Mag-log in ――
コンクリートの冷たさが、掌に伝わる。
この壁の向こうに、「あの人」がいる。
奏は目を閉じ、壁の向こうの気配を感じ取ろうとした。
かすかな息遣い。シーツが擦れる音。そして、押し殺した嗚咽。
――泣いている。
奏は、その音を聞くたびに、胸が締め付けられる思いがした。
同時に、言いようのない高揚感も覚えていた。
自分の声が、誰かを泣かせている。自分の言葉が、誰かの心を動かしている。
奏が四〇三号室に引っ越してきたのは、一か月前のことだった。
声優の夢を諦め、ナレーターとして再出発を図った奏にとって、東京都内の家賃は高すぎた。仕事は不安定で、収入もままならない。そこで、少しでも家賃を抑えるために郊外のこのマンションを選んだのだ。
築十五年、駅から徒歩七分の1LDKの部屋。家賃八万円。
フリーランスのナレーターにとっては、それでも大きな負担だった。企業向けのナレーション案件は、月によって収入が大きく変動する。今月は三十万円稼げても、来月は五万円かもしれない。そのように不安定な生活の中で、八万円の家賃は決して安くはなかった。
引っ越してきた当初、奏は隣人の存在をほとんど意識していなかった。
四〇二号室の住人は、深夜に帰宅し、早朝に出勤する。生活時間が完全にずれていて、顔を合わせる機会はなかった。
足音から推測するに、男性だろう。背が高く、体重はそれほど重くない。歩き方は規則正しく、几帳面な性格が窺える。革靴の音がするから、おそらく会社員なのだろう。毎日深夜に帰ってくるということは、かなり忙しい仕事に就いているはずだ。
奏は、音から人を読み取ることに長けていた。
声優養成所で鍛えた耳は、かすかな音の変化も聞き分ける。足音、ドアの開閉音、シャワーの音。それらから、隣人の生活パターンを把握することは難しくなかった。
毎日深夜に帰宅し、シャワーを浴び、すぐに寝る。週末も変わらない生活リズム。休日に出かける気配もほとんどない。
あの人は、仕事に追われているのだ。
奏は、そう推測した。
そして、ある夜、奏は気づいた。
配信中、壁の向こうからかすかな気配を感じたのだ。
息を殺して聴き入っている気配。時折、深く息を吸い込む音。ベッドのスプリングが軋むかすかな音。
――聴いている。
奏の声を、壁の向こうの誰かが聴いている。
最初は不快だった。
盗み聞きされているような、気持ち悪さ。自分のプライベートな空間が侵されているような感覚。配信は不特定多数に向けたものだが、それが特定の誰かに、しかも壁一枚隔てた隣人に聴かれているというのは、想像していなかった。
配信ブースの位置を変えようかと考えた。防音対策を強化しようかとも考えた。
だが、奏はそうしなかった。
なぜなら、壁の向こうの気配が、日に日に切実さを増していったからだ。
毎晩、同じ時間に帰宅する足音。疲れ切った足取り。玄関のドアが閉まる音。シャワーの音。そしてベッドに横たわる気配。
その人は、奏の配信を待っているのだ。
疲れ切った体を引きずって帰宅し、奏の声を聴いて眠りに落ちる。
「……どんな人なんだろう、君は」
奏は、壁に向かって呟いた。
声は届かない。でも、奏には分かっていた。
壁の向こうにいるその人は、自分と同じだ。
誰にも言えない何かを抱え、本当の自分を隠して生きている。
奏がそう確信したのは、ある夜のことだった。
その夜、奏は自分の過去について語った。
声優を目指していたこと。挫折したこと。諦めきれない思いを抱えながら、それでも前に進もうとしていること。
語りながら、奏は壁の向こうの反応を感じ取っていた。
息を呑む気配。心拍が速くなる音。そして――
泣いている。
壁の向こうの誰かが、奏の言葉に涙を流している。
その瞬間、奏の心に何かが芽生えた。
この人を、知りたい。
この人に、会いたい。
この人を――。
「僕のものにしたい」
奏は、自分の口から出た言葉に驚いた。
独占欲。
それは、奏が普段は押し殺している感情だった。
奏は、人から「穏やか」「優しい」と言われることが多い。実際、表面上はそう振る舞っている。仕事の現場では「扱いやすい」と評価され、プライベートでも「いい人」で通っている。
だが、奏の内面には、激しい感情が渦巻いていた。
愛した人は、絶対に手放したくない。
自分だけのものにしたい。
誰にも渡したくない。
それが、奏の本性だった。
過去の恋愛で、その性質が原因で別れたこともある。「重い」「束縛が激しい」と言われたこともある。相手の予定を把握していないと不安になり、他の誰かと話しているだけで嫉妬してしまう。そんな自分が、奏は嫌いだったのだ。
だから、奏はその感情を押し殺すようになった。
穏やかで優しい自分を演じ、本当の自分を隠して生きてきた。
だが、壁の向こうの「あの人」に対しては、その感情を抑えられなかった。
奏は、配信の内容を少しずつ変えていった。
最初は、不特定多数に向けた内容だった。リラックスするための囁き、眠りに誘う言葉、日常の雑談。
だが、今は違う。
壁の向こうの「あの人」に向けて、語りかけている。
「疲れてる? 大丈夫……僕がそばにいるから」
「今日も一日、頑張ったね」
「君は十分頑張ってる。僕が、ちゃんと見てるから」
その言葉に、壁の向こうから反応がある。
息が乱れる。心拍が速くなる。時には、押し殺した嗚咽が聞こえる。
奏は、その反応に快感を覚えていた。
自分の声で、誰かの心を動かしている。
自分の言葉で、誰かを癒している。
それが、奏にとってどれほどの喜びだったか。
声優としての夢は破れた。何百回オーディションを受けても、一度も受からなかった。「君の声には特徴がない」「君の声では売れない」と、何度も何度もそう言われた。
だが、今、奏の声は確実に誰かに届いている。
たった一人の、壁の向こうの誰かに。
「……君に、会いたいな」
奏は小さく呟いた。
声だけでつながる、見知らぬ隣人。
奏の中で、その存在は日に日に大きくなっていた。
ある夜、奏は決心した。
「最近ね、気づいたことがあるんだ」
配信を始めて数分後、奏はそう切り出した。
壁の向こうで、息を呑む気配がある。
「壁の向こうに、誰かがいる気がするんだ」
沈黙。
だが、奏には分かった。相手が動揺していることが。
「毎晩、僕の声を聴いてくれてる人。……聞こえてる?」
心臓の鼓動が速くなる音。ベッドの上で身じろぎする気配。
「最初は気のせいだと思った。でも、確信したんだ。誰かが、僕の声を待ってくれてる」
奏は、壁に手を当てた。
「嬉しいよ。すごく、嬉しい」
この言葉は本心だった。
誰かが自分の声を必要としてくれている。それが、奏にとってどれほど救いになっているか。声優として否定され続けた奏にとって「必要とされている」という実感は、何よりも大切なものだった。
「だから今夜は、君のためだけに話すね」
壁の向こうで、息遣いが乱れた。
奏の心臓が、高鳴る。
「疲れてるでしょう? 毎日遅くまで働いて、大変だよね」
深夜に帰宅する足音。週末も休みなく働いている気配。
その人は、きっと仕事に追われているのだ。
「でも、大丈夫。僕がここにいるから」
奏は、壁に手を当てたまま囁いた。
「目を閉じて。深呼吸して。今日の疲れを、全部吐き出して」
壁の向こうから、深い息遣いが聞こえた。
言われた通りにしているのだろう。
奏の胸が、熱くなった。
「そう、上手だね。偉いね」
壁の向こうで、かすかな嗚咽が聞こえた。
泣いている。
奏は目を閉じた。
この人は、誰にも弱みを見せられない人なのだ。
頑張っても認められず、努力しても報われず、それでも毎日を必死に生きている。
――自分と、同じだ。
「頑張ってるね。ちゃんと、見てるよ」
奏は、壁の向こうの見知らぬ人に向けて、心を込めて囁いた。
「おやすみ。また明日ね」
配信を終えた後も、奏はしばらく壁に手を当てていた。
壁の向こうからはもう何も聞こえてこない。
泣き疲れて、眠ってしまったのだろう。
「……君に、会いたいな」
奏は小さく呟いた。
そして、静かに決意した。
「絶対に、会ってみせる」
この人を、自分のものにしたい。
穏やかな笑顔の裏で、奏の独占欲が静かに燃え上がっていた。
翌日から、奏は隣人の生活パターンをより詳しく把握しようとした。
朝、何時に出勤するのか。夜、何時に帰宅するのか。週末は外出するのか、それとも家にいるのか。
足音、ドアの開閉音、シャワーの音。すべてを記録し、分析した。
平日は深夜帰宅。週末もほとんど外出しない。土曜日の昼頃に起きて、日曜日の夜まで部屋にいる。
あの人は、仕事以外の生活がないのだろう。
奏は、そう推測した。
「……可哀想に」
奏は呟いた。
あの人には、癒しが必要だ。
心を開ける相手が必要だ。
そして、奏は自分がその役割を果たしたいと思った。
「待っててね」
奏は壁に向かって囁いた。
「もうすぐ、会えるから」
奏の計画は、着々と進んでいた。
挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。
翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真
午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ
一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。
シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、
赴任前日の夜。 涼介と奏は、涼介の部屋で最後の夜を過ごしていた。 明日の朝、涼介は成田空港へ向かい、そこからシンガポールへ飛ぶ。一年間、日本には戻れない。 その事実が、二人の間に重く横たわっていた。部屋の空気まで、いつもより重く感じられる。 夕食を終えた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。テレビの音だけが、部屋に響いている。「涼介」「ん?」「明日から、一年間……」「ああ」「長いね」「……長いな」 沈黙が流れた。 言葉にしてしまうと、現実がいっそう重くのしかかってくる。一年間という時間の重さが、二人の肩にのしかかっていた。三百六十五日。その間、二人は離れ離れになる。「涼介、約束して」 奏が涼介の手を取った。奏の手が、少しだけ震えている。「必ず、帰ってきて」「約束する。必ず帰ってくる」「毎日、連絡して」「するよ。毎日、奏の声を聴きたい」「僕も。涼介の声、毎日聴きたい」 奏の目に、涙が滲んでいた。涼介も、目頭が熱くなるのを感じた。泣くまいと思っていたのに、涙が勝手にこぼれそうになる。「奏、泣くなよ」「泣いてないよ」「嘘つけ」「涼介こそ、泣きそうな顔してる」「泣いてない」 二人は顔を見合わせて、苦笑した。どちらも、泣きそうな顔をしていた。「涼介」「ん?」「最後の夜……一緒にいてくれる?」 奏の声が、甘く震えた。その声には、懇願が込められていた。甘い囁きが涼介の鼓膜を震わせる。その声を聴くだけで、涼介の全身が反応してしまう。「当たり前だ。今夜は、どこにも行かない」 涼介は奏を引き寄せた。奏の体が、涼介の腕の中に収まる。互いの体温が、
赴任の返事をしてから、涼介は自分の様子がおかしくなっていることを自覚していた。 奏と一緒にいる時も、どこか上の空になってしまう。会話をしていても、反応が遅れる。笑おうとしても、顔の筋肉がうまく動かない。奏と目を合わせようとしても、罪悪感で視線を逸らしてしまう。 そして、奏も涼介の変化に気づいているようだった。 奏の態度が、少しずつ変わってきている。涼介を見る目には、以前にはなかった不安の色が滲んでいる。涼介が何か言おうとすると、奏は身構えるような表情をする。何か悪い知らせを待っているかのように、怯えた目で涼介を見つめる。
仲直りから一週間後、涼介の人生を変える出来事が起こった。 その日の朝、涼介は上司の村田部長に呼び出された。村田のデスクに近づくと、村田は珍しく緊張した面持ちで涼介を見た。「黒川、人事から話がある。十時に第三会議室に来てくれ」 村田の表情は、いつもより硬かった。涼介は嫌な予感を覚えながら頷いた。 十時になり、涼介は第三会議室に向かった。ドアをノックして中に入ると、すでに人事部の課長と村田部長が席についていた。窓から差し込む朝日がテーブルの上に長い影を落としている中、涼介は指定された席に座り、二人の顔を見た。「
4-1 甘い日常 八月に入っても、東京の猛暑は衰える気配を見せなかった。 朝から気温は三十度を超え、昼間には三十五度に達することも珍しくない。アスファルトが熱を蓄え、街全体が蒸し風呂のようになっている。蝉の声が朝早くから響き渡り、夜になっても熱気は消えない。 けれど涼介にとって、この夏は今まで経験したどの夏よりも心地よかった。 奏と恋人になって、二か月が経っていた。 あれから二人の関係は、目に見えて変化した。毎日のように互いの部屋を行き来し、夕食を一緒に食べ、
奏が涼介の唇を塞いだ。 いつもより激しいキスだった。舌と舌が絡み合い、息が混じり合う。涼介は奏の体を強く抱きしめた。離したくなかった。誰にも渡したくなかった。藤井の顔が、まだ頭の中にちらついている。奏と五年間一緒にいた男。涼介よりずっと長く、ずっと深く、奏を知っている男。 その男に、奏を渡してたまるか。 涼介は自分でも驚いていた。こんなにも激しい感情を抱くなんて、今まで経験したことがなかった。職場では常に冷静で、感情を表に出さないのが涼介のスタイルだった。けれど奏の前では、その仮面が剥がれ落ちていく。嫉妬という感情が、涼介の内側を焼き尽く