LOGIN土曜日の昼過ぎ。
珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。
平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。
カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。
冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。
買い物に行かなければ。
そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。
コンビニでいいか。
涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。
インターホンが鳴ったのはその時だった。
「宅配便でーす」
涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。
しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。
ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。
「黒川さんですか?」
「はい」
「お届け物です。サインお願いします」
涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。
ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。
「……白石奏様?」
宛名が違う。
住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。
誤配達か。
涼介は溜息をついた。
本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。
隣に届けるしかないだろう。
涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。
インターホンを押す。
数秒の沈黙。
涼介の心臓が、なぜか早く脈打っていた。
四〇三号室。ここが、あの声の主の部屋だ。
毎晩、壁の向こうから聞こえてくる、低く甘い囁き声。その声の主が、このドアの向こうにいる。
会いたいと思っていた。でも、会うのが怖かった。顔を見たら、声だけで作り上げた幻想が壊れてしまうかもしれないし、理想化していた相手が実際には全く違う人間かもしれない。
足音が聞こえる。
ドアが開いた。
「はい……?」
涼介の息が、止まった。
時間が、止まったような錯覚。
ドアの向こうに立っていたのは、中性的で繊細な美貌の青年だった。
焦げ茶のセミロングの髪を後ろで緩く束ねた、細身だが姿勢の美しい体。身長は涼介より頭一つ低く、百七十センチあるかないかだろう。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。白いシャツに黒のカーディガンを身に着け、どこか儚げな雰囲気を纏っている。
だが、涼介の視線を奪ったのは、その外見ではなかった。
「お届け物が……間違えて、俺のところに」
涼介は震える声で言った。
「あぁ、すみません。わざわざありがとうございます」
――この声だ。
低く、甘い、囁くような声。
壁の向こうから毎晩聞こえていた、あの声。
間違いない。
涼介の全身に鳥肌が立った。心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っている。膝が震え、立っているのがやっとだった。背筋に電流が走り、全身の毛穴が開いていくような感覚だった。
目の前にいる。
あの声の主が、今、目の前にいる。
涼介の視界が、その青年だけで埋め尽くされていく。光に照らされた横顔、声を発する瞬間の口元、喉仏のわずかな動き。すべてが、涼介の網膜に焼き付いていく。
美しい。
こんなにも、美しい人がいるのか。
声だけでも惹かれていた。でも、顔を見て、さらに深く惹かれてしまった。声と顔が、完璧に調和している。この声は、この顔から発せられるべき声だ。そう思えるほどに、すべてが完璧だった。
「初めまして。白石です」
青年が微笑んで手を差し出す。
涼介は呆然としたまま、その手を握った。
触れた瞬間、全身に電流が走った。
白石奏。
それが、声の主の名前だった。
手のひらから伝わる体温。細くて、でも確かな存在感のある指。その手に触れているだけで、涼介の心臓は狂ったように暴れていた。
これが、恋なのだろうか。
こんなにも激しく、こんなにも突然、人を好きになることがあるのか。
涼介は今まで、誰かに一目惚れしたことなどなかった。ゲイであることを自覚してからも、恋愛は常に受け身だった。自分から誰かを好きになることを、無意識に避けてきた。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。だから、誰のことも好きにならないようにしてきた。
でも、今は違う。
この人のことが、好きだ。
声だけを知っていた時から、ずっと惹かれていた。そして今、顔を見て、手に触れて、確信した。
この人のことを、もっと知りたい。
この人の声を、もっと近くで聴きたい。
この人に――。
「お隣さんですよね? いつもお世話になってます」
奏の声が、涼介の思考を遮った。
「あ、いえ……こちらこそ。黒川涼介です」
涼介の声が上ずっている。
自分でも分かるほど、動揺していた。顔が熱い。きっと赤くなっているだろう。こんなに動揺したのは、いつ以来だろう。
白石――奏は、じっと涼介を見つめていた。
その目には、何か探るような光があった。切れ長の目が、涼介の全身を観察している。まるで、涼介の反応を確かめるかのように。
「あの……」
涼介が口を開こうとした時、奏が先に言った。
「いつも……お帰りが遅いんですね。大変ですね」
涼介の心臓が跳ね上がった。
知っている。
奏は、涼介の生活パターンを知っている。
「えっと……」
「足音で分かるんです。いつも深夜に帰ってきて、朝早く出勤されてるでしょう?」
奏が微笑む。
その笑顔は穏やかだったが、涼介にはどこか違和感があった。
何かが、隠されている。
その目の奥に、何か熱いものが揺れている気がした。
「毎日遅くまでお仕事、大変ですよね。休日くらい、ゆっくり休んでくださいね」
「……ありがとうございます」
涼介は荷物を渡そうとした。
だが、奏はすぐには受け取らなかった。
「よかったら、お茶でも飲んでいきませんか?」
「え?」
「せっかくわざわざ届けてくださったのに、何もお礼しないのは申し訳ないですから」
奏の目が、まっすぐに涼介を見つめている。
断るべきだ、と涼介は思った。
見知らぬ隣人の部屋に上がり込むなんて、普通じゃない。ましてや、毎晩その人の声を聴いて興奮している相手の部屋になど、行くべきではない。
でも、涼介の口は勝手に動いていた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
なぜそう答えたのか、涼介自身にも分からなかった。
あるいは、分かっていたのかもしれない。
この人と、もっと話したい。この声を、もっと近くで聴きたい。その欲望が、理性を上回ってしまったのだ。
奏の部屋は、涼介の部屋と同じ間取りだった。
1LDKの空間。だが、涼介の部屋とは雰囲気が全く違う。
涼介の部屋は、必要最低限の家具しかない。ベッド、デスク、小さな本棚。生活感のない、殺風景な空間。まるで、誰も住んでいないかのような無機質さ。
対して、奏の部屋は温かみのある空間だった。観葉植物が窓際に置かれ、壁には映画のポスターやアニメのキャラクターのイラストが貼られている。小さなテーブルの上には本や雑誌が積まれている。木製の家具が多く、柔らかな間接照明が空間を優しく照らしている。
この部屋には、「人」が住んでいる。
そう感じさせる温かさがあった。
そして、開け放たれた寝室の隅には――
「あれは……」
涼介は、壁際に設置された機材に目を留めた。
マイク、ポップガード、オーディオインターフェース。そして、壁には吸音材が貼られている。
簡易的ではあるが、配信ブースのようなものが作られていた。
涼介の心臓が、激しく脈打った。
あの壁だ。
涼介の部屋と接している壁。毎晩、あの壁の向こうから声が聞こえていた。そして、奏の配信ブースは――その壁に向かって設置されている。
「ああ、これですか」
奏が涼介の視線に気づいて言った。
「趣味で、配信をしてるんです」
「配信……」
「ASMR、って知ってます? 囁き声で、リスナーをリラックスさせる配信です」
涼介の心臓が、さらに激しく脈打った。
やはり、そうだった。
毎晩聞こえてくる声は、配信だったのだ。
「最近、ちょっと人気が出てきて。といっても、まだまだですけど」
奏がお茶を淹れながら言う。その手つきは慣れたもので、涼介はぼんやりとその様子を見つめていた。
「すみません、散らかってて」
「いえ……」
涼介は、ソファに座った。
目の前に、奏がお茶を置く。白い湯気が立ち上り、緑茶の香りが漂う。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
涼介はカップを手に取った。
温かいお茶が、喉を通っていく。緊張で乾いた喉が、少しだけ潤った。
「お仕事は、何をされてるんですか?」
奏が向かいに座りながら聞いてきた。
「商社で……海外事業部にいます」
「すごいですね。エリートだ」
「いえ、そんな……」
涼介は謙遜した。
エリートなどではない。ただの裏方だ。
「毎日遅くまで働いて、大変ですね」
「……まあ、仕事ですから」
「でも、体は大切にしてくださいね。無理しすぎると、壊れちゃいますよ」
奏の言葉が、涼介の胸に染み込んだ。
毎晩、配信で聞いていた言葉と同じだ。
「僕も、フリーでナレーターをしてるんですけど。仕事が不安定で、収入もままならなくて」
奏が苦笑する。その表情には、どこか自嘲的な影があった。
「でも、好きなことを仕事にできてるから、幸せだなって思います」
「好きなこと……」
「声を使う仕事が、好きなんです。昔は声優を目指してたんですけど、挫折しちゃって」
涼介は、その言葉に反応した。
配信で聞いた、奏の過去。声優を目指していたこと、挫折したこと、何百回オーディションを受けても一度も受からなかったこと、「君の声には特徴がない」と言われたこと。
あの時、涼介は泣いた。
この美しい声が、「特徴がない」と否定されるなんて。
「でも、今はこうして、声を届ける仕事ができてる。それだけで、十分幸せです」
奏の言葉に、涼介は胸が締め付けられる思いだった。
この人も、夢を諦めて、それでも前を向いて生きている。
自分と、同じだ。
涼介も、かつては夢を持っていた。海外で活躍するビジネスパーソンになり、自分の力で何かを成し遂げたかった。でも、現実は裏方として他人の成功を支えるだけの日々で、夢はいつの間にか色あせていた。
でも、奏は違う。
夢は破れたかもしれないが、それでも声を届けることを諦めていない。形は変わっても、自分の声で誰かを癒すことを続けている。
その姿勢が、涼介には眩しかった。
「……すみません、長話しちゃって」
奏が時計を見て言った。
「お仕事、忙しいのに、時間取らせちゃいましたね」
「いえ、今日は休みなので」
「そうですか。よかった」
奏が微笑む。
その笑顔を見て、涼介の心臓がまた跳ねた。
「あの……」
涼介は、思い切って聞いた。
「配信って、いつもやってるんですか?」
奏の目が、一瞬だけ光った。
その光の意味を、涼介は読み取れなかった。だが、確かに何かが奏の目の奥で動いた。
「ええ。毎晩、深夜にやってます」
「……そうですか」
「もしよかったら、聴いてみてください。『KANA』っていう名前でやってます」
KANA。
それが、奏の配信者名だった。
涼介はすでに知っていた。毎晩、壁越しに聴いていたからだ。でも、それを言うことはできなかった。
「じゃあ、また」
涼介は奏の部屋を後にした。
自分の部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、その場にしゃがみ込んだ。
心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っている。
会ってしまった。
声の主に。
そして、あの人は――。
「俺のことを、知ってた……」
毎晩、壁の向こうで声を聴いていることを。
あの人は、気づいていたのだ。
足音で帰宅時間が分かると言っていた。ということは、涼介がベッドに横たわる時間も、配信を聴いている時間も、知っているかもしれない。
涼介の全身が、熱くなった。
恥ずかしさと、興奮が、同時に押し寄せてくる。
「白石、奏……」
名前を口にするだけで、胸が熱くなる。
涼介は、完全に恋に落ちていた。
その夜。
涼介は眠れないまま、壁に耳を当てていた。
深夜零時を過ぎた頃、声が聞こえてきた。
「こんばんは。今日は……特別な日だったね」
低く、甘い囁き。
昼間、目の前で聞いたあの声。
「今日、特別な人に会えた気がする」
涼介の心臓が、激しく脈打つ。
「ずっと、会いたかった人。声だけでつながってた人」
奏は、涼介のことを言っているのだろうか。
そう思いたかった。そう信じたかった。
「やっと、顔を見ることができた」
涼介の目から、涙がこぼれた。
「これからは、もっと近くで会えるといいな」
声が、甘く震える。
「だって、僕たち、お隣さんだもんね」
涼介は、壁に額を押し当てた。
奏も、同じことを考えているのだろうか。
自分と同じように、壁の向こうの存在を意識しているのだろうか。
「おやすみ。また……会おうね」
声が途切れた。
涼介は、涙を拭いながら天井を見つめた。
これは、始まりにすぎない。
声だけでつながっていた二人が、ようやく顔を合わせた。
これから、何が起こるのか分からない。
でも、涼介は確信していた。
自分の人生は、今日から変わる。
白石奏と出会ったことで、すべてが変わっていく。
涼介は目を閉じ、奏の囁きを思い出しながら、眠りに落ちていった。
「また……会おうね」
その言葉が、涼介の胸の奥で、甘く響いていた。
その夜、涼介は夢を見た。
壁のない部屋で、奏と二人きり。
奏の声が、直接耳元で囁いている。
「君のこと、ずっと待ってたよ」
涼介は、その声に包まれながら、幸せな眠りに落ちていった。
明日からの日々が、どうなるのか分からない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
涼介は、もう一人じゃない。
壁の向こうに、涼介の声を待っている人がいる。
それだけで、涼介の心は、少しだけ軽くなっていた。
挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。
翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真
午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ
一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。
シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、
赴任前日の夜。 涼介と奏は、涼介の部屋で最後の夜を過ごしていた。 明日の朝、涼介は成田空港へ向かい、そこからシンガポールへ飛ぶ。一年間、日本には戻れない。 その事実が、二人の間に重く横たわっていた。部屋の空気まで、いつもより重く感じられる。 夕食を終えた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。テレビの音だけが、部屋に響いている。「涼介」「ん?」「明日から、一年間……」「ああ」「長いね」「……長いな」 沈黙が流れた。 言葉にしてしまうと、現実がいっそう重くのしかかってくる。一年間という時間の重さが、二人の肩にのしかかっていた。三百六十五日。その間、二人は離れ離れになる。「涼介、約束して」 奏が涼介の手を取った。奏の手が、少しだけ震えている。「必ず、帰ってきて」「約束する。必ず帰ってくる」「毎日、連絡して」「するよ。毎日、奏の声を聴きたい」「僕も。涼介の声、毎日聴きたい」 奏の目に、涙が滲んでいた。涼介も、目頭が熱くなるのを感じた。泣くまいと思っていたのに、涙が勝手にこぼれそうになる。「奏、泣くなよ」「泣いてないよ」「嘘つけ」「涼介こそ、泣きそうな顔してる」「泣いてない」 二人は顔を見合わせて、苦笑した。どちらも、泣きそうな顔をしていた。「涼介」「ん?」「最後の夜……一緒にいてくれる?」 奏の声が、甘く震えた。その声には、懇願が込められていた。甘い囁きが涼介の鼓膜を震わせる。その声を聴くだけで、涼介の全身が反応してしまう。「当たり前だ。今夜は、どこにも行かない」 涼介は奏を引き寄せた。奏の体が、涼介の腕の中に収まる。互いの体温が、
異変が起きたのは、二日後の月曜日の夜だった。 涼介はいつものように残業を終え、マンションに帰ってきた。時計を見ると、午後十時を少し回っていた。今夜は比較的早く帰れた方だった。週末のデートの余韻がまだ残っていて、涼介の心は穏やかだった。水族館で見たクラゲの映像が、まだ瞼の裏に浮かんでいる。 奏にメッセージを送ろうとスマートフォンを取り出した時、画面に大量の通知が表示されていることに気づいた。 SNSの通知だった。 涼介はほとんどSNSを使わない。アカウントは持っているが、閲覧専門で、投稿することはほとんどなかった。だから、こ
奏が涼介の唇を塞いだ。 いつもより激しいキスだった。舌と舌が絡み合い、息が混じり合う。涼介は奏の体を強く抱きしめた。離したくなかった。誰にも渡したくなかった。藤井の顔が、まだ頭の中にちらついている。奏と五年間一緒にいた男。涼介よりずっと長く、ずっと深く、奏を知っている男。 その男に、奏を渡してたまるか。 涼介は自分でも驚いていた。こんなにも激しい感情を抱くなんて、今まで経験したことがなかった。職場では常に冷静で、感情を表に出さないのが涼介のスタイルだった。けれど奏の前では、その仮面が剥がれ落ちていく。嫉妬という感情が、涼介の内側を焼き尽く
奏の熱が完全に下がったのは、三日後のことだった。 その間、涼介は毎日奏の部屋に通った。仕事から帰ると真っ先に四〇三号室のドアを叩き、奏の様子を確認した。おかゆを作り、薬を飲ませ、汗を拭いた。看病という名目で、涼介は奏のそばにいられたのだ。 奏は日に日に回復していった。二日目には自分で起き上がれるようになり、三日目には簡単な食事を自分で作れるまでになった。顔色も良くなり、声にも艶が戻ってきた。 あの甘い声が、少しずつ本来の響きを取り戻していく。涼介はその変化を、毎日そばで見守っていた。奏が咳をするたびに背中をさすり、水を飲ませ、額に手を当て
雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元