LOGIN
星哉が意識を取り戻したのは、三日後のことだった。目を覚ますと真っ先に、私に会いたいと訴えた。両親の制止も聞かず、介護士に車椅子で運ばれて、私の病室を訪れた。入院着姿の彼の顔は紙のように青白く、両足は厚いギプスに包まれ、車椅子の足置きに固定されていた。かつて舞台で輝いていた世界チャンピオンの面影はなく、今は脆く儚げに見えた。視線が合い、沈黙が流れた。最初に口を開いたのは彼だった。声はかすれていた。「香乃、ごめんね」そのひと言に、全てが込められていた。罪悪感、後悔、哀れみ。私は首を振った。「謝るべきはあなたじゃない。それに、私を救ってくれた。これで…チャラだよ」「チャラなんかじゃない!」激動し、体を起こそうとした彼は足の痛みに息を詰まらせた。「違うんだ、香乃。これで終わりなんかじゃない」彼は私を見つめ、目尻を真っ赤にし、声を詰まらせながら言った。「俺が馬鹿だった。あんな女に何年も騙されていて、彼女のせいで君とすれ違い、あんな酷いことを……」彼の声が詰まった。「君への想いは、責任や罪悪感だけだって、思い込んでいた。でも君が目の前から消えた時、気づかされたんだ。自分がどれだけ恐ろしいほど君を必要としてたかって。頭の中が、小さい頃の君、笑う君、踊る君……香乃のことでいっぱいで。香乃、愛してる。ずっと前から、ただそれに気づかなかっただけなんだ」車椅子を辛そうに進め、私のベッドまで来ると、彼は震える手で私の手を握った。その手は冷たかった。「香乃、行かないで。離れないで」哀願するような眼差しだった。「医者によると、この足ではもう踊れないかもしれない。ほら、俺も不自由になった。君と同じだ。これでお互い様だ。借りも貸しもない。もう一度、最初からやり直そう。お願いだ」私の手を自分の頬に押し当てた。熱い涙が彼の目尻から零れ、私の手の甲に落ちた。「チャンスをくれ、君を愛するチャンスを。一生、面倒を見させてほしい」彼を見つめた。十年愛し続けてきたこの顔を。その瞳に浮かぶ苦痛と願いを。胸が痛んだ。彼のためにも、無駄に過ごした十年の自分自身のためにも。心が折れて、頷いてしまうかと思った。かつてこれほどまでに願っていた光景なのだから。だが、いざその時が来ると、私の心は止水の
その男が再び鉄パイプを振りかぶり、星哉の後頭部を狙おうとした瞬間──ドカン!倉庫の扉が蹴破られた。無数のサーチライトが倉庫を照らし、鋭い怒声が響く。「動くな!警察だ!全員、手を頭に後ろで組め!」まぶしい光の中、詩雨と手下たちの驚愕と恐慌が浮かんだ。星哉の体の力が一気に抜ける。彼が振り返り、私に向けて弱々しく笑った。それは泣き顔以上に痛々しい表情だった。「香乃、もう大丈夫だ」そう呟くと、彼は私の車椅子の脇に崩れるように倒れ、意識を失った。次に目を覚ましたのは病院だった。消毒液の匂いが鼻をつく。両親がベッドの脇にいて、私が目を覚ますと涙を浮かべて喜んだ。「香乃!やっと目が覚めたね」「もう大丈夫だ。すべて終わったんだ」父が私の手を握りしめ、目を潤ませていた。体を動かしてみると、多少の脱力感はあるものの、目立った傷はなかった。「星哉は?」母は隣のVIP病室を指さし、ため息をついた。「あそこよ。まだ意識が戻らない。医者の話だと……両足が粉砕骨折で、重度の脳震盪、体中に打撲傷があるって……」胸が締め付けられるように痛んだ。粉砕骨折。この言葉が意味するものを、私は誰よりもよく知っていた。彼もダンサーだったのに。彼にとって、これは死よりも辛いことだろう。その後数日、国内はこの悪質な拉致事件で騒然となった。詩雨は現行犯として逮捕され、自分の罪をあっさり認めただけでなく、十年前の未解決事件まで得意げに話した。真相は、彼女は賭博癖のある遠縁の親戚を利用し、借金まみれのその男に金を渡してならず者を雇い、あの拉致を仕組んだ。全ては私の足を奪うため。事件後、親戚は逃亡し、ならず者も姿を消したため、事件は迷宮入りとなっていた。今回私たちを救ったのは星哉だった。私が失踪した時、彼は真っ先に警察に通報し、自分の時計にGPS発信機が内蔵されていることを伝えた。彼は無謀に突っ込んだのではなく、自分を囮にして警察に時間を与え、正確な位置を特定させていたのだ。真実が明るみに出ると、ネットは完全に沸いた。私を「厄介者」、「足手まとい」と罵っていたコメントは、一夜にして消え去った。代わりに押し寄せたのは、驚愕と怒り、そして同情の声だった。【これ現実版の『農夫と蛇』じゃん!あの女
私は目を閉じた。胸の奥が氷のように冷えていく。すべてが腑に落ちた。星哉の深い愛情は、私の守り神ではなく、むしろ私を死に追いやる呪いだった。彼のために足を失い、十年もの罪悪感を与えた。今、私が離れようとしたことで彼が真実の愛に目覚め、それが私を殺すことになるとは。なんという皮肉か。ドカン!倉庫の扉が外から蹴り破られた。光の中、見慣れた人影が駆け込んでくる。全身に塵と焦燥をまとって。「香乃!」星哉だった。車椅子に縛られた私と、鉄パイプを握る詩雨を見て、彼の目が一瞬で赤く染まった。「詩雨!何をしてる!香乃を離せ!」彼は怒号を上げ、私へ向かって駆け出そうとしたが、待ち構えていた二人の男が左右から即座に組みつき、がっちりと押さえ込んだ。詩雨は星哉を見つめ、一瞬虚ろな表情を見せた後、狂ったように笑い出した。「来たんだね、彼女のために。命も惜しまずに来たんだ」星哉は必死にもがくが、男たちの拘束は固い。彼は詩雨を睨みつけ、目に嫌悪と失望をあからさまに浮かべていた。「まさかお前がこんなクズだったとは。十年前も、お前だったんだな?」「そうよ!」詩雨は即座に認め、私を指さして叫んだ。「全部この人のせい!この人がいなきゃ、私たちはとっくに一緒になれてた!私を見てよ!私が一番あなたを愛してるのに!」「それは愛じゃない。狂気だ」星哉の声は怒りで震えている。「香乃を放せ。恨むなら俺に来い」「あなたに?」詩雨は可笑しな話を聞いたような顔をした。「そんなことできるわけないじゃない。でも彼女をそこまで愛してるなら、一緒にあの世に行けばいい。哀れな二人に最後の情けをかけてあげる」彼女の目が冷たく光り、男たちに命じた。「始めろ。まずあの女から。手も潰せ。これからどうデザイン画を描くつもりか見せてやれ」一人の男がニヤリと笑い、鉄パイプを私の右手めがけて振りかぶった。思わず目を閉じる。しかし痛みは来ない。鈍い音と、押し殺した呻き。目を見開くと、星哉が束縛を振り切り、自分の体を盾にして私の前に立っていた。あの一撃は彼の脚に直撃していた。「星哉!」声が飛び出す。彼は私に背を向け、全身を震わせている。額に浮かぶ血管、背中を伝う汗。それでも彼は倒れない。両腕を広げ、一
意識が戻ると、見覚えのある薄暗い風景が広がっていた。すぐに悟った。十年前に閉じ込められた、あの廃倉庫だ。湿ったカビと鉄錆の混じった空気。壊れた配管から水が滴る音が、静まり返った空間に、そして私の張り詰めた神経に直接響いてくる。手足は荒い縄で車椅子に縛り付けられ、身動きが取れない。十年前と同じように、骨の奥から這い上がる恐怖。だけど今回は、その恐怖に、一片の理不尽な疑問が絡みついていた。なぜ?どうしてまたここに?コンクリートを踏むヒールの音が近づく。耳に刺さるような響き。影から人影が現れ、私の前に立ち止まった。詩雨だった。レストランで会った時と同じ白いワンピース。あの無邪気な笑顔はすっかり消え、代わりに歪んだ、嫉妬と狂気が混ざり合った表情を浮かべている。「香乃さん、お目覚め?」相変わらず甘ったるい声なのに、背筋が寒くなる。「ここ、懐かしいでしょ?」私は彼女を睨みつけ、頭を高速で回転させた。そして、信じがたい結論に辿り着く。「あなただったの」喉が渇いて声がかすれていた。「十年前も、あなただったの」詩雨の目がぱっと輝いた。まるで褒められたかのように、口を押さえて笑った。笑い声が倉庫に反響し、気味が悪い。「香乃さん、賢いわね」彼女はしゃがみ込んで、私の目を見た。「そう、私よ」頭の中が真っ白になった。そうか。偶然の拉致なんて最初からなくて、全ては計算された陰謀だったんだ。「どうして?」「どうしてって?」詩雨の笑顔が消え、激しい憎悪が浮かんだ。「私のどこがあなたに及ばないっていうの!家だって、高橋家に負けてない!ダンスだって、ずっと一番って言われてきた!なのに星哉さんの目には、どうしてあなたしか映らないの!」声が金切り声に変わっていく。「十二歳からずっと好きだった。なのに彼はあなたの後ろばかり追いかけてた。だからチャンスをあげたの。彼のパートナーから永遠に去るチャンスを」詩雨は立ち上がり、見下ろすように私を見た。目に残酷な得意色が光る。「足を潰して、二度と踊れなくした。そしたら当然、私がパートナーになれる」声には悔しさが滲んでいた。「でも、廃人になったあなたが、ボロボロの足で彼に十年も枷をはめるなんて!彼は罪悪感で、あなたを壊れ物みたいに扱った。私
ポケットの中で携帯電話が震え続けている。無視した。誰もいない部屋に戻り、荷造りを始める。私の物は少なく、スーツケース一つに全て詰め終わった。星哉からもらったネックレスもブレスレットも、ブランドのバッグも、一つとして持たずに置いていった。持って行ったのは、両親が買ってくれた数着の服と、自分のデザイン画のファイルだけ。携帯の着信音がやんだ頃、今度はメッセージが次々と届き始めた。【香乃、今どこ?話を聞かせて】【詩雨に悪気はない。ただのパートナーだ】【なんでそんなことする?詩雨の前で俺を辱めるなんて、俺をもう信じてないのか?】【高橋香乃、いい加減にしてくれないか】最後の一行は、怒りと焦りで押しつぶされそうな詰問だった。その文字を見て、ふっと笑った。「いい加減に」か。彼には、私がわがままを言って騒いでいるだけに見えるらしい。そもそも、彼は一番の問題がどこにあるのかさえ、気づいていない。きっと彼はこう考えているだろう。自分はこれ以上なく誠意を見せた。チャンピオンとなり、約束も果たした。ならば私が感謝し、従うのは当然だと。携帯の電源を切り、SIMカードを取り出して真っ二つに折り、トイレに流した。水を流す音が、十年分の、ばかばかしい恋心も一緒に洗い流してくれるようだった。実家には寄らず、空港近くのホテルに直行した。残り一ヶ月、静かな場所で過ごしたかった。それからの数日間、世界は静かだった。星哉からの連絡がないことが、むしろ気持ちを軽くしてくれた。一週間後、見知らぬ番号から着信があった。「香乃、どこにいるんだ!」星哉の声だ。押し殺した怒りと、かすかな動揺が混じっている。「どこにいても、もうあなたには関係ないんだ」平静に答えた。「関係ないってどういうことだ!はっきり言え!別れるなんて君の一方的な決めつけだ!認めてない!」「星哉」彼の言葉を遮った。「あなたが認めようと認めまいと、どうでもいいんだ」電話の向こうが沈黙した。しばらくして、哀願するような声で彼が言った。「香乃、戻ってきてくれないか?あの時、打ち上げに詩雨を呼んだのは悪かった。彼女にもちゃんと説明するから、これからは絶対に会わない。いいかな?」「結構だ」きっぱりと言い放った。「詩雨さんを
レストランには優雅なバイオリンの調べが流れていた。星哉は手際よく私のステーキを切り分け、そっと皿を前に寄せた。「味は変わってないか、食べてみて」私がナイフとフォークを取ろうとした時、彼の携帯が鳴った。着信を見た彼の口元が、自然とほころんだ。「もしもし、詩雨?」その名前が細い針のように、私の耳に刺さった。「え、近くにいるの?じゃあ寄ってよ!ちょうどいいタイミングだ」声に弾むような喜びが込められていた。「うん、香乃も一緒だし、前から二人に会わせたかったんだ」電話を切ると、彼は嬉しそうに言った。「奇遇だね、詩雨が近くに来てるんだって。すぐ来るよ」私は表情一つ変えず、「そう」とだけ答えた。星哉は私の冷淡さに全く気付かない様子で、一人上機嫌だった。間もなく、眩いほど美しい姿が入口に現れた。詩雨は白いワンピース姿で、肩にかかる長い髪、顔には甘い微笑みを浮かべている。「星哉さん、香乃さん」声も人柄そのままに柔らかく響いた。星哉はさっと立ち上がり、ごく自然に彼女の椅子を引いた。「ほら、疲れたでしょ」詩雨が座ると、程よい敬意と好奇心を込めた視線を私に向けた。「香乃さん、やっとお会いできて嬉しいよ。星哉さんからは何度もお話を伺っていた。香乃さんこそが、彼の心の中で最高のダンサーだって」彼女の言葉には嘘偽りがなく、瞳はきらきらと輝いていた。普通なら、その純粋な好意に心を動かされるところだろう。けれど私には、ただの痛烈な皮肉にしか聞こえなかった。口元をわずかに引きつらせ、「そうか」と応じた。星哉が笑って場を繕った。「さ、何か注文しよう」メニューを詩雨に渡しながら、その眼差しは優しかった。「好きなものを頼んで。遠慮しなくていいから」二人はダンスの話、試合の話、共通の知人の話で盛り上がった。どれも私には入れない話題ばかりだった。星哉は無意識に、詩雨の苦手なパクチーをサラダからより分けた。詩雨は自然にナプキンを取って、星哉の口元に付いたソースの跡を拭った。二人の間に流れる空気は完璧に調和していて、隙がない。まるで彼らこそが本来のペアで、私はただの場違いな第三者だと言わんばかりだった。詩雨がグラスを掲げて、私を見た。「香乃さん、乾杯しましょう。星哉さん