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金曜の夜の東京は、どこまでも明るかった。
再開発されたばかりの街区を囲うガラスの壁面は、夜になっても昼の名残を手放さない。高層ビルの低層階にはまだ人の気配が満ち、エントランスの白い床には、行き交うスーツ姿の影が硬質な光の中に薄く映っていた。遅い時間だというのに、ロビーの空気は整いすぎていて、温度まで管理されているようだった。少し甘いルームフレグランスの匂いと、磨かれた床の乾いた清潔さが、ここが“ちゃんとしている人間”のための場所だと無言で告げている。
その自動扉を抜けたとき、三沢陸斗はようやく背中に入っていた力を少しだけ抜いた。
もっとも、抜いたつもりになっただけで、実際には肩のあたりに張りついた緊張はほとんど落ちていなかった。ネクタイの結び目はきれいな形を保っているのに、喉元には一日中締めつけられていた痕のような鈍い圧迫感が残っている。会食の席ではうまく笑った。先輩の話にも適度に相槌を打ち、部長の何気ない冗談には柔らかく笑い、グラスが空きかければすぐに気づいたふりをした。新人として正解に近い振る舞いを、ひとつも外さなかったはずだった。
けれどビルの外へ出た瞬間、口角だけで持ち上げていた笑顔は、あっさり落ちた。
夜気はまだ春の名残を残しているのに、都会の空気らしくどこか乾いていて、頬に当たると紙で撫でられるような感触があった。大通りにはタクシーのライトが途切れず流れ、信号待ちの人々は皆、それぞれに行く場所が決まっている顔をしている。見上げれば、ガラス張りの高層階にはまだいくつもの執務室の灯りが残っていた。ついさっきまでそこにいたのだと思うと、胸の奥に細い疲労が刺さる。
本社に配属されて、まだ日が浅い。
それでも周囲は、もう彼を“新人だから仕方ない”とは見てくれなかった。期待されているという言い方はきれいだ。だが実際には、隙を見せる猶予が最初から少ないということでもある。資料の理解が早いこと、受け答えが整っていること、空気を読めること。そういう扱いやすい長所が先に見つかれば見つかるほど、その次に失望される余地も大きくなる。
陸斗はそれを、配属から数週間で嫌というほど覚えた。
誰かに露骨に責められたわけではない。むしろ皆、驚くほど親切だった。
「三沢くん、飲み込み早いね」
「助かるよ、気が利くし」
「その感じなら、すぐ戦力になるんじゃないか」
その言葉のひとつひとつは、間違いなく好意のあるものだった。だからこそ厄介だった。褒められるたびに、次もそうでいなければいけない気がした。失敗しても許される新人ではなく、最初から期待に応える前提で見られる新人。その立場は、思っていたより息が詰まる。
駅へ向かう人の波から少し外れ、陸斗は歩道の端に寄った。街路樹の若い葉が、上から落ちるビルの灯りを受けて白っぽく光っている。スマートフォンを取り出して画面を見る。通知は溜まっていなかった。同期のグループチャットには、さっき別れたばかりの誰かがもう次の飲みの写真を上げている。絵文字の並ぶ軽い会話は、少し前まで自分もそこに混ざっていたはずなのに、今は妙に遠かった。
家に帰れば、ひとりだ。
まだ片づけきれていない段ボールの隅に、クリーニング帰りのシャツがかかったままの部屋。慣れない土地ではないが、帰るたびに生活の輪郭が薄いと感じる部屋。風呂に入って、明日のためにスーツを整え、眠って起きればまた月曜日みたいな顔で働く。その繰り返しを、まだ始まったばかりなのに、もう少しだけ先まで見てしまう。
帰宅するには早かった。けれど、誰かに会いたいわけでもなかった。
それがいちばん厄介だった。
誰かに慰めてほしいのではない。愚痴を言いたいわけでも、酒に付き合ってほしいわけでもない。ただ、自分の中で張りつめたままになっている何かを、少しだけ壊したかった。きちんとしている新人、期待に応える若手、感じのいい後輩。そういうものを全部きれいに着たまま、一度だけ暗い水の中に潜って、息を止めたいような気分だった。
大通りの向こうから笑い声が聞こえた。会社帰りらしい数人組が肩を寄せて信号を渡っていく。誰かが言った冗談に、遅れてもうひとりが吹き出す。明るい音だった。その明るさが、自分にはうまく乗りこなせない乗り物のように感じられる。
陸斗はふと、昼間の会議室を思い出した。ガラス張りの壁の向こうで、先輩たちが資料をめくりながら平然と数字を動かし、リスクや段取りを言葉ひとつで整理していく光景。そこにいる自分は確かに憧れの中にいるはずだった。けれど、憧れの中にいることと、その場に馴染んでいることは別なのだと、このところ何度も思い知らされる。
自分はここでやっていけるのか。
その問いを、陸斗は声に出したことがない。出せば途端に負けた気がするからだ。大丈夫です、やれます、問題ありません。その形に整えた返事を先に覚えてしまったせいで、本音の居場所がなくなっている。
歩き出すと、革靴の先がアスファルトを一定のリズムで打った。まっすぐ駅へ向かえばいいだけなのに、陸斗の足は少しずつ大通りから逸れていく。理由はうまく説明できなかった。ただ、あの明るすぎる通りにいると、自分の顔までガラスに映ってしまいそうで嫌だった。整えた髪、疲れていないふりをした目元、結び目の崩れていないネクタイ。そういう表面だけが、この街ではあまりにも簡単に映ってしまう。
一本、道を曲がる。
それだけで空気が少し変わった。
メインストリートの照明は遠くなり、店の看板の色が急に低くなる。明るさが消えたわけではないのに、光の種類が変わるのだ。白く均一な照明ではなく、赤や青や、意味ありげににじむ色が足元の濡れたような路面に映る。ビル風の乾いた冷たさが薄れ、代わりに人の体温と、食べ物と、酒と、どこか古い排気の匂いが混じった夜気が肌にまとわりついた。
陸斗は足を止めた。
このあたりに来るのは初めてではない。けれど、ひとりで夜に歩くのは初めてだった。会社の誰かと通った飲食店の並ぶ通りから、さらにもう一本細い道へ入る。店の扉はどれも近く、会話や笑い声が壁を通して滲んでくる。見上げれば雑居ビルの看板が重なり合い、知らない店名の文字が積み重なっている。そのどこにも、自分の名前は関係していない気がした。
だから少しだけ、楽だった。
誰も自分を“本社配属の三沢くん”として見ていない。期待の若手でも、感じのいい新人でもない。ただ夜の中を歩く、スーツ姿の男のひとり。その匿名性に、喉の奥がかすかにほどける。
もっとも、その感覚のすぐあとに、別の熱が浮いた。
陸斗は昔から、自分が男を見る目を持っていることを、完全には否定できずにいた。誰かの顔立ちや声や、肩幅の線を、同年代の友人たちとは違う角度で見てしまう瞬間がある。学生の頃は、それを冗談の延長みたいに扱えた。きれいな顔だ、雰囲気がある、そういう言葉に紛らせることもできた。けれど社会人になり、スーツ姿の男たちに囲まれて働くようになってから、その感覚は以前より輪郭を持つようになった。
それを肯定してしまうには、まだ材料が足りなかった。
男に惹かれる、と自分の中で言い切るには、どこか怖さがあった。では女が好きなのかと問われても、それもはっきりしない。ただ、誰にも知られないまま一度だけ確かめてみたい、と思ったことはあった。その欲求が好奇心なのか、孤独なのか、あるいはただの疲労なのか、陸斗自身にも分からなかった。
少し前、深夜まで残業した日の帰りに、検索画面を開いたことがある。消しては打ち直した単語の履歴は、結局すべて消した。誰かに見つかるはずもないのに、画面の向こうから自分のほうが見返される気がして怖かった。
今夜、その消したはずの言葉が不意に頭の中へ戻ってくる。
明るい街から外れた先に、そういう場所があることくらい、知らないわけではなかった。匿名で、名前も過去も持ち込まず、ただ一晩だけ何かをやり過ごすための場所。そこでは明日が始まる前に、すべてを切り離せるのだと、半分は噂で、半分はネットの断片で知っていた。
馬鹿だ、と陸斗は思った。
こんな格好で。会食の帰りのまま、まだネクタイも外さず、髪も整えたまま。そんな自分が、そこへ向かおうとしていること自体が、ひどく滑稽だった。けれど滑稽だと思う気持ちの裏に、足を戻せない理由がもう生まれ始めている。
このまま帰って、ベッドに横になっても、きっと眠れない。
今夜の会食で誰が何を言ったか、誰がどう笑ったか、自分がどのタイミングでグラスを置いたか、そんなことばかりを思い返して、うまくやれたはずなのに少しずつ削られていく。そうやって土曜の朝を迎えるくらいなら、いっそ別の疲れ方をしたかった。
誰にも知られず、明日にはなかったことにできる。
その考えが、胸の奥で静かに形を取る。
そうだ、たった一晩だ。誰も自分を知らない場所で、名前も肩書も使わずに済むなら、それは失敗ですらない。後悔したとしても、朝になれば切り離せる。会議室にも、ロビーにも、大通りのガラスにも持ち込まなくていい。何も残らないなら、少しくらい壊れても大丈夫だと、自分に言い聞かせられる。
そう思った瞬間、陸斗は気づいた。
確かめたいのだ。
自分がどこまで平気なのか。男に触れられても何ともないのか、それとも本当に何かが動くのか。そういうことを知りたい気持ちがある。そして同時に、壊したいのだ。きちんとしていなければならない自分を、一度だけ、誰の責任にもならないところで乱したい。
その欲求の混ざり方が、ひどく危うかった。
細い路地の入口で、ふと足元に視線を落とす。革靴はまだ新しく、磨かれたつま先に看板の赤が鈍く映っている。仕事帰りの男の足元だ。昼間の自分から続いている証拠のような靴なのに、その先だけが別の方向へ向かおうとしていることが、妙に可笑しかった。
通りすぎる男がひとり、陸斗をちらりと見た。
露骨ではない、ほんの一瞬の視線だった。けれど、こちらが立ち止まっている理由まで量られた気がして、陸斗は反射的に背筋を伸ばす。逃げたいような、試されているような感覚。胸の奥で、まだ若い体の熱がかすかに上がる。その熱のわりに、手先だけは冷えていた。
路地の先に、目的の場所はあった。
想像していたほど派手ではない。大きな看板が出ているわけでもなく、知らなければ通りすぎるような雑居ビルの一階。その入口の脇にだけ、意味を知る人にだけ分かる程度の控えめな灯りがある。扉は閉じていて、中の様子は見えない。ガラスではなく、外から切り離すための材質でできた扉だった。
陸斗はしばらくその前に立った。
心臓の音がやけに近い。耳元ではなく、シャツの内側で鳴っている感じがする。喉の奥が乾いているのに、唾を飲み込むとその動きまで大きく意識される。自分は何をしようとしているのか、今さらのように遅れて実感が押し寄せた。
引き返せる。
まだ間に合う。何も始まっていない。駅へ向かって歩き出せば、それだけで終わる。明日になれば、ただ少し酔って、疲れて、変なことを考えた金曜の夜として処理できる。
だが、その“処理できる”という未来の薄さに、陸斗はかえってうんざりした。
どうせまた同じ顔をして月曜を迎えるのだ。期待される新人として、整った声で返事をし、笑うべき場面で笑う。その繰り返しの中に、この夜の息苦しさまできれいに畳んでしまったら、どこにも逃げ場がない。
逃避だと分かっていた。
好奇心だけではない。衝動だけでもない。疲れているからだ。少し、自暴自棄になっている。そう認めたうえで、それでも扉の前から動けないのは、自分の中の何かがもう決まっているからだった。
手を伸ばす。
指先が扉の金属に触れた瞬間、その冷たさがひどく現実的で、陸斗は短く息を呑んだ。昼間、会議室のドアノブに触れたときの感触と似ているのに、向こう側に待っているものはまるで違う。その差が、妙に可笑しくて、少しだけ笑いそうになる。笑えるような気分ではないのに、そうでもしなければ立っていられなかった。
ネクタイの結び目を指先で少しだけ緩める。
喉の締めつけがわずかに緩み、そこに夜の湿った空気が触れた。オフィス街の乾いた風とは違う、生身の体に近い温度の空気だった。湿り気を帯びた夜は、もう後戻りしなくていいと背中を押してくるようでもあり、今ならまだ引き返せると試してくるようでもある。
扉の前で最後に一度だけ、周囲を見た。
誰もこちらを気にしていない。少なくとも、そう見えた。笑い声は少し離れた店の中から聞こえ、路地の上には看板の色が淡く滲んでいる。大通りの白い明るさは、もうほとんど届いていない。この暗がりは、あちら側の世界からきれいに切り離されている。だからこそ、自分はここへ来てしまったのだと陸斗は思った。
名前も肩書も使わなくていい場所。
誰にも知られず、明日にはなかったことにできる場所。
その前提だけを抱きしめるようにして、陸斗は扉を押した。
店内へ一歩足を踏み入れた瞬間、光が一段落ちる。
外の街とは別の、低く沈んだ暗さが皮膚に触れた。音も、匂いも、視線の流れも、一瞬で変わる。陸斗は喉の奥で小さく息を呑んだ。
来てしまった、とそのとき初めて、はっきり自覚した。
窓の外の雪は、会議室の中から見るとただの白い明るさにしか見えなかった。朝比奈フーズの工場で鼻に残った原料の匂いも、包装会社の乾いた紙粉も、冷凍倉庫の床から上がる冷えも、この部屋へ入った瞬間に全部どこかへ置いてこられてしまう。白い蛍光灯、乾いた暖房、きれいに並んだ資料、無駄のない数字。そういうものだけで組み上げられた空間の中では、外の冬の現実は、ガラス一枚向こうにあるくせにやけに薄い。神谷が画面を切り替えた。「現状の試験導入は十分評価できます。ただ、ここから先を案件として広げるなら、属人的な運用に寄りかかったままでは難しいですね」スライドの上では、販路別の回転率と粗利予測が色分けされていた。横展開候補、SKU整理後の想定、標準化によるコスト圧縮。数字の並びはきれいで、言葉も過不足がない。どこを取っても間違っているようには見えない。だからこそ、落とされているものが見える。冬の物流の乱れ。原料の出来の揺れ。包材を切り替えるときに止まるライン。朝比奈フーズが地場の取引先を切らさないために守っている順番。支社が、それを踏み外さないように何度も組み直してきた段取り。そういうものが全部、資料の隅へ追いやられた注記になっている。「冬季の変動要因については、もちろん運用上の留意点として管理します」神谷の声は平坦だった。「ただ、現時点ではリスクとして過大評価しすぎる必要はないかと。管理可能な範囲ですし、そのための体制整備をどう置くかの話なので」管理可能。その言い方の冷たさに、陸斗は胸の奥を小さく刺された気がした。管理できるかどうかの話ではない。現実に、今そこで人がどう動いているかの話だ。雪が一度強くなれば、予定していた便は簡単に遅れる。包材の納まりが半日ずれるだけで、工場の流れは細いところから詰まり始める。現場はいつだって、それを“管理可能なリスク”としてではなく、今日どう回すかの問題として見ている。それを知っている。知っているのに、この整いすぎた会議室の中では、その知識がうまく言葉にならない。「支社で丁寧に育ててもらっ
会議室へ入った瞬間、空気の重心がもう支社のものではないと分かった。白い蛍光灯の下、長机の上には資料がきれいに揃えられている。ペットボトルの水、配布用のクリアファイル、予備の筆記具。どれもいつもと同じようでいて、今日だけは置かれ方が違って見えた。支社で用意したはずの会議室なのに、席順も、視線の流れも、誰が先に話し始めるかも、もう本社側に合わせて並び替えられている。窓の外には雪が残っていた。路肩に押しやられた白い塊と、そこへ溶けかけの水が黒く筋を作っている。新潟の冬の現実は、ガラス一枚向こうで確かに続いているのに、暖房の効いたこの部屋の中では、その気配だけが薄く削られていた。陸斗は席に着いた時点で、喉の奥が少し乾くのを感じた。紙の端を揃えたくなる。ペンの向きを直したくなる。だが今それをすれば、また整えることで自分を保とうとしているのが見透かされる気がして、膝の上で指先だけを握った。篠宮が口火を切るまでに、長い前置きはなかった。「では、せっかくなので、今の段階で一度きれいに見せてもらえればと思います」声は穏やかだ。表情も柔らかい。雪の中わざわざ来た本社の人間としての高圧さは欠片も見せない。だからこそ、最初の一言からこの場の支配が静かに始まっているのが分かる。神谷がノートパソコンを開き、資料を画面へ映した。整っていた。試験導入後の反応推移。販路別の回転率。粗利予測。SKU整理後の横展開案。朝比奈フーズ案件を「次の標準化モデル」として扱うための整理表。色分けも見出しも無駄がなく、数字の並び方もきれいで、どこから見ても理路整然としている。一見して、何も間違っていないように見えた。むしろ、本社の資料はいつだってそうだ。言葉の置き方が正しく、論点の順番が合理的で、反論しづらい。どこにも感情の乱れがない。だからこそ、その整い方の中に何が落とされているのかに気づいたときの息苦しさが、陸斗にはよく分かった。「まず試験導入としては十分な数字が取れていると思います」神谷が資料の一点を示す。「ただ、ここから先は個別対応を広げるより、再現性をどう持たせる
昼前の支社は、普段より少しだけ静かだった。静かと言っても、音がないわけではない。電話は鳴るし、コピー機は一定の間隔で紙を吐き出す。給湯スペースでは湯の注がれる音がして、水沢が総務の席と営業の島のあいだを小走りで抜けていく。久住の少し大きい声も、物流側の奥から一度だけ聞こえた。いつもの支社の朝と同じ要素が揃っているのに、それぞれの音の輪郭がどこか硬い。本社が来る。たったそれだけのことで、空気は目に見えない薄い膜を張る。誰も露骨には構えない。斎賀も、水沢も、久住でさえ、普段より声が半音ぶっきらぼうになるだけだ。資料の並べ方が少し丁寧になり、会議室のテーブルの位置がいつもより几帳面に揃えられ、誰が先に何を説明するかだけが、ごく当たり前の顔で確認される。それくらいの変化なら、外から見ればただの来客対応にすぎない。だが陸斗の身体は、それより先に反応していた。胃の奥が朝から薄く固い。パソコンの画面へ目を落としていても、肩がどこか落ち着かない。頭では、今は違うと思っている。自分はもう本社の会議室で椅子に浅く座って、誰かの言葉尻ひとつで居場所を測られるだけの立場ではない。朝比奈フーズ案件では、実際に手を動かし、考え、支社の中で役割を持っている。それはもう事実だ。それでも、本社が来るというだけで、身体は昔のまま警戒する。資料の角を揃え、メモを右側へ寄せ、印刷した確認事項の順番を無意味にもう一度並べ直す。整えれば落ち着く気がして、実際にはたいして落ち着かない。その癖が余計に自分を苛立たせた。「三沢さん、その会議室の分、こっちで置いておきますね」水沢がファイルを抱えたまま言う。「ありがとうございます」返事は普通にできた。少なくとも声は揺れていないはずだ。水沢はそれ以上何も言わず、会議室のほうへ入っていく。その背中を見送りながら、陸斗は自分の掌がわずかに乾いているのに気づいた。緊張しているときの感じだと分かって、さらに腹が立つ。来る前からこんなふうに身構える必要はない。今さら怯むのは、自分でもみっともないと思う。そう思うほど、身体のほうが先に昔を思い出す。
朝の道路には、もう雪が「特別なもの」ではなく残っていた。路肩に寄せられた灰色の雪の山。除雪車が削った筋の残る脇道。車が踏み固めて、泥と水が混ざったシャーベットみたいになった交差点。空は相変わらず低く、白く、どこまで見ても明るいというより冷たい色をしている。数日前の、あの夜みたいな激しさはもうない。ただ、冬が来たのだと誰にでも分かる朝だった。陸斗はマフラーを首元へ寄せ直し、濡れた歩道を選ぶようにして支社へ向かった。雪の夜のことは、まだ自分の中で片づいていない。眠れなかったことも、暗い部屋で落ちた短い声も、別々のベッドのあいだにあったあの妙な熱も、思い出そうとすればいくらでも輪郭を持ってしまう。だから、なるべく考えないようにしてきた。朝になれば仕事へ戻るしかないのだから、戻ったふりでもしてしまえば何とかなると思った。けれど、何とかなるという言い方自体が、もう少しずつ怪しくなっている。支社の自動ドアが開くと、外とは違う乾いた暖かさが頬へ触れた。電話の保留音。コピー機が紙を吐く音。給湯スペースのほうで誰かがポットを置く小さな金属音。雪が残っていても、支社の朝は容赦なくいつも通り始まっている。久住のやや大きい声が物流側の奥から一度だけ響き、水沢がファイルを抱えたまま総務の席と営業の席のあいだを急ぎ足で抜けていく。その普通さに、陸斗は少しだけ救われた。同時に、少しだけ置いていかれる気もした。昨夜みたいなものがあっても、職場は待ってくれない。何も起きなかった顔で、何も変わらない速度で、朝はもう前へ動いている。そのことがありがたくもあり、残酷でもある。自席へ向かう途中で、部長席のほうに視線が流れた。征司はもう来ていた。上着を椅子の背へ掛け、机の上の資料に一通り目を通している。濃い色のスーツに、白いシャツ、いつも通り整った輪郭。あのホテルの部屋着姿を見た目には、もう戻れないはずなのに、目の前の征司は何事もなかったみたいに“いつもの部長”の顔をしていた。顔が合いそうになる、その手前で征司の声が落ちた。「朝比奈の件、午前の
灯りを落としたあと、部屋は妙に広く見えた。さっきまで机の上に広げていた資料も、飲みかけのペットボトルも、ベッド脇の小さなスタンドの灯りの外へ押しやられると、輪郭だけがぼんやり残る。ツインのベッドはきちんと離れている。間に小さなテーブルがあり、荷物もそれぞれの側に置かれている。境界はある。線は、むしろ昼間よりはっきりしているはずだった。なのに、暗くなった途端、その線の内側へ逃げ込む場所がない気がした。暖房の乾いた音が低く続いている。窓の外は雪の反射で白く、完全な闇にはならない。シーツの白さまで夜の中で浮いて見えて、目を閉じても部屋の輪郭が消えきらない。陸斗はベッドへ入ってから何度か寝返りを打ったが、身体のどこにも落ち着く場所が見つからなかった。寝ればいいだけだ、と頭では思う。明日は早い。雪がどうなっているかも分からないし、朝比奈への確認も残っている。変に意識している場合ではない。そんなことは分かっているのに、同じ部屋のどこかに征司がいると分かってしまうだけで、神経が薄く張ったまま弛まない。見なくても、気配は拾える。少し遅れて、向こうのベッドで布が擦れる音がした。寝返りだろうと思う。間を置いて、ペットボトルのキャップが開く小さな音がする。水を飲む気配。喉を鳴らすような、ごく短い沈黙。暗い部屋の中では、それだけで十分近い。たぶん、自分のほうの気配も向こうに伝わっている。そう思うと余計に動きづらくなって、陸斗は薄く息を吐いた。布団の中で手を握る。暖房のせいで頬と耳のあたりだけが熱く、指先はまだ少し冷えている。眠れないのは寒さのせいではない。そう分かっていることが、さらに腹立たしかった。白いシーツが、過去の夜を勝手に呼ぶ。同じホテルでも、同じ部屋でもない。あの夜とは違う。今は名前も立場もあって、隣にいるのは上司で、自分は部下だ。違うことのほうが多いはずなのに、条件だけがあまりにも似ている。白い寝具。閉じた空間。明け方の冷えを予感させる雪の夜。低い声。名前を知らないまま近づきすぎた距離。そこまで思って、陸斗は眉を寄せた。思い出したいわけではない。むしろ逆だった。忘れら
照明を落としてから、部屋の空気は少しだけ変わった。天井の主照明を消し、ベッド脇のスタンドだけにすると、さっきまでただのビジネスホテルだった空間が急に近くなる。狭いわけではない。机もあるし、ベッドも二つきちんと離れている。けれど、光が届かない壁際や、窓の端の曇り方や、暖房の乾いた唸りまでが妙に意識へ触るようになって、外へ逃がせるものが少なくなった。窓の向こうでは、雪がまだ降っていた。ガラスに近づかなければ音は聞こえない。ただ、白い反射だけが室内へうっすら返ってきて、スタンドの色の薄い明かりと混ざっている。雪の夜は静かなはずなのに、静かすぎるせいで、相手が動く気配ばかりがよく分かった。陸斗は机の上に出していた資料を閉じたあとも、すぐにはベッドへ行けなかった。使い終わった紙の角を揃える。ペンをケースに戻す。財布を鞄の横へ寄せ、充電器のコードがねじれないように整える。ペットボトルの位置を少しだけ机の端へ寄せる。自分では無意識のつもりだった。けれど、手を止めた瞬間、今の動きが落ち着くための時間稼ぎだったことくらいは分かる。神経が、まだ落ちていない。仕事の話は終わった。明朝の確認も、先方への連絡も、もう済んでいる。今さら資料を見返しても、今夜のうちに変えられることはほとんどない。それでも、何かを整えていないと、この部屋の静けさをそのまま受けるしかなくなる。「そうやって整えないと落ち着かないか」不意に落ちた声に、陸斗の指先が止まった。振り返ると、征司は自分のベッドの端に腰を下ろしたところだった。眼鏡を外し、手元のスマートフォンを伏せる。その仕草のついでみたいな顔でこちらを見ている。咎めるでも、笑うでもない。ただ事実を口にしただけの声だった。陸斗は一拍遅れて、視線を机へ戻した。「別に」口から出たのは、そんな短い言葉だった。別に、で済むはずがない。今、自分は明らかに落ち着かないから整えていた。それを言い当てられたことへの動揺を隠すために、余計にぶっきらぼうになる。けれど胸の奥では、その一言が別の形で引っかかっていた。そうやって