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第3章:009

last update publish date: 2026-08-20 11:02:39

 自分でも頓珍漢なことを言っていることは、理解していた。話が噛み合っていない――分かっていながらも、目の前の渚を失いたくないという想いだけで行動していた。

 渚が小さく息を吐き出した。

 見えない境界線を張られたような気がした。

「……私を、ずっと騙してたんだね」

「渚――」

「セフレ以外にも……マチアプで一夜限りの女性とも寝ていたんだね」

 次々と暴かれていく事実に、自分の仮面がボロボロと剥がれ落ちていく。

「距離を置きたい」

「距離? 距離ってことは、別れないってことだよね? 俺、リビングで寝るよ。渚をソファで寝させるわけにはいかないから――」

 距離を縮めようと一歩踏み出し、渚の肩に触れようと手を伸ばす。しかし、渚から手を払いよけられてしまった。

「顔も見たくないの!」

 渚が今日初めて声を荒げた。

 狭い廊下の中で響いた声は、玲の鼓膜まで一気に届いた。

「セフレとは縁を切った!
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  • 壊したいほど好きだから、   第4章:014

     ※ ※ ※ 深い闇の底で、懐かしい匂いがした。 五歳の玲は母親に手を繋がれ、見知らぬ建物の前で足を止める。引っ越してきたばかりの町の保育園。周囲にはみたこともない大人と、知らない子供たちが走り回っていた。 嫌だ、と幼い玲は心の中で叫んだ。母親の足にがむしゃらに抱きつき、泣き叫ぶ。けれど母親は、困った顔をしながら玲の手を強引に引き剥がした。「玲くん、今日からよろしくね」 知らない大人が、抵抗する玲を軽々と抱き上げた。 離れていく母親の背中。何度も振り返り、悲しそうな、申し訳なさそうな顔を玲に向けている。(あんな顔をするくらいなら――連れて行ってよ!) 玲は必死に手を伸ばし、声が枯れるほど叫び続けた。だが、自分を抱える腕はびくともしない。母親の姿はどんどん小さくなり、やがて角を曲がって消えてしまった。 見知らぬ大人は、嫌がる玲を容赦なく建物の中へと連れ込んでいく。 ドアを一枚隔てた途端、何十人もの子供たちの甲高い歓声や泣き声、足音が耳を刺した。色鮮やかで、目まぐるしく、あまりにもうるさい世界。玲はその暴力的とも言える喧騒の中に、ぽつんと一人で置き去りにされた。 置き去りにされた恐怖で、玲は部屋の隅へ逃げ込んだ。膝を抱え、小さくなって息を潜める。誰も自分を見ないでくれと祈りながら、みんなの輪から遠く離れていた。「こんにちは」 頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。 玲が涙目で、おずおずと顔を上げると、そこに一人の女の子が立っていた。 ふたつに結んだ短い髪。大きな瞳。そして何より、頬に深く刻まれたえくぼが強く印象的だった。吸い込まれそうなその瞳に見つめられ、幼い玲は瞬きすら忘れる。「いまね、おままごとのワンちゃんやくがいないの」「わんちゃん……」「ねえ、きて」 小さな手にぐいっと腕を引っ張られる。 その温もりに導かれるまま立ち上がると、視界がぐにゃりと歪み、室内の風景が光の中に溶けていった。 ――気がつくと、大人の玲は眩しい太陽が照りつける保育園の庭に立っていた。

  • 壊したいほど好きだから、   第4章:013

     パニックの最中に口走った支離滅裂な言葉たち――何か取り返しのつかない、とんでもないことを言った気がする。「ごめんなさ、」「謝らなくていいの」 すまなそうに身を縮める渚の言葉を遮り、橘は静かに、けれど包み込むような温かい声で言った。「誰も渚ちゃんを責めないし、ここで何を吐き出したっていいのよ」 和樹が手渡してくれた温かいタオルを、橘は渚の震える手にそっと握らせる。じんわりとした温もりが、冷え切っていた指先に少しずつ感覚を取り戻させてくれた。「渚ちゃん」 橘は一度息を整えると、真剣な、それでいてどこか頼もしい眼差しで渚をまっすぐに見つめた。「これからは、一緒に出勤しましょう」「え……?」「その女性がまた現れないとも限らないし、会社の行き帰りも一人にさせないわ。明日から行きも帰りも、私と和樹が一緒だから」 和樹も深く頷き、渚の目線に合わせて優しく微笑みかけた。「うん。車も僕たちが一緒に乗っていくか、橘の車で送迎するよ。渚ちゃんが一人で抱え込む必要なんて、どこにもないんだからね」 二人は、渚が何に傷つき、過去に何があったのかについて一切踏み込んでこなかった。真央の言葉の真偽を問い詰めることも、安易に取り繕って渚の感情を否定することもしない。 ただ、今の渚を脅かす外敵から守るということ。そして、当たり前のように彼女の居場所をここに繋ぎ止めてくれるということ。その徹底した線引きと深い逞しさが、渚の荒み切った心を包んでいく。 でも、上司にそこまで甘えていいものか――……。「私、車があるし」「素直に受け入れなさい!」「あ、でも……」 橘に一蹴されても、渚はなおも縮こまったまま口ごもる。上司カップルの好意にこれ以上甘えるのは心苦しく、申し訳なさがどうしても勝ってしまうのだ。「一人にさせるほうが僕たち心配なんだよ」 和樹が困ったように、けれどどこまでも温かい眼差しで諭すように言った。「でも、一緒に出勤と帰宅してたら、みんなか

  • 壊したいほど好きだから、   第4章:012

     ※ 橘のマンションに戻った渚は、玄関の鍵を開けることすらままならなかった。震える指先が鍵穴を捉えられず、何度も鍵を取り落としてしまう。 ここまでどうやって帰ってきたのか、自分でも覚えていない。「渚ちゃん、お帰りー。今日はハンバーグだよ」 そう声を上げながら、ようやく開いたドアの向こうで和樹がリビングから顔を出す。「渚ちゃん……?」 声をかけられても、渚は靴も脱がずに玄関に立ち尽くしたままだった。血の気の失せた顔、震える肩。ただごとではない気配に、和樹はすぐさま橘を呼んだ。「涼、ちょっと来て」 キッチンから出てきた橘は、渚の顔を見た瞬間、表情を変えた。「渚ちゃん、大丈夫? 座って」 半ば抱えるようにして、渚をリビングのソファへ導く。渚は言われるがまま座ったものの、視線は宙を彷徨ったままだった。「……何があったの?」 橘の問いに、渚は暫く答えられなかった。唇を開いても、言葉にならない。「あの……」 やっとのことで、掠れた声が漏れた。「知らない女の人に……会社の駐車場で、声をかけられて……」 そこまで絞り出すと、喫茶店で真央から聞かされた言葉の数々が、濁流となって渚の脳内に溢れ出した。一度開きかけた栓が弾け飛び、感情を制御することができなくなる。「玲は……私に気を遣ってて……っ、ずっと……トラウマ持ちの私を……どう扱っていいか悩んでて……っ。愛だと思ってたのに……ただの遠慮で……重荷だったの……っ」 ボロボロと大きな粒の涙が零れ落ち、渚の頬を濡らしていく。呼吸が乱れ、過呼吸のような激しい喘ぎに胸が大きく上下した。「私のせいで…

  • 壊したいほど好きだから、   第4章:011

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  • 壊したいほど好きだから、   第4章:010

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  • 壊したいほど好きだから、   第4章:009

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  • 壊したいほど好きだから、   第1章:003

    「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:002

    ※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救

  • 壊したいほど好きだから、   第1章:001

    (あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある

  • 壊したいほど好きだから、   序章:002

    渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ

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