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32.数字だけの会議

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-05-21 16:41:36

会議室へ入った瞬間、空気の重心がもう支社のものではないと分かった。

白い蛍光灯の下、長机の上には資料がきれいに揃えられている。ペットボトルの水、配布用のクリアファイル、予備の筆記具。どれもいつもと同じようでいて、今日だけは置かれ方が違って見えた。支社で用意したはずの会議室なのに、席順も、視線の流れも、誰が先に話し始めるかも、もう本社側に合わせて並び替えられている。

窓の外には雪が残っていた。路肩に押しやられた白い塊と、そこへ溶けかけの水が黒く筋を作っている。新潟の冬の現実は、ガラス一枚向こうで確かに続いているのに、暖房の効いたこの部屋の中では、その気配だけが薄く削られていた。

陸斗は席に着いた時点で、喉の奥が少し乾くのを感じた。

紙の端を揃えたくなる。ペンの向きを直したくなる。だが今それをすれば、また整えることで自分を保とうとしているのが見透かされる気がして、膝の上で指先だけを握った。

篠宮が口火を切るまでに、長い前置きはなかった。

「では、せっかくなので、今の段階で一度きれいに見せてもらえればと

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  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   33.征司が制する

    窓の外の雪は、会議室の中から見るとただの白い明るさにしか見えなかった。朝比奈フーズの工場で鼻に残った原料の匂いも、包装会社の乾いた紙粉も、冷凍倉庫の床から上がる冷えも、この部屋へ入った瞬間に全部どこかへ置いてこられてしまう。白い蛍光灯、乾いた暖房、きれいに並んだ資料、無駄のない数字。そういうものだけで組み上げられた空間の中では、外の冬の現実は、ガラス一枚向こうにあるくせにやけに薄い。神谷が画面を切り替えた。「現状の試験導入は十分評価できます。ただ、ここから先を案件として広げるなら、属人的な運用に寄りかかったままでは難しいですね」スライドの上では、販路別の回転率と粗利予測が色分けされていた。横展開候補、SKU整理後の想定、標準化によるコスト圧縮。数字の並びはきれいで、言葉も過不足がない。どこを取っても間違っているようには見えない。だからこそ、落とされているものが見える。冬の物流の乱れ。原料の出来の揺れ。包材を切り替えるときに止まるライン。朝比奈フーズが地場の取引先を切らさないために守っている順番。支社が、それを踏み外さないように何度も組み直してきた段取り。そういうものが全部、資料の隅へ追いやられた注記になっている。「冬季の変動要因については、もちろん運用上の留意点として管理します」神谷の声は平坦だった。「ただ、現時点ではリスクとして過大評価しすぎる必要はないかと。管理可能な範囲ですし、そのための体制整備をどう置くかの話なので」管理可能。その言い方の冷たさに、陸斗は胸の奥を小さく刺された気がした。管理できるかどうかの話ではない。現実に、今そこで人がどう動いているかの話だ。雪が一度強くなれば、予定していた便は簡単に遅れる。包材の納まりが半日ずれるだけで、工場の流れは細いところから詰まり始める。現場はいつだって、それを“管理可能なリスク”としてではなく、今日どう回すかの問題として見ている。それを知っている。知っているのに、この整いすぎた会議室の中では、その知識がうまく言葉にならない。「支社で丁寧に育ててもらっ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   32.数字だけの会議

    会議室へ入った瞬間、空気の重心がもう支社のものではないと分かった。白い蛍光灯の下、長机の上には資料がきれいに揃えられている。ペットボトルの水、配布用のクリアファイル、予備の筆記具。どれもいつもと同じようでいて、今日だけは置かれ方が違って見えた。支社で用意したはずの会議室なのに、席順も、視線の流れも、誰が先に話し始めるかも、もう本社側に合わせて並び替えられている。窓の外には雪が残っていた。路肩に押しやられた白い塊と、そこへ溶けかけの水が黒く筋を作っている。新潟の冬の現実は、ガラス一枚向こうで確かに続いているのに、暖房の効いたこの部屋の中では、その気配だけが薄く削られていた。陸斗は席に着いた時点で、喉の奥が少し乾くのを感じた。紙の端を揃えたくなる。ペンの向きを直したくなる。だが今それをすれば、また整えることで自分を保とうとしているのが見透かされる気がして、膝の上で指先だけを握った。篠宮が口火を切るまでに、長い前置きはなかった。「では、せっかくなので、今の段階で一度きれいに見せてもらえればと思います」声は穏やかだ。表情も柔らかい。雪の中わざわざ来た本社の人間としての高圧さは欠片も見せない。だからこそ、最初の一言からこの場の支配が静かに始まっているのが分かる。神谷がノートパソコンを開き、資料を画面へ映した。整っていた。試験導入後の反応推移。販路別の回転率。粗利予測。SKU整理後の横展開案。朝比奈フーズ案件を「次の標準化モデル」として扱うための整理表。色分けも見出しも無駄がなく、数字の並び方もきれいで、どこから見ても理路整然としている。一見して、何も間違っていないように見えた。むしろ、本社の資料はいつだってそうだ。言葉の置き方が正しく、論点の順番が合理的で、反論しづらい。どこにも感情の乱れがない。だからこそ、その整い方の中に何が落とされているのかに気づいたときの息苦しさが、陸斗にはよく分かった。「まず試験導入としては十分な数字が取れていると思います」神谷が資料の一点を示す。「ただ、ここから先は個別対応を広げるより、再現性をどう持たせる

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   31.本社の靴音

    昼前の支社は、普段より少しだけ静かだった。静かと言っても、音がないわけではない。電話は鳴るし、コピー機は一定の間隔で紙を吐き出す。給湯スペースでは湯の注がれる音がして、水沢が総務の席と営業の島のあいだを小走りで抜けていく。久住の少し大きい声も、物流側の奥から一度だけ聞こえた。いつもの支社の朝と同じ要素が揃っているのに、それぞれの音の輪郭がどこか硬い。本社が来る。たったそれだけのことで、空気は目に見えない薄い膜を張る。誰も露骨には構えない。斎賀も、水沢も、久住でさえ、普段より声が半音ぶっきらぼうになるだけだ。資料の並べ方が少し丁寧になり、会議室のテーブルの位置がいつもより几帳面に揃えられ、誰が先に何を説明するかだけが、ごく当たり前の顔で確認される。それくらいの変化なら、外から見ればただの来客対応にすぎない。だが陸斗の身体は、それより先に反応していた。胃の奥が朝から薄く固い。パソコンの画面へ目を落としていても、肩がどこか落ち着かない。頭では、今は違うと思っている。自分はもう本社の会議室で椅子に浅く座って、誰かの言葉尻ひとつで居場所を測られるだけの立場ではない。朝比奈フーズ案件では、実際に手を動かし、考え、支社の中で役割を持っている。それはもう事実だ。それでも、本社が来るというだけで、身体は昔のまま警戒する。資料の角を揃え、メモを右側へ寄せ、印刷した確認事項の順番を無意味にもう一度並べ直す。整えれば落ち着く気がして、実際にはたいして落ち着かない。その癖が余計に自分を苛立たせた。「三沢さん、その会議室の分、こっちで置いておきますね」水沢がファイルを抱えたまま言う。「ありがとうございます」返事は普通にできた。少なくとも声は揺れていないはずだ。水沢はそれ以上何も言わず、会議室のほうへ入っていく。その背中を見送りながら、陸斗は自分の掌がわずかに乾いているのに気づいた。緊張しているときの感じだと分かって、さらに腹が立つ。来る前からこんなふうに身構える必要はない。今さら怯むのは、自分でもみっともないと思う。そう思うほど、身体のほうが先に昔を思い出す。

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   30.雪の朝の平静

    朝の道路には、もう雪が「特別なもの」ではなく残っていた。路肩に寄せられた灰色の雪の山。除雪車が削った筋の残る脇道。車が踏み固めて、泥と水が混ざったシャーベットみたいになった交差点。空は相変わらず低く、白く、どこまで見ても明るいというより冷たい色をしている。数日前の、あの夜みたいな激しさはもうない。ただ、冬が来たのだと誰にでも分かる朝だった。陸斗はマフラーを首元へ寄せ直し、濡れた歩道を選ぶようにして支社へ向かった。雪の夜のことは、まだ自分の中で片づいていない。眠れなかったことも、暗い部屋で落ちた短い声も、別々のベッドのあいだにあったあの妙な熱も、思い出そうとすればいくらでも輪郭を持ってしまう。だから、なるべく考えないようにしてきた。朝になれば仕事へ戻るしかないのだから、戻ったふりでもしてしまえば何とかなると思った。けれど、何とかなるという言い方自体が、もう少しずつ怪しくなっている。支社の自動ドアが開くと、外とは違う乾いた暖かさが頬へ触れた。電話の保留音。コピー機が紙を吐く音。給湯スペースのほうで誰かがポットを置く小さな金属音。雪が残っていても、支社の朝は容赦なくいつも通り始まっている。久住のやや大きい声が物流側の奥から一度だけ響き、水沢がファイルを抱えたまま総務の席と営業の席のあいだを急ぎ足で抜けていく。その普通さに、陸斗は少しだけ救われた。同時に、少しだけ置いていかれる気もした。昨夜みたいなものがあっても、職場は待ってくれない。何も起きなかった顔で、何も変わらない速度で、朝はもう前へ動いている。そのことがありがたくもあり、残酷でもある。自席へ向かう途中で、部長席のほうに視線が流れた。征司はもう来ていた。上着を椅子の背へ掛け、机の上の資料に一通り目を通している。濃い色のスーツに、白いシャツ、いつも通り整った輪郭。あのホテルの部屋着姿を見た目には、もう戻れないはずなのに、目の前の征司は何事もなかったみたいに“いつもの部長”の顔をしていた。顔が合いそうになる、その手前で征司の声が落ちた。「朝比奈の件、午前の

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   29.越えないまま熱になる

    灯りを落としたあと、部屋は妙に広く見えた。さっきまで机の上に広げていた資料も、飲みかけのペットボトルも、ベッド脇の小さなスタンドの灯りの外へ押しやられると、輪郭だけがぼんやり残る。ツインのベッドはきちんと離れている。間に小さなテーブルがあり、荷物もそれぞれの側に置かれている。境界はある。線は、むしろ昼間よりはっきりしているはずだった。なのに、暗くなった途端、その線の内側へ逃げ込む場所がない気がした。暖房の乾いた音が低く続いている。窓の外は雪の反射で白く、完全な闇にはならない。シーツの白さまで夜の中で浮いて見えて、目を閉じても部屋の輪郭が消えきらない。陸斗はベッドへ入ってから何度か寝返りを打ったが、身体のどこにも落ち着く場所が見つからなかった。寝ればいいだけだ、と頭では思う。明日は早い。雪がどうなっているかも分からないし、朝比奈への確認も残っている。変に意識している場合ではない。そんなことは分かっているのに、同じ部屋のどこかに征司がいると分かってしまうだけで、神経が薄く張ったまま弛まない。見なくても、気配は拾える。少し遅れて、向こうのベッドで布が擦れる音がした。寝返りだろうと思う。間を置いて、ペットボトルのキャップが開く小さな音がする。水を飲む気配。喉を鳴らすような、ごく短い沈黙。暗い部屋の中では、それだけで十分近い。たぶん、自分のほうの気配も向こうに伝わっている。そう思うと余計に動きづらくなって、陸斗は薄く息を吐いた。布団の中で手を握る。暖房のせいで頬と耳のあたりだけが熱く、指先はまだ少し冷えている。眠れないのは寒さのせいではない。そう分かっていることが、さらに腹立たしかった。白いシーツが、過去の夜を勝手に呼ぶ。同じホテルでも、同じ部屋でもない。あの夜とは違う。今は名前も立場もあって、隣にいるのは上司で、自分は部下だ。違うことのほうが多いはずなのに、条件だけがあまりにも似ている。白い寝具。閉じた空間。明け方の冷えを予感させる雪の夜。低い声。名前を知らないまま近づきすぎた距離。そこまで思って、陸斗は眉を寄せた。思い出したいわけではない。むしろ逆だった。忘れら

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   28.覚えていないわけでは

    照明を落としてから、部屋の空気は少しだけ変わった。天井の主照明を消し、ベッド脇のスタンドだけにすると、さっきまでただのビジネスホテルだった空間が急に近くなる。狭いわけではない。机もあるし、ベッドも二つきちんと離れている。けれど、光が届かない壁際や、窓の端の曇り方や、暖房の乾いた唸りまでが妙に意識へ触るようになって、外へ逃がせるものが少なくなった。窓の向こうでは、雪がまだ降っていた。ガラスに近づかなければ音は聞こえない。ただ、白い反射だけが室内へうっすら返ってきて、スタンドの色の薄い明かりと混ざっている。雪の夜は静かなはずなのに、静かすぎるせいで、相手が動く気配ばかりがよく分かった。陸斗は机の上に出していた資料を閉じたあとも、すぐにはベッドへ行けなかった。使い終わった紙の角を揃える。ペンをケースに戻す。財布を鞄の横へ寄せ、充電器のコードがねじれないように整える。ペットボトルの位置を少しだけ机の端へ寄せる。自分では無意識のつもりだった。けれど、手を止めた瞬間、今の動きが落ち着くための時間稼ぎだったことくらいは分かる。神経が、まだ落ちていない。仕事の話は終わった。明朝の確認も、先方への連絡も、もう済んでいる。今さら資料を見返しても、今夜のうちに変えられることはほとんどない。それでも、何かを整えていないと、この部屋の静けさをそのまま受けるしかなくなる。「そうやって整えないと落ち着かないか」不意に落ちた声に、陸斗の指先が止まった。振り返ると、征司は自分のベッドの端に腰を下ろしたところだった。眼鏡を外し、手元のスマートフォンを伏せる。その仕草のついでみたいな顔でこちらを見ている。咎めるでも、笑うでもない。ただ事実を口にしただけの声だった。陸斗は一拍遅れて、視線を机へ戻した。「別に」口から出たのは、そんな短い言葉だった。別に、で済むはずがない。今、自分は明らかに落ち着かないから整えていた。それを言い当てられたことへの動揺を隠すために、余計にぶっきらぼうになる。けれど胸の奥では、その一言が別の形で引っかかっていた。そうやって

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