เข้าสู่ระบบ休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。
このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。 午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。 滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」
カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。
「すぐ、コントローラーに連絡します」
「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」
私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。
「はい。広島、広島……」
短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。
耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」
パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。
「違う。関空、伊丹」
隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。
「……え?」
受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。
「広島は気象データ。ロードプランは大阪」
氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。
私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」
冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。
一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。 OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。 氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」
報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。
だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」
氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信していた。
どうやら、私が電話する横で、先行機から揺れを観測した情報を得たようで、あの短時間で位置を特定し、パイロットに伝えている。
「少し高度を上げて、回避しましょう」
きびきびと、高度と、上げるタイミングを指示しながらも、キーボードに走らせる指は止まらない。
フライトプランと無線交信、さらには私の間違いを聞き取り、フォローまで同時にこなす……まるで聖徳太子だ。 私は、まっすぐモニターを見据え、無線交信を続ける彼の横顔を見つめた。来年二月の国試に合格出来たら、私も彼に替わって、コックピットとの交信を担当できる。
そうしたら、氷室君はフライトプランの作成に集中できるし、少なくとも腕一本くらいの役目を務めることはできるはず。 日々、彼の隣のデスクで仕事をしていれば、仕事に対する決意と覚悟は、自然と確固たるものになる。だけど、それと比例して、恋心まで刺激される。
私は、ついつい、休憩中のことを思い出した。 体調を心配してくれたり、試験勉強を見てくれたり。 少し前より確実に、彼に近付けていると自負している。 なのに、想いは届かなくて――。 私は、その狭間で、ジレンマに揺れている。「八巻さん。広島の気象データ、送って」
報われない恋心にちょっぴり切なくなった時、抑揚のない低い声が、氷の刃のように私の意識を裂いた。
一瞬にして、ハッと我に返る。「っ、え?」
なにを言われたか瞬時に理解が繋がらず、私は戸惑った声で聞き返した。
「気象データ」
氷室君が短い一言と共に、私にちらりと横目を向けた。
二本の指で、鼻根のブリッジをクッと押す。 その仕草に導かれ、私の目に、彼の怪訝そうな眉間の皺が映った。「はいっ」
私は慌てて、ひっくり返った声で返事をした。
パソコンモニターを目視確認して、急いで転送する。「広島の、気象データ……。今、氷室君のパソコンに送信しました」
「サンキュ」
氷室君は早速気象データを展開して、モニターを注視している。
私は、無駄にドキドキと騒がしい胸に手を置き、物理的に静めようとしながら、デスクに目を落とした。「広島、風速強まってる。煽り風受けて、水平バランス保てない可能性あるかも」
氷室君は私をまったく気にすることなく、あっという間に広島の風を分析していた。
私に……というより、独り言みたいにブツブツ言って、
「こちら東京OCO。JAK12便コックピット、応答願います」
次の瞬間には、広島12便のコックピットに無線で呼びかけていた。
サザッというノイズの後、『JAK12便。東京OCO、どうぞ』
コックピットから応答が入る。
「広島空港付近、南南東の風、毎秒十三メートル。午後七時五十分の着陸時、強風の影響が予想されます」
氷室君がインカムのマイク位置を調整しながら、右手で忙しなくテンキーを叩く。
私は椅子から立ち上がり、氷室君の後ろに回って、彼の目に映っているものを、自分の目でも確認した。彼のパソコンモニターには、ついさっき私が転送した気象データと、風向きと風速を計算する社内システムが展開されていて、幾つもの図形と三角関数の数式が並んでいる。
氷室君は、そこに素早く数値を入力していた。『東京OCO、広島空港で降雨の情報は?』
「ありません。滑走路は乾いているはずです」
『横風、追風にならなければ、ランディングOK。ゴーアラウンドの可能性も含め、広島アプローチと交信します』
コックピットからの応答に、氷室君は広島空港管制塔の無線周波数を伝えた。『ラジャー。サンキュー』
「よいフライトを」
そう言って、マイクをオフにすると、
「八巻さん。広島の気象状況、モニタリング継続。風向きが変わって横風になると、十三メートルでも着陸できない」
こちらを見ずに、私に指示する。
交信中、完全に彼に見入っていた私は、一拍遅れてシャキッと背筋を伸ばした。「はいっ」
気合を入れ直し、デスクに戻ろうとして――。
「っ……」
一瞬目の前がグラッと揺れた。
頭の中で脳が動く、不快な眩暈を感じて、とっさに額に手を当てる。「八巻さん?」
気配を感じ取ったのか、氷室君が私に視線を流してきた。
「ご、ごめんなさい。大丈夫」
慌てて、ぎこちなく笑みを浮かべた。
自分のデスクに手をついて、ふらつく身体を支えようとしたものの。 眩暈に襲われて視界が狭窄していたのか、大きく目測を誤った。 私の手はデスクを掠めて滑り、体重を支えられずに身体が大きく傾き――。「あ……」
「っ、八巻っ……!?」
聴覚が、私を呼ぶ彼の鋭い声を拾ったのが、意識の最後。
なにかガツンとくる痛みに神経を支配されて、目の前が真っ暗になった。――隣のデスクで、氷室君がフライトプランを作成している。
その横で、彼に頼まれたデータを分析していた私は、ふと眉間に皺を寄せた。『氷室君。関空上空、気圧に変化があって、大気が不安定になってるみたい』
モニターに映し出した天気図に目を凝らしたまま、彼に告げた。
『え?』
氷室君が椅子から立ち上がって、私の後ろに立った気配がする。
椅子の背もたれに手を置き、グッと背を屈める。 私の肩越しにモニターを見つめ、『ほんとだ。落雷あるかも。八巻さん、関空23便に連絡して』
『はい』
彼が指示を出す途中で、私はインカムを装着した。
『こちら東京OCO。JAK23便コックピット、応答願います』
マイクをオンにして、口元に動かしながら、関空空域を巡航中の機体に交信する。 コックピットから応答が入ると、キビキビと気圧の変化と落雷予測の情報を伝えた。 『JAK23便、ラジャー。大阪タワーに、旋回待機リクエストします』『東京OCO、了解。お気をつけて』
『サンキュー。Good day』
マイクをオフにして、ふうと肩を動かして息をする。
氷室君は腰を折った体勢のまま、モニターではなく私の横顔を見つめていた。『……? な、なに?』
私がわずかに怯んで訊ねると、テンプルを動かして眼鏡の位置を直しながら、レンズの向こうの目を細め……。
『いや。あんた、成長したな』
『え?』
私を見る目にもかけてくれる言葉にも、彼らしくない慈愛が漂っていて、条件反射でドキッとする。
『カンパニーラジオでの交信も、だいぶ様になってきた。左腕くらいの役には立ってる』
どこまでも上から目線の激励に、私はほんのちょっぴりカチンとしながらも……。
『見てて。必ず、立派な右腕って言わせて見せるから!』
目の下をほんのり染め、嬉しいのを押し隠して、天邪鬼に返す。
氷室君は、私の照れ隠しなど、お見通しだ。 ふっと睫毛を伏せ、薄い唇の端に、どこか満足気な笑みを浮かべて……。『頼もしくなったな。俺の立派なバディになる日も、すぐそこまで来てるかも』――。
「ふふっ。ふふふ……」「……寝ながらニヤニヤするなよ。気持ち悪い」
「……? ……!!」
なんとも言えないいい気分に鋭く割って入る、容赦ない辛辣な言葉にギクッとして、私はパチッと目を開けた。
開けた視界で捉えたのは、見慣れない低い天井。 辺りは薄暗く、どこかから零れる蛍光灯の明かりで、辛うじて照らされている。「あ、あれ?」
自分が横になっていることに気付いて、訝しい思いで身体を起こした。
その途端、ズキッと頭に痛みが走り……。「っ、痛っ!?」
思わず、額に手を遣って顔をしかめる。
「ああ、ああ、寝てろ。あんた、倒れた時デスクに額ぶつけて、結構デカいたん瘤できてるから」
説明を聞くまでもなく、額の真ん中に不自然な隆起を感じる。
「痛。いたたたた……」
「人騒がせな真似しておいて、夢見てにやけるとか。頭打って、脳細胞死滅したんじゃないの?」
呆れ果てた溜め息をつくのが誰かは、目にしなくても十分わかる。
私は、額のたん瘤を怖々と撫でながら、「氷室……君」
首を捩じって、声の方向に顔を向けた。
私は粗末な狭いベッドに横たわっていて、彼はベッドサイドのパイプ椅子に座っていた。 長い足を組み上げ、腕組みをして、私にじっとりとした視線を送っている。「覚えてない? あんた、仕事中にぶっ倒れたんだよ」
「え?」
「ついでに、ここは空港内の医務室」
彼の言葉で記憶が導かれ、その時のことが脳裏に蘇ってきた。
「ごめん……! 今、何時? 12便は……」
「今は十時半。もう夜勤に引き継ぎ終えて、勤務は終了してる。12便は、横風に煽られはしたけど、無事着陸した」
「よかっ……え? 十時半……!?」
思わず彼の方に身を乗り出し、途端にたん瘤がズキッと痛む。
「いたたた……」
前に身体を屈める私の耳に、お腹の底から吐き出したような、深い息が届いた。
「あんた、頑張りすぎ」
「……え?」
そっと首を捻って横を向くと、氷室君は苦い顔をして足を組み替えた。
「そのうち、こんなこともあるんじゃないかって思ってた。言わんこっちゃない」
乱暴に前髪を掻き上げる仕草に、苛立ちが滲み出ている。
まさに、氷室君が心配してくれた矢先に、こんなことに……。「ごめん。ごめんなさい……」
私は、条件反射で肩を縮めた。
消え入りそうな声で謝ると、無言の溜め息が返ってくる。 なにも言ってくれないから、私も次の言葉を発せられず、薄暗い医務室に気まずい沈黙がよぎった。「……とにかく、帰ろう」
氷室君は顔を背けながら言って、スッと立ち上がった。
「あ」
「荷物なら、持って来てある。立てそう?」
「う、うん」
私の返事を聞いて、自分のリュックと私のバッグを右肩に背負って、開け放たれていたドアの方に進む。
私はササッと髪を手櫛で直して、ちょっと慎重にベッドから降りた。 そして、ドアから出たところで立ち止まって待ってくれている彼の方に、肩を竦めて歩いていった。空港地下の駅のホームに降りた時、ちょうどタイミング悪く、一本行ってしまった後だった。
次の電車まで十分あるのを確認すると、氷室君は小さな息をついて、待合のベンチに向かって進む。後を追っていいものか迷ったものの、私のバッグはずっと彼が背負ってくれているまま……。
妙に恐縮して、先に座った彼の隣に腰かけた。 氷室君は大きく背を預け、やや喉を仰け反らせて天井を見上げていたけれど。「あんたさっき、なんの夢見てたんだ?」
私に視線を投げることもせず、ポツリと質問してくる。
そのおかげで、一瞬自分に問われていると思えず、私はやり過ごしかけた。 けれど。「夢……やっぱり、夢だったかあ……」
ものすごくいい夢、幸せな夢だったことを思い出し、がっくりとこうべを垂れる。
氷室君は、胡散臭そうに私を見下ろし、「よほどいい夢だったんだろうな。なんせ、寝ながら気持ち悪くにやけられるくらいだし」
呆れを通り越して、冷ややかにツッコんでくる。
私は、「う」と口ごもったものの。「ほんと……いい夢だった……」
夢の余韻を思い出し、うなだれた。
氷室君が、「はあ」と溜め息をついた。そして。「どんな夢?」
「え?」
「いい夢って」
ちらりと横目を向けて訊ねられ、私はわずかに逡巡してから。
「……氷室君に、左腕くらいにはなったって、認めてもらえる夢」
ボソボソと歯切れ悪く呟く。
氷室君は、無言で私を見遣っていたけれど。「そんなことで、あんなにニヤニヤできるんだ」
独り言みたいに言って、ハッと浅い息を吐いた。
そんな彼を、私は横目で窺う。「そんなことって言うけど。私にとって、それが今一番の目標だから……」
ほんのちょっとムキになって、無駄に背筋を伸ばした。
「俺のバディになるんだっけ?」
「いけない?」
やっぱりどこか小馬鹿にしたような口調に、頬を膨らませる。
「いけなくないけど」
氷室君はひょいと肩を竦めて、私の方に顔を向けた。
「それを一番の目標って言うなら、あんたはたいしたディスパッチャーにならない」
「なっ……」
素っ気ないを通り越して冷たい言い草に、思わず息をのむ。
氷室君は、ホームに少しずつ増え始める旅客たちを一瞥して、足を組み上げた。「俺たちディスパッチャーが、業務に当たる上で忘れちゃいけないのは、他のなんでもない、安全安心なフライト」
「そりゃ……もちろん」
彼が言わんとするところを探って、やや窺うような口調になる。
氷室君は、私を視界の端で見留めて。「だったら、俺のバディになることを、一番の目標にするな」
抑揚のない声で淡々と言って、再び顔を前に向けた。
「あんたは頑張りすぎって言ったろ? 無理して体調崩して、ディスパッチャー不在になったりしたら、空にいるパイロットを誰が支えるんだ」
「っ……」
「一度飛び発ったら、パイロットには自分たちの周りの空しか見えない。俺たちが地上からサポートするから、コックピットは乗客乗員の命を預かれるんだ」
淡々と告げられる真っ当な正論に、ガシッと心を鷲掴みにされた気分だった。
返す言葉に窮して、ただただ彼の横顔を見つめる私に、氷室君はふっと口角を上げる。「だから、見すぎ」
皮肉げに呟き、スッと立ち上がった。
電車の停止線にまっすぐ歩いて行く彼を、私も一歩遅れて追いかける。 足を止めた彼の横に並び、改めて隣から見上げると。「あんたが立派なディスパッチャーになりたいなら……目標にするのは俺じゃない。操縦桿を握るパイロットのバディ。……違う?」
顎を引いて見下ろす瞳と、真っ向から視線が合った。私の心臓は、その途端にひっくり返った音を立てる。
静かに諭すような声色に、私も反論せずに耳を傾ける。「ディスパッチャーが空を飛ぶことはないけど、『地上のパイロット』なんて言い方もされる。それがどういう意味か、ちゃんとわかってる?」
重ねて問われ、私は彼にまっすぐ視線を返した。
ドキドキと加速する鼓動。 煽られるがまま高揚して、私は無意識に胸元のシャツをぎゅっと握りしめた。「っ……」
何故だか胸がいっぱいで、声が喉に引っかかる。
返事の代わりに、大きくぶんぶんと首を横に振った。 氷室君は、私の反応を一から十まで観察して、「パイロットだけじゃない。ロードコントローラーも、航空整備士も、航空管制官も……一つのフライトに関わるすべての職に就く人間、すべてのバディ。……って、俺もそう言われただけで、受け売りだけど」
なにか、自分でも思い描くように、上を向いて呟いた。
そんな彼に、私はきゅんと胸を疼かせる。 『受け売り』……それが、誰に言われた言葉なのか。「氷室く……」
「そういう意味では、多分あんたの方が、俺よりずっと立派なディスパッチャーになれる」
なにを言おうとしたかわからないまま、無意識に呼びかけた私に、氷室君はまるで刻みつけるようにゆっくりと口にした。ドクッ……と、心臓が沸き立った。
今日の休憩中――手塚さんから聞いて、堪らなく嬉しかった言葉。
それを、今、彼自身の口から直接聞けて、飛び上がりたいほど嬉しくて、幸せで……。 無意識に、ズッと洟を啜った。「あり、がとう」
声を詰まらせながら、たどたどしくお礼を告げる。
氷室君は、それには返事をせずに、私から目線を外した。 私は、涼し気で端整な横顔を見つめて……。「だったら……私は、氷室君とはバディじゃなくて、OCO一の名コンビになる」
自分を奮い立たせるように、大きく顔を上げて続けると、彼が視線を向けてくるのを感じた。
だけど、あえて彼には目を向けずに、自分に言い聞かせるように、大きく首を縦に振る。「氷室君は、私が憧れるディスパッチャー。それは、なにがあっても変わらないから。どんな形でも目標にしていたい。……それは、許してくれるよね?」
そう言って、彼を見上げた。
視線が宙でバチッとぶつかる。 氷室君は、どこか困惑したように、瞳を揺らしていたけれど……。 次の瞬間。「っ……!?」
私は、彼に抱き竦められて、ひゅっと喉を鳴らして息をのんだ。
背中に回った彼の腕に、グッと力がこもる。頭のてっぺんに、彼が顔を伏せているのが、微かな吐息で感じられる。
「ひっ。……氷室、く……?」
ドキドキを通り越して、ドッドッと脈打つ心臓。
私は、おずおずと彼の腕に手をかけ……。「どんな形でも、目標……そうだな。ありがとう」
すぐ耳元で囁かれ、ドキッと胸を弾ませながら、顔を横に向けた。
「氷室君?」
躊躇いながら呼びかけると、氷室君はゆっくり腕の力を緩めた。
電車が到着するアナウンスがホームに響き、抱擁を解く。間もなく、電車がホームに滑り込んだ。
ドアが開く。 降車客はおらず、氷室君はさっさと乗り込むと、ドア脇のスペースに身を寄せた。 私も後に続いて、彼の横に回る。ドアが閉まり、暗いチューブのような線路を走り出した電車の中で、私は彼の横顔を窺った。
氷室君は、窓の外に目を遣ったまま、黙っている。なにか……私の言葉が彼に響いたのは、察せられた。
だけど、それがどういう意味のものかは、わからない。確実に近付けているようで、やっぱりまだまだ心は遠い――。
こんなに近くにいるのに、拒まれるのを恐れて、思い切って踏み込めない自分が、もどかしかった。翌日。
昨日と同じ遅番勤務が終わると、氷室君はさっさと帰り支度を整え、「お先」
私にそれだけ声をかけて、デスクから離れていった。
「お疲れ……様です」
私の返事は待っていないし、返したところで背中に届きもしない。
昨日、成り行きとは言え一緒に帰れたのもあって、私は今日も『一緒に帰りたいなあ』なんて、欲張りになりかけていた。「私たちは、ただの同期。ただの同僚。指導担当と教え子……」
現実の彼との関係を、何度も自分で復唱して意識に刻みつけ、気を取り直して椅子から立ち上がる。
「お先に失礼します」
夜勤の同僚に声をかけ、オフィスを出た。
従業員用のセキュリティを通過したところで、「あれ? 藍里! 偶然」
後ろからポンと肩を叩かれた。
弾かれたように振り返ると。「あ。瞳!」
「遅番? 終わり、この時間なんだ」
同期のCA、瞳が、キャリーケースを引きながら、私の隣に並ぶ。
私は頷いて返し、彼女と揃って歩き出した。「瞳も遅いね」
「私も午後からだったの。広島ステイからの一・五往復」
「広島ステイ? あ!」
思わず声をあげた私に、瞳が「ん?」と首を傾げる。「もしかして、昨日の12便、乗務だった?」
「ん? そうそう」
「強風、大変だったね」
私がやや勢い込んで言うと、一瞬きょとんとした顔をして、
「ああ! もしかして、ディスパッチャー、氷室君だった?」
すぐに合点した様子で訊ねてくる。
私は何度も首を縦に振って応えた。「着陸時、十一メートルの横風で。もっと強かったら、ゴーアラウンドになったかもしれないって」
「確かに、ちょっと揺れた。そっか、あの時、地上のパイロットは氷室君だったか」
地下の駅に下りるエスカレーターに乗った瞳が、唇に指を当てて目線を上に向ける。
そして、後に続いた私を見上げ、「で、地上のパイロットの卵が、藍里」
からかうように言われて、私は苦笑いを浮かべた。
「それが……私は、ほぼ役に立たずで」
手すりに手をのせ、「はーっ」と声に出して溜め息をついて、うなだれる。
「関空と伊丹と広島ごっちゃにするし。聖徳太子が聞き耳立ててフォローしてくれなかったら、役立たずどころか足手纏いに。その上、ぶっ倒れるし……」
「? ごめん、藍里。まったく意味わからない」
瞳が怪訝そうに眉根を寄せ、ツッコみを入れてくる。
「要は、氷室君はやっぱりすごいってことで……」
「ねえ。あれ、その聖徳太子じゃない?」
「ん?」
あれ、と視線を促されて顔を上げると、エスカレーターの降り口の少し先に、氷室君の姿を見つけた。
「あ!」
「せっかくだ。ちょっと声かけて、一杯くらい飲みに行かない? 私、明日非番だし」
瞳は私の返事を待たず、キャリーケースをひょいと持ち上げ、ズンズン下っていく。
「え!? ちょ、ちょっと瞳」
私はひっくり返った声をあげて、彼女を追って慌てて一段下り……。
「あ」
「!」
ほとんど同時に、足を止めた。
「穣! こっち」
彼が向かう先にいた立花さんが、手を上げて合図するのを見たからだ。
氷室君は反応を見せないものの、彼女の前まで行って、ピタリと足を止める。エスカレーターの中ほどの私たちとは少し距離があって、会話する声は聞こえない。
瞳がエスカレーターから降りたところで、立花さんが彼の腕を取った。 肩を動かして手を払われ、不服そうに口を曲げるのと同時に、私もフロアに降り立った。 立ち尽くす私の視界の真ん中で、二人が連れ立って先に歩いていく。瞳は、彼らと私を交互に見遣っていたけれど……。
「あれ……管制官の立花さんじゃない? なに? あの意味深な空気」
隣にそそっと寄ってきて、コソッと耳打ちする。
私の心臓が、ドクッと嫌な音を立てて沸いた。「いくら元カレ元カノでも、立花さんは結婚してるんだし……あの雰囲気はマズいんじゃ」
やや困惑が混じる声色に煽られ、ドッドッと早鐘のように拍動を強める。
思考は、『氷室君、行っちゃダメ!』と叫んで、二人を追いかけて彼を奪還するという、強引な方向に振り切っていた。 でも、一度氷室君にはっきり拒まれているという、消したくても消えない事実があったから、足が竦んで動けなかった。氷室君と立花さん、二人の様子を見ても、会う約束をして待ち合わせていたのは、一目瞭然だった。
こんな時間から? いったい、なんの約束? 猛烈に加速する心拍で、私の胸は張り裂けそうに痛み――。「え……? ちょっ、藍里、どうしたの?」
瞳の、ギョッとしたような声が聞こえる。
「……え?」
『どうしたの?』と問われて逆に戸惑い、私は彼女の方に顔を向けた。
だけど、瞳が見えない。 どんな表情をしているかもわからない。「瞳? ……あ、あれ?」
視界が滲んでぼやける。
おかしい、と思って目元に両手を遣って、私は初めて、自分がポロポロ涙を零して泣いていることに気付いた。夜遅い時間帯でも、ターミナル内を行き交う人の姿は絶えない。
往来のど真ん中に立ち尽くし、涙を流す私に向けられる好奇の視線から隠すように、瞳が身体を盾にしてくれた。 私を片腕で抱え、もう片方の手でキャリーケースをグイグイ引いて、通路の隅まで移動すると、「藍里」
私の両腕を両手でグッと掴んだ。
わざわざ腰を曲げて、俯く私の顔を覗き込んでくる。「この間、氷室君の元カノの噂、聞きたがってたよね。今、藍里を泣かせてるのは、氷室君で間違いない?」
これだけ近付いても、やっぱり瞳の顔はぼやけて、輪郭しか掴めない。
私の目には、それほどまでに、涙がいっぱい溢れ返っているということ。意味深な空気を漂わせる氷室君と立花さんを見送った後じゃ、なにも誤魔化せない。
私は、一度小さく頷いて応えた。声を出したら、泣き声になってしまいそうだったから、ただ頷くだけ。
両手をだらんと下ろし、大きく顔を伏せて、肩を震わせるしかなかった。OCOで初めて過ごした八月は、まるで駆け抜けるように過ぎていった。九月に入り、夏休みも終わって、旅行、航空業界のオンシーズンも一段楽。ピーク時に比べてフライト数も落ち着いて、穣は通常比かなりゆったり……私は相変わらずバタバタと仕事をしている。「八巻さん。小松60便のフライトプラン、フェイストークで受け渡して」「はい」「三十分後、機長とオンラインブリーフィングやるから、準備よろしく」「了解ですっ」気象データを集める間にも、矢継ぎ早に指示が入る。フライト数は減ったのに、私はハイシーズンと変わらない忙しさ……目が回りそうだ。――でも。フライトプランを機長に受け渡すために、社内アプリのフェイストークにフライトプランを移しながら、隣の彼の横顔を窺った。私がこんなにバタバタなのも、それに反して穣がゆったりなのも、私に仕事を任せてくれているからだ。八月最終週の胴体着陸事故前までは、仕事を振ってくれるだけで、『任せてもらえている』という実感には至らなかった。でも今は、左腕くらいには信頼してもらえていると、自負している。彼女だから、じゃない。むしろ穣は意識して、仕事中、努めて事務的に接しようとしている。おかげで、以前以上に塩対応に拍車がかかった……ようにも見えるけれど。私に、異議はない。だって穣は、一歩空港を出るとメガトン級に甘いから。――と言うか、エロい。今はモニターに注がれていて、私を映さない真剣な目も、持て余すようにペンを回す長い指も、燃料重量を自分に刻むみたいに唱える唇も。あと数時間して仕事が終わったら、今夜また私に、あんなこともこんなことも――。「……八巻さん。視線が熱い」「っ」溜め息交じりに言われて、私はハッと我に返った。穣が左手で頬杖をついて、右手の指でペンを回しながら、私を斜めからの角度で見ている。「フライト減って、少しくらい手が空いても、仕事中に妄想する余裕、あんたにはないだろ」「うっ。すみません」私は条件反射で、シャキッと背筋を伸ばした。煩悩を払おうと、両手でパンと頬を打って……。「……なんで、妄想ってバレた……?」思わず首を捻る横で、穣は顔を伏せ、笑いを噛み殺していた。「いや、わかるだろ。そんな食い気味の熱視線。炙られるかと思った」「!」目を細めて揶揄されて、私はカアッと頬を茹らせた。「ご、
JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が
お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」
――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ
休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信
泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで