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3.帰るなら、今でもいい

작가: 中岡 始
last update 게시일: 2026-04-24 15:26:04

男はそれ以上、何も急かさなかった。

それがかえって厄介だった。

店の奥まったほうへ視線を流し、戻してくる。その一連の動作に無駄がなく、陸斗へ何かを強いる気配もないのに、次にどちらへ動くかはもう決まっているように見える。先に歩き出したのは男のほうだったが、それは陸斗を引っぱるためではなく、こちらがついてくるかどうかを待てる速度だった。

陸斗は一瞬だけ、その背中を見た。

広すぎないが、薄くも見えない肩。コートの背に無理な皺がなく、歩幅は一定で、急がない。人を待たせることにも、追わせることにも慣れている歩き方だった。焦りがない。ここで誰かを捕まえなければならない男の速度ではない。

そのくせ、陸斗は置いていかれる感じがして、二歩遅れてから結局あとを追った。

店内の通路は狭く、壁際の照明は低い。さっきまで正面から受けていた視線が、二人で動き出した途端に薄く遠のくのが分かった。もう誰もこちらを露骨に見ない。相手が決まった人間への関心の引き方まで、この場所には一定の作法があるらしい。そのことに、陸斗は少しだけ安堵した。

一方で、胸の奥には奇妙な物足りなさも残った。

名前も知らない、何者かも分からない男の背中についていく。その状況は十分に危ういはずなのに、相手はあまりに当然のように何も聞かない。さっきから交わした言葉は片手で足りるほどだ。出身も、年齢も、仕事も、ここへ来た理由も、何ひとつ探られない。その聞かなさが、この場所の前提なのだとしても、陸斗には少し拍子抜けだった。

普通なら、せめて何かひとつくらいは聞くのではないかと思う。軽い冗談でも、雰囲気を和らげるような一言でもいい。ところがこの男は、必要な確認以外を削ぎ落として、最初から曖昧なままの距離を崩さない。

それは陸斗にとって、都合がいいはずだった。

本当に名前を聞かれたら困る。仕事の話など、なおさらされたくない。昼間の自分をここへ持ち込みたくなくて、わざわざ明るい通りから外れてきたのだ。今さら、会社員らしい肩書や、人当たりのいい新人の仮面に戻されるのは願い下げだった。

なのに、いざ何も聞かれないと、こちらの輪郭ごと曖昧なまま扱われることに、妙な空虚さが混じる。

自分でも勝手だと思う。知られたくないくせに、何も知られないのも少し気に食わない。だが、そのちぐはぐな感情の正体を考える余裕はなかった。男が立ち止まれば、こちらも足を止めなければならない。沈黙のまま動きがそろうことが、いちいち腹立たしかった。

通路の突き当たりに、外へ出るための扉があった。店内の空気より少しだけ冷えた夜気が、開閉の隙間から細く入り込んでいる。男はノブに手をかける前に、ほんの一瞬だけ陸斗を振り返った。

「外、出る」

低い声が、抑えた音量のまま耳に落ちる。

問いというより確認だった。拒否されることを前提にしていない言い方。陸斗は頷きかけて、それがあまりに素直すぎる気がして、代わりに少しだけ顎を上げた。

「別に、どっちでも」

返事は薄かった。自分でも分かるくらい、余裕のあるふりをしている声だった。男はその言い方に何も反応しない。ただ扉を押し開ける。

店の裏手らしい細い通路は、さっきまでいた路地よりさらに暗かった。ビルとビルのあいだに夜の湿り気がたまっていて、外気は冷たいのに、空気そのものは少しぬるい。遠くで車の走る音がする。表通りの明るさは届かず、頭上の非常灯だけが白く鈍い光を落としていた。

男はコートのポケットに片手を入れたまま歩き出した。陸斗も並ぶ。肩が触れるほど近くはないが、離れすぎてもいない。その半端な距離の取り方が、こちらの出方を見ているようで気に障る。

「慣れてるんだ」

陸斗は、黙っているのが負けたみたいで嫌で、先に口を開いた。

男は前を見たまま、

「何に」

とだけ返した。

「こういうとこ」

「どうだろうな」

それだけだった。

はぐらかされた、というほどでもない。答える気がないわけでもなく、事実以上のことを言わないだけだ。何を聞いても、必要なぶんしか返ってこない。会話の主導権を握りたくて投げた言葉が、軽く受け流されて終わる。その感じが、陸斗には少しだけむかついた。

「随分落ち着いてるから」

「お前が落ち着いてないように見えるだけかもしれない」

思ったより近い位置から、静かな声が返ってきた。

陸斗は足を止めかけた。止めなかったのは、そこで反応するほうが図星だと認めるみたいだったからだ。代わりに、鼻で笑うように息を抜く。

「失礼だな」

「そうか」

その返しに、陸斗は口を閉じた。

怒るほどでもない。実際、落ち着いていないのは事実だ。ここへ入った瞬間から、心臓の位置がいつもより近い。手のひらは少し湿っているくせに、指先は冷えたままだ。相手の前では平気な顔をしているつもりでも、喉の動きや息の浅さで、どれだけ隠せているか怪しい。

それをこの男は、咎めるでもなく、慰めるでもなく、ただ見ている。

その見られ方が、いちばん困る。

通路を抜けると、表の大きな道路とは別の、小さな通りに出た。人通りは少ないが、まったくないわけではない。終電を逃したらしい数人組が笑いながら横切っていき、信号の向こうではタクシーが一台、客待ちで停まっている。けれどそのどれもが、二人とは関係のない景色に見えた。

男は通りを見渡してから、自然な動作で歩道の端に寄る。陸斗もつられるように足をそろえる。気づけば、男の歩幅に合わせることがもう当たり前みたいになっていて、その事実に陸斗はわずかに眉を寄せた。

「名前、聞かないんだな」

自分でも唐突だと思うほど、唐突に言葉が出た。

男は横目で陸斗を見た。その視線は短い。だが、まるで何を言うか分かっていたみたいな静けさがある。

「聞かれたいのか」

そう返されて、陸斗は一瞬だけ詰まる。

聞かれたいわけではない。少なくとも、そうではないはずだ。名前を名乗れば、この夜はただの一晩ではなくなる。相手の記憶に残る輪郭を自分で与えることになる。そんなことを望んでここへ来たわけではない。

「……別に」

「なら、聞かない」

簡潔すぎるほど簡潔だった。

その一言で、いくつかの線が引かれるのが分かった。名前は聞かない。たぶん仕事も聞かない。この場所の外で何をしている男か、どこから来て、明日何に戻るのか、そういうことには触れない。今ここにいる体と息と、交わす視線だけが範囲で、それ以上は持ち込まない。

都合がいい。

そう思った瞬間、胸の奥が少し軽くなる。自分がどこの誰で、どんな顔をして会社で笑っているかを知られなくて済む。その安堵は確かにあった。

けれど同時に、少しだけ空いた感じも残った。名前を聞かれないということは、明日の自分と今夜の自分が完全に切り離されるということだ。それを望んだのは自分のはずなのに、本当に切り離されるのだと分かると、どこか落ち着かない。

男はそれ以上、名前の話を広げなかった。陸斗が抱いた安堵も、わずかな物足りなさも、どちらにも触れずに前だけを見ている。その無関心さが、本当の無関心ではないことはもう分かっていた。見ていないわけではない。ただ、踏み込まないと決めているだけだ。

通りの角をひとつ曲がると、周囲の店の気配がさらに薄くなった。雑居ビルの並びの中に、宿泊施設の控えめな看板がひとつ見える。派手な装飾もなく、外から見ればビジネスホテルに紛れそうな外観だった。だが、今夜の二人が入っていくには十分な匿名性がある。

その建物が視界に入ったとき、陸斗の足の裏に、ひやりとした現実感が走った。

ここまで来れば、もう冗談では済まない。

もちろん最初から冗談ではなかった。だが、店の暗がりや、曖昧な視線の中にいるあいだは、どこか現実感が薄かったのだ。誰にも知られず、明日にはなかったことにできる場所。その条件だけが先にあり、実際にどこまで行くかはまだぼやけていた。

今、目の前にあるのは扉だ。

入れば、密室になる。外の路地も、会社のロビーも、何も届かない場所で、この男と二人きりになる。そこまでの輪郭が一気に立ったせいで、陸斗はほんのわずかに呼吸を浅くした。

それを見計らったみたいなタイミングで、男が立ち止まった。

街灯の届きにくい位置で向き直る。近い。近いのに、まだ触れない。相手の顔は暗さの中でもきれいに見えるわけではないが、目だけは不思議とよく分かった。光を拾いすぎず、静かなままこちらを見ている。

そして、男は一度だけ確認した。

「帰るなら、今でもいい」

その言葉は、ほとんど想像していなかった形で胸に落ちた。

もっと軽い誘い文句か、あるいはこのまま当然のように連れていかれるのだと思っていた。なのに差し出されたのは、逃げ道だった。ここでやめてもいい。今ならまだ引き返せる。責めないし、追わないと、その一行だけで分かる。

優しさ、と呼ぶには体温が足りない。

冷たさ、と呼ぶには退路がきちんと整えられすぎている。

選べと言われているのだと、陸斗はすぐに悟った。

それがひどく癪に障った。

自分のほうから近づいた。ここまで来たのも、自分でついてきたからだ。なのに改めて「帰るなら」と言われると、急に試されたみたいで腹が立つ。ここで帰ると言えば、本当に怖じ気づいたみたいではないか。最初から余裕のあるふりをして、選ぶ側の顔で近づいた自分が、結局は途中で逃げたことになる。

それが嫌だった。

それに、男はたぶん本気で言っている。ここで陸斗が「帰る」と言えば、この男は追わない。軽く笑ってなだめることも、手首を掴んで止めることもない。ただそのまま、線を引き直して終わらせるだろう。

そう思うと、余計に意地が張った。

帰りたくないのか、と問われれば、そこまで単純ではない。怖い気持ちはある。相手のことを何も知らない。名前も、仕事も、素性も。けれど、知らないからこそここまで来られたのも本当だ。明日には持ち越さない。今夜だけ。もしその前提が崩れないなら、この夜はまだ自分で引き受けられる。

それでも、すぐには頷けなかった。

黙ったまま見返すと、男の表情は変わらない。急かさない。そのくせ、待つ時間だけがこちらの内側を炙る。試されているわけではないのかもしれない。ただ、自分で決めろと言われているだけだ。それが分かるから、なおさら逃げにくい。

陸斗はゆっくり息を吸った。湿った夜気が肺に入る。喉元で緩めたネクタイの隙間から、少し冷えた空気が皮膚に触れる。手のひらを軽く握ると、指先の冷たさがようやく少しだけ戻ってきた。

「帰らない」

声にすると、思ったよりも平らだった。

けれどその平らさの下に、意地が混じっていることは自分でも分かる。引けないから、ではない。いや、引けないからでもある。だがそれだけではなく、ここで帰ってしまえば、この夜にすら自分で踏み込めなかったことになる。それが嫌だった。

男は短く頷いた。

それだけだった。

よくやった、とも、そうか、とも言わない。陸斗の答えに意味づけをしない。ただ受け取ったという程度に、わずかに顎が動くだけ。その反応の薄さに、陸斗はまた少し腹が立つ。自分の中ではそれなりに大きな決断をしたつもりなのに、相手にとってはただ一つ確認が済んだだけみたいだった。

それでも、そのささやかな頷きひとつで、もう戻れない気配が濃くなる。

男は先に建物のほうへ向かって歩き出した。陸斗は一拍遅れてついていく。自分で決めたのだと、そう思う。帰らないと答えたのは自分だ。ここまで来たのも、自分の足だ。誰にも強制されていない。その事実にしがみつくみたいにして歩きながら、陸斗は同時に気づいていた。

自分で決めたと思いたいだけで、ここへ来るもっと前から、たぶんもう流れはできていたのだと。

名前を聞かれなかったこと。仕事を探られなかったこと。今夜だけだと、言葉にされなくても理解できる空気。明日に持ち越さない、その無言の線引き。そして最後に、逃げ道を残したうえで選ばせる一言。

その全部が整っているから、頷いてしまった。

建物の自動扉が静かに開く。ロビーは簡素で、過剰に明るくはない。受付の向こうにいる人間も、二人へ過剰な関心を向けない。こういう場所にいる人間は、見ないふりの上手さも仕事なのかもしれなかった。男は慣れた手つきで最低限の手続きを済ませる。名前を書いたのかどうか、陸斗にはよく見えなかった。見ようと思えば見られたかもしれないが、見ないほうがいい気がした。

エレベーターに乗り込む。

鏡張りではない内壁がありがたかった。もし鏡があれば、自分がどんな顔をしているか見えてしまう。今の顔は、たぶん自分が思うより落ち着いていない。息を整えているつもりでも、胸の上下はいつもより少しだけ早い。隣に立つ男は、相変わらず静かだった。近くにいると、あの清潔な香りが淡く届く。強くないのに、逃げ場なく鼻先に残る。その匂いだけで、この夜の記憶があとに残るのではないかと、ふとそんなことを思った。

階が表示され、扉が開く。

廊下は音を吸うような絨毯敷きで、足音がほとんど立たない。明るさは抑えられているのに、必要なものはきちんと見える。その半端に整った静けさが、外の路地よりもずっと現実的だった。

男がカードキーを差し込む。短い電子音がして、扉のロックが外れる。

そこで一瞬だけ、陸斗の足が止まった。

ここまではまだ外だった。店も、路地も、ロビーも、廊下も、どこかに他人の気配があった。けれど扉の向こうは本当に二人きりになる。今さらだ。今さら引き返すつもりもない。それでも、境界が目の前にはっきり現れると、喉の奥が少しだけ固くなる。

男は振り返ったが、何も言わなかった。

入るかどうか、最後の最後までこちらに委ねる沈黙だった。そこまでされると、もはや頷くことすら悔しい。陸斗は自分から先に一歩を踏み出した。男の肩をかすめるほど近くを通り、室内へ入る。

空調の整った空気が肌に触れた。清潔なシーツの匂いと、磨かれた家具のほのかな匂い。外の湿り気はそこで完全に途切れる。背後で扉が閉まる音は、思っていたより静かだった。

けれど、その静かな音のほうが、余計に決定的だった。

陸斗は部屋の中でゆっくり振り返る。男はまだ入口のすぐそばに立っている。距離はあるのに、その距離ごと支配されているような気がした。

自分で決めた。帰らないと答えたのは自分だ。

そう思い込もうとするほど、その実、もう戻れない場所へ来てしまった気配だけが、静かに濃くなっていった。

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