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こっちこそ、よろしく

Penulis: 水守恵蓮
last update Terakhir Diperbarui: 2026-02-02 09:31:44

泣いた。

辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。

顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。

喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。

涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。

思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。

ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。

天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。

最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。

もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。

目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。

「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」

実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。

だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。

そうよ。

あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。

いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。

いや、それだって錯覚だったかも。

氷室君と、二度目の夜。

あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。

心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。

いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。

今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。

氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。

私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。

――止めてもらえて、よかった。

「っ……」

冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。

彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。

だって今なら、私もよくわかる。

私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。

自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。

氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。

そんな自分は、彼女に囚われているかのようで、嫌悪感すら抱いていたかもしれない。

私が氷室君に、『ディスパッチャーの氷室君にずっと憧れてた』と言った時、彼は私を自分と重ね合わせたんじゃないだろうか。

業務上の繋がりでの純粋な憧れから、好意が芽生え、やがて溺れて盲目になる。

そんな恋に破れ、吹っ切るにも時間が必要なほど焦がれた人に、別れた後も振り回されている自分と。

『俺みたいになるな』というのは、きっと――。

私への、塩対応。

あれは――彼なりの、思いやりだったんじゃない……?

私は目の上の腕を退かし、ぼんやりと目蓋を持ち上げた。

視界から遮断していたのは少しの間なのに、天井の明かりがとても眩しい。

それでも私は、降り注ぐ光を求めて、身体を起こした。

ボロボロに傷つけられたのに、氷室君を悪く思えず、『優しい人』なんて思考を転換してしまえるくらい、私は彼のことを好きになってしまったんだろうか。

どんなに素っ気なく、冷たくされても、隣で仕事をする彼に憧れを募らせて。

そこから芽生えた、彼個人への好奇心が、恋心に昇華した。

あっという間に、盲目になってしまうほど――?

自分に問いかけ、どんなに答えを探しても、反論材料が浮かんでこない。

だから私は、潔く諦めた。

どこか清々しい気分で、ぎこちない笑みを浮かべた。

声が嗄れて、涙が枯渇するまで泣いても、彼のせいではない。

全部私の自己責任だから……私は、氷室君から離れたくない。

「……うん」

自分の決断に強く頷いて同意して、胸元でシャツをぎゅっと握りしめた。

なによりも、自分の感覚と心に忠実に。

私は改めて想いを強くして、次の日、遅番シフトに就いた。

午後一時にオフィスに入り、業務を開始する準備をしていると。

「おい」

隣のデスクにドサッと物が置かれ、同時に、やや硬い声が聞こえた。

「あ。氷室君、おはよう」

私は手を止めて顔を上げ、いつもと変わらない挨拶を返した。

「今日も、ご指導よろしくお願いします」

いつもよりちょっと意識して元気に付け加え、返事を待たずにデスクに向き直る。

パソコンのキーボードに手をのせ、指を走らせようとした途端、いきなり肘を掴まれた。

「え?」

一瞬ドキッとして、今度は上体を捩って振り仰ぐ。

氷室君は、私のすぐ傍に立っていた。

「あんた、なんで」

急いた様子で口走る途中で、人の耳を気にしたのか、辺りに視線を走らせる。

口を噤んで大きな柱にかけられた壁時計を見て、私の腕を強く引っ張った。

「ひゃっ」

力任せに立ち上げられて、私は足をもたつかせた。

「ど、どうしたの。氷室く……」

「あと二十分あるから、ちょっと来い」

氷室君は私を無視して、有無を言わせずに手を引く。

「え、ちょっ……!」

私は、デスクと彼の背中を交互に見遣りながら、半分引き摺られるようにして、オフィスの片隅の簡易休憩室にやってきた。

休憩室に入ると、氷室君はドアを施錠して、やっと腕を放してくれる。

私は、反射的に手を引っ込めた。

一歩足を引いて、彼との間隔を取ってから、肩を動かして息をする。

「もう。なんなの、一体……」

「それはこっちのセリフ。あんた、リーダーになにを言った?」

「え?」

「指導担当のこと。交替を申し出たら、俺がなにを言っても受け付けないでくれって、八巻さんに言われたって。……本当に、聞いてもらえなかった」

忌々しい……より、困惑が強い瞳で、私を射貫く。

私はきゅっと唇を結んで、背筋を伸ばしてまっすぐ彼に向き合った。

「うん。氷室君が掛け合うより先に、私がお願いした」

「なんで」

「私は、氷室君に指導を継続してほしいから」

淀みなくきっぱり告げると、氷室君は虚を衝かれた様子で瞬きを繰り返す。

そして、

「意味がわからない」

理解できない苛立ちか、前髪をザッと掻き上げた。

テンプルを摘まみ、軽く眼鏡の位置を直しながら、レンズの向こうから私を見据えてくる。

「俺以上に、あんたの方がやりづらいだろ。だから俺は……」

「やりづらくなんかない。言ったでしょ。私は氷室君のバディになりたいって」

私はここでも怯まず、惑い揺れる彼の声を遮った。

「その気持ちは、なにがあっても変わらないよ。氷室君も、私を育てるって約束してくれたでしょ?」

決して変わることのない、強い意志を持って見つめ返す私に、氷室君はこくりと喉仏を上下させる。

言葉を探すように目を逸らしたものの、結局見つからなかったのか、口元を手で覆って黙り込む。

その反応を最後まで確認して、私は大きな深呼吸で自分を鼓舞して、

「ありがとう。氷室君」

はにかんで、お礼を告げた。

「……は?」

氷室君は、たっぷり一拍分の間の後、口から手を離して短く聞き返してきた。

お礼を言われる筋合いはない、とでも言いたいのか、怪訝そうに眉根を寄せる。

私は両手を背中に回し、グッと胸を反らした。

「氷室君、私のために、塩対応を徹底してくれてたんでしょ?」

「え?」

「異動初日で、私がいきなり、氷室君のこと憧れなんて言ったから。最初から予防線を張って、キープアウトしてた」

小首を傾げて答える私に、氷室君が目を瞠った。

だけどすぐに、ハッとしたようにふいと視線を外す。

「違う。ちゃんと言ったろ。俺は、指導が面倒臭いから」

「うん。もちろん、根っから指導嫌いで、自分でやった方が早いって言ったのも、間違ってないと思う」

それには、同意の相槌を打って、

「でも、あんなに徹底して、私を寄せつけないようにしたのは、私が氷室君のことを好きになるって、確信があったから」

私がそう断言すると、彼は一瞬意表をつかれたようにポカンと口を開けた。

でも、すぐに気を取り直し、自嘲気味に浅い息を吐く。

「なんだ、それ。俺が初対面で、『コイツ絶対俺のこと好きになる』って自惚れたとでも? どれだけ俺を、自意識過剰な男にしたいんだ」

「まあ……そのくらい、私がわかりやすかったんだろうけど」

私も、「はは」と苦笑を漏らして、眉をハの字に下げた。

「そもそも……私の気持ち知ってなきゃ、『聞きたくない』なんて、止められないよね」

迷いなく畳みかけると、氷室君がグッと詰まる。

私は、自分の足の爪先あたりに目を落とし、

「氷室君……俺みたいになるなって、言ったじゃない?」

ポツリと続けた。

「あれ、どういう意味だろうって考えて、わかったんだよ」

「え?」

「憧れから発展した恋に溺れる気持ちも、破れた恋にもがく苦しさも、不可抗力な嵐に掻き乱される混乱も、氷室君自身が痛いくらい経験済みだから」

氷室君が、警戒心を研ぎ澄ませた空気を、肌で感じる。

私が顔を上げると、目が合うのを避けるように、睫毛を伏せた。

「ごめんね。恋に本気になるのが嫌な氷室君に、特に業務上……関わりがある相手なんて、迷惑だったよね。これで終わりにするから、一度だけ聞いて」

私は彼にとって、立花さんと変わらないくらい、自分勝手なことを言おうとしてるかもしれない。

そういう自覚があるから、一度唇を結ぶ。

それでも決意を強めて、彼をまっすぐ見つめた。

「私は氷室君に憧れてて、同じ職場になってからは尊敬した。あなた自身にもっと近付きたいって思った」

氷室君は、ゆっくり私に視線を戻した。

私がなにを言おうとしているか、鋭く見抜いているのに、揺れる瞳。

だけど、昨日のように、口にする前に阻止されはしない――。

私はそう確信して、一歩踏み出した。

「俺みたいになるなって言われたけど、ちょっと無理みたい。私も、氷室君と同じ。憧れて憧れて、好きになった。私と氷室君、似てるみたいだから」

目を逸らさず、まっすぐ彼の心に訴えかける。

彼の眉尻が、ほんのわずかに下がった。

「……八巻さん。俺は」

どこか途方に暮れたように、口を開くのを見て、

「あ、いいのいいの! 返事しなくていいし、記憶に留めないでいいから!」

私は両手と首を横に振って、彼を止めた。

「今のは、自己満足というか、所信表明」

「所信表明?」

「氷室君の優しさ、無駄にしない。私は、溺れてもがいたりしない。今後は余計なことを考えずに、氷室君の絶対的バディを目指して邁進する所存です」

早口で捲し立てすぎて、心拍数が上がっていた。

両手を胸に当て、何度か大きくスーハーと深呼吸して、鼓動を鎮める。

「えっと……だから、これからも私の指導、よろしくお願いします」

一人で盛り上がってしまった。

気恥ずかしさを誤魔化そうと、私は勢いよく頭を下げた。

顔を上げると、氷室君は手で口元を隠して、視線を横に流していた。

私が返事を待って、窺う気配が伝わったのか、ハッとした顔をしてから、

「……わかった」

ぎこちなく頷いてくれた。

「よかった」

彼から返事をもらって、私もやっと、ホッと息をついた。

これからも、オフィスでは今まで通り、彼の指導を仰げる。

――そばに、いられる。

そうやって安堵して、心の奥底に燻ったまま消えない恋心に、蓋をする。

なのに。

「こっちこそ、よろしく」

氷室君は、掠れた声で、ややぎこちなく付け加えた。思いがけない言葉に、私はひくっと喉を鳴らしてしまった。

氷室君から、『よろしく』と言ってもらえるなんて、夢にも思わなかった。

大きく目を見開いて、バカみたいに彼を凝視してしまう。

「……なんだよ」

「! ううん」

どこか居心地悪そうに、ムッと唇を結んで問われ、慌てて首を横に振った。

――憐れみの優しさかもしれない。

でも、これで、口にできずにのみ込んだ私の想いも、少しは浮かばれる気がした。

不覚にも、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなってくる。

涙が込み上げてくるのを自覚して、

「じゃあ、この話はこれでおしまい!」

私は無理矢理声を張った。

彼の横を通り過ぎながら、その腕をポンと叩く。

「戻ろう。氷室君」

氷室君がそこを見下ろすのを横目に、ドアの鍵を開けた。

休憩室から通路に出るまで、辛うじて浮かべていられた笑顔が、一歩踏み出した途端に歪む。

おしまいになんか、できっこない。

今、この瞬間にも、彼への想いは膨らんでいく一方なのに。

だけど、今の私じゃ、想いを聞いてももらえないから、一刻も早く、頼もしいディスパッチャーになれるよう頑張る。

運航管理部のみんなにも認められるバディになれたら、その時は――。

私はぎゅっと奥歯を噛んで、デスクに向かって駆け出した。

それから一週間して、世間はお盆休みに突入した。

交通機関は、陸も空も、大混雑、大渋滞。

OCOで働く私たちにとって、盆暮正月、GWにシルバーウィークといった大型連休は、年に数度の大繁忙期。

休暇希望はほぼ通らず、使いものにならない私も出ずっぱりだ。

私は相変わらず、遅番勤務開始早々、氷室君に指示されたデータ収集に明け暮れ、午後六時に休憩に入った。

今日は、出勤前にコンビニでおにぎりを二つ買ってきてある。

食堂には行かずに簡易休憩室に向かい、空いていたテーブル席に着いた。

バッグから参考書を取り出してテーブルに広げ、おにぎりを食べながらページを捲っていると。

「あれ。八巻さん。お疲れ様」

コツコツと革靴の踵が鳴る音が近付いてきて、口をモグモグ動かし、振り返った。

「あ、手塚てづかさん! お疲れ様です」

ごっくんと飲み下した後、条件反射で腰を浮かせる。

「食事中だろ? いいから座って」

そう言って私を制し、向かい側に回り込んできたのは、私たち国内短距離線チームのリーダー、手塚さんだった。

「はい。ありがとうございます」

「前、いい?」

「もちろんです」

私はスカートの裾を押さえて座り直し、向かい側の椅子を引く彼を上目遣いで窺った。

手塚さんも休憩に入ったところのようで、割り箸を乗せたカップヌードルを手にしている。

「夕飯それだけ? 食堂行かなかったの?」

私の手にある食べかけのおにぎりを見て、そう問いかけてくる。

「はい。食堂は賑やかなので……」

私が返事をする途中で、彼の目は開きっ放しの参考書に動いた。

「航空無線通信士……来年二月の国試対策か。感心だね。休憩中も勉強?」

「こういう勉強、家では捗らなくて。気が引き締まるからか、空港の方が集中できるみたいで」

私は彼に釣られて参考書に目を落とし、そっと脇に退けてぎこちなく笑った。

それには、「わかる気がする」と相槌が返ってくる。

「すぐ隣の席に、尊敬するディスパッチャーがいれば、士気も高まるね」

腕組みをして、悪戯っぽく瞳を動かして言われ、私は気恥ずかしくなって目を泳がせた。

『氷室君が、私の指導担当を交替したいって言っても、絶対受け付けないでください』

深々と頭を下げて直訴したのは、まだほんの一週間前のこと。

真剣な顔で願い出た私に、手塚さんは不思議そうだった。

『随分と厳しくされてたし、心折れるんじゃないかって心配もあったんだけど……根性あるね』それには、遠慮なく肯定しながらも。

『優秀なディスパッチャーだからこその厳しさです。負けずに食らいついて、いつか氷室君が認めてくれたら、爽快じゃないですか』

強気で胸を張ったら、あ然とされた。

その後も、四ヵ月ほどの間で見てきた彼の仕事ぶりや、指導を受ける身だから知れる英雄伝を、前のめりになって熱く訴えて……。

あの時のテンションはどうかしてたし、改めて思い返すとこっ恥ずかしい。

私は火照った頬に風を当てようとして、無駄にひらひらと手を翳した。

手塚さんは訳知り顔でクスクス笑いながら、小気味いい音を立てて割り箸を割り、ズズッと豪快にカップヌードルを啜った。

「……待ち過ぎたか」

やや微妙に眉間に皺を刻んだものの、気を取り直した様子でさっさと食事を進めていく。

私もひょいと肩を竦めて、伏し目がちに、おにぎりを口に運んだ。

一つ食べ終わった時、ふと視線を感じて、顔を上げた。

手塚さんが手を止め、頬杖をついて私を見ていた。

「? あの……?」

ほんのちょっと怯んで、背もたれに背を逃がしながら問いかける。

「ああ、ごめん。不躾に」

彼はそう言って、頬杖を解いた。箸をカップヌードルの容器に置いて、椅子に背を預けて腕組みをする。

「八巻さん、君さ。氷室に、自分と似てるって言ったって?」

どこか意地悪に目を細めて言われて、私は一瞬きょとんとした。

「! は、はい」

確かにそう言ったことを思い出し、シャキッと背筋を伸ばす。

だけど、氷室君がどういう流れで彼に話したのかわからず、目が泳いでしまう。

手塚さんは、私の思考回路を見透かしたようだ。

「指導担当の交替を申し出てきた氷室に、八巻さんはお前と似てるから、お互い刺激し合って成長できるいいパートナーになると思うよって言ったら、君からも似てるって言われたって。意味がわからないって、困惑顔だったけど」

一人納得した様子で大きく二度頷き、再び箸を持ってカップヌードルを啜る。

私が氷室君にそう言った意図は、主に恋愛面についてで、決して仕事中の姿勢のことではなかったから、彼の言葉に意表をつかれた。

「あの……どうして、手塚さんはそんな風に思うんですか?」

膝に両手を置いてグッと身を乗り出し、思い切って訊ねてみる。

すると。

「二人とも負けず嫌いで、呆れるほど向上心が強いからかな」

即答されて、思わず首を傾げた。説明してくれるのを待って、ジッと目を凝らす。

手塚さんはスープを飲み干してから「ふう」と息をつき、容器と箸をテーブルに戻した。

前のめりの私に、やや苦笑したものの。

「氷室は大学の工学部で航空工学を専攻していたのもあって、新人で運航管理部に配属されたんだけど。ディスパッチャーに必要な、気象に関する知識はなくてね。下積み時代、指導担当者からも結構厳しく叩き込まれてたな~」

「氷室……君が、叩き込まれた……」

――想像がつかない。

いや、いくら氷室君でも、最初は新人だし。

下積み時代があるのは、当然だけど……。

私の反応を見て、手塚さんがくくっと小気味よく笑った。

「今の氷室と君、まるであの頃を見てるようだよ」

「それで、似てる……ですか?」

言わんとするところが繋がって、私はそう訊ねた。

手塚さんは、一度「うん」と頷いて、

「苦労は他にも。あの通り、愛想のない男だから、パイロットや管制官とのやり取りも。当時副操縦士だった久遠機長にも、相当やり込められた」

「え。久遠さんに?」

「今みたいに堂々と、フライトプランの説明ができるようになったのは、三年くらい前からかな」

記憶を手繰るように、顎を撫でた。

「…………」

私は、きゅっと唇を噛んだ。

三年前……考えるまでもなく、立花さんの存在が大きく関わっているはず。

彼女への憧れ、恋心が、氷室君を変えたのか。

彼女と恋をして、あの久遠さんを理詰めで説き伏せられるほどに、変わったのか――。

思考が深みに嵌ったせいで、一瞬、目の前に靄が広がり、体幹から揺れる気がした。

クラッと眩暈がして、平衡感覚が覚束なくなる。

「っ……」

私は、とっさにテーブルを両手で掴んだ。

「……って、思ってたんだけどね」

手塚さんがなにか続ける声に聴覚をくすぐられ、ハッと我に返る。

私は、手が白くなるほど強くテーブルに掴まっていたけど、身体が傾くこともなく、ちゃんと椅子に座っていた。

「? 八巻さん?」

「あ、いえ」

向かい側から首を傾げて名を呼ばれ、目を彷徨わせながら、取り繕う。

「あの……ごめんなさい。今、なんて」

そろそろと手を離し、背筋を伸ばして訊ねた。

「ああ、いや。言い直すほどのことでもないけど」

手塚さんは拍子抜けした感じで、そう前置きをして。

「氷室はね。熱意があって努力家の八巻さんなら、自分がかけた半分の時間で、立派なディスパッチャーに成長できるって言ってた」

「え?」

私は虚を衝かれて聞き返した。

「いつか、立場逆転……なんてことになるかもしれない。そういう意味では、畏れもあるのかな」

しげしげと顎を摩って続けられて、私の胸がトクンと鳴いた。

「最初に憧れてるなんて言われたら、職場の関係としてはほぼ頂点からの始まりでしょ。男ってのは馬鹿な生き物だから、そこから転落しないよう、結構躍起になるもんで」

「氷室君が、そんなこと……?」

柔らかい鼓動に煽られて、無意識に口を突いて出た呟きが、私の胸をきゅんと疼かせた。

「あ。これは、この間氷室と話して、俺が勝手に、君への厳しさの解釈としただけだから、ここだけのオフレコで。知ったらアイツ、静かに激怒するだろうし」

手塚さんは、ぬか喜びになってはいけないと思ったのか、顔の前で両手を合わせた。

そして、私を通り越して休憩室のドア口の方を見て、『あ』という形に口を開ける。

なにかあたふたした様子で、左手首の腕時計に目を遣って、

「じゃあ、俺はそろそろ。お先に」

空になったカップヌードルの容器を、三本指で摘まみ上げて立ち上がった。

「え?」

突然話を切り上げられて、私は虚を衝かれた。

彼がなにを見たのか確認しようと、振り返り……。

「!」

「お疲れ様です」

息をのむ私の横を通り過ぎた彼に、そう声をかけたのは氷室君だった。

手塚さんは「おう」と応じて、ドア口に立っていた彼の肩をポンと叩き、休憩室から出ていく。

氷室君は、わずかに首を傾げてその背を見送ってから、私の方に進んできた。

手塚さんと私の話、聞かれてないよね……。

後ろ暗いことはないのに、額に変な汗が滲む。

「お、お疲れ様」

無駄にシャキッと背筋を伸ばして声をかける私に、氷室君は無言で首を縦に振った。

不服そうに歪む表情がレアで、私は微妙に首を傾ける。

「どうしたの?」

肩を縮めて、問いかけてみると。

「あんた最近、休憩中に食堂来てないな」

「え?」

氷室君は、手塚さんが座っていた椅子を引いて、ドカッと腰を下ろした。

テーブルから身体の正面を外して、長い足を組み上げる。

彼の方から、私に歩み寄ってくれた……初めて。

嬉しくて心が踊りそうになるのに、あまりに希少だから、その意図を探ってしまう。

なにか、不機嫌そうなオーラが漂ってくるし、また私がなにかしたかと、身体を強張らせたものの。

「ちゃんと食ってるなら、いい」

彼の目は、コンビニの袋からわずかに覗く、もう一つのおにぎりに向けられた。

私もつられて、それに目を落とし……。

「……もしかして、食堂で、私を捜してくれてた?」

恐る恐る訊ねてみると、氷室君は一瞬、ピタッと動きを止めた。

「心配……してくれた、とか」

彼の反応に力を借りて、テーブル越しに身を乗り出して質問を重ねる。

氷室君は不本意そうに、渋い顔をしたけれど……。

「この忙しい時期に、夏バテして体調崩されても困る。それだけ」

相変わらずのノンブレスで、やたら早口で言い切った。

所在なさげに動いた目が、開いたままの参考書に留まる。

「あ。ああ。これ」

私は彼の目線を追って、参考書を持ち上げた。

「航空無線通信士のテキスト。来年二月の国試、受けるつもりで。食堂は賑やかだから、ここで勉強を」

そう言って、ぎこちなく笑って見せると。

「……わからないところがあるから、教えろって言ってたっけ」

「え?」

ポツリと呟かれて、瞬きで返した。

瞬時に記憶を手繰って、前に、一緒に休憩に入る口実に出したことを思い出す。

「どこ」

氷室君は私の手から参考書を取り上げると、ペラペラとページを捲り出した。

「え。でも……」

――その対価は、払えず仕舞いだ。

言い淀む私の思考を見透かしたのか、私をちらっと一瞥して。

「これは、最初の対価の一部」

「最初?」

「俺も、楽になるって言った。あんた、営業上がりで、俺よりずっとコミュニケーションがスムーズだ。無線交信やってくれれば、確かに楽」

素っ気なく言って、私の参考書を真剣に読み始める。

わからないところを教えてほしいなんて、ただの口実、覚えててくれたなんて……。

胸が、きゅんと疼いた。

氷室君に失恋してから、一週間。

彼は私に仕事を振って、指導してくれる。

淡々……というより、冷え冷えと、その上超スパルタだけど、それでも私の覚悟は変わらない。

『自分がかけた半分の時間で、立派なディスパッチャーに成長できる』

ついさっき北澤さんから聞いた、嬉しい言葉が脳裏をよぎる。

――本当かな。

氷室君、私を認めてくれてる?

彼の真意は別のところにあるかもしれないけど、今はほんのちょっと、自惚れても許されるだろうか……。

「八巻さん。ここ、間違ってる」

氷室君は、章末問題の私の回答にそう指摘して、こちらに参考書を広げた。

眼鏡の向こうの目を問題に伏せたまま、わりと丁寧に解説してくれるのを聞きながら、気付かれないように、上目遣いで彼を探る。

自惚れでも自己満足でもないと思いたい。

少なからず、氷室君に近付けてるはずだから。

私はわずかに頬を火照らせ、静かに胸を弾ませた。

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  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   Cleared for take off

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    JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   ……さすがキャプテン

    お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   今、すごく抱きたい

    ――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   よいフライトを

    休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   こっちこそ、よろしく

    泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで

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