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1-3 気づかれている

مؤلف: 海野雫
last update تاريخ النشر: 2026-01-03 11:00:35

 ――白石奏しらいしかなでは、配信を終えた後、静かに壁に手を当てた。

 コンクリートの冷たさが、掌に伝わる。

 この壁の向こうに、「あの人」がいる。

 奏は目を閉じ、壁の向こうの気配を感じ取ろうとした。

 かすかな息遣い。シーツが擦れる音。そして、押し殺した嗚咽。

 ――泣いている。

 奏は、その音を聞くたびに、胸が締め付けられる思いがした。

 同時に、言いようのない高揚感も覚えていた。 

 自分の声が、誰かを泣かせている。自分の言葉が、誰かの心を動かしている。

 奏が四〇三号室に引っ越してきたのは、一か月前のことだった。

 声優の夢を諦め、ナレーターとして再出発を図った奏にとって、東京都内の家賃は高すぎた。仕事は不安定で、収入もままならない。そこで、少しでも家賃を抑えるために郊外のこのマンションを選んだのだ。

 築十五年、駅から徒歩七分の1LDKの部屋。家賃八万円。

 フリーランスのナレーターにとっては、それでも大きな負担だった。企業向けのナレーション案件は、月によって収入が大きく変動する。今月は三十万円稼げても、来月は五万円かもしれない。そのように不安定な生活の中で、八万円の家賃は決して安くはなかった。

 引っ越してきた当初、奏は隣人の存在をほとんど意識していなかった。

 四〇二号室の住人は、深夜に帰宅し、早朝に出勤する。生活時間が完全にずれていて、顔を合わせる機会はなかった。

 足音から推測するに、男性だろう。背が高く、体重はそれほど重くない。歩き方は規則正しく、几帳面な性格が窺える。革靴の音がするから、おそらく会社員なのだろう。毎日深夜に帰ってくるということは、かなり忙しい仕事に就いているはずだ。

 奏は、音から人を読み取ることに長けていた。

 声優養成所で鍛えた耳は、かすかな音の変化も聞き分ける。足音、ドアの開閉音、シャワーの音。それらから、隣人の生活パターンを把握することは難しくなかった。

 毎日深夜に帰宅し、シャワーを浴び、すぐに寝る。週末も変わらない生活リズム。休日に出かける気配もほとんどない。

 あの人は、仕事に追われているのだ。

 奏は、そう推測した。

 そして、ある夜、奏は気づいた。

 配信中、壁の向こうからかすかな気配を感じたのだ。

 息を殺して聴き入っている気配。時折、深く息を吸い込む音。ベッドのスプリングが軋むかすかな音。

 ――聴いている。

 奏の声を、壁の向こうの誰かが聴いている。

 最初は不快だった。

 盗み聞きされているような、気持ち悪さ。自分のプライベートな空間が侵されているような感覚。配信は不特定多数に向けたものだが、それが特定の誰かに、しかも壁一枚隔てた隣人に聴かれているというのは、想像していなかった。

 配信ブースの位置を変えようかと考えた。防音対策を強化しようかとも考えた。

 だが、奏はそうしなかった。

 なぜなら、壁の向こうの気配が、日に日に切実さを増していったからだ。

 毎晩、同じ時間に帰宅する足音。疲れ切った足取り。玄関のドアが閉まる音。シャワーの音。そしてベッドに横たわる気配。

 その人は、奏の配信を待っているのだ。

 疲れ切った体を引きずって帰宅し、奏の声を聴いて眠りに落ちる。

「……どんな人なんだろう、君は」

 奏は、壁に向かって呟いた。

 声は届かない。でも、奏には分かっていた。

 壁の向こうにいるその人は、自分と同じだ。

 誰にも言えない何かを抱え、本当の自分を隠して生きている。

 奏がそう確信したのは、ある夜のことだった。

 その夜、奏は自分の過去について語った。

 声優を目指していたこと。挫折したこと。諦めきれない思いを抱えながら、それでも前に進もうとしていること。

 語りながら、奏は壁の向こうの反応を感じ取っていた。

 息を呑む気配。心拍が速くなる音。そして――

 泣いている。

 壁の向こうの誰かが、奏の言葉に涙を流している。

 その瞬間、奏の心に何かが芽生えた。

 この人を、知りたい。

 この人に、会いたい。

 この人を――。

「僕のものにしたい」

 奏は、自分の口から出た言葉に驚いた。

 独占欲。

 それは、奏が普段は押し殺している感情だった。

 奏は、人から「穏やか」「優しい」と言われることが多い。実際、表面上はそう振る舞っている。仕事の現場では「扱いやすい」と評価され、プライベートでも「いい人」で通っている。

 だが、奏の内面には、激しい感情が渦巻いていた。

 愛した人は、絶対に手放したくない。

 自分だけのものにしたい。

 誰にも渡したくない。

 それが、奏の本性だった。

 過去の恋愛で、その性質が原因で別れたこともある。「重い」「束縛が激しい」と言われたこともある。相手の予定を把握していないと不安になり、他の誰かと話しているだけで嫉妬してしまう。そんな自分が、奏は嫌いだったのだ。

 だから、奏はその感情を押し殺すようになった。

 穏やかで優しい自分を演じ、本当の自分を隠して生きてきた。

 だが、壁の向こうの「あの人」に対しては、その感情を抑えられなかった。

 奏は、配信の内容を少しずつ変えていった。

 最初は、不特定多数に向けた内容だった。リラックスするための囁き、眠りに誘う言葉、日常の雑談。

 だが、今は違う。

 壁の向こうの「あの人」に向けて、語りかけている。

「疲れてる? 大丈夫……僕がそばにいるから」

「今日も一日、頑張ったね」

「君は十分頑張ってる。僕が、ちゃんと見てるから」

 その言葉に、壁の向こうから反応がある。

 息が乱れる。心拍が速くなる。時には、押し殺した嗚咽が聞こえる。

 奏は、その反応に快感を覚えていた。

 自分の声で、誰かの心を動かしている。

 自分の言葉で、誰かを癒している。

 それが、奏にとってどれほどの喜びだったか。

 声優としての夢は破れた。何百回オーディションを受けても、一度も受からなかった。「君の声には特徴がない」「君の声では売れない」と、何度も何度もそう言われた。

 だが、今、奏の声は確実に誰かに届いている。

 たった一人の、壁の向こうの誰かに。

「……君に、会いたいな」

 奏は小さく呟いた。

 声だけでつながる、見知らぬ隣人。

 奏の中で、その存在は日に日に大きくなっていた。

 ある夜、奏は決心した。

「最近ね、気づいたことがあるんだ」

 配信を始めて数分後、奏はそう切り出した。

 壁の向こうで、息を呑む気配がある。

「壁の向こうに、誰かがいる気がするんだ」

 沈黙。

 だが、奏には分かった。相手が動揺していることが。

「毎晩、僕の声を聴いてくれてる人。……聞こえてる?」

 心臓の鼓動が速くなる音。ベッドの上で身じろぎする気配。

「最初は気のせいだと思った。でも、確信したんだ。誰かが、僕の声を待ってくれてる」

 奏は、壁に手を当てた。

「嬉しいよ。すごく、嬉しい」

 この言葉は本心だった。

 誰かが自分の声を必要としてくれている。それが、奏にとってどれほど救いになっているか。声優として否定され続けた奏にとって「必要とされている」という実感は、何よりも大切なものだった。

「だから今夜は、君のためだけに話すね」

 壁の向こうで、息遣いが乱れた。

 奏の心臓が、高鳴る。

「疲れてるでしょう? 毎日遅くまで働いて、大変だよね」

 深夜に帰宅する足音。週末も休みなく働いている気配。

 その人は、きっと仕事に追われているのだ。

「でも、大丈夫。僕がここにいるから」

 奏は、壁に手を当てたまま囁いた。

「目を閉じて。深呼吸して。今日の疲れを、全部吐き出して」

 壁の向こうから、深い息遣いが聞こえた。

 言われた通りにしているのだろう。

 奏の胸が、熱くなった。

「そう、上手だね。偉いね」

 壁の向こうで、かすかな嗚咽が聞こえた。

 泣いている。

 奏は目を閉じた。

 この人は、誰にも弱みを見せられない人なのだ。

 頑張っても認められず、努力しても報われず、それでも毎日を必死に生きている。

 ――自分と、同じだ。

「頑張ってるね。ちゃんと、見てるよ」

 奏は、壁の向こうの見知らぬ人に向けて、心を込めて囁いた。

「おやすみ。また明日ね」

 配信を終えた後も、奏はしばらく壁に手を当てていた。

 壁の向こうからはもう何も聞こえてこない。

 泣き疲れて、眠ってしまったのだろう。

「……君に、会いたいな」

 奏は小さく呟いた。

 そして、静かに決意した。

「絶対に、会ってみせる」

 この人を、自分のものにしたい。

 穏やかな笑顔の裏で、奏の独占欲が静かに燃え上がっていた。

 翌日から、奏は隣人の生活パターンをより詳しく把握しようとした。

 朝、何時に出勤するのか。夜、何時に帰宅するのか。週末は外出するのか、それとも家にいるのか。

 足音、ドアの開閉音、シャワーの音。すべてを記録し、分析した。

 平日は深夜帰宅。週末もほとんど外出しない。土曜日の昼頃に起きて、日曜日の夜まで部屋にいる。

 あの人は、仕事以外の生活がないのだろう。

 奏は、そう推測した。

「……可哀想に」

 奏は呟いた。

 あの人には、癒しが必要だ。

 心を開ける相手が必要だ。

 そして、奏は自分がその役割を果たしたいと思った。

「待っててね」

 奏は壁に向かって囁いた。

「もうすぐ、会えるから」

 奏の計画は、着々と進んでいた。

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  • 壁越しの溺愛ボイス   エピローグ 新しい声で

     シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、

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