Masuk店内の暗さに目が慣れるまで、陸斗は入口のすぐ内側で一度だけ立ち止まった。
外の路地にあった色つきの灯りよりも、ここはさらに明るさが低い。完全に暗いわけではないのに、光が物の輪郭をはっきりとは結ばず、人の顔も体も、どこか曖昧なまま浮いている。低く流れている音楽は、曲として耳に入るというより、空気の粘度を少しだけ上げるために流れているようだった。酒と香水と、布越しの体温が混じった匂いが、外よりも近い距離で肌に触れてくる。
来てしまった、という自覚は、扉を閉めた瞬間よりも、その暗がりの中で自分が見られていると気づいた瞬間に強くなった。
何人かの男がいた。思っていたより多くはないが、少なくもない。カウンターに寄りかかっている者、壁際に立ったまま周囲を見ている者、誰かと低く言葉を交わしている者。露骨に値踏みするような視線もあれば、逆に見ていないふりをしながら追ってくる視線もある。そのどれにも慣れている人間の空気があった。
陸斗はそれだけで、自分の肩がまた少し硬くなるのを感じた。
外では匿名になれた気がしたのに、扉の内側に入った途端、その匿名性は別の意味を帯びる。誰も自分の名前を知らない。けれどその代わり、ここでは顔と体つきと、立ち方と、目の泳ぎ方で、何もかもを判断される。
ネクタイは少しだけ緩めたものの、スーツのままだった。会食帰りの空気をまだ脱ぎきれていない。きちんと整えられた髪も、革靴の先も、この場では少し浮いて見えるかもしれない。そう思った瞬間、引き返したい気持ちが喉元まで上がる。だが、今さらそれを顔に出すほうが余計に惨めだった。
陸斗はなるべく平然とした顔で、店の奥へ視線を流した。
一人ひとりの表情まではよく見えない。だが近づいてくる欲望の方向だけは、妙にはっきり分かる。あからさまに品定めするような目。向こうから寄ってきて、選ぶ手間を省いてやると言わんばかりの空気。そういうものが、暗い室内のそこかしこに薄く漂っていた。
その中で、ひとりだけ、温度の違う男がいた。
最初は、そこにいること自体に気づかなかった。
視線の流れから少し外れた壁際に、その男はいた。動いていないわけではない。けれど、周囲の男たちが互いを測るためにささやかに身じろぎし、視線を投げ、間合いを探っているのに対して、その男だけは最初から動く必要がないように見えた。静かだった。食い気が前へ出ていない。こちらへ引き寄せようとする気配もなければ、自分から選びに行く焦りもない。
なのに、目を逸らしにくい。
その男は、黒に近い色のコートをまだ脱いでいなかった。中のシャツは白ではなく、ごく淡い色味の、光を受けてもきつく反射しない上質そうな生地で、肩の線や首元の開きが派手さなく整っている。背が高いのだと分かるのは、周囲より頭ひとつ抜けているからではなく、重心の置き方がぶれないからだった。壁に寄りかかっているようでいて、どこにも凭れていない立ち方。無造作に見えるのに、崩れてはいない。
年上だ、と陸斗は思った。
それは顔立ちの皺や老け方で判断したわけではない。ただ、近づきがたい落ち着きがある。若さや勢いで場を取る人間ではなく、黙っていても自然に空気を支配できる側の男。派手ではないのに、目が留まる。清潔感のある服も、整った輪郭も、それ自体が魅力なのではなく、それらを“見せようとしていない”ことが余計に目を引いた。
陸斗は、自分でも分からないまま、視線を止めていた。
相手がそれに気づくまで、そう時間はかからなかった。
男が顔を上げる。
その瞬間、陸斗の胸の内側に、うまく説明できない引っかかりが生まれる。視線が鋭いわけではない。むしろ驚くほど静かだった。けれど、その静けさは無関心とは違う。こちらをひと目見た時点で、必要なだけはもう見終えているような落ち着きがあった。
陸斗は反射的に、口元だけで軽く笑った。
ここで先に目を逸らしたくなかった。逸らした瞬間に、場の空気ごと負ける気がしたからだ。自分から来たのだ。好奇心でも、衝動でも、疲れでも、何であれ、自分の足でここへ来た。ならせめて、選ばれる側ではなく、選ぶ側の顔をしていたかった。
それで、陸斗のほうから歩き出した。
自分でも、少し意外だった。もっと様子を見るつもりでいたのに、その男を見つけた途端、他の視線が急に煩わしくなった。あからさまな欲望より、静かにこちらを見ているあの目のほうが、ずっと気になった。
距離が縮まる。
近くで見たほうが、余計に派手さのない顔立ちだった。輪郭は整っているが、作りものめいた華やかさはない。目元は切れ長寄りで、表情の動きは少ないのに、視線そのものがよく通る。口元はきつく結ばれていないが、笑うために開いているわけでもない。香水を強くつけている感じはないのに、近づいた途端、清潔な石鹸のような匂いに、ごく薄いウッディな気配が混じって鼻先をかすめた。洗いたてのシャツや冬の空気を思わせる、静かな香りだった。
ここみたいな場所には、あまり似合わない香りだと陸斗は思う。
いや、似合わないのではなく、この男がここにいることで、場所のほうが少しだけ違って見えるのかもしれなかった。
目の前まで来ても、その男は特に身じろぎしなかった。自分から距離を詰めるでも、誘うでもなく、ただ陸斗を見ている。その見方が、露骨ではないのに逃げ場を狭める。
陸斗は軽く顎を上げた。挑発するように見えればいいと思った。
「見てたんだろ」
声は、思っていたより少しだけ硬かった。
男はすぐには答えず、一拍置いてから口を開いた。
「お前もだろ」
低い声だった。押しつけるような太さはないのに、耳に残る。抑揚は少なく、整っている。たったそれだけの返事なのに、陸斗は妙に喉が乾いた。
うまく返さなければと思うほど、逆に言葉が軽くなる気がした。だから陸斗は笑うような息を短く漏らし、肩をすくめる。
「だったら話は早い」
言いながら、自分の笑い方が少し硬いことに気づく。会食の場で使う、感じのいい笑い方とは違う。もっと薄くて、どこか刺々しい。余裕のあるふりをしようとしているぶん、かえって角が立っている。
だが男はその薄い笑みにも特に反応しなかった。
近くで見ると、年齢差はやはりいくらかあるように思えた。若くはない。けれど老成しているわけでもない。生活の中で感情を大きく振り回さないことに慣れてきた男の、静かな体温がある。こんな場所でまで落ち着いていられるのは、慣れているからか、それとも別の理由か。陸斗には分からない。
ただ、簡単に崩れない相手だということだけは分かる。
「初めてか」
男がそう聞いた。
問い方は淡々としていた。試すような響きも、からかうような軽さもない。ただ事実を確認する声だった。その平坦さが、陸斗には少し癪に障る。
「そう見える?」
すぐに返すと、男は否定も肯定もしなかった。ただ視線だけがわずかに落ちる。陸斗の喉元、緩めたばかりのネクタイの結び目、その下のまだ消えない締め跡を見たような気がした。ほんの一瞬なのに、その視線の移動だけで、自分の強がりを服ごと剥がされたような気分になる。
陸斗は無意識に顎を引いた。
その動きすら、見られていた。
男は相変わらず近づいてこない。手も伸ばさない。誘導するように肩へ触れることも、腰を抱くこともない。ただ目の前で、こちらが次に何をするのか待っている。その待ち方が、妙に大人だった。急かさないのに、逃がしてもくれない。
普通なら、ここで相手が前へ出てくるのだと思っていた。目を合わせ、近づき、欲しがるほうへ流れが決まる。そういう単純なものを想像していたのに、この男は違う。何もしていないくせに、気づけば空気の主導権を持っている。
陸斗はほんの少し、落ち着かなくなる。
相手が手を出してこないことで、こちらの動きだけが目立ってしまう。仕掛けたのは自分なのに、何を言っても、何をしても、先にこちらの内側が露わになるような気がした。見透かされる、という言葉が頭をよぎる。そんなはずはない。初めて会った相手だ。名前も知らない。なのに、あの静かな目に見られていると、自分の中の疲労や、無理に整えてきた表情まで、輪郭を与えられてしまいそうだった。
「帰るなら、まだ間に合う」
男が言った。
その一言に、陸斗は目を瞬かせた。
責めるでもなく、誘うでもなく、ただ選択肢を置く声だった。優しい、と言うには冷静すぎる。冷たい、と言うには退路を残しすぎている。どちらでもないから、余計に腹が立つ。
帰るなら今でもいい。つまり、帰れないならその先は自分で選べ、ということだ。背中を押してくれるわけでもなく、引き留めてくれるわけでもない。その中途半端な距離が、陸斗にはむしろ厄介だった。
ここで「帰る」と言えば、この男はたぶん本当に引き留めない。
それが分かるからこそ、言いたくなかった。試されているようで、無性に癪だった。
「帰るつもりなら、最初から来てない」
陸斗はそう答えた。
言葉はなんとか平らに保ったつもりだったが、最後のほうで少しだけ息が浅くなった。男はそれにも気づいているのかいないのか、表情を動かさない。だが、わずかに目元の力がやわらいだように見えた。笑ったわけではない。ただ、こちらの返事を受け取った、と分かる程度に。
その程度の変化なのに、妙に神経を持っていかれる。
陸斗は気づいた。自分はこの男の顔立ちの良さに惹かれたのではない。もちろん整っている。けれど、それ以上に目を離しにくいのは、感情を見せないくせに、距離だけは正確に支配してくる空気のせいだ。
他の男たちは欲望が先に見える。近づきたい、触れたい、今夜の相手を決めたい。その意図が早くて、分かりやすい。だから対処もしやすい。
だがこの男は違う。何を考えているのか分からないまま、こちらに選ばせる。そのくせ、選んだあとに主導権だけは絶対に渡さない種類の男だと、本能が先に察していた。
陸斗は自分から近づいたはずだった。
なのに、気づけば呼吸の浅さまで相手の前で露わになっている。笑うつもりで上げた口角は長く保てず、視線を逸らしたくないのに、相手の目が静かすぎてかえって落ち着かない。近づいてみれば、簡単に手に入る相手ではないことが分かる。むしろ、近づいたことで自分のほうが見られ始めている。
その違和感に、陸斗はほんの少しだけ腹を立てた。
自分から来たくせに、自分のほうが飲まれかけている。その事実が悔しかった。悔しいのに、目を離せない。
この人は簡単じゃない、と、陸斗はそのときもう知っていた。
笑いの余韻は、意外なくらい長く部屋に残った。さっきまでクッションを抱えてソファの端へ逃げていた陸斗は、ようやく少しだけ身体の力を抜いたものの、頬の熱だけはまだ引かないままだった。征司の前では隠しようがないと分かっていても、今さら平然とした顔に戻ることはできない。食後のテーブルの上には空いたグラスと、つまみの袋と、途中で食べるのをやめたナッツの小皿が置きっぱなしになっている。テレビの音はいつの間にか小さくなり、窓の隙間から入る四月の夜気が、火照った肌にだけやさしく触れていた。征司はソファにもたれたまま、まだ少し笑みの名残を口元に残している。その顔を見るだけで、陸斗はまた恨めしくなる。「……そんなに面白いですか」「面白いというより」「より、何ですか」「可愛い」あまりにも迷いなく言われて、陸斗は反射でクッションを抱き直した。「部長」「ん」「そういうの、急に言わないでください」「急じゃないだろ」「急です。十分急です」征司はそこでまた小さく笑ったが、さっきみたいにからかう色はもう薄い。その笑いが静かに落ちたあと、部屋の空気も少しずつ深くなっていくのが分かった。春の夜は、冬みたいに鋭くない。けれどやわらかいだけでもなくて、何かを隠すには少し冷たい。笑ったあとの沈黙は重くないのに、ふとした拍子に相手の視線だけがくっきり見える。陸斗はクッションを膝に置いたまま、テーブルの端に視線を落とした。気まずいわけではない。ただ、さっきの「忘れるわけないだろ」が、思った以上に深く残っている。あの夜は、忘れられるような夜ではなかった。その言葉の意味を、胸の奥がまだゆっくり受け取り続けていた。何か言ったほうがいいのかもしれない。そう思うのに、下手なことを言えば今のやわらかい静けさを壊しそうで、陸斗は口を開けずにいた。沈黙は続く。けれど以前の自分なら耐えられなかったはずのその時間が、今はただ少し熱を持って流れていくだけだった。征司がグラスをテーブルに置く。氷が小さく音
食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ
食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」
四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ
朝の空気はまだ冷たかった。三月の終わりだというのに、吐く息は薄く白く、路肩に寄せられた雪はまだ完全には消えていない。けれど真冬の白さとは違っていた。雪解けの水が縁石に沿って細く流れ、夜のあいだに凍りかけたそれが、朝の弱い光の中で少しずつほどけていく。空も、冬の底で見上げていた重い灰色ではなく、どこか奥のほうで色を戻しかけている。春はまだ遠い。けれど、冬だけに閉じていた時間は終わりに向かっている。陸斗はコートの襟を指で整え、しばらく立ち止まって空を見た。胸の奥にあった迷いは、ここ数日で何度も形を変えた。欲しかったはずのものを前にして足が止まったことも、自分でも信じがたかった。以前の自分なら、考えるまでもなかったはずだ。本社へ戻る。東京へ戻る。名誉を取り返す。失敗を上書きする。そういう言葉だけで、十分に救われたと思えただろう。それでも今の自分は、そこへ手を伸ばせない。伸ばせない理由を、最初は征司ひとりに押しつけかけた。あの人がいるから迷うのだと、そう言ってしまえれば楽だった。けれど違うと、ここまでの時間が何度も思い知らせてきた。支社の机。冬の朝のコピー機の音。水沢の足音。斎賀の短い確認。久住の大きな声。朝比奈フーズの工場の匂い。冷凍倉庫の白い息。雪の中を走る便の遅れ。電話越しの、現場が静かに嫌がる温度。そういうものをひとつひとつ知ってしまったあとでは、戻ることはもう、ただ「上」へ戻ることではなくなっていた。今の自分が、どこで立ちたいのか。問うべきはそれだけだと、ようやく腹の底で分かり始めている。陸斗は歩き出した。靴底が薄く濡れた舗道を踏む。まだ刺すような冷たさの残る朝だったが、今日はそれが不思議と嫌ではなかった。決めなければならないことがある朝の空気は、妙に澄んでいる。支社へ入ると、いつもの音が迎えた。コピー機が一度低く唸り、誰かの引いた椅子の脚が床を擦る。水沢がファイルを抱えてカウンターの向こうを横切り、久住の「その便、先に押さえといてくれ」という少し大きめの声が奥から飛ぶ。斎賀が電話口で短く要件だけを切っている。暖房の名残の乾いた空気の中で、もう四月を前にした慌ただしさが
夜の支社は、昼間よりずっと広く見えた。日中は誰かの声や電話やコピー機の音で埋まっていた空間が、定時を過ぎると急に余白ばかりになる。暖房の残り香と、長く使われた紙の乾いた匂いだけが、机と机のあいだに薄く残っていた。窓の外はもう暗い。駐車場の端に寄せられた雪の山は黒く沈み、その足元で雪解けの水だけが街灯を拾って鈍く光っている。春は近いはずだった。天気予報はそう言い、日中の光も少し前よりやわらかくなっていた。けれど夜になると、空気はまだ容赦なく冷たい。吐く息が白く見えるほどではないが、指先に触れる風は、冬の終わりを簡単には信じさせてくれなかった。陸斗は自席の画面を落として、ゆっくりと息を吐いた。この数日、頭の中のどこかにずっと、あの夜の会話が引っかかっている。選ぶのはお前だ。そう言われた瞬間の痛みは、まだきれいに抜けていない。少しでも引き止めてくれたら楽だった。残れと言ってくれたら、その言葉を言い訳にできた。けれど征司はそうしなかった。今の自分なら、自分で選べるはずだと、逃げ道ごと差し出さずに返してきた。それが信頼だと、頭では分かっている。分かっているからこそ、痛い。誰かのせいにできなくなった選択は、思っていたより重かった。仕事中はそれを忘れていられる。資料を見ていればいい。電話を取ればいい。朝比奈フーズの確認事項を詰めていれば、余計なことを考えずに済む。だが、人が減り、音が減り、夜が深くなると、どうしてもそこへ戻される。自分は、どこで立ちたいのか。戻れる場所がある。それは本気で魅力的だ。昔の自分なら、考えるまでもなかった。なのに今は、その魅力と同じだけ、この支社の机や、現場の声や、雪の中で組み直してきた仕事の手触りが胸に残っている。そして、その中心に征司がいることも、もう見ないふりができない。鞄へ手を伸ばしかけたとき、部長席のほうで椅子が動く音がした。顔を上げると、征司が立っていた。ジャケットを椅子の背へ掛け、袖口を一度だけ直す。その何でもない所作に、陸斗の胸がまた少しだけ狭くなる。最近はこういう些細な動きほど、目に入ってしまう
人が減ったあとの支社は、昼間とは別の建物みたいだった。コピー機はもう止まり、電話も鳴らない。暖房の乾いた匂いと、誰かが飲み残したコーヒーの薄い香りだけが、広い執務室のあちこちへ残っている。窓の外は黒い。街灯に照らされた雪解けの水が、駐車場の端で鈍く光っていた。昼間に少し緩んだ空気も、夜になるとまだ冬の手触りへ戻る。陸斗は自席で一度だけ深く息を吐いた。画面には開いたままのメールがある。朝比奈フーズ向けの確認事項も、包装会社の返答待ちの一覧も、まだ途中だ。やるべき仕事は残っている。なのに、それより先に片づけなければならないことが、ずっと胸の奥で
面談のあとで渡された薄い資料の束は、鞄の中に入れてしまえば見えなくなるはずだった。それなのに、その紙の重さだけが、午後に入ってもずっと肩のあたりへ残っていた。机に向かってメールを返しているときも、朝比奈フーズから上がってきた確認事項に目を通しているときも、頭の奥では別の言葉が途切れずに反復している。本社復帰。来期体制。今の経験を活かして。必要としている。どれも、以前の自分なら喉の奥で何度もなぞったに違いない言葉だった。むしろ、自分のほうが先に欲しがっていた言葉だと言っていい。だからこそ、簡単に
朝の光が、ほんの少しだけやわらかくなっていた。それでも外へ出れば、頬に触れる空気はまだ冷たい。路肩には溶け残った雪が灰色の塊みたいに寄せられ、その脇を雪解けの水が細く流れていた。夜のあいだに凍っていたらしい水たまりが、踏むと薄い膜を割るように鈍く鳴る。空は白く、低い。春と呼ぶにはまだ遠い色だったが、真冬の硬さだけはもう少しほどけている。支社へ向かう道を歩きながら、陸斗はコートのポケットの中で指先を丸めた。年が明けてからこっち、仕事の流れは少しずつ落ち着きを取り戻していた。朝比奈フーズの案件はまだ完全に着地したわけではないが、少なくとも今は、
朝の光だけが、少しだけ季節を先へ進めていた。路肩に寄せられた雪は、もう降ったばかりの白さではない。車に踏まれ、泥を吸い、ところどころ灰色に濁っている。排水口へ向かう細い水の筋が、まだ冷たいアスファルトの端を黒く濡らしていた。風は冷たいままだった。頬に触れるたびに、ここがまだ冬の内側にあることを思い出させる。それでも空の色だけは、真冬の白さとは少し違っていた。曇り空の向こうに、わずかに色の戻り始めた明るさがある。春と呼ぶには早い。けれど、冬のままだと言い切るにも、少しだけためらう。その中途半端な光が、いまの自分にもよく似ている気がして、陸斗はすぐに考えるのを







