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5話「バカの詮索」

Author: 団紡るう
last update publish date: 2026-09-13 07:00:53

 翌朝、伊依が自分のデスクでファイルを整理していると、秀一と沙織が連れ立ってやってきた。二人とも笑いを堪えきれない顔をしている。

「よぉ、伊依」

 秀一がデスクに片肘をついた。距離が近い。伊依は身体を少し引いたが、椅子の位置は変えなかった。

「引っ越し先、決まったのか?」

「決まった」

 短く答える。沙織が横から覗き込むように顔を寄せた。

「どこですかぁ? やっぱり駅から遠い方?」

 伊依は少し間を置いてから、用意していた地名を口にした。ダミーの住所。榛名地区のすぐ外側にある、古い住宅が密集した一帯だった。実際には誰も住んでいない、書類上だけの隠れ蓑だ。

「小坂町の方」

 沙織の眉がぴくりと動いた。すぐに口元がにやけていく。

「えーっ、あそこって」

 沙織は秀一と顔を見合わせた。

「低所得者の治安悪いとこじゃないですかぁ〜」

 語尾を伸ばして、わざとらしく心配するような口調を作る。伊依は表情を変えなかった。

「大丈夫なんですかあ〜? 女の一人暮らしで」

「まあ、あの辺り値段が安いから」

 秀一がファイルの束を指先で軽く叩きながら続けた。

「伊依なら妥当だろ」

 妥当。

 その一言が耳の奥に残る。伊依は黙って書類の角を揃えた。

「荘園が近いから、僻むやつばっかり住んでるとこですよね〜」

 沙織が笑いながら言う。

「私だったら、あんなところ絶対嫌だなぁ。友達呼ぶのも恥ずかしいし」

「俺も無理。せっかく働いてるんだから、もう少しマシなところに住みたいわ」

 秀一が肩をすくめる。

「まあ和久井さんは友達いないから平気か」

 沙織がまた笑った。二人分の笑い声が、周囲のデスクにも小さく響く。近くの席にいた社員が一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。

 伊依は二人を見た。

 バカ1号。秀一。

 バカ2号。沙織。

 心の中でそう分類してから、何事もなかったように視線を書類へ戻す。わざわざ訂正するほどのことでもない。

「用事あるから」

 伊依は椅子を引いて立ち上がった。書類を胸に抱え、二人の脇をすり抜ける。背中に沙織の忍び笑いが張り付いてくるようだった。

 給湯室に逃げ込んで、伊依はコップに水を注いだ。手のひらが少し熱い。怒りというより、これ以上あの声を聞きたくないという苛立ちだった。

 鏡を見る。いつもの顔が映っている。地味なブラウス。まとめただけの髪。どこにでもいる会社員にしか見えない。

 それなら、それでいい。

 むしろ、このままでいいのかもしれない。

   *

 昼休み、伊依は非常階段の踊り場に座り、スマホを取り出した。誰も来ない場所だった。

「ジョフィ」

「はいはい、なんすか」

 ジョフィの声が、いつもより砕けた調子で返ってくる。伊依が個人的にチューニングした口調モードだった。会社では誰にも聞かれないよう、イヤホン越しに小さく話す。

「私の会社での評価、適度に下げるように操作してくれる?」

「は? 急にどした」

「窓際族になりたい」

「いや意味わかんないんだけど。伊依、普通に真面目に仕事してるじゃん。評価下げてどうすんの」

 伊依は踊り場の手すりに肘をついた。窓の外では駐車場に停まった車の屋根が日差しで光っている。

「うちの会社、地下に備品管理課ってあるでしょ。追い出し部屋の」

「あー、あの噂の部署ね。存在は知ってるけど」

「そこに異動したい」

 数秒、ジョフィは黙った。

「あそこなら誰も来ない。パソコンも古いから見張られない。仕事も暇。むしろ好都合」

「なるほどね。伊依らしいわ、それ」

 伊依は手すりから肘を離した。

「今の部署にいると、余計な人間に絡まれるから」

「秀一と沙織?」

「それもある」

 少しだけ間が空く。

「会社で何も期待されなければ、私も楽になる」

「……なるほど」

 ジョフィの声から、さっきまでの軽さが少し消えた。

「でもさ、評価下げるって具体的にどうすんの? 人事データいじる系?」

「いける?」

「まあ、いけなくはないけど……伊依、これバレたらまずくない?」

「バレなきゃいい」

 伊依の声は淡々としていた。

 ジョフィが持つのは、単なる会話補助のAIではない。伊依自身が長い年月をかけて拡張してきた、ハッキング機能付きの相棒だった。会社のサーバーくらい、ジョフィにとっては大した壁ではない。

「わかった。人事評価システムに侵入して、伊依の直近三ヶ月分の評価スコアを段階的に落とすよ。急に下げると不自然だから、ゆっくりね」

「うん、頼む」

「ついでに、備品管理課への異動希望も裏で通しとく? 人事部長のPCに、なんかそれっぽい打診メール作っとけばいけると思う」

「それも頼む」

「了解。あと一応言っとくけど、これバレたら伊依の首だけじゃなくて会社全体巻き込む案件だからね。慎重にやるから安心して」

「わかってる」

 伊依はスマホをポケットにしまった。階段を下りながら、口元がわずかに緩む。誰にも見られない場所へ移動する計画。それは逃げではなく、伊依にとっては戦略だった。

 数日後、伊依の元にメールが届いた。差出人は人事部。件名は「異動のご案内」。

 開くと、備品管理課への異動が決定した旨が事務的に記されている。理由の欄には「業務適性を考慮した配置転換」とだけ書かれていた。伊依は画面をじっと見つめ、それから小さく息を吐いた。

 隣の席から、秀一の声が聞こえてきた。

「おい、和久井、なんか地下行きになったんだって? 聞いたぞ」

 いつの間にか広まっていたらしい。伊依が振り返ると、秀一はにやついた顔でこちらを見ていた。

「マジで窓際じゃん。かわいそう」

「まあ、元々使えないもんね、和久井さん」

 沙織も追随する。伊依は特に反論しなかった。むしろ、この反応こそが計算通りだった。

「そうだね」

 伊依は静かに答えた。声には抑揚がない。

「じゃあ、荷物まとめるから」

 デスクの引き出しから私物を出しながら、伊依の頭の中は既に別のことを考えていた。地下の備品管理課には、誰も足を踏み入れない。監視の目もない。パソコンの画面を誰かに覗かれる心配もなくなる。

 荷物を段ボールに詰めながら、伊依はふと視線を上げた。秀一と沙織が、まだ何か言い合いながら笑っている。

 伊依はその光景を、もう他人事のように眺めていた。

「ジョフィ」

 誰もいないのを確認して、伊依は小さく囁いた。

「ありがとう」

「どういたしまして。地下行き、快適だといいね」

「うん」

 段ボールを抱えて、伊依はエレベーターへ向かった。地下へ続くボタンを押す。扉が閉まる直前、伊依の口元にほんの少しだけ笑みが浮かんだ。

 秀一や沙織には分からないだろう。

 地下の薄暗い部屋が、伊依にとって新しい聖域になることを。誰にも邪魔されない、自分だけの王国。エレベーターが下降していく間、伊依は静かに、これから始まる日々を思い描いていた。

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