暗闇の中。
ほんのりと淡緑黄色で照らされた部屋はどこか幻想的で、そこに立つ彼は普段とは違って見えた。
近づいて来る彼はとても整った顔をしていて……。口元には赤い血が付いていて、それを指で拭った。
そんな仕草も妖艶でつい魅入られてしまう。 「なぁ……俺の秘密、知っちゃった?」そう言って弧を描く口元に視線が吸い寄せられる。
ドクドクと心臓がうるさいほど。 「俺とヒミツの関係、なってよ?」 ***あたし、倉木灯里(くらきあかり)は悩んでいた。
高校一年になった四月の終わり。GW直前の土曜日。
鏡の前でうんうん唸りながらどうしようか悩む。 「いっそぶっちゃけて本気メイクで行くか……地味子を通すためにナチュラルメイクで行くか……」 悩んだ末に、あたしはナチュラルメイクで行くことにした。 今日出かけるのは遊園地。外を歩くことが多いだろうから、日焼け止め下地は必須。
肌のトーンを明るくするリキッドファンデーションをポンポンと塗って、仕上げに化粧筆でパウダーをサッと撫でる。
アイブロウは目立たないように薄めに描いて、アイメイクはしないでおく。
最後にリップクリームを塗って唇を保湿して、軽くティッシュを当てる。
リップライナーと赤みの少ないタイプのルージュを塗り、もう一度ティッシュを当てた。
鏡を見直して、おかしいところがないかチェックをする。 「うん、こんなもんかな」メイクに納得したので、他の準備を始めた。
なんであたしがこんなに悩んでメイクをしているかというと、今日はクラスの校外学習で同じ班になった子達と一緒に遊園地に行くからだ。
中学までは同じくメイクが好きな友達とわいわい普通に楽しんでいた。でも高校に進学するにあたってその友達とも別れてしまい、しかも今の高校は今どき珍しいくらい校則が厳しい。
髪を染めるのはもってのほか。
メイクなんて色付きリップですら指導が入る。
違反したら容赦なく内申点が削られるとか。 校内でメイクは楽しめないと早々に諦めたあたしは、休みの日にめいいっぱい楽しもうと決めて学校ではいわゆる地味子で行くことにした。少しでもおしゃれをしようと考えると本気メイクをしたくなってしまうからだ。
まあ、そのせいで特に仲の良い友達も出来なかったのは痛手だったけれど……。それでも班に誘ってくれる人とかはいたし、そこまで不自由は感じていない。
で、土曜日で休みの今日。
休みの日だからメイクを楽しみたいところだけれど、今日会うのは学校の面々。
別にメイクが好きなことがバレても構わないんだけど、それで学校でもメイクの話をするようになったらあたしの我慢が限界に達しそうだと思った。
だから今日も地味子で通すことにはしたけれど、休みの日だから少しでもメイクは楽しみたい。その結果が今のナチュラルメイクだ。
パッと見はメイクしてるなんて気付かないだろう。ちゃんと見ても、色付きリップ塗ってるかなってくらいだと思う。
中学の友達くらいメイクに精通していれば肌のトーンとかでリキッド塗ってるのは気付くだろうけれど、多分普通の女子高生なら気付かない。それくらいのナチュラルメイクだ。
ある意味力作なナチュラルメイクに合わせたのはボーダーTシャツにピンクベージュのパーカー。 そして明るめの色合いのジーンズだ。肩までの髪はいじらずそのまま。
寝癖だけは気を付ける。最後に学校で使っている地味ーな黒縁メガネをかけて今日のコーデは完成だ。
メガネはもう少しオシャレな可愛いフレームのものもお年玉で買ったのを持っているけれど、学校では地味子に徹(てっ)すると決めたので小学校の頃から使っているものをかけている。高校生になった記念にと言ってコンタクトもワンデイのものを買わせてもらったけれど、こっちは本当に休みの日用だからまだ二回くらいしか使っていない。
そんな感じで準備を終えた頃にはそろそろ家を出ないといけない時間だった。 「あ、ごはん食べる時間微妙……」でも美容のためにも朝食を抜くと言うのはありえない。
簡単にヨーグルトにフルーツグラノーラをかけたものだけ食べることにした。 「それだけ? いつもはサラダとかハムとかも食べてるのに」休みの日だからとゆっくり朝食を食べているお母さんに言われたけれど、そんなに食べている時間はない。
かき込めば食べれるかも知れないけれど、美容にも健康にも良くない。
そういうのがクセになって、いつもそんな食べ方してると肌も荒れてしまいそうだ。そう、肌も荒れる。
つまり、化粧ノリが悪くなる!!
それだけは絶対にさけたい。 まあ、こんなだからお母さんにはメイクオタクとか言われちゃうんだけれど。 「時間ないからしかたないよ。これ食べたら出るから」「そう? じゃあ用意しておいたサラダは夜に食べる?」
「うん、取っておいて」
朝は食べれなくても一日の栄養分として摂取しておきたい。
ちょっと遅くなったけれど、待ち合わせには何とか間に合いそうだ。あたしは小走りで待ち合せ場所に向かいながら、今日出かけることになった経緯を思い出していた。
「さて、いよいよ本番。メイクするよ」 切り替えるようにパン、と手を叩いてから準備をする。 化粧品類を並べ、とっておきの化粧筆も用意する。 この化粧筆は高校入学祝いにってお母さんが買ってくれたんだ。 もう、文字通り飛び跳ねて喜んだよ。 しかもスポンジとは全く違う化粧ノリに感動して泣きそうになった。 化粧が崩れるから泣かなかったけれど。 そうして準備を終えると改めて日高くんの顔を見る。 乾燥はしていない。 |脂《あぶら》ぎっているところもない。 他に気になっているところは眉だけど……。「眉の余分な毛、抜いても良い?」「はぁ!? 痛い事するとは聞いてねぇぞ!?」 と両手で眉をガードされた。 仕方ないので目立つ部分だけ剃らせてもらうことにする。 剃り終えたら改めて、下地クリームからメイクの始まりだ。 目を閉じて、ゆっくり浅めの深呼吸をする。 そうして目を開けたら、あたしはメイクの事だけに集中するんだ。 人に施すときはいつもやっているルーティン。 下地クリームを塗りながら、どのパーツをどう描こうか。 イメージしていたものとの違いを修正していく。 最後の仕上げの時に調整できるように、描きすぎない様気を付ける場所を頭に入れる。 頭の中である程度のイメージが完成したら、コンシーラーで目の下のクマをカバー。 日高くんのは寝不足による青クマだろうから、オレンジのコンシーラーを乗せて指でぼかしていく。 そのうえで更にベージュ系のコンシーラーを軽く乗せ、同じようにぼかす。 あとは小鼻の赤みにイエロー系のコンシーラーを乗せた。 不摂生のせいで肌が乾燥していただけなんだろう。 肌に凹凸は無いし、ニキビも少ない。
一人暮らしだからそうなってるんなら、家に居れば良くなるって事だろう。「前言わなかったか? 俺の地元は隣の県なんだよ。そっから通いとか流石に無理だってーの」 言われて思い出す。 そう言えば日高くんが総長をしていたっていう火燕、だっけ? その火燕が主に活動していたのが隣の県なんだっけ。 と言う事は地元はそっちの方って事だ。 いくらこの辺りが県境の近くだって言っても、流石に遠すぎる。 確かに通いは無理だ。「……それなら、どうしてここに来たの? 地味男でいるなら近くの高校でも良かったんじゃない?」 ちょっと、突っ込んで聞いてみる。 応えが無かったらこれ以上聞かないようにしようと思ったんだけれど、日高くんは普通に教えてくれた。「親父に地味男になるって言ったのは今の学校に受かってからだからな。地味男の格好は、念のためってやつだ」「そもそもどうして総長やめてこっちに来たの?」 一番の疑問を口にすると、すぐには返事がなかった。 突っ込み過ぎたかな? と思ったけれど「あー……まあいっか」と軽い調子で呟き話してくれる。「俺の親父も昔総長やっててな。じいさんもどっかの学校で番長やってたとかで……いわゆる不良一族? とでもいうのか?」「……それはそれで凄いね」 コメントに困る。「とにかくそんなだから、小さい頃から護身術代わりにケンカの仕方ばっかり教えられてよぉ。まあ、不良になるのは当然の成り行きだよな」「そう、だね……」 ……ん? そうなのかな?「で、火燕はホント実力主義で、ケンカが強い奴が総長なんだよ。それでケンカの英才教育を受けてた俺は中学生にして総長になっちまった訳」「ケンカの英才教育&hellip
「さて、じゃあ早速始めようか。メガネ取って顔良く見せて」 部屋についてやっとメイクが出来ると思ったら元気が出てきた。 あたしは日高くんを座らせると、早速そう指示を出す。 日高くんは何やら諦めの境地に達した様な顔をして、溜息をつきながら指示通りメガネを取っている。 そうして見えやすいように髪をかき上げると、本当に溜息が出るほど整っている顔だなぁと思う。 ただ、すぐに肌や唇の乾燥。 そして目の下のクマに目が行き、頬が引きつる。 昼食の改善をしてみたけれど、すぐに効果が表れるわけじゃないから乾燥などは仕方がないか。 口元の傷はあともう少しで見えなくなりそうだといったところ。 日高くんの顔の状態を見てやっぱりと思いつつ、最初にやるべきことは決まった。「日高くん、まずは顔を洗って来て」「は?」 日高くんは意味が分からないとばかりに目をパチクリ。「……今朝、顔洗って来たけど?」 まあ、それはそうだろう。 不思議がる日高くんにあたしは説明する。「日高くん、朝の洗顔って水だけ? 洗顔フォーム使ってる?」「水だけだけど?」「うん、それはOK。じゃあ洗ってるときや顔拭くとき、ごしごし擦ってない?」「擦ってるな」「それよ!」 突然大きな声で指さしたので、びっくりさせてしまった。「そうやってごしごし擦ると肌に負担がかかって乾燥してしまうの。夜の洗顔も擦ってるんじゃない? 多分そのせいで乾燥肌になって来てるんだよ」「……はあ……」 解説しているあたしに、日高くんは気のない返事をする。 まあ、興味ない人に色々言っても仕方ないか。「取りあえず、そういう事だから顔洗おう。擦らずにね」
「それじゃあナンパ邪魔して悪かったなぁ?」 ニヤリと笑う日高くん。 そして彼はメガネを外してあたしを真っ直ぐ見た。「で? 仕方ないから俺で我慢しておこうとか?」 妖艶に微笑んでそんなことを言う日高くん。 これが本当に初めて会う女性とかならドキッとかするのかもしれないけれど……。「……」 あたしは寧ろ死んだ魚の様な目で見返していた。 予想外の反応だったんだろう。日高くんも何やらおかしいと気付いたのかメガネを戻して黙り込んだ。「はあぁー……。うん、取りあえず行こうか、日高くん」 大きなため息をついて、本当に用件だけを口にする。 何だか待ち合わせだけで疲れた。「え? 何で俺の名前……ってか行こうかって……く、倉木……なのか?」 本気で信じられないものを見たという驚愕の表情。 あたしはそれに容赦なく止めを刺す。「そうだよ、倉木 灯里です。もういいからさっさと行こう」 そう言って歩き出したあたしの背後で、日高くんの「嘘だろう?」という呟きが聞こえた。 歩き出してからも何度も「嘘だろ?」「マジで?」と聞いて来る日高くん。 あたしはそれにウンザリして|率直《そっちょく》に聞いた。「本当にあたしが倉木だって。そんなに変わった? 中学の時はメイクしたってちゃんとあたしだって気付いてもらえてたよ?」「中学の時なんて知るか! 普段の地味子しか知らない状態で今のお前見たらハッキリ言って別人だ!」 相当ショックだったのか叫びながら言われる。 でもその言葉で理由が分かった。「あ、そうか。中学の時は地味子してなかったっけ」 中学の時と違って、今はギャップがありすぎるんだ。
「お、まえ……日高 陸斗」 日高くんをフルネームで呼ぶ男の人。 何だか|既視感《きしかん》を覚えて記憶を探ると、すぐに出てきた。 数日前に見た顔なんだから、見覚えがあって当然だ。 この男の人は、遊園地のお化け屋敷で日高くんに襲い掛かって来たあのお兄さんだ。「ん? ああ、あんたか。えーっと、数日ぶり?」「ふっざけんな! お前のせいであのバイト首になっちまったんだからな!? おかげで今は無職だよ!」 いきり立つお兄さん。 でもそれは自業自得だと思うけれど。 前もそうだったが、今回も八つ当たりだ。 予想が当たって呆れるしかない。 それでも今回は多くの人目のある場所だ。 日高くんも相手を殴って終わりなんて出来ないだろう。 何とか止めないと。 でもどうすれば……? 険悪な|雰囲気《ふんいき》を|醸《かも》し出している二人を見上げながら、内心結構焦っていると。「おい、何やってんだよ? 今日は可愛い子見つけて一緒に遊ぶんじゃなかったのか?」 さっきお兄さんが指していた男の人が近付いてきてお兄さんを止めてくれる。「だってこいつが!」「黙れって。人目もある場所だぞ? 遊びに行くってのに、問題ごとはお断りだ」 そうして男の人はお兄さんの耳を引っ張って、強制的に日高くんから離してくれた。「いってぇ! |杉沢《すぎさわ》さん、いってぇって!」「悪かったね。コイツ血の気が多くてさ」 そう謝ると、男の人はお兄さんの耳を掴んだままその場を後にした。 呆気に取られながらそれを見送っていると、バチリと日高くんと目が合う。 日高くんは「あー」と何やら言葉を探すように唸ったあと、口を開いた。「ナンパされてたんですよね
毎日作ると言ってしまったからにはレパートリーを増やさなければ。 数種類をローテーションでもいいかな、と初めは思ったけれど、そうすると「飽きた」と言われそうな気がして腹が立つ。 絶対そんな事言わせるもんか! と意気込んだものの、すぐにGWが来てしまった。 仕方ないのでGW中に気になったものはいくつか作ってみて美味しかったものだけを持っていくことにしよう。 そう決めたけれど、取り合えずGW一日目の今日は待ちに待ったお楽しみの日だ。 だから今日はそっちに集中したい。 待ちに待った日。 そう、日高くんにメイクをする日だ。 約束をしてから毎日のように、どんなメイクを試そうかとメンズメイクを勉強していた。 ネットもだけど、雑誌類も出来る限り買い漁った。 おかげで今月のお小遣いが早くもピンチだけど……。 あたしは約束の時間に合わせて家を出て、待ち合わせ場所の駅前に向かった。 時間ピッタリくらいについたけれど、日高くんの姿は無い。 遊園地のときも遅刻していたしなぁと思い出す。 でも十分程度だったし、ちょっと待ってみよう。 そうして近くの石段に座りながら何度かスマホを確認して待っていると、誰かが近付いて来た。 男の人みたいだったから、日高くんだと思って顔を上げたけれど違っていた。 誰だろう、知らない人だ。 ……ん? いや、でもどこかで見たことある様な?「君、高校生? 誰かと待ち合わせしてんの?」「え、と……?」「相手も女の子ならさ、俺達と遊ばない?」 そう言って親指で後ろを指す。 その先には、もう一人男の人が見える。「あの、すみません。相手は男の子――」「いてっ!」