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8.成田部長

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-04-27 15:27:37

席に着いてしばらくしても、陸斗はまだこの職場の流れの中へ自分が入れていないことを、嫌というほど思い知らされていた。

パソコンは立ち上がっている。支給された内線表も、フロア図も、今日の簡単な流れを書いた書類も机の上に並んでいる。名刺は左手側、筆記具は右、資料は手前から読む順に揃えた。整えすぎだと自分でも思う。思うのに、そうしていないと落ち着かない。手元の角度だけでも正しておかなければ、自分だけがこの場で浮いている感覚に耐えられなかった。

曇り空の光が窓から白く差し込んでいる。

春の明るさではあるのに、空気の色はどこか冷たい。フロアの照明と混じったその白さが、机の上の紙を平たく照らしていた。外の気温は低かったが、室内にはまだ暖房の名残が少しだけ残っている。乾いたぬくもりと、出入り口から入る薄い冷気が混ざって、落ち着かない温度になっていた。

その中で、支社の仕事はもう普通に動いている。

誰かが電話で納期を確認し、別の誰かが伝票の束を片手に通りすぎる。営業らしい男が、急ぎの資料を抱えてコピー機の前に立ち、事務の席からは受発注の確認らしい数字が短く飛ぶ。東京本社より部署の境目が曖昧だ。営業だけ、事務だけ、物流だけ、と綺麗に切り分けられている感じがない。紙の流れも、人の動きも、同じ場所で近く混ざっている。

そのぶん、自分がまだどこにも接続されていないこともよく分かった。

本社にいた頃なら、異動初日でも、まずは誰に挨拶し、どの会議室へ行き、何の説明を受けるかがもっと滑らかに決まっていた。整えられた導線があって、その流れに乗っていれば、とりあえず新人なり異動者なりの位置には収まれた。

ここは違う。もちろん放置されているわけではない。必要な書類も揃っているし、水沢も感じよく案内してくれた。けれど、馴染ませるためのレールのようなものはない。席に着いた瞬間から、ここでどう動く人間かを見られている。そんな感覚が、静かにまとわりついて離れなかった。

「その件、成田部長の確認待ちです」

少し離れた席から、誰かの声が聞こえた。

陸斗は反射的に顔を上げる。年配の男性社員が、電話の受話器を肩に挟んだまま、手元のメモへ赤ペンを走らせていた。声は大きくない。ただ、相手へ説明する言葉として、それがごく自然に口から出ている。成田部長。さっき水沢たちの会話の端に出てきたその呼び名が、今度はもっと仕事の流れの中で使われる。

別の場所では、コピー機の前にいた男性が、

「それ、部長に通してからで」

と短く言った。

受けた相手はすぐに頷き、特に確認もせず資料の束を持ち直す。そのやり取りには迷いがない。上へお伺いを立てる、というぎこちなさではなく、この手順で流れるのが当然だと身体に入っている感じだった。

成田部長。

名前だけが、社内の導線の真ん中にある。

まだ顔も知らない相手なのに、その名前が出るたび、仕事の流れの向きが定まるのが分かった。誰かが判断を待ち、誰かが確認を取り、誰かがそれを前提に資料を持つ。過剰に畏まっているわけではない。けれど軽くもない。その呼び方だけで、この支社の中で仕事の芯に近い位置にいる人間なのだと伝わってくる。

陸斗は何気ないふりをして、再び視線をパソコンへ戻した。

戻しながら、耳だけはそちらへ向く。

「午前中、部長は外ですよね」

「さっき戻るって連絡ありました。十一時前には入ると思います」

「じゃあ、朝比奈フーズの件、それまで寝かせます」

それもまた、特別な会話ではなかった。今日の仕事の流れを確認する、どこにでもあるやり取りだ。だからこそ、その中心に置かれている名前の重みが際立つ。この支社では、誰かが手を止めて「部長はすごい人で」と説明する必要がないのだ。説明しなくても、みんながその名前を基準に動いている。

陸斗は画面の端に映った自分の指先を見た。

いつの間にか、ボールペンの向きを直している。無意識の癖だった。整えたところで何も変わらないと分かっているのに、ざわつくと余計にそうしてしまう。

「三沢さん」

水沢が、斜め向かいから書類を持ってやってきた。

「これ、午前の顔合わせの資料です。簡単な案件一覧と、今動いているところだけ抜いてあります」

「ありがとうございます」

「成田部長が戻られたら、一度打ち合わせ入ると思います。今日から営業第二部の地域開発チーム所属で、動きは基本、部長直下になりますので」

部長直下。

その言い方が、思った以上に重く胸へ落ちた。

陸斗は表情を変えないように気をつけながら、受け取った資料へ目を落とした。事務的な説明だ。水沢の口調にも特別な含みはない。ただ、分かりきったこととして告げられただけだ。

それでも、直下という言葉だけが妙に耳に残る。

直属の上司。管理者。判断を仰ぐ相手。そういう組織上の意味なら珍しくない。だが今の陸斗には、それ以上の響きがあった。監督。観察。預かり物の管理。そんな言葉が、後ろから勝手についてくる。

「そうですか」

口から出た声は、自分でも驚くほど平らだった。

水沢はその返事に小さく頷く。

「ええ。業務の引き継ぎも、しばらくは部長経由が多くなると思います。本社案件のことも含めて」

本社案件。

その一語が差し込まれたことで、配置の意味が急にはっきりした気がした。本社から飛ばされてきた若手を、ただ末端の机へ置くのではなく、支社の中枢に近い誰かの目の届くところへ置く。世話のためかもしれない。現場を見せるためかもしれない。あるいは、面倒を起こさせないためかもしれない。

どれもあり得る。

そして、そのどれであっても気分が良くない。

本社では、人の配置には必ず意味があった。育成。経験。理解を深める。そういう綺麗な言葉の下に、誰をどこから遠ざけたいのか、誰をどこへ置けば扱いやすいのかという意図が隠れていた。陸斗はそれを、書類の文面と会議室の空気の中で何度も見てきた。だから今回の直下配置も、素直に「丁寧に面倒を見てもらえる」とは思えない。

むしろ、自分をどう扱うかを考えた結果の席なのだろうと、そちらのほうが先に頭へ浮かぶ。

水沢が席へ戻ると、さっき奥でこちらを見ていた短髪の男が、資料を片手に通りかかった。

近くで見ると、やはり三十代後半くらいだろうか。背は高すぎないが、肩と腕の線がしっかりしていて、倉庫や取引先の現場へも普通に出ていそうな体つきだった。顔立ちは地味なのに、目だけが鋭い。

男は陸斗の机の横で一度足を止めた。

「斎賀です」

短い名乗りだった。

陸斗は椅子から軽く立ち上がる。

「三沢です。よろしくお願いします」

斎賀は頷く。笑わない。だが無視でもない。そのまま手元の資料へ視線を落とし、

「案件一覧、部長に上げる前に一回見といてください。午後から朝比奈フーズ入るんで」

と言った。

それだけで会話は終わりそうだったが、その「部長に上げる」という一言の自然さが、やはり陸斗の耳に残る。斎賀のような、一見すると本社の論理を好みそうにない男でも、その判断の最終線は成田部長に置いている。上下関係のために従うというより、そうするのが合理的だと身体で分かっている感じだった。

「分かりました」

「分かんなかったら、水沢さんか俺に聞いてもらっていいです。でも最終的には部長です」

さらりとそう付け足して、斎賀は今度こそ行ってしまう。

その後ろ姿を見送りながら、陸斗は椅子へ座り直した。

ただの部長ではない、と思う。

無駄に威圧しているわけではない。名前が出るたびに空気が凍るわけでもない。むしろ逆で、その人の判断が仕事の流れの中へ自然に組み込まれている。だからこそ、この支社での格がよく分かる。みんなが怖がっているのではない。信頼と実績の蓄積で、その位置に収まっているのだ。

そういう人物の直下に、自分が置かれる。

そこに、また薄い怒りが混じる。

どうして自分なのか。左遷されてきた若手を、なぜそんな位置へ入れるのか。預かり物だからか。問題を起こさせないために、支社の実力者の下へ押し込んだのか。それとも、本社との案件を知っている人間として使い道があると見ているのか。

どれを考えても、気分が悪かった。

資料の表紙をめくる。チーム案件の一覧が並んでいる。朝比奈フーズ。規格外野菜活用。冷凍和惣菜。首都圏販路。文字だけ見れば、かつて本社で自分が扱っていたはずの種類の仕事だ。だがここでは、その向こうに工場や物流や温度管理や、生活のある現場がぶら下がっているのだろう。東京本社で見ていた資料の文字より、ずっと重いはずだ。

その重さの中心にいる男の名前が、ふと目に入った。

資料の右上、確認者欄に印字されている。

成田征司。

姓だけではなかった。下の名前まで、そこにある。

陸斗の指先が一瞬止まる。

征司。

どこにでもありそうで、ありふれてはいない音だ。珍しいわけではない。なのに、その二文字だけが、紙の上で妙に引っかかった。耳ではなく、胸の内側のどこかで小さく引っかくような感覚だった。

成田征司。

もう一度、心の中でなぞってみる。

違和感の正体は分からない。見覚えがあるわけでも、はっきり何かを思い出すわけでもない。ただ、名前として処理しきれないざわつきがある。陸斗は眉を寄せかけて、すぐにやめた。

職場の初日だ。緊張しているだけかもしれない。朝から知らない名前と肩書きと仕事の流れを一気に頭へ入れられているのだから、神経が過敏になっていても不思議ではない。そう自分に言い聞かせ、資料へ視線を戻す。

それでも、「征司」という音だけが、紙から離れたあともどこかに残った。

深追いしたくない、と陸斗は思う。

まだ何も始まっていない職場で、名前ひとつに妙な引っかかりを覚える自分のほうが嫌だった。どうせただの緊張だ。初日特有の神経のざらつきに、未知の相手の名前が引っかかっただけ。それ以上の意味を読む必要はない。

必要はないのに、耳の奥に残る。

そのとき、フロアの空気が少しだけ変わった。

大きくではない。誰かが立ち上がる椅子の音、会議用の資料をまとめる紙の擦れる音、時計を見た誰かの短い呼吸。そういう些細な動きが、同じ方向へ揃う。仕事が自然にひとつの線へ寄っていく感じだった。

水沢が席を立ち、会議室のほうへファイルを持っていく。斎賀は電話を切ると、机の上の書類を二部抜き出した。奥で物流の男性がペンを耳から外し、伝票をひとまとめにする。誰も慌ててはいない。だが、何かの前に場を整えるときの動きになっていた。

陸斗は無意識に、ネクタイへ手をやった。

結び目に触れた指先が冷たい。

机の端へ置いた資料の束を揃える。揃えながら、自分がまた防衛反応みたいに手元ばかり整えていることに気づく。けれど、そうしないと呼吸の置き場がなかった。

「三沢さん」

水沢が会議室の入口から小さく声をかける。

「資料、これ持ってきてもらえますか」

「はい」

立ち上がり、資料を手に取る。その紙の重さは大したものではないのに、今は妙に存在感があった。成田征司という名前の印字された紙束。直下、という言葉。預けられた席。見極められている空気。全部が、まだ顔も見ていない相手のところへ一本に繋がっていく。

会議室のほうへ歩き出したところで、近くの社員がごく自然な調子で言った。

「部長、戻られました」

その一言だけで、陸斗の背筋がわずかに強張った。

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