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折れた指先、春の旋律

折れた指先、春の旋律

By:  七時になったらおきましょうCompleted
Language: Japanese
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クリスマスイブ、俺はリヤカーを引き、幼稚園の前で焼き芋の屋台を出していた。 一台の高級車が屋台の横を通りかかった。見覚えのあるナンバープレートを目にして、俺は帽子のつばを深く下げた。 しかし、車に乗っていた小さな男の子が窓を開けて身を乗り出し、俺の屋台を指差して叫んだ。 「焼き芋、食べたい!」 桐生千雪(きりゅう ちゆき)は息子の結城翔太(ゆうき しょうた)を連れて車を降り、俺の方へ歩いてきた。そして街灯の明かりに照らされた俺の顔をはっきりと見た。 彼女は全身を震わせた。 「柊湊(ひいらぎ みなと)……あなたなの?とっくに刑務所で死んだとばかり思っていたわ」 結城蒼汰(ゆうき そうた)の顔色が変わった。 「千雪、そいつは前科者だ。頭がおかしくなってるんだ。万が一、翔太に何かされたらどうするんだ!」 千雪は慌てて翔太を抱き上げて一歩後ずさりし、すぐに車へ戻って走り去っていった。 俺は舞い散る雪の中に立ち尽くし、相変わらず道行く人々に向かって声を張り上げていた。 かつては千雪のために命さえ投げ出せたというのに、今では心が微塵も揺れ動かない。 あの5年間の刑務所生活で、俺の愛はとっくに摩耗しきっていたのだ。

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Chapter 1

第1話

地面には、翔太に踏み潰されてべちゃべちゃになった焼き芋が張り付いていた。

これで500円の稼ぎになるはずだった。

もったいないことだ。

俺はしゃがみ込み、地面の潰れた焼き芋を少しずつ剥がし取り、そばの生ゴミ用のバケツに放り込んだ。

「ねえ、見た?あいつが桐生社長の元カレ?」

「人を轢き殺してニュースにもなったんでしょ。懲役5年だったらしいわよ!」

「うそ、人殺し?そんな奴がどうして幼稚園の前で屋台なんて出してるの?危険すぎるんじゃない!」

「離れましょ。頭がおかしくなってて、逆恨みして何されるか分かったもんじゃないわ……」

子どもを迎えに来た保護者たちはまだ帰りきっておらず、時折こちらをじろじろと見ながらヒソヒソと囁き合っていた。

俺は淡々と焼き芋を焼き続けた。まるで噂されているのが自分ではないかのように。

5年前、俺は鳴海音楽大学で最も輝いていた天才ピアニストであり、桐生グループの社長である千雪の婚約者だった。

あの頃の千雪は、俺が何気なく口にした「雪が見たいな」という一言のために、夜のうちに車を飛ばして北国へと連れて行ってくれるような人だった。

ずっとこの幸せが続くのだと思っていた。蒼汰が現れるまでは。

蒼汰は、俺がまるまる4年間も資金援助していた苦学生だった。卒業後、俺は彼を千雪の会社へ入社させてもらった。

だが思いもしなかった。彼が俺の目を盗んで、裏で千雪と深い関係になっていたなんて。

あろうことか俺が服役している間に、千雪と結婚し、子どもまで儲けていたのだ。

人影がまばらになった後、俺は屋台を押してその場を離れた。

半地下にある住処に戻り、力を振り絞って階段の入り口にリヤカーを施錠した。振り返ると、ドアの前に一人の女が立っているのが見えた。

廊下のセンサーライトはとうの昔に壊れていたが、それでもそれが橘凛(たちばな りん)だとすぐに分かった。

彼女は、俺が刑務所で知り合った友人の実の妹で、俺の隣人だった。

凛の手にはビニール袋が握られており、中には軟膏がいくつか入っていた。

ドアの隙間から漏れるわずかな明かりを頼りに、彼女は俺の赤く腫れ上がり、水ぶくれになった手の甲を見とがめた。

先ほど慌てて顔を隠そうとした際に負った火傷の赤い痕が、古い傷だらけの手の上で異様に目立っていた。

彼女の眉間には一瞬で深いシワが寄り、それに合わせて眉骨を走る古い傷跡がピクッと動き、その顔つきをいっそう凛々しいものにした。

だが俺にとって、それはこの世界に残された唯一の温もりだった。

「手、どうしたの」

感情がこもっていないような、掠れた声だった。

俺は無意識に手を袖の中へ引っ込め、無理やり笑顔を作った。

「何でもないよ。ちょっと火傷しただけだ。どうしてここに?」

凛は無言のまま一歩踏み出し、有無を言わさず俺の手首を掴んだ。

「入って」

彼女は俺の部屋のドアを押し開けた。

半地下の部屋には暖房設備などなく、氷室のように冷え切っていた。

凛は手慣れた様子で、発熱管が2本しかない電気ストーブのスイッチを入れた。オレンジ色の光が灯り、ようやくわずかな暖かさがもたらされた。

彼女は俺を部屋に一つしかない折りたたみ椅子に座らせると、自分は俺の前にしゃがみ込んだ。軟膏の蓋を開け、綿棒を使って少しずつ俺の傷口に塗ってくれた。

軟膏はひんやりとしていて、ミントの香りがし、ヒリヒリとした痛みを抑え込んでくれた。

俺はうつむき加減で彼女を見つめた。

彼女は口数が少なく、隣に越してきてからこれまでの間、交わした言葉はほんのわずかだ。

だが分かっている。彼女の助けがなければ、俺は出所した最初の月に、道端で餓死していたかもしれない。

「今日、あいつと……あの男に会った」

俺は唐突に、脈絡のない一言を口にした。

凛の体が強張った。

「まだ、引きずってるの?」

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第1話
地面には、翔太に踏み潰されてべちゃべちゃになった焼き芋が張り付いていた。これで500円の稼ぎになるはずだった。もったいないことだ。俺はしゃがみ込み、地面の潰れた焼き芋を少しずつ剥がし取り、そばの生ゴミ用のバケツに放り込んだ。「ねえ、見た?あいつが桐生社長の元カレ?」「人を轢き殺してニュースにもなったんでしょ。懲役5年だったらしいわよ!」「うそ、人殺し?そんな奴がどうして幼稚園の前で屋台なんて出してるの?危険すぎるんじゃない!」「離れましょ。頭がおかしくなってて、逆恨みして何されるか分かったもんじゃないわ……」子どもを迎えに来た保護者たちはまだ帰りきっておらず、時折こちらをじろじろと見ながらヒソヒソと囁き合っていた。俺は淡々と焼き芋を焼き続けた。まるで噂されているのが自分ではないかのように。5年前、俺は鳴海音楽大学で最も輝いていた天才ピアニストであり、桐生グループの社長である千雪の婚約者だった。あの頃の千雪は、俺が何気なく口にした「雪が見たいな」という一言のために、夜のうちに車を飛ばして北国へと連れて行ってくれるような人だった。ずっとこの幸せが続くのだと思っていた。蒼汰が現れるまでは。蒼汰は、俺がまるまる4年間も資金援助していた苦学生だった。卒業後、俺は彼を千雪の会社へ入社させてもらった。だが思いもしなかった。彼が俺の目を盗んで、裏で千雪と深い関係になっていたなんて。あろうことか俺が服役している間に、千雪と結婚し、子どもまで儲けていたのだ。人影がまばらになった後、俺は屋台を押してその場を離れた。半地下にある住処に戻り、力を振り絞って階段の入り口にリヤカーを施錠した。振り返ると、ドアの前に一人の女が立っているのが見えた。廊下のセンサーライトはとうの昔に壊れていたが、それでもそれが橘凛(たちばな りん)だとすぐに分かった。彼女は、俺が刑務所で知り合った友人の実の妹で、俺の隣人だった。凛の手にはビニール袋が握られており、中には軟膏がいくつか入っていた。ドアの隙間から漏れるわずかな明かりを頼りに、彼女は俺の赤く腫れ上がり、水ぶくれになった手の甲を見とがめた。先ほど慌てて顔を隠そうとした際に負った火傷の赤い痕が、古い傷だらけの手の上で異様に目立っていた。彼女の眉間には一瞬で深いシワが寄り
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第2話
俺は壁に滲む水シミを見つめながら、意識は5年前のあの土砂降りの夜へと飛んでいた。蒼汰からの電話を受けた。彼はパニックに陥り、泣き叫んでいた。「湊さん、助けて……車をぶつけられて……湾岸通りで……」その知らせを聞いて、俺は急いで家を飛び出した。現場に駆けつけた俺の目に飛び込んできたのは、全身の血が逆流するような光景だった。俺が蒼汰に貸した車は、フロントがへこみ、バンパーには血がべっとりと付着していた。少し離れた泥水の中には、すでに息絶えた老人が横たわっていた。ぶつけられたなんて嘘だ。明らかにこいつが人を轢いたんだ。千雪は震える蒼汰をその胸に抱きかかえ、自身は彼の上着を羽織っていた。車内には、吐き気を催すような情事の後の匂いと酒の臭いが充満していた。先ほどまで何が行われていたのか、馬鹿でも分かる。「湊」千雪は俺を見ると、弁解するでも、罪悪感を見せるでもなかった。彼女は大股でこちらに歩み寄り、第一声にこう言い放った。「あなたが身代わりになって」俺は信じられない思いで彼女を見つめた。「どうして俺が?千雪、狂ったのか?」千雪は俺の手首を乱暴に掴み、雨の中で金切り声を上げた。「私、蒼汰の子を妊娠しているの!子どもの父親を刑務所に入れるわけにはいかないわ!」俺はその場に呆然と立ち尽くした。俺が援助していた学生の子を、俺の婚約者が身ごもっていただと?「ふざけるな……」俺は涙を流しながら後ずさりした。千雪は冷酷に俺の言葉を遮った。その目は恐ろしいほど陰惨だった。「忘れたの?この車はあなたの名義よ。それに、あなたのお父さんの会社、最近資金繰りが悪化してるわよね。桐生グループからのつなぎ融資で、かろうじて息をしている状態じゃない。お母さんの心臓の手術だって、来週に控えているんでしょう……」彼女は俺に詰め寄った。「明日の朝、柊グループが倒産して、お父さんが飛び降り自殺し、お母さんが薬を止められて死を待つしかない姿を見たいの?」俺はその場で凍りついた。足の裏から頭のてっぺんまで、冷気が突き抜けていった。「千雪!お前はそれでも人間か!」俺は絶叫した。涙が雨水と混ざって口に流れ込み、ひどく塩っぱくて苦かった。「最高の弁護士を用意してあげるわ」彼女は手を伸ばし、俺の顔につ
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第3話
「終わったよ」凛の声が、俺を現実へと引き戻した。手の甲にはすでに包帯が巻かれており、薄暗い照明の下で白いガーゼが少し眩しかった。我に返ると、凛が俺をじっと睨みつけていることに気がついた。その瞳の奥には、俺には理解できない感情が渦巻いていた。「震えてるよ」と彼女は言った。俺はうつむき、自分のねじ曲がった指を見つめた。ああ、そうだ。俺は震えている。千雪が約束を破ったからだ。あの「裏工作」とやらは、刑期延長へと変わった。2年の約束が5年になったのだ。そして俺の両親も、俺を見捨ててしまった……刑務所内で模範囚として得られた数え切れないほどの家族への電話の機会は、すべて一方的に切られてしまった。ただ一度だけ繋がった電話の相手は、蒼汰だった。「湊さん、もう電話してこないでください。ご両親も、あなたのことを聞くたびに胸が苦しくなるんです。ようやく良くなってきたお体なんですから、これ以上の刺激に耐えられませんよ……」――どうしてこいつが電話に出たんだ?頭の中は一瞬で真っ白になった。次の瞬間、母さんが電話を奪い取った。「よくも電話なんてできたわね!柊家の顔に泥を塗って!飲酒、無謀運転、挙句の果てに人を轢き殺すなんて……どうしてこんな畜生を産んでしまったのかしら!」「母さん、違うんだ。俺は……」「黙りなさい!母さんなんて呼ばないで!」父さんの声が電話口に割り込んできた。深い嫌悪感がこもっていた。「うちにお前のような息子はいない!二度と連絡してくるな。お前のような息子は産まなかったことにしてやる!」立て続けに、電話の向こうから蒼汰の爽やかな声が聞こえてきた。「お二人とも、どうか怒らないでください。お茶を飲んで落ち着いて。湊さんも、刑務所できっと更生してくれますよ」「やっぱり蒼汰くんは優しいわね」母さんの声が瞬時に穏やかなものへと変わった。「湊にあなたのような素直さを持ってればよかったのに。これからはあなたが私たちの本当の息子よ。あの親不孝者なんて、刑務所で死ねばいいわ!」電話は切れた。俺は受話器を握りしめたまま、ツーツーという無機質な電子音を聞いていた。まるで世界中から見放された孤独な亡霊のように。あいつは俺の愛する人を奪い、俺に濡れ衣を着せただけでなく、俺の両親から、帰る
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第4話
それ以来、俺は二度と実家に電話をかけることはなかった。出所したその日までは。俺はこっそりと実家に戻り、遠くから両親の顔を一度だけでも見ようと思った。だが、豪邸の門は固く閉ざされ、そこには差し押さえの札が貼られていた。近所の人が教えてくれた。「柊家だって?とっくに潰れたよ。何があったかは知らないが、柊の旦那さんは脳溢血で即死だったらしくてね。奥さんもショックに耐えきれず、数日後には後を追うように亡くなったよ」俺は骨身に染みる寒風の中に立ち尽くし、かつては笑い声に満ちていたその家が、死の館へと変わったのをただ見つめていた。俺には、両親の遺骨を引き取る資格さえなかった。俺にはもう帰る家がなかった。千雪が俺に約束したことは、すべてが嘘だった。「凛」俺は顔を上げ、乾いた声で呼んだ。「人の心って、あそこまでどす黒くなれるものなのか?あいつらは……よく平気な顔をして暮らしているもんだな」凛は答えなかった。彼女は立ち上がり、その長身でドアの隙間から吹き込む寒風を遮ってくれた。彼女は懐からカイロを取り出すと、おにぎりが入った弁当箱と一緒に、俺の胸に押し付けた。「少し食べて」そう言い残し、俺が断る隙も与えず、彼女は背を向けて立ち去ろうとした。ドアのところまで行くと彼女は足を止め、背を向けたまま、低く掠れた声で言った。「湊、振り返るのはダメ。あんなクズどものために、あなたが手を汚す価値なんてないのよ。これからは、私がいる」ドアが閉まった。再び目を覚ました時、外はすでに明るくなっていた。半地下の狭い換気窓から、寒々しい朝日が数筋漏れ入ってきていた。俺は起き上がり、屋台を出すためにドアを開けようとした。ドアをほんの少し開けた途端、冷たい寒風とともに見覚えのある香水の匂いが鼻を突いた。俺は全身を強張らせた。狭くて薄暗い廊下に、この場所には不釣り合いな女が立っていたのだ。桐生千雪。彼女はカシミヤのコートを着ており、相変わらず気品に満ちていた。だが目の奥には血走った赤みがあり、徹夜でもしたかのようだった。足元には無数のタバコの吸い殻が散乱している。俺がドアを開けたのを見ると、彼女は手にしていたタバコの火を消し、俺から片時も視線を外そうとしなかった。「湊」その声はかすれ、ほんの
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第5話
「あの時、私は本当にあなたを助け出そうとしていたわ。でも、突然産気づいて早産になって、子どもの命が危なくて……」手にしたナイフが震えるほど笑いながら、俺の目尻からはボロボロと涙がこぼれ落ちていた。「はいはい、お前が早産になった。でも、俺のほうはどうだ?千雪、お前の言う苦しい事情とやらは、あの人殺しの身代わりに俺を刑務所に入れることだったのか?両親が惨死したっていうのに、死に目にすら会わせないことか?この両手が使い物にならなくなるまで壊されることだったのか?」千雪は俺の奇形に変形した手を見て、瞳を激しく揺らした。「そんな……裏で手を回したはずなのに。あなたに配慮するよう頼んでおいたのに……こんなに酷い怪我を負っていたなんて知らなかったわ!てっきり……」彼女は慌てて俺の手を握ろうとしたが、俺はそれを思い切り振り払った。「触るな!」千雪はその場に凍りつき、ごくりと唾を飲み込んだ後、バッグから一枚のキャッシュカードを取り出し、油汚れだらけの机の上に震える手で置いた。「湊、この中に2億円入ってるわ。お金で償えないことは分かってるけれど、今のあなたにはお金が必要でしょう。まずは住む場所を変えて。こんな半地下、人間の住む場所じゃないわ。手は一番いい医者を探して治してあげるから……」「その金を持って失せなさい!」突然、ドアの入り口で氷のように冷たい女の声が響き渡った。いつの間にか、凛が引き返してきていたのだ。2杯のコーヒーを提げた彼女の長身が、ドアからの光をほとんど遮っていた。彼女はコーヒーを玄関の靴箱に無造作に置くと、大股で踏み込み、千雪の胸ぐらを掴んでドアの外へ突き飛ばした。「あなた、誰よ?離しなさい!」千雪は怒りで眉間と額に青筋を立てた。「彼の女よ!」凛は冷たく吐き捨てた。眉骨の傷跡が、ひときわ凶暴に歪んだ。「その汚い金を持って、さっさとここから消えなさい。二度と湊に付きまとったら、あんたも刑務所にぶち込んでやるわよ」千雪は廊下の壁に激しく叩きつけられた。あのカードは凛が指で挟み取られ、千雪の顔面に投げつけられ、赤い筋を刻んだ。「失せなさい!」千雪は這いつくばった状態から惨めに立ち上がり、俺を深く見つめた。その目には悔しさと、何か刺し貫かれたような後悔の色が満ちており、最後には歯を
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第6話
千雪が現れても、俺の日常が変わることはなかった。相変わらず、その日暮らしのために奔走する毎日だ。路上営業の取り締まりで焼き芋の屋台を没収され、高級クラブの清掃員として働くしか道はなくなった。給料は日払い。うつむいて黙々と働きさえすれば、清掃員の過去など誰も気に留めない。だが、悪縁とはよく言ったものだ。その夜、クラブで一番広いVIPルームが貸し切られていた。桐生家の幼い息子の、5歳の誕生日パーティーが開かれているという。俺はモップを握りしめ、できるだけ部屋の隅に身を潜めた。ケーキのカットが終わったら、すぐに床に落ちたクリームを片付けようと待機していた。「ママ、おしっこ!」以前一度だけ見かけたあの子ども・翔太が、突然俺を指差して声を上げた。「あのブサイクなおじさんに連れてってもらう!」部屋の空気が一瞬にして凍りついた。上座に座っていた蒼汰の視線が部屋の隅にいる俺に向けられ、その口角が嘲るように吊り上がった。「おや、湊さんじゃないですか」彼はわざとらしく口元を覆い、5年前のような口振りで驚いてみせた。「どうしてこんな所で清掃員なんてやってるんです?いやはや、そんな臭いじゃ、うちの子の具合が悪くならないか心配ですよ」彼の隣でワイングラスを傾けていた千雪は、その言葉に弾かれたように顔を上げた。色あせた作業着をまとい、薄汚れたモップを握りしめている俺の姿を見て、彼女の瞳に戸惑いと気まずさがよぎった。「湊……」彼女が口を開きかけた、その時だった。蒼汰が先手を打った。彼は鞄から1万円札の束を取り出すと、俺の顔めがけて容赦なく投げつけたのだ。宙を舞った紙幣はひらひらと、酒のシミがこびりついた床へと散らばっていった。「うちの子がわざわざご指名なんだ。お前にとっちゃ身に余る光栄だろう?」蒼汰は肩を揺らして笑った。「床の札を一枚ずつ拾い集めなよ。このチップはお前のものだ。それから息子をトイレに連れて行け。便器はピカピカに磨いておけよ。うちの息子にばっちい思いをさせるな」周りの客たちは気まずそうにしていたが、今の「結城様」の機嫌を損ねる勇気のある者などおらず、次々と同調しては愛想笑いを浮かべた。「拾いなよ。その束なら何百万もあるだろう。あいつの数ヶ月分の稼ぎになるんじゃないか?」「人殺
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第7話
「あんたたち、やめなさい」怒気に満ちた声だった。凛は背後に黒服のボディガードを従え、圧倒的なオーラを放ちながら歩み入ってきた。今の彼女の眼差しは刃のように鋭く、全身から人の上に立つ者特有の威圧感を放っている。部屋の中は一瞬にして静まり返った。マネージャーは恐怖で腰を抜かし、そのまま床にへたり込んだ。「た、橘社長……?」千雪も弾かれたように立ち上がり、信じられないといった目で凛を見つめた。「橘凛?鳴海市で今一番勢いのある新興グループの……?あなたが……」凛は彼女たちを一瞥すらせず、まっすぐに俺の目の前まで歩み寄った。彼女は手を伸ばし、俺の口元の血を優しく拭い取った。その手つきは、まるでこの世で最も貴重な宝物を扱うかのように丁寧だった。「痛む?」と彼女は尋ねた。俺は呆然と彼女を見つめ、首を横に振ったが、涙が不甲斐なくこぼれ落ちた。凛は振り返り、その場にいる全員を舐め回すように見据えると、最後に蒼汰の蒼白な顔に視線を固定した。「さっき、どっちの手で彼にお金を投げた?」蒼汰は怯えて千雪の背後へ身を縮めた。「千雪……怖いよ……」千雪は無理をして彼の前に立ちはだかった。「橘社長、これは内輪の揉め事よ。湊は私の元婚約者で、罪を犯した身。私たちはただ彼に躾を……」「躾?」凛は冷笑し、手を上げて指を鳴らした。背後のボディガードが即座に進み出て、先ほどのマネージャーを床に取り押さえた。「さっき湊を殴ったその腕、潰しなさい」ボキッという鈍い骨の折れる音とともに、マネージャーの断末魔のような悲鳴が部屋中に響き渡った。恐怖のあまり、その場にいた全員が息を呑み、声を発することすらできなかった。凛は蒼汰の前に歩み寄り、冷ややかに出見下ろした。「拾いなさい」彼女は床に散らばった札束を指差した。「床のお札、一枚残らず拾い上げて、飲み込みなさい」「なんだと?」蒼汰は目を丸くした。「狂ってるのか?僕は桐生千雪の夫だぞ!桐生グループの……」「桐生?」凛は鼻で笑い、軽蔑の眼差しを向けた。「明日の朝、桐生グループがまだ桐生家のものかどうか、見ものね」彼女は振り返って俺の肩を抱き寄せ、全員の面前で宣言した。「よく聞きなさい。柊湊はこの橘凛が守る男よ。彼に指一本でも触れようも
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第8話
巨大な悲しみと怒りが、一瞬にして俺を飲み込んだ。俺はその数枚の写真を死に物狂いで握りしめ、爪が食い込んで写真がボロボロに引き裂かれた。「殺してやる……絶対に殺してやる!!!」俺は車の中で絶叫し、涙が堰を切ったように溢れ出した。結城蒼汰は俺の愛する人を奪い、俺の人生を壊しただけでなく、俺の両親まで手にかけたのだ!「チャンスは来るわ」凛は狂乱する俺を抱きしめ、俺の頭を彼女の胸元に押し当てた。「湊、まずは冷静になって。人殺しは犯罪よ。あんな人間のために、あなたが自分を犠牲にする価値なんてない。私たちがすべきことは、奴を社会的に抹殺すること。他人の血を啜って得たものをすべて吐き出させ、あなたの前に這いつくばって『殺してくれ』と乞いさせることよ」彼女の力強く安定した心音が鼓膜を叩き、崩壊寸前だった俺の理性を少しずつ引き戻していく。「来週には桐生グループの創立記念パーティーがあるわ。桐生千雪と結城蒼汰が結婚式をやり直す日でもあるの」凛は俺の髪を撫でながら、低い声で告げた。「あいつらが絶頂にいる時こそ、地獄へ突き落とす最高のタイミングよ」その後の数日間、俺は凛の屋敷に滞在した。彼女は最高峰の整形外科医を呼び寄せ、俺の手を診察させた。医師は首を横に振った。「骨が歪んでから時間が経ちすぎています。ピアノを弾けるように回復させるのは不可能ですが、手術を行えば、見た目と基本的な日常生活の動作は取り戻せるでしょう」俺はその残骸のような手を見つめたが、心に波風は立たなかった。ピアノが弾けるかどうかなど、もうどうでもよかった。今の俺にあるのは、復讐への執念だけだった。凛は俺に全身のケアを受けさせ、オーダーメイドのスーツをあつらえてくれた。彼女はある動画データを俺の前に提示した。それは5年前のあの交通事故の、ドライブレコーダーの映像だった。「この動画は桐生千雪が大金を払って隠滅したはずだった。でも彼女は思いもしなかったでしょうね。当時の修理工が、後でゆすりのネタにするためにバックアップを残していたなんて」凛は冷笑した。「残念ながら、その修理工がそれを使うより先に、私が見つけ出したけれど」動画にははっきりと記録されていた。運転席にいたのは蒼汰で、顔を真っ赤にしており、明らかに泥酔していた。動
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第9話
「そう焦るなよ」俺は凛の腕から手を離し、一歩ずつステージへの階段を上った。床に落ちていた指輪を拾い上げ、指先でもてあそんだ。「こんなおめでたい日だ。当然、祝いの品を届けに来たのさ」俺はマイクスタンドの前に立ち、かつては親しかったが今は見知らぬ他人のような客たちの顔を見渡し、最後に顔面蒼白になっている蒼汰へ視線を向けた。「結城蒼汰」俺は軽く笑ったが、その目には底知れぬ冷気が宿っていた。「いや、こう呼ぶべきか……結城捨松(ゆうき すてまつ)?」蒼汰は全身を震わせ、尻尾を踏まれた猫のように一瞬で逆上した。「黙れ!黙れ!僕は結城蒼汰だ!結城様だぞ!」「そうか?」俺は一歩詰め寄った。「忘れたのか?柊家の門前で土下座して援助を求めた時、お前は穴の空いた靴を履き、捨松と名乗っていたじゃないか。家が貧しくて家畜のように扱われていると言ったお前を、哀れに思って助け起こし、学費を払い、衣食を保証してやったのはこの俺だ。男が野良犬のような生き方をするべきじゃない。清く正しく、堂々と生きるべきだと言ってやった。だから俺が、蒼汰という新しい名前をつけてやったんだぞ」記憶の中の光景が脳裏に蘇ってくる。あの頃の彼は、やせ細って貧相で、いつも怯えた目をしていた。哀れな魂を救い出したつもりだったが、まさか自分の手で毒蛇を飼いならしていたとは思いもしなかった。俺は彼を実の弟のように可愛がり、様々な世界を見せ、礼儀作法を教え込んだ。しかし彼は俺の善意を哀れみと受け取り、俺の贈り物をひけらかしと捉え、最後には俺を泥沼に引きずり込み、血の最後の一滴まで吸い尽くそうとしたのだ。「もういい!」蒼汰が金切り声で俺の言葉を遮った。その瞳には怨念と後ろめたさが渦巻いていた。「柊湊!ここで偽善者ぶるのはやめろ!僕を助けてやってるつもりだったのか?お前はただ、自分のお高くとまった虚栄心を満たしたかっただけだろう!僕を取り巻きか召使いのように扱って!お下がりを着せ、到底馴染めないような上流階級の集まりに連れ回したのは、お前自身の高貴さを引き立たせるためだったくせに!お前が憎かった!死んでほしかった!お前が死んでこそ、僕は初めて顔を上げて生きていけるんだ!」彼のヒステリックな姿は、この上なく醜悪だった。会場の客たち
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第10話
会場が騒然となった。全員が驚愕して口を覆い、信じられないといった目でステージ上の新郎新婦を見つめた。「なんてことだ……あの事件の真相はこうだったのか?」「畜生め!人に濡れ衣を着せておいて、よくもあんなに堂々としていられたな?」「これが彼らの言う真実の愛?吐き気がするわ!」蒼汰は発狂したように叫んだ。「消せ!早く消せ!それは偽物だ!合成だ!柊湊、このクズめ、僕を陥れる気か!」彼はコントロールパネルに飛びつこうとしたが、俺の蹴り一発で床に倒れ込んだ。俺は彼の高価なタキシードの裾を踏みつけ、見下ろすように彼を見た。「焦るな、まだ続きがある」画面が切り替わり、今度は病院の監視カメラの映像になった。蒼汰がコソコソと薬をすり替える様子、そして両親が病床で苦しみもがき、やがて呼吸を止めるまでの光景が映し出された。最後に、一つの録音データが再生された。それは、蒼汰が酔っ払って遊び仲間たちに自慢げに語っている声だった。「柊家のあの老いぼれ二人がようやくくたばったよ。これで柊湊は天涯孤独だ。もう誰も僕から千雪を奪えない。そうだ、あの馬鹿はまだ刑務所の中で減刑を待ちわびてるんだな。ハハハ……」この瞬間、全ての真実が白日の下に晒された。会場の客たちは怒りに沸き返り、中にはそばにあったグラスを蒼汰に向かって投げつける者さえいた。「人殺し!」「この畜生!」千雪は床にへたり込み、スクリーンの映像を見つめながら、まるで魂を抜き取られたかのようだった。彼女は俺を見て、唇を震わせた。「湊……知らなかった……彼がご両親を殺しただなんて、本当に知らなかったのよ……」「知らなかっただと?」俺は彼女の前に歩み寄り、思い切りその頬を平手打ちした。「こいつが人を轢いたことは知らなかったのか?俺が無実の罪を着せられたことは知らなかったのか?俺が刑務所でどんな苦痛を味わったか、全部知らなかったと言えるのかお前は!桐生千雪、お前のその無知こそが、最大の共犯なんだよ!」ちょうどその時、パトカーのサイレンが鳴り響いた。警察官が宴会場に踏み込み、蒼汰の両手に手錠をかけた。彼は髪を振り乱し、顔をぐしゃぐしゃにしながら、狂人のように抵抗した。「僕は桐生千雪の夫だぞ!捕まるはずがない!千雪、助けて!助けてくれよ!
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