それから、私は陸の会社で働くこととなった。彼の下で働き、雑用から書類作成、取引先の対応まで任された。しかし、表向きは全て陸がやっていることになっている。私は、いいようにこき使われる影武者だ。
「今どこにいる。取引先の会長にお前を紹介する。今すぐ来い」電話がかかってきたら、すぐに言い渡された場所に来るように命令される。
「遠藤取締役の婚約者ですか―――お綺麗ですね。美人な婚約者を手に入れたと噂には聞いていましたが、本当に綺麗だ。ミスコンの優勝者なんですって」
「いや、それほどでも。縁があって一緒になることしました」
(『婚約者を手に入れた』そう、その通りよ。)
相手に悪意がないことは分かっているが、心の中で毒づいて反論する。陸は、有名私立大学のミスコンで優勝した私を、昼夜問わず呼び出しては周囲の人間へ自慢をしていた。
「先日、多額の結納金を送ったからな。お前は俺に見合う妻になるため、俺の指示に従ってろ」
遠藤家から一千万円の結納金をもらい、父の会社は、その資金で窮地を脱し遠藤製薬からの受注も無事に再開した。
陸の態度は日を追うごとにエスカレートし、彼の秘書を通じて私への『教育』と称して過度なスケジュールが組まれるようになった。最高級のエステ、料理教室、マナー研修、そして陸の顧客との食事会。顧客の前では私に対して優しく振る舞うが、二人きりになった途端、陸の態度は豹変した。
「マナーがなってないぞ。お前の父親の会社が小さな下請けだから、お前も所詮その程度の品位なんだ。恥をかかせるな」
陸の罵倒を聞くたびに、心の奥底で怒りの炎が燃え上がるのを感じていた。
(偉そうにするしか能がないあなたに言われたくない。いつか、この男に全てが自分の思い通りにはならないと分からせてやりたい……)
しかし、そう思ったところで私の自由は利かない。私には、父の会社の五百人以上の社員の命運が掛かっているのだ。
そんなある日、終業時間が終わってから陸に呼ばれて出向くと、休憩室から聞こえる雑談の中に陸の笑い声があった。
「遠藤取締役の相手が美人だって社内でも有名になっていますよ」
「ああ、あれな。あんなのただの使い捨てだ。顔がいいから選んだだけで、飽きたら次に行くだけだ」
「そんなこと言って。奥さんが美人だと産まれてくる子も可愛いんだろうな」
「何を言っているんだ。俺が求めているのは若くて綺麗な女だけだ。妊娠なんかしたら太って醜くなるだろう。賞味期限切れの女に用はない。」
陸は吐き捨てるように言って、馬鹿にしたように小さく笑っている。
(……使い捨て?妊娠したら醜い?)
その言葉を聞いて、今まで抑え込んでいたものがプツリと音を立てて切れた。陸は、私と結婚しても『使い捨ての道具』として扱おうとしていること。そして、私は、彼の人生における一時の飾りであり、賞味期限が過ぎたら容赦なく捨てられる――。
政略結婚に感情が介入しないことは覚悟はしていた。それでも、実際にそれを本人から笑い話のように聞かされるのは、あまりにも耐えがたい屈辱だった。
陸のために流れる涙なんかなく、代わりに全身の血が凍るような静かな絶望と、どうしようもないほどの激しい怒りが私を支配した。
(このまま彼の言いなりになって生き続けるなんて嫌だ―――今夜だけは、陸の言いなりになりたくない)
私は来た道を引き返し、人通りの多い夜の繁華街へと飛び出した。行き先などない。ただ、今は陸の飾りになりたくなかった。
ビル群の光が眩しく騒がしい雑踏が耳に響く。私は、賑やかな場所を避け、裏通りにひっそりと佇む小さな店へと足を向けた。
カウンター席に座り、ビールを頼む。
「ちょっと名が知れているからって偉そうに。父のことも会社のことも馬鹿にされるのは許せない。遠藤製薬からしたら小さな会社でも、父も従業員も誠実で真っ直ぐに生きているんだから。なじられる覚えはない!」
陸への罵倒を心の中で叫びながら、運ばれてきたビールを一気に飲み干し、焼き鳥を串のまま豪快に口に入れた。マナーなんてくそくらいだ。
「いい食べっぷりですね」
隣から、低く、落ち着いた声が聞こえた。男性は小さく笑っているが、馬鹿にする様子はなく、私の荒れた姿を愉快に楽しんでいるようだった。
柳 世羅――――
彼は、私の人生を一夜にして変えることになる男性だった。
それから、私は陸の会社で働くこととなった。彼の下で働き、雑用から書類作成、取引先の対応まで任された。しかし、表向きは全て陸がやっていることになっている。私は、いいようにこき使われる影武者だ。「今どこにいる。取引先の会長にお前を紹介する。今すぐ来い」電話がかかってきたら、すぐに言い渡された場所に来るように命令される。「遠藤取締役の婚約者ですか―――お綺麗ですね。美人な婚約者を手に入れたと噂には聞いていましたが、本当に綺麗だ。ミスコンの優勝者なんですって」「いや、それほどでも。縁があって一緒になることしました」(『婚約者を手に入れた』そう、その通りよ。)相手に悪意がないことは分かっているが、心の中で毒づいて反論する。陸は、有名私立大学のミスコンで優勝した私を、昼夜問わず呼び出しては周囲の人間へ自慢をしていた。「先日、多額の結納金を送ったからな。お前は俺に見合う妻になるため、俺の指示に従ってろ」遠藤家から一千万円の結納金をもらい、父の会社は、その資金で窮地を脱し遠藤製薬からの受注も無事に再開した。陸の態度は日を追うごとにエスカレートし、彼の秘書を通じて私への『教育』と称して過度なスケジュールが組まれるようになった。最高級のエステ、料理教室、マナー研修、そして陸の顧客との食事会。顧客の前では私に対して優しく振る舞うが、二人きりになった途端、陸の態度は豹変した。「マナーがなってないぞ。お前の父親の会社が小さな下請けだから、お前も所詮その程度の品位なんだ。恥をかかせるな」陸の罵倒を聞くたびに、心の奥底で怒りの炎が燃え上がるのを感じていた。(偉そうにするしか能がないあなたに言われたくない。いつか、この男に全てが自分の思い通りにはならないと分からせてやりたい……)しかし、そう思ったところで私の自由は利かない。私には、父の会社の五百人以上の社員の命運が掛かっているのだ。そんなある日、終業時間が終わってから陸に呼ばれて出向くと、休憩室から聞こえる雑談の中に陸の笑い声があった。「遠藤取締役の相手が美人だって社内でも有名になっていますよ」「ああ、あれな。あんなのただの使い捨てだ。顔がいいから選んだだけで、飽きたら次に行くだけだ」「そんなこと言って。奥さんが美人だと産まれてくる子も可愛いんだろうな」「何を言っているんだ。俺が求めているのは若くて綺麗な女だ
翌日の朝、私は大事な話があると言われ会議室に向かった。コンコンッ―――――ドアをノックして扉を開けると、社長である父と副社長、そして専務が座っている。中に入ると同時に三人は立ち上がり、一斉に深々と頭を下げた。「美月、本当に申し訳ない―――――――」「なに、一体どうしたというの?」三人は、昨日の遠藤製薬で陸から言われた話を私に伝えた。「つまり、結婚を断った腹いせに取引額を減少し、このまま拒否を続けるなら完全に取引停止も辞さない、そう脅されたということですか?」父は顔を上げず、苦痛に歪んだ声で答えた。「……会社の都合で、美月の人生を指示するようなことはしたくなかった。だが、昨日の訪問後に収支と資金の余力を調べたんだが、遠藤製薬の受注がなければ、このままいくとあと半年でこの会社は倒産するしかなくなってしまう」「そんな……」「社員五百人以上の生活がかかっているんだ。美月には本当に申し訳ないと思っている。しかし、他に手立てがないんだ本当に申し訳ない……。」「美月さんにこんなお願いをするのはおかしいが、遠藤製薬との取引を停止されるわけにはいかないんだ。謝罪をしてもしきれない。でも、社員を守るためなんだ。」副社長、専務にも頭を下げられ、私は言葉を失った。遠藤陸に興味がないどころか、苛立ちと憎しみしか持たない。しかし、あと半年でこの事態を解決する手段を私は持ち合わせていない。この話を受け入れるしかないことだけは理解し、私は深く大きくため息をついた。「分かりました。婚姻の話、受けさせていただきます」(結婚する予定だった彼には別れを告げられ、今度は会社のために知らない男に嫁ぐ……私の人生って、いったいなんだろう)そんなことを思いながら、帰り道、私は空を見上げた。季節は秋から冬に変わろうとしていて、枝に一枚の葉っぱがひらひらと揺らめいている。鮮やかだったはずのその葉は、すっかり茶色になり、ところどころ穴があいている。枯れ果ててボロボロになりながらも、それでも必死に枝にしがみついている葉は、遠藤陸の思い通りになりたくないと必死に抵抗を試みる自分自身のように見えた。冬を告げる乾いた風が頬に冷たくあたり、風当たりの強いこの状況は、孤独で逃げ場がなかった。――――「酒井美月です。この度は、婚姻のお話ありがとうございます」駅のすぐ横にあるシティホテルの最
窓の外はもうすぐ夜明けを迎えようとしている。光が差せば、この夢は終わるだろう。きっとこの夜は、彼との出逢いは、これから先に胸のときめきなど二度と感じることのない人生を送る私への最後のプレゼント――そう、思った。「お前は、いつまで経っても役立たずだな。こんなことも出来ないのか。所詮、顔だけだな」陸は、周りの社員に聞こえるよう、わざと大きな声で私を罵倒した。今、私が代理で作成しているのは、陸が午後の役員会議で使う資料だ。本来なら彼自身の役目だが、陸は一切やろうとしない。彼にとって私は『自分の見栄を満たすただの所有物』で、それ以上の意味を持たない。そして、その『所有物』の唯一の価値は、「顔」だけだと何度も思い知らせようとする。(お父さんの会社と従業員を守るためにも耐えるしかない……)遠藤製薬――地方の中堅製薬会社で、東海エリアでは知名度九割越えの有名企業だ。その社長の三男である陸と、私は間もなく結婚する予定になっている。世間からは「玉の輿」と言われるが、私はこの結婚を望んでいなかった。それでも結婚を決めたのは、陸からの強く執拗な圧力があったからだ。遠藤製薬の下請企業として長年、信頼関係を築いてきた我が社だが、状況が変わったのは、半年前、陸が査察で会社に訪れたときのことだった。「失礼いたします。お茶をどうぞ――」私が応接室でお茶を出すと、陸はじっと私を上から下まで視線を動かし凝視していた。その様子に気づいた父が慌てて立ち上がり、私を紹介した。「遠藤取締役、娘の美月です」「美月……綺麗な名前だ」その時は何事もなく終わったが、後日、陸から電話がかかってきた際、社長である父が突然、大きな声を上げた。「娘の美月を取締役の結婚相手にですか?」思いもせぬ結婚話に困惑したが、私は当時交際していた人との結婚も控えていたため、父に断りの電話を入れてもらった。しかし、遠藤 陸という男は、それで諦めるような人間ではなかった。「え……別れるってなんで、突然どうしたの?」その二週間後、大学時代から五年付き合っていた彼から突然電話がかかってきて、理由も告げずに振られてしまった。家に行っても居留守をつかわれ、連絡先もブロックされている。友人に頼んで連絡をしたり理由を聞いてもらっても、何も分からないままだった。呆然として別れの現実を受け入れられなかったが、その一か月