を小さくする私に、穣はふっと柔らかく口角を上げた。「俺、先シャワー浴びてくるから。……お前は、服着とけ」
――最初の時、私が恥じらったのを覚えているのか。
そう言って、大きな歩幅でドアに向かっていく。「……うん」
私の二度目の返事は、ドアの音に阻まれた。
それでも、まだそこに彼の残像が見える気がして……。「彼女。お前。……くうっ……」
胸が、疼く。
きゅうっと締めつけられる感覚に悶えそうになって、私は膝を抱え込んだ。OCOで初めて過ごした八月は、まるで駆け抜けるように過ぎていった。九月に入り、夏休みも終わって、旅行、航空業界のオンシーズンも一段楽。ピーク時に比べてフライト数も落ち着いて、穣は通常比かなりゆったり……私は相変わらずバタバタと仕事をしている。「八巻さん。小松60便のフライトプラン、フェイストークで受け渡して」「はい」「三十分後、機長とオンラインブリーフィングやるから、準備よろしく」「了解ですっ」気象データを集める間にも、矢継ぎ早に指示が入る。フライト数は減ったのに、私はハイシーズンと変わらない忙しさ……目が回りそうだ。――でも。フライトプランを機長に受け渡すために、社内アプリのフェイストークにフライトプランを移しながら、隣の彼の横顔を窺った。私がこんなにバタバタなのも、それに反して穣がゆったりなのも、私に仕事を任せてくれているからだ。八月最終週の胴体着陸事故前までは、仕事を振ってくれるだけで、『任せてもらえている』という実感には至らなかった。でも今は、左腕くらいには信頼してもらえていると、自負している。彼女だから、じゃない。むしろ穣は意識して、仕事中、努めて事務的に接しようとしている。おかげで、以前以上に塩対応に拍車がかかった……ようにも見えるけれど。私に、異議はない。だって穣は、一歩空港を出るとメガトン級に甘いから。――と言うか、エロい。今はモニターに注がれていて、私を映さない真剣な目も、持て余すようにペンを回す長い指も、燃料重量を自分に刻むみたいに唱える唇も。あと数時間して仕事が終わったら、今夜また私に、あんなこともこんなことも――。「……八巻さん。視線が熱い」「っ」溜め息交じりに言われて、私はハッと我に返った。穣が左手で頬杖をついて、右手の指でペンを回しながら、私を斜めからの角度で見ている。「フライト減って、少しくらい手が空いても、仕事中に妄想する余裕、あんたにはないだろ」「うっ。すみません」私は条件反射で、シャキッと背筋を伸ばした。煩悩を払おうと、両手でパンと頬を打って……。「……なんで、妄想ってバレた……?」思わず首を捻る横で、穣は顔を伏せ、笑いを噛み殺していた。「いや、わかるだろ。そんな食い気味の熱視線。炙られるかと思った」「!」目を細めて揶揄されて、私はカアッと頬を茹らせた。「ご、
JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が
お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」
――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ
休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信
泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで