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1-4 運命の誤配達

作者: 海野雫
last update 公開日: 2026-01-03 19:00:23

 土曜日の昼過ぎ。

 珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。

 平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。

 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。

 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。

 買い物に行かなければ。

 そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。

 コンビニでいいか。

 涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。

 インターホンが鳴ったのはその時だった。

「宅配便でーす」

 涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。

 しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。

 ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。

「黒川さんですか?」

「はい」

「お届け物です。サインお願いします」

 涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。

 ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。

「……白石奏様?」

 宛名が違う。

 住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。

 誤配達か。

 涼介は溜息をついた。

 本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。

 隣に届けるしかないだろう。

 涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。

 インターホンを押す。

 数秒の沈黙。

 涼介の心臓が、なぜか早く脈打っていた。

 四〇三号室。ここが、あの声の主の部屋だ。

 毎晩、壁の向こうから聞こえてくる、低く甘い囁き声。その声の主が、このドアの向こうにいる。

 会いたいと思っていた。でも、会うのが怖かった。顔を見たら、声だけで作り上げた幻想が壊れてしまうかもしれないし、理想化していた相手が実際には全く違う人間かもしれない。

 足音が聞こえる。

 ドアが開いた。

「はい……?」

 涼介の息が、止まった。

 時間が、止まったような錯覚。

 ドアの向こうに立っていたのは、中性的で繊細な美貌の青年だった。

 焦げ茶のセミロングの髪を後ろで緩く束ねた、細身だが姿勢の美しい体。身長は涼介より頭一つ低く、百七十センチあるかないかだろう。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。白いシャツに黒のカーディガンを身に着け、どこか儚げな雰囲気を纏っている。

 だが、涼介の視線を奪ったのは、その外見ではなかった。

「お届け物が……間違えて、俺のところに」

 涼介は震える声で言った。

「あぁ、すみません。わざわざありがとうございます」

 ――この声だ。

 低く、甘い、囁くような声。

 壁の向こうから毎晩聞こえていた、あの声。

 間違いない。

 涼介の全身に鳥肌が立った。心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っている。膝が震え、立っているのがやっとだった。背筋に電流が走り、全身の毛穴が開いていくような感覚だった。

 目の前にいる。

 あの声の主が、今、目の前にいる。

 涼介の視界が、その青年だけで埋め尽くされていく。光に照らされた横顔、声を発する瞬間の口元、喉仏のわずかな動き。すべてが、涼介の網膜に焼き付いていく。

 美しい。

 こんなにも、美しい人がいるのか。

 声だけでも惹かれていた。でも、顔を見て、さらに深く惹かれてしまった。声と顔が、完璧に調和している。この声は、この顔から発せられるべき声だ。そう思えるほどに、すべてが完璧だった。

「初めまして。白石です」

 青年が微笑んで手を差し出す。

 涼介は呆然としたまま、その手を握った。

 触れた瞬間、全身に電流が走った。

 白石奏。

 それが、声の主の名前だった。

 手のひらから伝わる体温。細くて、でも確かな存在感のある指。その手に触れているだけで、涼介の心臓は狂ったように暴れていた。

 これが、恋なのだろうか。

 こんなにも激しく、こんなにも突然、人を好きになることがあるのか。

 涼介は今まで、誰かに一目惚れしたことなどなかった。ゲイであることを自覚してからも、恋愛は常に受け身だった。自分から誰かを好きになることを、無意識に避けてきた。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。だから、誰のことも好きにならないようにしてきた。

 でも、今は違う。

 この人のことが、好きだ。

 声だけを知っていた時から、ずっと惹かれていた。そして今、顔を見て、手に触れて、確信した。

 この人のことを、もっと知りたい。

 この人の声を、もっと近くで聴きたい。

 この人に――。

「お隣さんですよね? いつもお世話になってます」

 奏の声が、涼介の思考を遮った。

「あ、いえ……こちらこそ。黒川涼介です」

 涼介の声が上ずっている。

 自分でも分かるほど、動揺していた。顔が熱い。きっと赤くなっているだろう。こんなに動揺したのは、いつ以来だろう。

 白石――奏は、じっと涼介を見つめていた。

 その目には、何か探るような光があった。切れ長の目が、涼介の全身を観察している。まるで、涼介の反応を確かめるかのように。

「あの……」

 涼介が口を開こうとした時、奏が先に言った。

「いつも……お帰りが遅いんですね。大変ですね」

 涼介の心臓が跳ね上がった。

 知っている。

 奏は、涼介の生活パターンを知っている。

「えっと……」

「足音で分かるんです。いつも深夜に帰ってきて、朝早く出勤されてるでしょう?」

 奏が微笑む。

 その笑顔は穏やかだったが、涼介にはどこか違和感があった。

 何かが、隠されている。

 その目の奥に、何か熱いものが揺れている気がした。

「毎日遅くまでお仕事、大変ですよね。休日くらい、ゆっくり休んでくださいね」

「……ありがとうございます」

 涼介は荷物を渡そうとした。

 だが、奏はすぐには受け取らなかった。

「よかったら、お茶でも飲んでいきませんか?」

「え?」

「せっかくわざわざ届けてくださったのに、何もお礼しないのは申し訳ないですから」

 奏の目が、まっすぐに涼介を見つめている。

 断るべきだ、と涼介は思った。

 見知らぬ隣人の部屋に上がり込むなんて、普通じゃない。ましてや、毎晩その人の声を聴いて興奮している相手の部屋になど、行くべきではない。

 でも、涼介の口は勝手に動いていた。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 なぜそう答えたのか、涼介自身にも分からなかった。

 あるいは、分かっていたのかもしれない。

 この人と、もっと話したい。この声を、もっと近くで聴きたい。その欲望が、理性を上回ってしまったのだ。

 奏の部屋は、涼介の部屋と同じ間取りだった。

 1LDKの空間。だが、涼介の部屋とは雰囲気が全く違う。

 涼介の部屋は、必要最低限の家具しかない。ベッド、デスク、小さな本棚。生活感のない、殺風景な空間。まるで、誰も住んでいないかのような無機質さ。

 対して、奏の部屋は温かみのある空間だった。観葉植物が窓際に置かれ、壁には映画のポスターやアニメのキャラクターのイラストが貼られている。小さなテーブルの上には本や雑誌が積まれている。木製の家具が多く、柔らかな間接照明が空間を優しく照らしている。

 この部屋には、「人」が住んでいる。

 そう感じさせる温かさがあった。

 そして、開け放たれた寝室の隅には――

「あれは……」

 涼介は、壁際に設置された機材に目を留めた。

 マイク、ポップガード、オーディオインターフェース。そして、壁には吸音材が貼られている。

 簡易的ではあるが、配信ブースのようなものが作られていた。

 涼介の心臓が、激しく脈打った。

 あの壁だ。

 涼介の部屋と接している壁。毎晩、あの壁の向こうから声が聞こえていた。そして、奏の配信ブースは――その壁に向かって設置されている。

「ああ、これですか」

 奏が涼介の視線に気づいて言った。

「趣味で、配信をしてるんです」

「配信……」

「ASMR、って知ってます? 囁き声で、リスナーをリラックスさせる配信です」

 涼介の心臓が、さらに激しく脈打った。

 やはり、そうだった。

 毎晩聞こえてくる声は、配信だったのだ。

「最近、ちょっと人気が出てきて。といっても、まだまだですけど」

 奏がお茶を淹れながら言う。その手つきは慣れたもので、涼介はぼんやりとその様子を見つめていた。

「すみません、散らかってて」

「いえ……」

 涼介は、ソファに座った。

 目の前に、奏がお茶を置く。白い湯気が立ち上り、緑茶の香りが漂う。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 涼介はカップを手に取った。

 温かいお茶が、喉を通っていく。緊張で乾いた喉が、少しだけ潤った。

「お仕事は、何をされてるんですか?」

 奏が向かいに座りながら聞いてきた。

「商社で……海外事業部にいます」

「すごいですね。エリートだ」

「いえ、そんな……」

 涼介は謙遜した。

 エリートなどではない。ただの裏方だ。

「毎日遅くまで働いて、大変ですね」

「……まあ、仕事ですから」

「でも、体は大切にしてくださいね。無理しすぎると、壊れちゃいますよ」

 奏の言葉が、涼介の胸に染み込んだ。

 毎晩、配信で聞いていた言葉と同じだ。

「僕も、フリーでナレーターをしてるんですけど。仕事が不安定で、収入もままならなくて」

 奏が苦笑する。その表情には、どこか自嘲的な影があった。

「でも、好きなことを仕事にできてるから、幸せだなって思います」

「好きなこと……」

「声を使う仕事が、好きなんです。昔は声優を目指してたんですけど、挫折しちゃって」

 涼介は、その言葉に反応した。

 配信で聞いた、奏の過去。声優を目指していたこと、挫折したこと、何百回オーディションを受けても一度も受からなかったこと、「君の声には特徴がない」と言われたこと。

 あの時、涼介は泣いた。

 この美しい声が、「特徴がない」と否定されるなんて。

「でも、今はこうして、声を届ける仕事ができてる。それだけで、十分幸せです」

 奏の言葉に、涼介は胸が締め付けられる思いだった。

 この人も、夢を諦めて、それでも前を向いて生きている。

 自分と、同じだ。

 涼介も、かつては夢を持っていた。海外で活躍するビジネスパーソンになり、自分の力で何かを成し遂げたかった。でも、現実は裏方として他人の成功を支えるだけの日々で、夢はいつの間にか色あせていた。

 でも、奏は違う。

 夢は破れたかもしれないが、それでも声を届けることを諦めていない。形は変わっても、自分の声で誰かを癒すことを続けている。

 その姿勢が、涼介には眩しかった。

「……すみません、長話しちゃって」

 奏が時計を見て言った。

「お仕事、忙しいのに、時間取らせちゃいましたね」

「いえ、今日は休みなので」

「そうですか。よかった」

 奏が微笑む。

 その笑顔を見て、涼介の心臓がまた跳ねた。

「あの……」

 涼介は、思い切って聞いた。

「配信って、いつもやってるんですか?」

 奏の目が、一瞬だけ光った。

 その光の意味を、涼介は読み取れなかった。だが、確かに何かが奏の目の奥で動いた。

「ええ。毎晩、深夜にやってます」

「……そうですか」

「もしよかったら、聴いてみてください。『KANA』っていう名前でやってます」

 KANA。

 それが、奏の配信者名だった。

 涼介はすでに知っていた。毎晩、壁越しに聴いていたからだ。でも、それを言うことはできなかった。

「じゃあ、また」

 涼介は奏の部屋を後にした。

 自分の部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、その場にしゃがみ込んだ。

 心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っている。

 会ってしまった。

 声の主に。

 そして、あの人は――。

「俺のことを、知ってた……」

 毎晩、壁の向こうで声を聴いていることを。

 あの人は、気づいていたのだ。

 足音で帰宅時間が分かると言っていた。ということは、涼介がベッドに横たわる時間も、配信を聴いている時間も、知っているかもしれない。

 涼介の全身が、熱くなった。

 恥ずかしさと、興奮が、同時に押し寄せてくる。

「白石、奏……」

 名前を口にするだけで、胸が熱くなる。

 涼介は、完全に恋に落ちていた。

 その夜。

 涼介は眠れないまま、壁に耳を当てていた。

 深夜零時を過ぎた頃、声が聞こえてきた。

「こんばんは。今日は……特別な日だったね」

 低く、甘い囁き。

 昼間、目の前で聞いたあの声。

「今日、特別な人に会えた気がする」

 涼介の心臓が、激しく脈打つ。

「ずっと、会いたかった人。声だけでつながってた人」

 奏は、涼介のことを言っているのだろうか。

 そう思いたかった。そう信じたかった。

「やっと、顔を見ることができた」

 涼介の目から、涙がこぼれた。

「これからは、もっと近くで会えるといいな」

 声が、甘く震える。

「だって、僕たち、お隣さんだもんね」

 涼介は、壁に額を押し当てた。

 奏も、同じことを考えているのだろうか。

 自分と同じように、壁の向こうの存在を意識しているのだろうか。

「おやすみ。また……会おうね」

 声が途切れた。

 涼介は、涙を拭いながら天井を見つめた。

 これは、始まりにすぎない。

 声だけでつながっていた二人が、ようやく顔を合わせた。

 これから、何が起こるのか分からない。

 でも、涼介は確信していた。

 自分の人生は、今日から変わる。

 白石奏と出会ったことで、すべてが変わっていく。

 涼介は目を閉じ、奏の囁きを思い出しながら、眠りに落ちていった。

「また……会おうね」

 その言葉が、涼介の胸の奥で、甘く響いていた。

 その夜、涼介は夢を見た。

 壁のない部屋で、奏と二人きり。

 奏の声が、直接耳元で囁いている。

「君のこと、ずっと待ってたよ」

 涼介は、その声に包まれながら、幸せな眠りに落ちていった。

 明日からの日々が、どうなるのか分からない。

 でも、一つだけ確かなことがあった。

 涼介は、もう一人じゃない。

 壁の向こうに、涼介の声を待っている人がいる。

 それだけで、涼介の心は、少しだけ軽くなっていた。

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  • 壁越しの溺愛ボイス   エピローグ 新しい声で

     シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、

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