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第3話

Author: 百里
「んっ……香坂秘書!」

澄哉の妙に掠れた声が、美紗の意識を現実に引き戻した。

気がつけば、彼女の指がいつの間にか彼の口の中に入っていた。

医療用手袋をしているとはいえ、その感触に美紗の瞳孔がきゅっと縮んだ。

反射的に立ち上がり、慌てて手を引いた拍子に、バランスを崩して椅子から落ちそうになった。

その腰を、力強い腕が支えた。澄哉が片腕で彼女を抱き上げたのだ。

「……っ!」美紗は息を呑み、蜂に刺されたように彼を押しのけて後ずさり、喉の奥まで上がってきた悲鳴を必死に噛み殺した。

彼女の緊張は誰の目にも明らかだ。

まるで澄哉が汚らわしいものでもあるかのように避けるその仕草。

澄哉の顔に、わずかに残っていた和らぎがすっと消えた。奥歯を噛み締めながら問うた。「……何をそんなに怯えてるんだ?」

美紗の心臓が暴れたように打った。恥ずかしさ、不安、恐れ――あらゆる感情が一度に押し寄せる。

けれど何よりも怖いのは、澄哉が怒ることだ。

自分が彼に気があると誤解されること、媚びを売っていると思われること、嫌われること、追い出されること――

必死に冷静を装い、凛とした声で言った。「申し訳ありません、社長。足を踏み外してしまいました。薬は塗り終わりましたので、これで失礼します」

そう言って踵を返したが、焦りすぎて壁にぶつかりそうになった。

澄哉はその言葉を聞くと、わざとらしく咳き込みながら言った。「……腹が減った。お粥が飲みたい」

美紗は足を止めた。「ハウスキーパーに電話して、すぐ作ってもらいます」

澄哉は強引に命じた。「お前が作れ」

美紗は一瞬きょとんとし、振り返ったその瞳には、驚きの色が滲んでいる。

澄哉は嘲るように唇を歪めた。「半か月も出張に行ってたら、自分の仕事も忘れたのか?」

「いえ、忘れていません。社長の専属秘書として、衣食住の管理は私の職務です。すぐに作ります」

彼女はそう言って部屋を出て行った。歩きながら手袋と上着を脱ぎ、椅子の上に放り投げ、長い髪をまとめ上げた。

美紗がその場にとどまったのを見て、澄哉の張り詰めていた神経がようやく緩んだ。

だが、高熱による全身のだるさと痛みが、次の瞬間には彼を襲ってきた。

彼は椅子に崩れ落ち、重く息を吐いた。

そのとき、ドアの陰から隼人が恐る恐る顔を出した。「社長、ベッドにお連れしましょうか?」

澄哉はうつむいたまま、散らかった前髪の隙間から冷たい視線を向けた。「……彼女が、どうしてここにいる?」

隼人は、社長がここまで高熱にうなされているのに、頭の回転がこんなにも早いとは思わなかった。「香坂秘書が今日戻ると連絡をくれた時、社長が熱を出していると話したんです。それで――」

澄哉はすぐさま遮った。「俺には連絡もなく、お前にだけ?」

「……たぶん、そうです」

澄哉は薄く笑った。背もたれに体を預け、傷だらけの唇で皮肉な笑みを浮かべた。「お前ら、そんなに仲がいいのか?」

隼人は意味を掴めず、恐る恐る答えた。「普通の業務連絡だけです」

澄哉は食い下がらなかった。「直属の上司が俺だろう?俺を飛ばして、お前に報告?お前のほうが社長より偉いってわけか?」

隼人は冷や汗をかきながら答えた。「そ、そんなことは――!」

澄哉は気まぐれに話題を変えた。「で、彼女は自分の意思で来たのか?それとも、お前が呼んだのか?」

隼人は返事せずに黙った。

澄哉はすぐに状況を理解したようだったが、頑固に答えを求めた。「正直に言え」

隼人は小声で答えた。「……私がお願いしました。どうしても来てほしかったので」

それを聞いた澄哉は何も言わなかった。

隼人が慎重に顔を上げると、そこには社長の殺気立った目つきがあった。思わず背筋が凍った。

「……ドアを閉めろ。風呂に入る」

隼人は慌てて浴室のドアを閉め、安堵の息をつきながら美紗のもとへ向かった。

澄哉は、抑えきれぬ怒りを胸にシャワーを浴びた。湯気で曇ったガラスに、指で「香坂美紗」と書いた。

彼は歯を食いしばって言った。「……性格も気も強い。だが、お前が誰に命じられて俺を監視しているのか突き止めたら、泣かせてから追い出してやるぞ」

……

台所では、粥の香りが部屋いっぱいに広がっている。

隼人は料理台のそばで野菜を刻む美紗を見て、感心したように言った。

「やっぱり香坂秘書はすごいね。君がいなかったら、本当にどうしていいか……

でも、香坂秘書だけが特別なんだ。君は社長がこの六年間に任命した初めての女性秘書で、前はずっと男性ばかりだったよ」

美紗が特別扱いに喜ぶ様子もなく淡々としているのを見て、隼人はますます敬意を抱いた。

彼女の耳元に近づき、低い声で忠告した。「でも最近の社長は、前よりずっと機嫌が不安定だ。気をつけて」

美紗は微笑んだ。

自分は澄哉の最も優しい一面を知っている。だから、今どんな姿になっても、全身全霊で彼のそばにいて守ること以外は考えられない。

注意すべきなのは、むしろ自分の心を守り、彼に見透かされないようにすること。

「何をしているんだ?」

低く掠れた声が、まるで雷のように響いた。

隼人は思わず美紗から距離を取った。「社長、仕事の話をしていただけです!」

美紗は彼がバスローブをちゃんと着ているから、多分風邪はひかないだろうと確認すると、何も言わずに野菜を切り続けた。

澄哉の冷たい視線が、彼女の袖口から覗く白い腕を一瞥し、次に鋭く隼人を見つめた。「仕事の話をするのに、そんなに顔を寄せる必要があるか?香坂秘書の包丁が顔を掠めても知らんぞ」

さっき隼人と美紗二人が近づきすぎて、澄哉の視点からすると隼人はほとんど美紗の顔に触れるほどだった。しかも、美紗は隼人を突き放すこともなかった。

だが、自分が椅子から彼女を抱き上げたときは、彼女はまるで蛇でも触れたように避けられた。

この差は何だ。

「香坂秘書はまだ半年しか俺の下で働いていないのに、お前たち、どうやってそんなに仲良くなった?説明しろ」

隼人は頭を抱えた。今日の社長は一段と手に負えない。「社長、私と香坂秘書は――」

澄哉は説明を聞く気もなく、苛立ちを露わにして隼人を追い返した。「もういい。帰れ」

隼人は言葉を失い、逃げるように部屋を出て行った。

澄哉はゆっくりと美紗のそばへ歩み寄った。

彼が近づくと、美紗はすぐ別の場所に移動し、棚から皿を取り出した。

澄哉は唇を引き結び、小さくうめいた。「痛っ……」

その声に、美紗が慌てて振り向いた。「どうしました?」

彼女の瞳に一瞬、自分への心配の色が見えて、胸の苛立ちがほんの少し和らいだ。「……お前と隼人、どういう関係だ?」

美紗は皿を取ろうとしたが、彼が動かないので近寄れない。

自分が何か間違えて、また澄哉に「わざと俺を誘惑した」と言われて誤解されるのが怖い。

仕方なく、洗い終えた皿をもう一度洗いながら答えた。「普通の同僚です。それ以外の関係はありません」

澄哉は彼女の背後に立ち、白い首筋を見つめながら、喉が渇くのを感じた。無意識に舌で唇を舐めた。「普通の同僚?出張から戻って、真っ先に連絡したのは三枝……それが『普通』か?」
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