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よいフライトを

ผู้เขียน: 水守恵蓮
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2026-02-02 09:31:50

休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。

このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。

午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。

滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。

「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」

カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。

「すぐ、コントローラーに連絡します」

「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」

私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。

「はい。広島、広島……」

短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。

耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。

「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」

パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。

「違う。関空、伊丹」

隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。

「……え?」

受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。

「広島は気象データ。ロードプランは大阪」

氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。

私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。

「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」

冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。

一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。

OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。

氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。

「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」

報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。

だけど、返事はなく。

「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」

氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信していた。

どうやら、私が電話する横で、先行機から揺れを観測した情報を得たようで、あの短時間で位置を特定し、パイロットに伝えている。

「少し高度を上げて、回避しましょう」

きびきびと、高度と、上げるタイミングを指示しながらも、キーボードに走らせる指は止まらない。

フライトプランと無線交信、さらには私の間違いを聞き取り、フォローまで同時にこなす……まるで聖徳太子だ。

私は、まっすぐモニターを見据え、無線交信を続ける彼の横顔を見つめた。

来年二月の国試に合格出来たら、私も彼に替わって、コックピットとの交信を担当できる。

そうしたら、氷室君はフライトプランの作成に集中できるし、少なくとも腕一本くらいの役目を務めることはできるはず。

日々、彼の隣のデスクで仕事をしていれば、仕事に対する決意と覚悟は、自然と確固たるものになる。

だけど、それと比例して、恋心まで刺激される。

私は、ついつい、休憩中のことを思い出した。

体調を心配してくれたり、試験勉強を見てくれたり。

少し前より確実に、彼に近付けていると自負している。

なのに、想いは届かなくて――。

私は、その狭間で、ジレンマに揺れている。

「八巻さん。広島の気象データ、送って」

報われない恋心にちょっぴり切なくなった時、抑揚のない低い声が、氷の刃のように私の意識を裂いた。

一瞬にして、ハッと我に返る。

「っ、え?」

なにを言われたか瞬時に理解が繋がらず、私は戸惑った声で聞き返した。

「気象データ」

氷室君が短い一言と共に、私にちらりと横目を向けた。

二本の指で、鼻根のブリッジをクッと押す。

その仕草に導かれ、私の目に、彼の怪訝そうな眉間の皺が映った。

「はいっ」

私は慌てて、ひっくり返った声で返事をした。

パソコンモニターを目視確認して、急いで転送する。

「広島の、気象データ……。今、氷室君のパソコンに送信しました」

「サンキュ」

氷室君は早速気象データを展開して、モニターを注視している。

私は、無駄にドキドキと騒がしい胸に手を置き、物理的に静めようとしながら、デスクに目を落とした。

「広島、風速強まってる。煽り風受けて、水平バランス保てない可能性あるかも」

氷室君は私をまったく気にすることなく、あっという間に広島の風を分析していた。

私に……というより、独り言みたいにブツブツ言って、

「こちら東京OCO。JAK12便コックピット、応答願います」

次の瞬間には、広島12便のコックピットに無線で呼びかけていた。

サザッというノイズの後、

『JAK12便。東京OCO、どうぞ』

コックピットから応答が入る。

「広島空港付近、南南東の風、毎秒十三メートル。午後七時五十分の着陸時、強風の影響が予想されます」

氷室君がインカムのマイク位置を調整しながら、右手で忙しなくテンキーを叩く。

私は椅子から立ち上がり、氷室君の後ろに回って、彼の目に映っているものを、自分の目でも確認した。

彼のパソコンモニターには、ついさっき私が転送した気象データと、風向きと風速を計算する社内システムが展開されていて、幾つもの図形と三角関数の数式が並んでいる。

氷室君は、そこに素早く数値を入力していた。

『東京OCO、広島空港で降雨の情報は?』

「ありません。滑走路は乾いているはずです」

『横風、追風にならなければ、ランディングOK。ゴーアラウンドの可能性も含め、広島アプローチと交信します』

コックピットからの応答に、氷室君は広島空港管制塔の無線周波数を伝えた。『ラジャー。サンキュー』

「よいフライトを」

そう言って、マイクをオフにすると、

「八巻さん。広島の気象状況、モニタリング継続。風向きが変わって横風になると、十三メートルでも着陸できない」

こちらを見ずに、私に指示する。

交信中、完全に彼に見入っていた私は、一拍遅れてシャキッと背筋を伸ばした。

「はいっ」

気合を入れ直し、デスクに戻ろうとして――。

「っ……」

一瞬目の前がグラッと揺れた。

頭の中で脳が動く、不快な眩暈を感じて、とっさに額に手を当てる。

「八巻さん?」

気配を感じ取ったのか、氷室君が私に視線を流してきた。

「ご、ごめんなさい。大丈夫」

慌てて、ぎこちなく笑みを浮かべた。

自分のデスクに手をついて、ふらつく身体を支えようとしたものの。

眩暈に襲われて視界が狭窄していたのか、大きく目測を誤った。

私の手はデスクを掠めて滑り、体重を支えられずに身体が大きく傾き――。

「あ……」

「っ、八巻っ……!?」

聴覚が、私を呼ぶ彼の鋭い声を拾ったのが、意識の最後。

なにかガツンとくる痛みに神経を支配されて、目の前が真っ暗になった。

――隣のデスクで、氷室君がフライトプランを作成している。

その横で、彼に頼まれたデータを分析していた私は、ふと眉間に皺を寄せた。

『氷室君。関空上空、気圧に変化があって、大気が不安定になってるみたい』

モニターに映し出した天気図に目を凝らしたまま、彼に告げた。

『え?』

氷室君が椅子から立ち上がって、私の後ろに立った気配がする。

椅子の背もたれに手を置き、グッと背を屈める。

私の肩越しにモニターを見つめ、

『ほんとだ。落雷あるかも。八巻さん、関空23便に連絡して』

『はい』

彼が指示を出す途中で、私はインカムを装着した。

『こちら東京OCO。JAK23便コックピット、応答願います』

マイクをオンにして、口元に動かしながら、関空空域を巡航中の機体に交信する。

コックピットから応答が入ると、キビキビと気圧の変化と落雷予測の情報を伝えた。

『JAK23便、ラジャー。大阪タワーに、旋回待機リクエストします』

『東京OCO、了解。お気をつけて』

『サンキュー。Good day』

マイクをオフにして、ふうと肩を動かして息をする。

氷室君は腰を折った体勢のまま、モニターではなく私の横顔を見つめていた。

『……? な、なに?』

私がわずかに怯んで訊ねると、テンプルを動かして眼鏡の位置を直しながら、レンズの向こうの目を細め……。

『いや。あんた、成長したな』

『え?』

私を見る目にもかけてくれる言葉にも、彼らしくない慈愛が漂っていて、条件反射でドキッとする。

『カンパニーラジオでの交信も、だいぶ様になってきた。左腕くらいの役には立ってる』

どこまでも上から目線の激励に、私はほんのちょっぴりカチンとしながらも……。

『見てて。必ず、立派な右腕って言わせて見せるから!』

目の下をほんのり染め、嬉しいのを押し隠して、天邪鬼に返す。

氷室君は、私の照れ隠しなど、お見通しだ。

ふっと睫毛を伏せ、薄い唇の端に、どこか満足気な笑みを浮かべて……。

『頼もしくなったな。俺の立派なバディになる日も、すぐそこまで来てるかも』――。

「ふふっ。ふふふ……」

「……寝ながらニヤニヤするなよ。気持ち悪い」

「……? ……!!」

なんとも言えないいい気分に鋭く割って入る、容赦ない辛辣な言葉にギクッとして、私はパチッと目を開けた。

開けた視界で捉えたのは、見慣れない低い天井。

辺りは薄暗く、どこかから零れる蛍光灯の明かりで、辛うじて照らされている。

「あ、あれ?」

自分が横になっていることに気付いて、訝しい思いで身体を起こした。

その途端、ズキッと頭に痛みが走り……。

「っ、痛っ!?」

思わず、額に手を遣って顔をしかめる。

「ああ、ああ、寝てろ。あんた、倒れた時デスクに額ぶつけて、結構デカいたん瘤できてるから」

説明を聞くまでもなく、額の真ん中に不自然な隆起を感じる。

「痛。いたたたた……」

「人騒がせな真似しておいて、夢見てにやけるとか。頭打って、脳細胞死滅したんじゃないの?」

呆れ果てた溜め息をつくのが誰かは、目にしなくても十分わかる。

私は、額のたん瘤を怖々と撫でながら、

「氷室……君」

首を捩じって、声の方向に顔を向けた。

私は粗末な狭いベッドに横たわっていて、彼はベッドサイドのパイプ椅子に座っていた。

長い足を組み上げ、腕組みをして、私にじっとりとした視線を送っている。

「覚えてない? あんた、仕事中にぶっ倒れたんだよ」

「え?」

「ついでに、ここは空港内の医務室」

彼の言葉で記憶が導かれ、その時のことが脳裏に蘇ってきた。

「ごめん……! 今、何時? 12便は……」

「今は十時半。もう夜勤に引き継ぎ終えて、勤務は終了してる。12便は、横風に煽られはしたけど、無事着陸した」

「よかっ……え? 十時半……!?」

思わず彼の方に身を乗り出し、途端にたん瘤がズキッと痛む。

「いたたた……」

前に身体を屈める私の耳に、お腹の底から吐き出したような、深い息が届いた。

「あんた、頑張りすぎ」

「……え?」

そっと首を捻って横を向くと、氷室君は苦い顔をして足を組み替えた。

「そのうち、こんなこともあるんじゃないかって思ってた。言わんこっちゃない」

乱暴に前髪を掻き上げる仕草に、苛立ちが滲み出ている。

まさに、氷室君が心配してくれた矢先に、こんなことに……。

「ごめん。ごめんなさい……」

私は、条件反射で肩を縮めた。

消え入りそうな声で謝ると、無言の溜め息が返ってくる。

なにも言ってくれないから、私も次の言葉を発せられず、薄暗い医務室に気まずい沈黙がよぎった。

「……とにかく、帰ろう」

氷室君は顔を背けながら言って、スッと立ち上がった。

「あ」

「荷物なら、持って来てある。立てそう?」

「う、うん」

私の返事を聞いて、自分のリュックと私のバッグを右肩に背負って、開け放たれていたドアの方に進む。

私はササッと髪を手櫛で直して、ちょっと慎重にベッドから降りた。

そして、ドアから出たところで立ち止まって待ってくれている彼の方に、肩を竦めて歩いていった。

空港地下の駅のホームに降りた時、ちょうどタイミング悪く、一本行ってしまった後だった。

次の電車まで十分あるのを確認すると、氷室君は小さな息をついて、待合のベンチに向かって進む。

後を追っていいものか迷ったものの、私のバッグはずっと彼が背負ってくれているまま……。

妙に恐縮して、先に座った彼の隣に腰かけた。

氷室君は大きく背を預け、やや喉を仰け反らせて天井を見上げていたけれど。

「あんたさっき、なんの夢見てたんだ?」

私に視線を投げることもせず、ポツリと質問してくる。

そのおかげで、一瞬自分に問われていると思えず、私はやり過ごしかけた。

けれど。

「夢……やっぱり、夢だったかあ……」

ものすごくいい夢、幸せな夢だったことを思い出し、がっくりとこうべを垂れる。

氷室君は、胡散臭そうに私を見下ろし、

「よほどいい夢だったんだろうな。なんせ、寝ながら気持ち悪くにやけられるくらいだし」

呆れを通り越して、冷ややかにツッコんでくる。

私は、「う」と口ごもったものの。

「ほんと……いい夢だった……」

夢の余韻を思い出し、うなだれた。

氷室君が、「はあ」と溜め息をついた。そして。

「どんな夢?」

「え?」

「いい夢って」

ちらりと横目を向けて訊ねられ、私はわずかに逡巡してから。

「……氷室君に、左腕くらいにはなったって、認めてもらえる夢」

ボソボソと歯切れ悪く呟く。

氷室君は、無言で私を見遣っていたけれど。

「そんなことで、あんなにニヤニヤできるんだ」

独り言みたいに言って、ハッと浅い息を吐いた。

そんな彼を、私は横目で窺う。

「そんなことって言うけど。私にとって、それが今一番の目標だから……」

ほんのちょっとムキになって、無駄に背筋を伸ばした。

「俺のバディになるんだっけ?」

「いけない?」

やっぱりどこか小馬鹿にしたような口調に、頬を膨らませる。

「いけなくないけど」

氷室君はひょいと肩を竦めて、私の方に顔を向けた。

「それを一番の目標って言うなら、あんたはたいしたディスパッチャーにならない」

「なっ……」

素っ気ないを通り越して冷たい言い草に、思わず息をのむ。

氷室君は、ホームに少しずつ増え始める旅客たちを一瞥して、足を組み上げた。

「俺たちディスパッチャーが、業務に当たる上で忘れちゃいけないのは、他のなんでもない、安全安心なフライト」

「そりゃ……もちろん」

彼が言わんとするところを探って、やや窺うような口調になる。

氷室君は、私を視界の端で見留めて。

「だったら、俺のバディになることを、一番の目標にするな」

抑揚のない声で淡々と言って、再び顔を前に向けた。

「あんたは頑張りすぎって言ったろ? 無理して体調崩して、ディスパッチャー不在になったりしたら、空にいるパイロットを誰が支えるんだ」

「っ……」

「一度飛び発ったら、パイロットには自分たちの周りの空しか見えない。俺たちが地上からサポートするから、コックピットは乗客乗員の命を預かれるんだ」

淡々と告げられる真っ当な正論に、ガシッと心を鷲掴みにされた気分だった。

返す言葉に窮して、ただただ彼の横顔を見つめる私に、氷室君はふっと口角を上げる。

「だから、見すぎ」

皮肉げに呟き、スッと立ち上がった。

電車の停止線にまっすぐ歩いて行く彼を、私も一歩遅れて追いかける。

足を止めた彼の横に並び、改めて隣から見上げると。

「あんたが立派なディスパッチャーになりたいなら……目標にするのは俺じゃない。操縦桿を握るパイロットのバディ。……違う?」

顎を引いて見下ろす瞳と、真っ向から視線が合った。私の心臓は、その途端にひっくり返った音を立てる。

静かに諭すような声色に、私も反論せずに耳を傾ける。

「ディスパッチャーが空を飛ぶことはないけど、『地上のパイロット』なんて言い方もされる。それがどういう意味か、ちゃんとわかってる?」

重ねて問われ、私は彼にまっすぐ視線を返した。

ドキドキと加速する鼓動。

煽られるがまま高揚して、私は無意識に胸元のシャツをぎゅっと握りしめた。

「っ……」

何故だか胸がいっぱいで、声が喉に引っかかる。

返事の代わりに、大きくぶんぶんと首を横に振った。

氷室君は、私の反応を一から十まで観察して、

「パイロットだけじゃない。ロードコントローラーも、航空整備士も、航空管制官も……一つのフライトに関わるすべての職に就く人間、すべてのバディ。……って、俺もそう言われただけで、受け売りだけど」

なにか、自分でも思い描くように、上を向いて呟いた。

そんな彼に、私はきゅんと胸を疼かせる。

『受け売り』……それが、誰に言われた言葉なのか。

「氷室く……」

「そういう意味では、多分あんたの方が、俺よりずっと立派なディスパッチャーになれる」

なにを言おうとしたかわからないまま、無意識に呼びかけた私に、氷室君はまるで刻みつけるようにゆっくりと口にした。ドクッ……と、心臓が沸き立った。

今日の休憩中――手塚さんから聞いて、堪らなく嬉しかった言葉。

それを、今、彼自身の口から直接聞けて、飛び上がりたいほど嬉しくて、幸せで……。

無意識に、ズッと洟を啜った。

「あり、がとう」

声を詰まらせながら、たどたどしくお礼を告げる。

氷室君は、それには返事をせずに、私から目線を外した。

私は、涼し気で端整な横顔を見つめて……。

「だったら……私は、氷室君とはバディじゃなくて、OCO一の名コンビになる」

自分を奮い立たせるように、大きく顔を上げて続けると、彼が視線を向けてくるのを感じた。

だけど、あえて彼には目を向けずに、自分に言い聞かせるように、大きく首を縦に振る。

「氷室君は、私が憧れるディスパッチャー。それは、なにがあっても変わらないから。どんな形でも目標にしていたい。……それは、許してくれるよね?」

そう言って、彼を見上げた。

視線が宙でバチッとぶつかる。

氷室君は、どこか困惑したように、瞳を揺らしていたけれど……。

次の瞬間。

「っ……!?」

私は、彼に抱き竦められて、ひゅっと喉を鳴らして息をのんだ。

背中に回った彼の腕に、グッと力がこもる。

頭のてっぺんに、彼が顔を伏せているのが、微かな吐息で感じられる。

「ひっ。……氷室、く……?」

ドキドキを通り越して、ドッドッと脈打つ心臓。

私は、おずおずと彼の腕に手をかけ……。

「どんな形でも、目標……そうだな。ありがとう」

すぐ耳元で囁かれ、ドキッと胸を弾ませながら、顔を横に向けた。

「氷室君?」

躊躇いながら呼びかけると、氷室君はゆっくり腕の力を緩めた。

電車が到着するアナウンスがホームに響き、抱擁を解く。

間もなく、電車がホームに滑り込んだ。

ドアが開く。

降車客はおらず、氷室君はさっさと乗り込むと、ドア脇のスペースに身を寄せた。

私も後に続いて、彼の横に回る。

ドアが閉まり、暗いチューブのような線路を走り出した電車の中で、私は彼の横顔を窺った。

氷室君は、窓の外に目を遣ったまま、黙っている。

なにか……私の言葉が彼に響いたのは、察せられた。

だけど、それがどういう意味のものかは、わからない。

確実に近付けているようで、やっぱりまだまだ心は遠い――。

こんなに近くにいるのに、拒まれるのを恐れて、思い切って踏み込めない自分が、もどかしかった。

翌日。

昨日と同じ遅番勤務が終わると、氷室君はさっさと帰り支度を整え、

「お先」

私にそれだけ声をかけて、デスクから離れていった。

「お疲れ……様です」

私の返事は待っていないし、返したところで背中に届きもしない。

昨日、成り行きとは言え一緒に帰れたのもあって、私は今日も『一緒に帰りたいなあ』なんて、欲張りになりかけていた。

「私たちは、ただの同期。ただの同僚。指導担当と教え子……」

現実の彼との関係を、何度も自分で復唱して意識に刻みつけ、気を取り直して椅子から立ち上がる。

「お先に失礼します」

夜勤の同僚に声をかけ、オフィスを出た。

従業員用のセキュリティを通過したところで、

「あれ? 藍里! 偶然」

後ろからポンと肩を叩かれた。

弾かれたように振り返ると。

「あ。瞳!」

「遅番? 終わり、この時間なんだ」

同期のCA、瞳が、キャリーケースを引きながら、私の隣に並ぶ。

私は頷いて返し、彼女と揃って歩き出した。

「瞳も遅いね」

「私も午後からだったの。広島ステイからの一・五往復」

「広島ステイ? あ!」

思わず声をあげた私に、瞳が「ん?」と首を傾げる。「もしかして、昨日の12便、乗務だった?」

「ん? そうそう」

「強風、大変だったね」

私がやや勢い込んで言うと、一瞬きょとんとした顔をして、

「ああ! もしかして、ディスパッチャー、氷室君だった?」

すぐに合点した様子で訊ねてくる。

私は何度も首を縦に振って応えた。

「着陸時、十一メートルの横風で。もっと強かったら、ゴーアラウンドになったかもしれないって」

「確かに、ちょっと揺れた。そっか、あの時、地上のパイロットは氷室君だったか」

地下の駅に下りるエスカレーターに乗った瞳が、唇に指を当てて目線を上に向ける。

そして、後に続いた私を見上げ、

「で、地上のパイロットの卵が、藍里」

からかうように言われて、私は苦笑いを浮かべた。

「それが……私は、ほぼ役に立たずで」

手すりに手をのせ、「はーっ」と声に出して溜め息をついて、うなだれる。

「関空と伊丹と広島ごっちゃにするし。聖徳太子が聞き耳立ててフォローしてくれなかったら、役立たずどころか足手纏いに。その上、ぶっ倒れるし……」

「? ごめん、藍里。まったく意味わからない」

瞳が怪訝そうに眉根を寄せ、ツッコみを入れてくる。

「要は、氷室君はやっぱりすごいってことで……」

「ねえ。あれ、その聖徳太子じゃない?」

「ん?」

あれ、と視線を促されて顔を上げると、エスカレーターの降り口の少し先に、氷室君の姿を見つけた。

「あ!」

「せっかくだ。ちょっと声かけて、一杯くらい飲みに行かない? 私、明日非番だし」

瞳は私の返事を待たず、キャリーケースをひょいと持ち上げ、ズンズン下っていく。

「え!? ちょ、ちょっと瞳」

私はひっくり返った声をあげて、彼女を追って慌てて一段下り……。

「あ」

「!」

ほとんど同時に、足を止めた。

「穣! こっち」

彼が向かう先にいた立花さんが、手を上げて合図するのを見たからだ。

氷室君は反応を見せないものの、彼女の前まで行って、ピタリと足を止める。

エスカレーターの中ほどの私たちとは少し距離があって、会話する声は聞こえない。

瞳がエスカレーターから降りたところで、立花さんが彼の腕を取った。

肩を動かして手を払われ、不服そうに口を曲げるのと同時に、私もフロアに降り立った。

立ち尽くす私の視界の真ん中で、二人が連れ立って先に歩いていく。

瞳は、彼らと私を交互に見遣っていたけれど……。

「あれ……管制官の立花さんじゃない? なに? あの意味深な空気」

隣にそそっと寄ってきて、コソッと耳打ちする。

私の心臓が、ドクッと嫌な音を立てて沸いた。

「いくら元カレ元カノでも、立花さんは結婚してるんだし……あの雰囲気はマズいんじゃ」

やや困惑が混じる声色に煽られ、ドッドッと早鐘のように拍動を強める。

思考は、『氷室君、行っちゃダメ!』と叫んで、二人を追いかけて彼を奪還するという、強引な方向に振り切っていた。

でも、一度氷室君にはっきり拒まれているという、消したくても消えない事実があったから、足が竦んで動けなかった。

氷室君と立花さん、二人の様子を見ても、会う約束をして待ち合わせていたのは、一目瞭然だった。

こんな時間から?

いったい、なんの約束?

猛烈に加速する心拍で、私の胸は張り裂けそうに痛み――。

「え……? ちょっ、藍里、どうしたの?」

瞳の、ギョッとしたような声が聞こえる。

「……え?」

『どうしたの?』と問われて逆に戸惑い、私は彼女の方に顔を向けた。

だけど、瞳が見えない。

どんな表情をしているかもわからない。

「瞳? ……あ、あれ?」

視界が滲んでぼやける。

おかしい、と思って目元に両手を遣って、私は初めて、自分がポロポロ涙を零して泣いていることに気付いた。

夜遅い時間帯でも、ターミナル内を行き交う人の姿は絶えない。

往来のど真ん中に立ち尽くし、涙を流す私に向けられる好奇の視線から隠すように、瞳が身体を盾にしてくれた。

私を片腕で抱え、もう片方の手でキャリーケースをグイグイ引いて、通路の隅まで移動すると、

「藍里」

私の両腕を両手でグッと掴んだ。

わざわざ腰を曲げて、俯く私の顔を覗き込んでくる。

「この間、氷室君の元カノの噂、聞きたがってたよね。今、藍里を泣かせてるのは、氷室君で間違いない?」

これだけ近付いても、やっぱり瞳の顔はぼやけて、輪郭しか掴めない。

私の目には、それほどまでに、涙がいっぱい溢れ返っているということ。

意味深な空気を漂わせる氷室君と立花さんを見送った後じゃ、なにも誤魔化せない。

私は、一度小さく頷いて応えた。

声を出したら、泣き声になってしまいそうだったから、ただ頷くだけ。

両手をだらんと下ろし、大きく顔を伏せて、肩を震わせるしかなかった。

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    OCOで初めて過ごした八月は、まるで駆け抜けるように過ぎていった。九月に入り、夏休みも終わって、旅行、航空業界のオンシーズンも一段楽。ピーク時に比べてフライト数も落ち着いて、穣は通常比かなりゆったり……私は相変わらずバタバタと仕事をしている。「八巻さん。小松60便のフライトプラン、フェイストークで受け渡して」「はい」「三十分後、機長とオンラインブリーフィングやるから、準備よろしく」「了解ですっ」気象データを集める間にも、矢継ぎ早に指示が入る。フライト数は減ったのに、私はハイシーズンと変わらない忙しさ……目が回りそうだ。――でも。フライトプランを機長に受け渡すために、社内アプリのフェイストークにフライトプランを移しながら、隣の彼の横顔を窺った。私がこんなにバタバタなのも、それに反して穣がゆったりなのも、私に仕事を任せてくれているからだ。八月最終週の胴体着陸事故前までは、仕事を振ってくれるだけで、『任せてもらえている』という実感には至らなかった。でも今は、左腕くらいには信頼してもらえていると、自負している。彼女だから、じゃない。むしろ穣は意識して、仕事中、努めて事務的に接しようとしている。おかげで、以前以上に塩対応に拍車がかかった……ようにも見えるけれど。私に、異議はない。だって穣は、一歩空港を出るとメガトン級に甘いから。――と言うか、エロい。今はモニターに注がれていて、私を映さない真剣な目も、持て余すようにペンを回す長い指も、燃料重量を自分に刻むみたいに唱える唇も。あと数時間して仕事が終わったら、今夜また私に、あんなこともこんなことも――。「……八巻さん。視線が熱い」「っ」溜め息交じりに言われて、私はハッと我に返った。穣が左手で頬杖をついて、右手の指でペンを回しながら、私を斜めからの角度で見ている。「フライト減って、少しくらい手が空いても、仕事中に妄想する余裕、あんたにはないだろ」「うっ。すみません」私は条件反射で、シャキッと背筋を伸ばした。煩悩を払おうと、両手でパンと頬を打って……。「……なんで、妄想ってバレた……?」思わず首を捻る横で、穣は顔を伏せ、笑いを噛み殺していた。「いや、わかるだろ。そんな食い気味の熱視線。炙られるかと思った」「!」目を細めて揶揄されて、私はカアッと頬を茹らせた。「ご、

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   何度でも、何度でも

    JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   ……さすがキャプテン

    お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   今、すごく抱きたい

    ――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   よいフライトを

    休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   こっちこそ、よろしく

    泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで

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