「ゆっくり息をしてください。システムが一時的に誤作動して、止まっただけです」
「あの……ぐすっ……あの……」
縋るものを求めて壁に手を伸ばしたが、閉ざされた闇の中で空を切るだけだった。頭がくらりと揺れ、膝から力が抜け、体が大きくよろめいた。
その瞬間、男がすばやく手を伸ばし、崩れ落ちる彼女の体を支えた。
大きな片手がミレの腰をしっかりと抱き、もう片方の手が華奢な腕をしっかりと掴んだ。
その衝撃で、ミレが手にしていたコートが床へすべり落ちた。
シルクとは、本当に正直で、そして危うい生地だった。薄い布一枚。ただそれだけだった。
手のひらに収まる細い腰。バランスを崩したミレが彼の胸へと深く傾いていく瞬間、シルク越しに伝わる体温までもが、あまりにも鮮明だった。
真喜の息が、ほんの一瞬止まった。
医師として、数えきれないほど人の体に触れてきた男だった。それなのに今、腕の中に収まった女の体は、奇妙なほど見慣れず、強烈だった。
離さなければならなかった。
なのに、手が離れなかった。
ミレのほうも戸惑いは同じだった。倒れまいと本能的に縋りついた指先が掴んだのは、硬く盛り上がった腕の筋肉だった。顔のすぐ近くには、広く引き締まった胸があった。
顔も知らない男だった。名前など、なおさら知らなかった。
それなのに、ミレの体はもう、この男がどれほど大きく、頑丈な人なのかを知ってしまっていた。
「しっかり支えていますから、安心してください。大丈夫です」
低く沈んだ声には、微塵の揺らぎもなかった。
ミレは、その声が運んでくる信頼感に、すっかり身を預けてしまった。
不思議なことだった。本来なら怖がるべき状況のはずだった。四方を塞がれた、暗く狭い空間。名前も顔も知らない見知らぬ男の腕の中。
なのに今のミレには、自分が怖くて震えているのか、この男にあまりにも近く触れているせいで震えているのか、もはや分からなかった。
ただひとつだけ、確かなことがあった。この男の腕の中は、奇妙なほど安全だった。
「もしかして、閉所恐怖症がおありですか?」
「よく……分かりません……」
「大丈夫です。息が乱れているだけですから。僕の呼吸を吸い込むつもりで、ゆっくり真似してみてください」
耳をくすぐる、低く柔らかな導きが続いた。
「吸って」
ミレは、その優しい囁きに誘われるように、震える息を深く吸い込んだ。
「ゆっくり吐いて」
「上手にできていますよ」
上手にできていますよ。
その温かな励ましが、耳を通り抜けて、胸の奥深くにぐさりと刺さった。
十年を超える結婚生活の中で、夫の口から一度たりとも聞いたことのない、温かな慰めだった。
やがて息が通りはじめ、体の震えがすっかり治まっていった。
薄いワイシャツ越しに、とくとくと伝わってくる男の穏やかで安定した鼓動。耳元をかすめる深い吐息。鼻先をやわらかく刺激する、清潔で端正な香り。
この礼儀正しく、頑丈な男は――いったい誰なのだろう。
そのとき、エレベーターの外から救助隊員たちの慌ただしい足音と叫び声が聞こえてきた。
「中に人はいますか? もう少しだけ待ってください!」
ガンッ、ガンッ。扉を叩く音とともに、かすかな光の筋が扉の隙間から刃のように差し込んできた。
光が差し込むと同時に、ミレはゆっくりと体を起こし、真喜のしっかりとした腕の中から抜け出した。
その退き際があまりにも滑らかで自然だったため、つい先ほどまで必死にすがりついていた痕跡すら、どこにも見当たらないほどだった。
まもなく扉が強制的にこじ開けられ、待機していた職員や隊員たちが我先にと駆け寄ってきた。
真喜は人々の騒ぎの中で一歩後ろへ下がったまま、彼女の顔を確かめようと視線を伸ばした。
だが、一歩遅かった。視界は押し寄せる人々に遮られてしまった。
真喜の視線の端に、かろうじて捉えられたのは、遠ざかっていくスカートの裾と、コートの襟を握りしめた白く細い手だけだった。
そして、彼女がすれ違いざまに廊下に残していった、ほのかな残り香。
それが、彼に許された、すべてだった。
残された柳真喜は、ぼんやりと自分の大きな手のひらを見下ろした。
女の背中を温かく包み込んだあの熱が、まだ手のひらの中に、焼き印のように鮮やかに残っていた。
彼はゆっくりと拳を握り、そしてまた開いた。
消えなかった。
指先が、すでにあの目眩がするような感覚を、覚えてしまっていた。



