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2. 暗闇の中でいちばん安全な場所

last update publish date: 2026-09-15 19:24:49

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大峙洞(テチドン) — ソウル・江南(カンナム)にある高級住宅街。高級複合型レジデンス(住居と商業施設が一体化した邸宅)が立ち並び、洗練されたマナーの良い人々が暮らす街として知られる。韓国随一の教育熱心なエリアでもあり、子どもの教育にすべてを注ぐ、いわゆる"教育ママ"たちの存在感も強い。二代、三代と受け継がれてきた旧家の富裕層も多く、この街に根を張って生きる人々が少なくない。

道谷洞(トゴクドン) — 大峙洞のすぐ隣に位置する街。行政区域上は分かれているが、実際には境界がほとんど分からないほど隣接しており、生活圏も学区も大峙洞とまったく同じだ。事実上、大峙洞と道谷洞は一体の街として語られることが多い。ソウルの中でも「もっとも住んでみたい」と憧れられる高級住宅街のひとつでもある。

良才川(ヤンジェチョン) — 安未来が暮らす最高級複合レジデンスのすぐそばを流れる川。管理が行き届き、水辺は清潔で、緑豊かな景観も美しく整えられている。まるでニューヨークのセントラルパークビューのような眺めが広がることから、大峙洞に住んでいない人々の間でも「一度は良才川沿いに住んでみたい」という憧れの対象となっている。

 

コートが床へ滑り落ちた。

男の片手はミレの腰をしっかりと抱き、もう片方の手は華奢な腕をつかんでいた。バランスを失った彼女は、そのまま彼の太腿と胸に寄りかかってしまった。

「ゆっくり息をしてください。システムが一時的に誤作動しただけです」

「わたし……うっ……」

シルクのブラウスは薄かった。手のひらに収まるほど細い腰と、その下へと続く柔らかな曲線が、布越しにそのまま伝わってきた。

ユ・ジニの呼吸が一瞬止まった。

医師として、数え切れないほど人の身体に触れてきた男だった。それなのに、自分の腕の中へ崩れ落ちてきたこの女の身体は、不思議なほど見知らぬもののようで、強烈だった。小さく華奢なだけだと思っていた身体には、成熟した美しい曲線が隠されていた。

離れなければならなかった。

けれど、手が動かなかった。

ミレも本能的に男の腕をつかんだ。指先に硬い筋肉が触れた。力の抜けた脚は彼の太腿に触れ、顔のすぐそばでは、広い胸が呼吸に合わせて上下していた。

顔も、名前も知らない男だった。

それなのに、互いの身体はすでに相手を記憶し始めていた。

暗闇は何も見せてくれなかった。

だからこそ、より危険だった。

目の代わりに、指先と肌が相手を知り始めていたから。

「僕がしっかり支えていますから、安心してください」

男の腕に、もう少し力がこもった。

四方を塞がれた空間、止まってしまった機械、見知らぬ男の腕の中。

怖くて当然の状況だった。

けれどミレには、自分が暗闇のせいで震えているのか、それともこの男とあまりにも近く密着しているせいで震えているのか、わからなかった。

一つだけ、はっきりしていた。

彼の腕の中は、不思議なほど安全だった。

「もしかして、閉所恐怖症がありますか?」

「よく……わかりません」

「呼吸が乱れているからです。僕の呼吸に合わせてください。ゆっくり吸って」

ミレは低い声に導かれるように息を吸い込んだ。

清潔な繊維の香りと、重くひんやりとした男の匂いが胸の奥深くまで入り込んできた。

「今度は吐いて」

言われたとおり、ゆっくりと長く息を吐いた。

「上手にできています」

その短い褒め言葉が、胸の真ん中に突き刺さった。

十七年間の結婚生活で、夫から一度も聞いたことのない言葉だった。

呼吸が落ち着くと、別の感覚が目を覚ました。

ワイシャツ越しに伝わってくる鼓動。

耳元をかすめる吐息。

自分を守るように包み込んでいる、たくましい腕。

この礼儀正しく温かな男は、いったい誰なのだろう。

「中に人はいますか? もう少しだけ待ってください!」

外から叫び声が聞こえた。

扉の隙間から、細い光が差し込んだ。

ミレは我に返ったように、すばやく男の腕の中から離れた。床に落ちたコートを拾い上げ、乱れた服を整えた。

扉が強制的に開けられると、スタッフと救助隊員たちが一斉に入ってきた。

ジニは女の顔を確かめようとしたが、人々に遮られた。

彼が見たのは、遠ざかっていくスカートの裾と、コートの襟を握りしめた白い手だけだった。

そして、廊下に残されたほのかな香り。

それがすべてだった。

ジニは自分の手のひらを見下ろした。

女の腰と背中を包んでいた温もりが、手相の線の間に焼き印のように残っていた。

拳を握り、もう一度開いてみた。

消えなかった。

回復室で、代表院長が何度も頭を下げた。

「本当に申し訳ありません、アン・ミレ様。よりによってオープン初日にこんな事故が起きてしまって……」

「いいえ。私が怖がりだから、大げさに騒いでしまっただけです」

ミレは、一分の隙もない微笑みを浮かべた。

つい先ほど、見知らぬ男の腕の中で息を乱していた人とは思えない顔だった。

「今日は先に失礼しますね」

パーティー会場へ戻ったジニには、人々の声が水の中から聞こえてくるように遠く感じられた。

予約の問い合わせも、顔を見てほしいという冗談も、ビジネス用の笑顔で受け流したが、意識はすべて手のひらに残る感覚へ向かっていた。

顔も名前も知らない。

それなのに、手があの女を覚えていた。

同じ頃、走る車の中で、ミレも自分の手のひらを開いて見つめていた。

『僕がしっかり支えていますから、安心してください』

彼女はゆっくりと目を閉じた。

夫ではない男の声だった。

それなのに、その言葉をもう一度聞きたかった。

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