LOGIN土曜日の昼過ぎ。
珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。
平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。
カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。
冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。
買い物に行かなければ。
そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。
コンビニでいいか。
涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。
インターホンが鳴ったのはその時だった。
「宅配便でーす」
涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。
しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。
ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。
「黒川さんですか?」
「はい」
「お届け物です。サインお願いします」
涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。
ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。
「……白石奏様?」
宛名が違う。
住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。
誤配達か。
涼介は溜息をついた。
本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。
隣に届けるしかないだろう。
涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。
インターホンを押す。
数秒の沈黙。
涼介の心臓が、なぜか早く脈打っていた。
四〇三号室。ここが、あの声の主の部屋だ。
毎晩、壁の向こうから聞こえてくる、低く甘い囁き声。その声の主が、このドアの向こうにいる。
会いたいと思っていた。でも、会うのが怖かった。顔を見たら、声だけで作り上げた幻想が壊れてしまうかもしれないし、理想化していた相手が実際には全く違う人間かもしれない。
足音が聞こえる。
ドアが開いた。
「はい……?」
涼介の息が、止まった。
時間が、止まったような錯覚。
ドアの向こうに立っていたのは、中性的で繊細な美貌の青年だった。
焦げ茶のセミロングの髪を後ろで緩く束ねた、細身だが姿勢の美しい体。身長は涼介より頭一つ低く、百七十センチあるかないかだろう。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。白いシャツに黒のカーディガンを身に着け、どこか儚げな雰囲気を纏っている。
だが、涼介の視線を奪ったのは、その外見ではなかった。
「お届け物が……間違えて、俺のところに」
涼介は震える声で言った。
「あぁ、すみません。わざわざありがとうございます」
――この声だ。
低く、甘い、囁くような声。
壁の向こうから毎晩聞こえていた、あの声。
間違いない。
涼介の全身に鳥肌が立った。心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っている。膝が震え、立っているのがやっとだった。背筋に電流が走り、全身の毛穴が開いていくような感覚だった。
目の前にいる。
あの声の主が、今、目の前にいる。
涼介の視界が、その青年だけで埋め尽くされていく。光に照らされた横顔、声を発する瞬間の口元、喉仏のわずかな動き。すべてが、涼介の網膜に焼き付いていく。
美しい。
こんなにも、美しい人がいるのか。
声だけでも惹かれていた。でも、顔を見て、さらに深く惹かれてしまった。声と顔が、完璧に調和している。この声は、この顔から発せられるべき声だ。そう思えるほどに、すべてが完璧だった。
「初めまして。白石です」
青年が微笑んで手を差し出す。
涼介は呆然としたまま、その手を握った。
触れた瞬間、全身に電流が走った。
白石奏。
それが、声の主の名前だった。
手のひらから伝わる体温。細くて、でも確かな存在感のある指。その手に触れているだけで、涼介の心臓は狂ったように暴れていた。
これが、恋なのだろうか。
こんなにも激しく、こんなにも突然、人を好きになることがあるのか。
涼介は今まで、誰かに一目惚れしたことなどなかった。ゲイであることを自覚してからも、恋愛は常に受け身だった。自分から誰かを好きになることを、無意識に避けてきた。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。だから、誰のことも好きにならないようにしてきた。
でも、今は違う。
この人のことが、好きだ。
声だけを知っていた時から、ずっと惹かれていた。そして今、顔を見て、手に触れて、確信した。
この人のことを、もっと知りたい。
この人の声を、もっと近くで聴きたい。
この人に――。
「お隣さんですよね? いつもお世話になってます」
奏の声が、涼介の思考を遮った。
「あ、いえ……こちらこそ。黒川涼介です」
涼介の声が上ずっている。
自分でも分かるほど、動揺していた。顔が熱い。きっと赤くなっているだろう。こんなに動揺したのは、いつ以来だろう。
白石――奏は、じっと涼介を見つめていた。
その目には、何か探るような光があった。切れ長の目が、涼介の全身を観察している。まるで、涼介の反応を確かめるかのように。
「あの……」
涼介が口を開こうとした時、奏が先に言った。
「いつも……お帰りが遅いんですね。大変ですね」
涼介の心臓が跳ね上がった。
知っている。
奏は、涼介の生活パターンを知っている。
「えっと……」
「足音で分かるんです。いつも深夜に帰ってきて、朝早く出勤されてるでしょう?」
奏が微笑む。
その笑顔は穏やかだったが、涼介にはどこか違和感があった。
何かが、隠されている。
その目の奥に、何か熱いものが揺れている気がした。
「毎日遅くまでお仕事、大変ですよね。休日くらい、ゆっくり休んでくださいね」
「……ありがとうございます」
涼介は荷物を渡そうとした。
だが、奏はすぐには受け取らなかった。
「よかったら、お茶でも飲んでいきませんか?」
「え?」
「せっかくわざわざ届けてくださったのに、何もお礼しないのは申し訳ないですから」
奏の目が、まっすぐに涼介を見つめている。
断るべきだ、と涼介は思った。
見知らぬ隣人の部屋に上がり込むなんて、普通じゃない。ましてや、毎晩その人の声を聴いて興奮している相手の部屋になど、行くべきではない。
でも、涼介の口は勝手に動いていた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
なぜそう答えたのか、涼介自身にも分からなかった。
あるいは、分かっていたのかもしれない。
この人と、もっと話したい。この声を、もっと近くで聴きたい。その欲望が、理性を上回ってしまったのだ。
奏の部屋は、涼介の部屋と同じ間取りだった。
1LDKの空間。だが、涼介の部屋とは雰囲気が全く違う。
涼介の部屋は、必要最低限の家具しかない。ベッド、デスク、小さな本棚。生活感のない、殺風景な空間。まるで、誰も住んでいないかのような無機質さ。
対して、奏の部屋は温かみのある空間だった。観葉植物が窓際に置かれ、壁には映画のポスターやアニメのキャラクターのイラストが貼られている。小さなテーブルの上には本や雑誌が積まれている。木製の家具が多く、柔らかな間接照明が空間を優しく照らしている。
この部屋には、「人」が住んでいる。
そう感じさせる温かさがあった。
そして、開け放たれた寝室の隅には――
「あれは……」
涼介は、壁際に設置された機材に目を留めた。
マイク、ポップガード、オーディオインターフェース。そして、壁には吸音材が貼られている。
簡易的ではあるが、配信ブースのようなものが作られていた。
涼介の心臓が、激しく脈打った。
あの壁だ。
涼介の部屋と接している壁。毎晩、あの壁の向こうから声が聞こえていた。そして、奏の配信ブースは――その壁に向かって設置されている。
「ああ、これですか」
奏が涼介の視線に気づいて言った。
「趣味で、配信をしてるんです」
「配信……」
「ASMR、って知ってます? 囁き声で、リスナーをリラックスさせる配信です」
涼介の心臓が、さらに激しく脈打った。
やはり、そうだった。
毎晩聞こえてくる声は、配信だったのだ。
「最近、ちょっと人気が出てきて。といっても、まだまだですけど」
奏がお茶を淹れながら言う。その手つきは慣れたもので、涼介はぼんやりとその様子を見つめていた。
「すみません、散らかってて」
「いえ……」
涼介は、ソファに座った。
目の前に、奏がお茶を置く。白い湯気が立ち上り、緑茶の香りが漂う。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
涼介はカップを手に取った。
温かいお茶が、喉を通っていく。緊張で乾いた喉が、少しだけ潤った。
「お仕事は、何をされてるんですか?」
奏が向かいに座りながら聞いてきた。
「商社で……海外事業部にいます」
「すごいですね。エリートだ」
「いえ、そんな……」
涼介は謙遜した。
エリートなどではない。ただの裏方だ。
「毎日遅くまで働いて、大変ですね」
「……まあ、仕事ですから」
「でも、体は大切にしてくださいね。無理しすぎると、壊れちゃいますよ」
奏の言葉が、涼介の胸に染み込んだ。
毎晩、配信で聞いていた言葉と同じだ。
「僕も、フリーでナレーターをしてるんですけど。仕事が不安定で、収入もままならなくて」
奏が苦笑する。その表情には、どこか自嘲的な影があった。
「でも、好きなことを仕事にできてるから、幸せだなって思います」
「好きなこと……」
「声を使う仕事が、好きなんです。昔は声優を目指してたんですけど、挫折しちゃって」
涼介は、その言葉に反応した。
配信で聞いた、奏の過去。声優を目指していたこと、挫折したこと、何百回オーディションを受けても一度も受からなかったこと、「君の声には特徴がない」と言われたこと。
あの時、涼介は泣いた。
この美しい声が、「特徴がない」と否定されるなんて。
「でも、今はこうして、声を届ける仕事ができてる。それだけで、十分幸せです」
奏の言葉に、涼介は胸が締め付けられる思いだった。
この人も、夢を諦めて、それでも前を向いて生きている。
自分と、同じだ。
涼介も、かつては夢を持っていた。海外で活躍するビジネスパーソンになり、自分の力で何かを成し遂げたかった。でも、現実は裏方として他人の成功を支えるだけの日々で、夢はいつの間にか色あせていた。
でも、奏は違う。
夢は破れたかもしれないが、それでも声を届けることを諦めていない。形は変わっても、自分の声で誰かを癒すことを続けている。
その姿勢が、涼介には眩しかった。
「……すみません、長話しちゃって」
奏が時計を見て言った。
「お仕事、忙しいのに、時間取らせちゃいましたね」
「いえ、今日は休みなので」
「そうですか。よかった」
奏が微笑む。
その笑顔を見て、涼介の心臓がまた跳ねた。
「あの……」
涼介は、思い切って聞いた。
「配信って、いつもやってるんですか?」
奏の目が、一瞬だけ光った。
その光の意味を、涼介は読み取れなかった。だが、確かに何かが奏の目の奥で動いた。
「ええ。毎晩、深夜にやってます」
「……そうですか」
「もしよかったら、聴いてみてください。『KANA』っていう名前でやってます」
KANA。
それが、奏の配信者名だった。
涼介はすでに知っていた。毎晩、壁越しに聴いていたからだ。でも、それを言うことはできなかった。
「じゃあ、また」
涼介は奏の部屋を後にした。
自分の部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、その場にしゃがみ込んだ。
心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っている。
会ってしまった。
声の主に。
そして、あの人は――。
「俺のことを、知ってた……」
毎晩、壁の向こうで声を聴いていることを。
あの人は、気づいていたのだ。
足音で帰宅時間が分かると言っていた。ということは、涼介がベッドに横たわる時間も、配信を聴いている時間も、知っているかもしれない。
涼介の全身が、熱くなった。
恥ずかしさと、興奮が、同時に押し寄せてくる。
「白石、奏……」
名前を口にするだけで、胸が熱くなる。
涼介は、完全に恋に落ちていた。
その夜。
涼介は眠れないまま、壁に耳を当てていた。
深夜零時を過ぎた頃、声が聞こえてきた。
「こんばんは。今日は……特別な日だったね」
低く、甘い囁き。
昼間、目の前で聞いたあの声。
「今日、特別な人に会えた気がする」
涼介の心臓が、激しく脈打つ。
「ずっと、会いたかった人。声だけでつながってた人」
奏は、涼介のことを言っているのだろうか。
そう思いたかった。そう信じたかった。
「やっと、顔を見ることができた」
涼介の目から、涙がこぼれた。
「これからは、もっと近くで会えるといいな」
声が、甘く震える。
「だって、僕たち、お隣さんだもんね」
涼介は、壁に額を押し当てた。
奏も、同じことを考えているのだろうか。
自分と同じように、壁の向こうの存在を意識しているのだろうか。
「おやすみ。また……会おうね」
声が途切れた。
涼介は、涙を拭いながら天井を見つめた。
これは、始まりにすぎない。
声だけでつながっていた二人が、ようやく顔を合わせた。
これから、何が起こるのか分からない。
でも、涼介は確信していた。
自分の人生は、今日から変わる。
白石奏と出会ったことで、すべてが変わっていく。
涼介は目を閉じ、奏の囁きを思い出しながら、眠りに落ちていった。
「また……会おうね」
その言葉が、涼介の胸の奥で、甘く響いていた。
その夜、涼介は夢を見た。
壁のない部屋で、奏と二人きり。
奏の声が、直接耳元で囁いている。
「君のこと、ずっと待ってたよ」
涼介は、その声に包まれながら、幸せな眠りに落ちていった。
明日からの日々が、どうなるのか分からない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
涼介は、もう一人じゃない。
壁の向こうに、涼介の声を待っている人がいる。
それだけで、涼介の心は、少しだけ軽くなっていた。
「今度の休み、よかったら出かけませんか?」 水曜日の夜、奏からそう誘われた。 涼介は一瞬、自分の耳を疑った。出かける。二人で。それはつまり、デートということではないのか。「どこに行くんですか?」「映画と、ランチと……あとは、散歩でもしようかなって。黒川さんの行きたいところ、どこでもいいよ」 奏は微笑んでいた。その笑顔には、期待と緊張が入り混じっているように見えた。「喜んで」 涼介は即答した。断る理由など、どこにもなかった。 * 土曜日。 涼介は朝から緊張していた。何を着ていくか、三十分以上悩んだ。小さなウォークインクローゼットの中を何度も行き来し、何着も試しては脱ぎ捨てた。結局、白いシャツにベージュのチノパンという、いつもより少しだけカジュアルな格好を選んだ。 鏡の前で髪を整えながら、涼介は自分を笑った。こんなに念入りに身支度をするのは、いつ以来だろう。デートだ。奏とのデート。その事実だけで、涼介の心は浮き立っていた。 約束の十時、マンションのエントランスで奏と待ち合わせた。 奏は淡いブルーのカットソーに細身の黒いパンツを合わせ、焦げ茶の髪を後ろで緩く束ねていた。その姿は、涼介の心臓を掴んで離さなかった。細い首筋、華奢な肩、すらりと伸びた足。どこを見ても、涼介の目は釘付けになった。「おはよう、黒川さん」「おはようございます」 二人は電車に乗り、都心へ向かった。 車内は混んでいて、吊り革につかまって立つしかなかった。人混みの中、奏の体が涼介に押し付けられる形になった。「ごめん、狭くて」「いえ、大丈夫です」 大丈夫ではなかった。奏の体温が涼介の体に伝わってくる。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。心臓がバクバクいって、きっと奏にも聞こえているのではないかと思った。電車の揺れに合わせて奏の体が涼介に当たる。そのたびに、涼介の全身に電流が走った。 目的地の渋谷で降り、まず映画館へ向かった。 観
日曜日の午後だった。 涼介は奏の部屋で、二人で映画を観ていた。奏が選んだのは、フランスの古い恋愛映画だった。字幕を追いながら、涼介は時折、隣の奏の横顔を盗み見ていた。画面の光に照らされたその横顔は、映画の登場人物よりも美しく見えた。 映画のクライマックスに差し掛かった時、奏のスマートフォンが鳴った。 奏は画面を見て、表情を曇らせた。一瞬、その目に暗い影がよぎった。小さくため息をついて、着信を無視した。「……ごめん、出たくない相手だから。しばらく鳴るかも」 奏はそう言って、スマートフォンを裏返しにしてテーブルの上に置いた。スマートフォンはしばらく振動し続けたが、やがて静かになった。しかし、奏の表情は、晴れないままだった。「大丈夫ですか?」 涼介は気になって尋ねた。奏の様子が、明らかにいつもと違ったからだ。「……うん、大丈夫。ちょっと面倒な人がいてね」 奏の答えは、曖昧だった。それ以上聞くなという空気が、奏の周りに漂っていた。涼介は「面倒な人」という言葉の意味を、考えずにはいられなかった。 涼介はそれ以上追及しなかった。けれど、胸の中にかすかな不安が芽生えた。 * 数日後、涼介は仕事帰りに駅前のカフェの前を通りかかった。 ガラス越しに店内が見える。その中に、見覚えのある後ろ姿があった。 焦げ茶のセミロング。奏だ。 涼介は足を止めた。奏の向かいに、男が座っている。三十代前半くらいだろうか。黒髪を短く刈り込んだ、精悍な顔立ちの男だ。眼鏡をかけていて、知的な印象を与える。 二人は親しげに話していた。男が何か言うと、奏が小さく笑う。その笑顔は、涼介に見せるものとは少し違う気がした。もっと気安くて親密な笑顔。昔からの知り合い同士が見せる、遠慮のない表情だった。 涼介の胸に、チクリと痛みが走った。 誰だ、あの男は。奏と、どういう関係なのだ。あの日、電話に出たくないと言っていた相手だろうか。 涼介は自分の感情に驚いた
雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元で響く。至近距離で聞く奏の声は、配信で聴くよりもずっと生々しかった。息遣いまで聞こえる。その声に導かれるまま、涼介は包丁を動かした。 平日の夜は、仕事終わりに一緒にコンビニに寄ることが増えた。たまたま会うこともあれば、涼介が帰宅する時間に奏がエレベーターホールで待っていることもあった。「お帰り、黒川さん」 その言葉を聞くたびに、涼介の胸が温かくなる。待っていてくれる人がいる。それだけで、深夜の残業も耐えられる気がした。疲れ切った体が、奏の声を聴いた瞬間に少しだけ軽くなる。 映画も一緒に観た。奏の部屋で、奏が好きだという古い恋愛映画を。「この映画、何度観ても泣いちゃうんだ」 奏が目を潤ませながら言った。涼介は隣で、その横顔を見つめていた。画面の光に照らされた奏の顔は、とても美しかった。涙で濡れた睫毛が、光を反射している。その姿に、涼介は息を呑んだ。 恋人のようで、まだ恋人じゃない。 その曖昧な関係が、涼介には心地よくもあり、もどかしくもあった。 * その日の夜、涼介は壁に耳を当てて奏の配信を聴いていた。 いつもと同じ、深夜の囁き声。しかしこの夜、奏の言葉は明らかに涼介を意識していた。「今日は、雨の話をしようかな」 奏の声が、壁を通して涼介の耳に届く。その声は、いつもよりゆっくりと、丁寧に紡がれていた。「雨の日って……誰かと一つ
梅雨入りが発表されてから、一週間が経った。 六月の東京は、どんよりとした雲に覆われる日が多くなった。朝起きた時は晴れていても、夕方には雨が降り出す。そんな不安定な天気が続いていた。 涼介と奏は、あれから何度か食事を共にしていた。奏の部屋で夕食を食べることもあれば、近くのファミレスで一緒にランチをすることもある。ごく自然に、二人の距離は縮まっていった。 しかし涼介は、それ以上踏み込めずにいた。 奏は優しい。いつも笑顔で、涼介の話に耳を傾けてくれる。一緒にいると心地よくて、時間があっという間に過ぎる。 けれど、それだけだ。涼介は自分の感情を押し殺し、ただの「隣人」以上の関係になることを恐れていた。 誤配達の日、初めて奏と顔を合わせた瞬間、涼介は恋に落ちた。一目惚れだった。声だけを知っていた時からひかれていたが、あの中性的で繊細な美貌を見た瞬間、涼介の心は完全に奪われた。整った顔立ち、細い体、柔らかな物腰。そして何より、あの声。すべてが、涼介の理想そのものだった。 だが、その想いを口にすることはできなかった。 ゲイであることを隠して生きてきた涼介は、誰かに本気で恋をすることが怖かった。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。そう自分に言い聞かせてきた。これまでも何度か、男性にひかれたことはあった。けれど、その度に自分の感情を押し殺してきた。相手が同じ気持ちである保証はない。むしろ、嫌悪される可能性の方が高い。 それに、奏が自分をどう思っているのかも分からない。配信では「大切な人」と言っていたけれど、それが恋愛感情なのか、ただの友情なのか、涼介には判断がつかなかった。奏はナレーターとして、配信者として、言葉を巧みに操る人だ。その言葉をそのまま受け取っていいのか、涼介には分からなかった。 もし告白して、拒絶されたら? 今のこの心地よい関係が、壊れてしまったら? その恐怖が、涼介の足を止めていた。 * その日は、木曜日だった。 朝から雨が降っていて、涼介は折り畳み傘を鞄に入れて家を出た。しかし午後になって雨は止み、夕方には薄日さえ差していた。
2-1 偶然という名の必然 土曜の誤配達から三日が経った。 その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。 廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。 あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。 あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。 水曜日の朝だった。 出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。 焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。 涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。「おはようございます」 声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。「あ……おはようございます」 涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。「ゴミ出しですか?」「ええ、まあ」 当たり前の
土曜日の昼過ぎ。 珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。 平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。 買い物に行かなければ。 そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。 コンビニでいいか。 涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。 インターホンが鳴ったのはその時だった。「宅配便でーす」 涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。 しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。 ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。「黒川さんですか?」「はい」「お届け物です。サインお願いします」 涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。 ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。「……白石奏様?」 宛名が違う。 住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。 誤配達か。 涼介は溜息をついた。 本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。 隣に届けるしかないだろう。 涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。 インターホンを押す。 数秒の沈







