เข้าสู่ระบบ――ふわふわする。
頭も、身体も。 微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」
私は、夢と現の狭間で、呻いた。
「……むろ、く」
ぼんやりと口にした名前。
それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。 自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。
胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」
重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。
「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」
ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。
「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」
最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。
……そんな男でも、私は――。「……好き……」
――だから、私も。
あの人みたいに、『穣」って呼びた……。 ……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」
突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。
鼻をギュッと摘ままれる感触。 ――息苦しい。 一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」
私は、ぷはっと口を開けた。
浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。
途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。 私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。
うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」
不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。
途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」
溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。
氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。
「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」
私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。
私の部屋ではない。 ホテルとか、そういう雰囲気でもない。 生活感がある、誰かの居住空間なのは、肌で感じ取れる。「鶏か、あんたは」
氷室君は、私が横たわっていたベッドサイドに腰かけていた。
私の頭痛がうつったみたいに、眉間の皺を深くして、額に手を遣る。「ここは、俺の家」
「……は?」
「いつものホテル、時季柄満室で取れなかったし、あんたの家も知らない。駅からタクシーに積んで、俺んちに連れて来るしかなかった。仕方ないだろ」
これ見よがしな息を吐いて、指の隙間からジロッと強烈な睨みをお見舞いしてくる。
『仕方ないだろ』と言われても――。 何故、私が氷室君の家に連れて来られる事態になったのか、まったく理解が追いつかない。 落ち着きなく、ソワソワと視線を走らせる。 氷室君はとてつもなく苦い顔をして、ザッと前髪を掻き上げた。 「昨夜のこと。あんた、どこまで覚えてる?」「え。昨夜って……」
私は、おどおどと、彼に目を向け直した。
氷室君は長い足を組み上げ、膝に肘をのせて頬杖をつき、私をジッと見据えている。 そんな視線に、ドキッとしながら……。「……もう、朝?」
恐る恐る問いかけると、もう何度目かの溜め息を返される。
「少なくとも、鶏が鳴く時間で正しい」
「って、昨夜? 昨夜って……あ」
朧気ながら、記憶の断片が脳裏に浮かび上がる。
昨夜――。 遅番の仕事が終わって、空港を出るところで瞳と会った。 途中で、氷室君と立花さんを見かけた。 私は、二人の親密な様子がショックで、泣き出してしまい……。「仕事帰り……に、瞳と飲みに行って、それで……」
――記憶を、辿れない。
「今野さんの話じゃ、さめざめと泣きながらピッチ早く飲んで、酔い潰れたそうだよ。どうやって電話番号知ったのか疑問だけど、すごい剣幕で俺に電話してきた」
「えっ!?」
「『こうなったのは氷室君のせいだから、責任もって介抱しなさい』って。なにが俺のせいかも説明せずに。ったく……なんで俺が、二日も連続であんたの世話しなきゃならないんだか……ただただ謎」
私の中で、サーッと血の気が引いていく音がした。
なんとなく理解が繋がった。 私が酔い潰れたのは、確かに氷室君のせいだ。瞳に彼への想いを見透かされ、お酒の勢いもあり、つらつらと恨み節で語った。
――その途中から、記憶がない。ほどよいエアコンが効いた室内。
暑くもないのに、変な汗が背筋を伝う。「え……ええと……」
弁解の言葉を探しても、なんにも浮かんでこない。
氷室君は私の答えを待って、じっとりした視線を送っていたけれど。「……まあ、無理矢理言わせなくても、無意識下の罵詈雑言でなんとなくわかった」
足を組み替えて、腕組みをする。
「え?」
「タクシー降りて、部屋までおぶってきたんだけど。あんた俺の背中で、人のこと随分と詰ってくれた。バカ、冷酷非道。人でなし」
「!?」
「スケコマシ。遊び人。憤慨したいところだけど、あんたに言われる筋合いはある」
渋い顔で数え上げる『罵詈雑言』――私は、深層意識下で、温かい温もりに揺らされながら、そんな言葉を紡いだことをぼんやりと思い出した。
全身の血液が、一気に足元に流れ落ちていく――。「ご、ごめんなさ……」
「仰る通り、『さいてー』な男だろ。あんたにとっては。なのに、どうして泣く?」
「っ、え?」
「……俺と立花さんが会ってたの、見たくらいで」
ズバリ、真っ向から探り入れられ、ギクッと身体を強張らせた。
「俺が、あの人に言われるがままに、縁り戻したとでも思った? 旦那と別れるからやり直そうって言われて、痛い目見たのも忘れて、ほいほいついて行ったって」
自虐的に揶揄されて、思わずカッとする。
「違う……そうじゃない。そうじゃない!」
弾かれたように腰を浮かせ、ベッドの上で正座した。
氷室君は相変わらず涼しい瞳で、いきり立つ私を底意地悪く観察している。「私、氷室君を信じてる。立花さんと縁り戻すなんて思ってない……!」
私は絡みつく視線を振り解くみたいに、両肘を抱えてブルッと身を震わせた。
「……ふーん」
氷室君は目を細め、鼻を鳴らした。
ベッドに片腕を突いて、ギシッと軋んだ音を立てる。「じゃあ、なんで?」
身を乗り出し、わざわざ目線を合わせて畳みかけてきた。
「なんで、って……」
私は背を反らして彼との間隔を保ちながら、グッと口ごもった。
また意地悪に巧妙に、言わされるだけかもしれない。 だけど――。「……け、ないの」
「え?」
掠れた上に、喉に引っかかった声に、彼は眉根を寄せて聞き返してきた。
私は一度唇を噛み、思い切って顔を上げると。「信じてるけど、嫌だって思っちゃいけないの!?」
振られてからもずっと、心の奥底で燻らせていた想いを迸らせた。
「私は氷室君の彼女でもなんでもないし、文句は言えない。非難もできないけど、それでも嫌だって……もう会わないでって思って、なにが悪いの!?」
面を伏せ、激しくかぶりを振って怒鳴った。
両手でシーツをギュッと握りしめ、唇を戦慄かせる。「言わせてくれないし、聞きたくないとも言われたけどっ。ひ、氷室君、私の気持ち知ってるくせにっ……」
興奮して、我を忘れて口走る途中で、私は声をのんだ。
大きく目を瞠り、開けた視界いっぱいに、彼の綺麗な顔が映り込む。 近すぎて輪郭もぼやけるけど、唇を食まれる感覚だけはやけにリアルだった。 この感触と温もりを忘れられるほど、時間は経っていない。嫌でも、鼓動は煽られる。 胸がきゅんと疼いて締めつけられて、息苦しい――。 やがて、氷室君の方から、顎を引いて唇を離した。「……なんで、キス?」
私は呆然として、自分の胸元で服をギュッと握りしめる。
「…………」
氷室君は、返事をしない。
まだすぐ目と鼻の先で、私と目が合うのを避けるように、顔を伏せる。「夏バテしないかって心配してくれたり。試験勉強、教えてくれたり。き、昨日も抱きしめられた。私が酔い潰れたって、ほっときゃいいじゃない。なのに、二日連続でお世話してくれるとか……」
彼の言動は矛盾ばかりで、私は堪らなく焦らされる。
言っているうちに、重力に負けたみたいに俯いていた。「なんでそんな、思わせぶりなことするの……」
氷室君は、なにか逡巡するように黙っていたけれど。
「思わせぶりって言われたら、それまでだけど」
どこか歯切れ悪く言って、手の甲で私の頬にそっと触れた。
「っ……」
優しくくすぐる仕草に、私の心臓がドキンと跳ね上がる。
ひゅっと喉を鳴らして息をのみ、呼吸を忘れて硬直していると。「昨夜立花さんと会った理由は、弁解しておきたい。縁り戻そうなんて考えないし、もちろんなにもしてない。ただ、ちゃんとまっすぐ目を見て、断らなきゃって思ったから」
氷室君は私をまっすぐ見つめて言い切ると、スッと手を引っ込めた。
私は、彼の手の温もりを閉じ込めるかのように、自分の頬に手を当て……。「氷室、く」
戸惑う私の前で、氷室君は肩を動かして大きく息を吐く。
「俺、さ。あの人と顔合わせる度に、感情揺さぶられて……今までずっと、冷静に話せなかったんだ」
目を伏せ、淡々と切り出す彼に、私の胸がドキッと跳ねた。
「あの人がなにを考えてるのか、理解できなくて。あの人のこと考えすぎて、まだ好きだったのかって、錯覚起こすくらい混乱してた。でも、違う。俺は、あの人にそういう気持ちはもうないから……今の俺の気持ちを冷静に伝えれば、納得してくれるんじゃないか、って」
淡々と続ける彼を、私はジッと見つめた。
「なんで……急に?」
思い切って、質問を挟む。
「この間、食堂で会った時もそうだったけど、氷室君……どっちかって言うと、立花さんのこと持て余し気味で……打てども響かずな態度で、彼女が諦めるのを待ってる感じだったのに」
言い回しを考えながら続けると、氷室君はやや自嘲気味に口角を上げた。
「否定しない」
「なら、どうして……?」
私は、彼の綺麗な横顔に目を凝らした。返事を待って、緊張からか、鼓動がドキドキと速まっていく。
氷室君は、唇をきゅっと真一文字に結んで……。「あんたが言ったから」
「っ、え?」
「俺はあんたが憧れるディスパッチャーで、なにがあっても変わらないから、どんな形でも目標にしたい、って」
――そう言った時、『ありがとう』と言われた。
いきなり抱きしめられて、耳元で囁かれたことまで思い出し、カアッと頬が火照る。「あ、あの……それで、どうして」
目を泳がせながら、彼の言動の意味を問いかけたものの――。
ここまでの思わせぶりな態度のせいで、自分に都合のいい方向にしか思考が働かない。 どうしても……彼からの答えを期待してしまう……。自分でもわかる。
私は今、自分の表情を統制できていない。 多分、ものすごく複雑で微妙な顔をしていたんだろうけど、視界の端で窺うようにしていた氷室君は……。「……くっ」
睫毛を伏せ、小さな笑い声を漏らした。
そもそも、彼が『笑う』という行為事態がレアで、私の胸はドキンと跳ね上がってしまう。「い、今笑うの、ズルい……」
私一人ドキドキしてるのが悔しくて、ちょっと不貞腐れた気分でそっぽを向いた。
氷室君は、口元に手を遣って、クックッと肩を揺らして笑ってから、「……いいよ。穣って呼んで」
軽く顎を上げて、天井を仰いで呟いた。
「っ、え?」
「さっきあんた、俺の背中で、譫言でそう言ってた。仕事中以外なら、別に構わない」
「……!」
さらりと答えられ、ひゅっと喉を鳴らして息をのんだ。
それは紛れもなく、立花さんが彼を名前で呼ぶのを聞いた時から、私が心の奥底で願っていた、欲張りな欲求。 彼への罵詈雑言と一緒に、心の声として漏れていたことを察する。「~~……!」
今さらながら、お酒に潰れた自分を深く恥じた。
勢いよく頭から布団を被り、身を縮めて丸くなる。ハリネズミみたいになった私を、氷室君がどんな目で見ているかはわからないけれど……。
ギシッとベッドが軋む音がした。
微かに空気が揺れ、彼が立ち上がった気配を感じる。「今日、そっちも休みだろ。車で送る。支度して」
相変わらずの素っ気なさで促す声の後、ドアが閉まる音がした。
氷室君が寝室から出て行ったのを感じて、私は布団から顔を出した。二日連続――。
言われるまでもなく、彼に相当な迷惑をかけた自覚はある。 今後、塩を通り越して、ブリザード級の冷たい対応に出られても、文句の一つも言えないくらい。なのになんか……氷室君が、優しい……!?
今までが今までなだけに、ほんのちょっぴり態度が軟化しただけで、私のお手軽な思考回路は、彼を優しいと変換してしまえるんだろうか。「氷室君。……穣……」
ドキドキとうるさい心臓の音から意識を逸らし、許可を得たばかりの名前で呼んでみる。
「穣……」
彼の名前を紡ぐ自分の唇を、無意識に指でなぞって……。
「っ……」
じわじわ来る嬉しさと猛烈な照れの極致で、胸がきゅんと疼いてときめく。
私は、膝を抱え込んで小さくなった。お盆時と言えど、まだ夜が明けて間もない東京の街は、道路渋滞もない。
東の空に昇った金色の朝日ばかり眺めていたら、せっかくの氷室君とのドライブが、あっという間に終わってしまう。彼が一人で暮らすマンションは、空港から私と同じ路線で、一駅手前という近距離にある。
私は、愛車の黒いVOXYを運転する彼をチラチラ見遣りながら、今だけは、もう少し遠い街で一人暮らししていてもよかったな、なんて現金なことを考えた。走り出して五分ほどして、交通量の少ない広い国道で赤信号に捕まり、氷室君が静かにブレーキを踏んだ。
ほとんど振動もなく、スーッと滑らかに停止線で停まる、丁寧なブレーキング。 私は、運転席の彼をそっと窺った。いつものスーツとは違う、カーキ色のTシャツと白いスラックス姿が、カジュアルでリラックス感たっぷりで、とても新鮮。
私を送り届けたら、この後、どうするんだろう。 氷室君も公休だし、どこかに出かけたりするのかな。 いや、私がベッドを占領していたせいで、夜中眠っていない様子だったから、家に帰ってひと眠り……だろうか。――一緒に居れたりしないかな。
せっかく、仕事中以外では名前で呼んでいいと、許可をもらえたんだもの。 一日公休のプライベートな時間を、一緒に過ごしたい。だけど、大きく前進したとは言え、やっぱり私はただの同期、同僚でしかないから、調子に乗ってあれもこれもと欲張るわけにはいかない……。
一人、地味に葛藤する私に、「なに。ジロジロと」
氷室君がハンドルに右手を置いたまま、ちらりと横目を流してきた。
「っ、え?」
私は一瞬ギクッとして、反射的に胸元に手を当てた。
「言いたいことがあるなら言えば?」
わずかに眉根を寄せて言われて、心臓がドキッと跳ね上がる。
私の葛藤、バレバレだった……。「ごめんっ」
私は助手席のドアギリギリまで、飛び退いた。
氷室君はまっすぐ前を向いたまま、これ見よがしな溜め息をつく。「聞いてやるから、言って。運転中に、そんな熱い眼差しで見られると、気が散る」
「う……。ごめん」
だけど、『聞いてやる』と言ってくれたのは好都合だ。
早速、氷室君を名前で呼ぶチャンス……! 『氷室さん』から『氷室君』に変えた時の、何倍も緊張する。「それじゃあ、あの……穣、君」
その上、何十倍も照れ臭くて、記念すべき第一声は、あの時と同様、たどたどしくなってしまった。
氷室君はまたしても表情も変えずに、私を冷ややかに見て、呆れているだけ……かと思いきや。 何故だか、ブルッと肩を震わせた。「? ど、どうかした?」
予想外の反応に、私までつられて身を竦める。
「……こそばゆい」
氷室君は大袈裟に首を縮めて、左手を口元に運んだ。
「なんだよ、『穣、君』って。いいよ、敬称略で」
口を覆った大きな手にくぐもってしまうけれど、私は身を乗り出して聞き拾った。
眼鏡のリムの下、頬骨のあたりが、ほんの少し赤く染まっているのに気付く。「もしかして……照れてる?」
ギロッと睨まれる覚悟で、ツッコんでみた。
氷室君は、一瞬動きを止めて固まって……。「照れてない。ゾワッときただけ」
運転席側の窓の方に、プイと顔を背けてしまった。
この反応……十中八九、『照れてる』で間違いない。「いや、でも……ほっぺ、赤いよ?」
いつもなら絶対にできないけど、私には妙な確信があって、彼の頬を人差し指でツンと突いてみた。
途端に、「うるさい」
鬱陶しそうに手を払われたものの、慌てて引っ込めるには至らない。
人差し指を彼の方に向けたまま、次の反応を待っていると。「……はあ」
氷室君は、忌々し気に溜め息をついた。
「たいていの人間は、『氷室君』か『氷室』。下の名前で呼ぶのは、そこそこ親しい友人。そういう人間は、わざわざ『君』なんてつけない。そんな風に呼ぶの、子供の頃、近所に住んでたおばさんくらい」
不貞腐れた様子で早口で言い切り、信号が青に変わったのを見て、ちょっと乱暴にアクセルを踏んだ。
「きゃっ」
停車時とは明らかに違う荒っぽさで、背中がグンとシートに吸い寄せられる。
氷室君の車は、ほとんど独占状態の広い道路を悠々と走り出し、私はシートから背を起こした。 信号が青になる前の一言にドキドキして、彼の横顔を窺ってしまう。氷室君を『穣』と呼ぶのは、彼曰く『そこそこ親しい友人』。
それを許された私は、彼にとって『親しい』分類にしてもらえたということ――。嬉しくて胸を弾ませた時、車内にスマホの着信音が鳴り響いた。
無機質な電子音は、私のものではない。 氷室君のスラックスのポケットから、聞こえてくる。私も彼も、ほとんど同時にそこに目を落とした。
スマホの振動を感じていたのか、氷室君は不快気に顔を歪めた。 でも、着信を続けるスマホは放置して、サッと前を向く。 運転中だから、スマホを手に取って、相手が誰かを確認しない。着信音は、鳴りやまない。
涼しい横顔だけど、彼も気にしているはず。「車……停めていいよ?」
私が声をかけると。
氷室君はわずかに逡巡した後、「ちっ」と小さく舌打ちして、左のウィンカーを出した。一番左の車線まで移り、路肩に車を停めると、スラックスのポケットからスマホを取り出す。
モニターに目を落とし、やや硬い表情を浮かべる。 それを見ていた私の脳裏に、私と同じように、彼を名前で呼ぶ女性の姿がよぎった。「……立花さん?」
氷室君は私の質問には答えず、無言で着信を拒否して、スマホをポケットに捻じ込んだ。
着信音がやみ、車内はしんと静まり返る。 答えてくれなくても、わかりやすい。「あの……穣。昨夜、立花さんとは……」
私が遠慮がちに訊ねると、無言でフロントガラスに目線を戻し、右のウィンカーを出した。
後続車はなく、なんなく走行車線に戻り、速度を上げていく。 私は、返事を待っていたけれど……。――やっぱり、この話は立入禁止か。
諦めて、俯いた。 だけど。「途中でほっぽって来たから、蹴りがついたんだかどうだか、よくわからない」
返事をしてもらえて、弾かれたように顔を上げる。
「ほ、ほっぽって……?」
「誰かさんのせいで、呼び出されたから」
まっすぐ前を向いたまま皮肉げに言われて、私は「う」と口ごもった。
「多分その電話だろうから、後で折り返す」
「重ね重ね、すみません……」
首も肩も縮めて、消え入りそうな声で謝ると、ふんと鼻を鳴らして返された。
「まあ、いいよ。もともと、そういう気になったのは、あんたのせいだし」
「……え?」
なにか意味深なことを言われた気がして、私の反応は一拍分遅れた。
詳しい説明を求めて、彼の横顔に目を凝らす。 氷室君は、視界の端で私を捉えているようだ。 だけど、求める説明はしてくれず……。「あんたって、バカだな」
「は?」
なんの脈絡もなくディスられて、私は怒るより先にポカンとしてしまった。
「ちょっ……なんでそうなるの」
気を取り直して頬を膨らませる私に、氷室君は探るような流し目を向ける。
「バカだろ。なんでそんなに、俺が好き?」
「……っ」
さらりと問われ、私の胸がドキッと跳ね上がった。
なんで今このタイミングで、そんなことを聞くのか。 彼の真意を図って、私は口を噤んだ。彼自身、答えを求めたわけでもないようで、それ以上なにも言わずに唇を結んでしまう。
追及されなかったことにホッとして、こっそり息を吐いた。なんとなく助手席側の窓の方に顔を向けて、車窓の風景が見慣れた街並みに変わっていることに気付いた。
もう、あと五分もしないうちに、私のマンションに着いてしまう――。少しずつ。
少しずつでも、氷室君の心に近付けている自信はある。なのに、一番言いたいこと、聞きたいことは、拒まれるのを怖がって躊躇している。
『なんでそんなに、俺が好き?』
考えてみれば、私はちゃんと告白できていないのに……とか、思うところはあるけれど。
そんな質問にも狼狽えてしまう、不器用な自分が初々しい。 まるで、中学生の頃の、淡い初恋のよう。 実際は初々しくも淡くもない、一線を越えた大人の関係だというのに、この矛盾が焦れったくてもどかしい……。彼の意地悪な質問に私が答えられないまま、会話は途切れた。
それから間もなくして、カーナビの音声が終了して――。 キッと甲高いブレーキ音を鳴らして、車が停まる。「ここ?」
氷室君が、フロントガラス越しにマンションの外観を眺めて、訊ねてきた。
「うん、そう。送ってくれて、ありがとう」
彼のマンションから、たった十五分足らずの初ドライブが、終わってしまった。
結局、大した会話もしてないし、聞きたいことも知りたいことも、全部曖昧なまま。 名残惜しい思いもあるけれど、これ以上続いたら私の心臓がもたない。氷室君はハンドルに預けた両腕に顎をのせ、私に横目を流している。
彼の視線を感じてドキドキしながら、私は伏し目がちにシートベルトを外した。「それじゃ、また……」
高鳴る胸が苦しくて、彼の方を見られないまま、助手席側のドアに手をかける。
と、その瞬間、後ろからグッと肩を掴まれ――。「っ、え?」
力任せに振り向かされて、驚いて目を瞠った。
氷室君は眼鏡をスッと抜いてインパネにのせると、どこかもどかしそうに自分のシートベルトを外して、私の方に大きく身を乗り出してくる。「じょ……」
とっさに彼の名を口にしようとした唇は、途中で彼のそれに塞がれていた。
大きく見開いた目に、伏せられた長い睫毛が映り込み、ドクッと心臓が沸き立つ。「んっ、じょ、穣っ……」
グイグイと踏み込んでくる彼に、ほとんどドアに押さえつけられるような格好で、私は背筋をゾクッとさせた。
さっきとは全然違う、明らかな情欲が感じられるキスに、嫌でも身体が戦慄いてしまう。「待っ……じょ、うっ……」
まるで、願いを聞く『対価』として、私を抱いていた時みたいな、獣じみた熱いキス。
舌の付け根から、根こそぎ持っていかれそうに艶めかしく絡められて、クラッとする。氷室君は、『火が点いた』という言い回しがぴったりなほど、貪欲に獰猛に、何度も角度を変えて私の唇を貪る。
狭い車内に淫らなキスの音が響き、私の鼓膜を直接くすぐり、麻痺させていく。恥ずかしいのに高揚して、私は無意識に彼のTシャツの胸元にぎゅっとしがみついた。いったい、どれくらいの間、そうやってキスを続けていたか。
お互い息を乱しながら、氷室君の方から唇を離した。 生理的な涙が滲んだ瞳で彼を見上げる私から、ふっと目を逸らし――。「どうせ、『どうして』って聞かれると思うから、先に言っておく」
「え……?」
「今、すごく抱きたい。あんたのこと」
「……!!」
氷室君らしくない直情的な言葉に、私はひゅっと喉を鳴らして息をのんだ。
彼の欲情を真っ向から浴びているのを自覚して、カッと顔が茹る。「でも、理性総動員して、抑えてる。同じこと二度繰り返すって、大人としてどうかと思うから、ちゃんと問題片付いてからにする」
「~~っ……!!」
意味深の域を、完全に通り越している。
これを口説かれてると言わずに、なんと言うの……!?それでも、今までのことを走馬灯のように思い出す。
『いや、自惚れちゃいけない』と言い聞かせる自分と、心の中で地味に葛藤していると。「ここは自制するから。あんたも、手、放して」
「え? 手……」
「放してくれないなら、俺も好き勝手に触るけど」
「……!」
氷室君が下げた目線につられて、彼の胸元にしがみついたままだったことに気付く。
意地悪にからかいながらも、やっぱり欲情を憚らない言い草にギョッとして、私は勢いよく両手を放した。「……ふっ」
氷室君が吐息交じりに笑って、ゆっくり身体を起こす。
運転席に戻り、シートベルトを締め直すのを見て、私は急いでドアを開け、飛び降りるようにして地面に立った。心臓はバクバクと爆走している。
辛うじて早朝だという意識が働き、できるだけ静かにドアを閉めようとすると。「またな」
その隙間から声をかけられ、ピタッと手を止めた。
道路に立ち尽くし、運転席の彼を見上げる。 氷室君は、ちらりと私に視線を下ろし……。「じゃ」
「う、うん」
短く促されて、私は慌てて、しっかりとドアを閉めた。
氷室君も、ハンドルから身体を起こす。 ハザードランプが消え、ブレーキが解除された車から、私は大きく二歩離れた。 ゆっくり走り出す車を目で追いながら、「……また、ね」
彼がしてくれた挨拶を、反芻する。
彼の黒いVOXYが、角を曲がって見えなくなるまで見送って――。「っ」
彼の感触と温もりを刻みつけられた唇を手で押さえ、早鐘のような鼓動を鎮めようと努力した。
OCOで初めて過ごした八月は、まるで駆け抜けるように過ぎていった。九月に入り、夏休みも終わって、旅行、航空業界のオンシーズンも一段楽。ピーク時に比べてフライト数も落ち着いて、穣は通常比かなりゆったり……私は相変わらずバタバタと仕事をしている。「八巻さん。小松60便のフライトプラン、フェイストークで受け渡して」「はい」「三十分後、機長とオンラインブリーフィングやるから、準備よろしく」「了解ですっ」気象データを集める間にも、矢継ぎ早に指示が入る。フライト数は減ったのに、私はハイシーズンと変わらない忙しさ……目が回りそうだ。――でも。フライトプランを機長に受け渡すために、社内アプリのフェイストークにフライトプランを移しながら、隣の彼の横顔を窺った。私がこんなにバタバタなのも、それに反して穣がゆったりなのも、私に仕事を任せてくれているからだ。八月最終週の胴体着陸事故前までは、仕事を振ってくれるだけで、『任せてもらえている』という実感には至らなかった。でも今は、左腕くらいには信頼してもらえていると、自負している。彼女だから、じゃない。むしろ穣は意識して、仕事中、努めて事務的に接しようとしている。おかげで、以前以上に塩対応に拍車がかかった……ようにも見えるけれど。私に、異議はない。だって穣は、一歩空港を出るとメガトン級に甘いから。――と言うか、エロい。今はモニターに注がれていて、私を映さない真剣な目も、持て余すようにペンを回す長い指も、燃料重量を自分に刻むみたいに唱える唇も。あと数時間して仕事が終わったら、今夜また私に、あんなこともこんなことも――。「……八巻さん。視線が熱い」「っ」溜め息交じりに言われて、私はハッと我に返った。穣が左手で頬杖をついて、右手の指でペンを回しながら、私を斜めからの角度で見ている。「フライト減って、少しくらい手が空いても、仕事中に妄想する余裕、あんたにはないだろ」「うっ。すみません」私は条件反射で、シャキッと背筋を伸ばした。煩悩を払おうと、両手でパンと頬を打って……。「……なんで、妄想ってバレた……?」思わず首を捻る横で、穣は顔を伏せ、笑いを噛み殺していた。「いや、わかるだろ。そんな食い気味の熱視線。炙られるかと思った」「!」目を細めて揶揄されて、私はカアッと頬を茹らせた。「ご、
JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が
お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」
――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ
休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信
泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで