皮膚科の回復室は静かだった。
代表院長が落ち着かない顔で、何度も腰を折った。
「本当に申し訳ございません、安未来様。よりによってオープンをお祝いに来てくださった日に、こんな不祥事が起きてしまうなんて……」
「いいえ、院長先生。わたしが怖がりで、少し大げさに騒いでしまっただけですから。拡張移転、改めて心からお祝い申し上げます」
「お体は本当に大丈夫ですか?」
「ええ、本当に大丈夫です。少し驚いただけですから」
ミレは席から優雅に立ち上がった。
口角を美しく上げた微笑みは、寸分の狂いもなく完璧だった。つい先ほど闇の中で息を切らせ、見知らぬ男の腕の中で崩れ落ちていた女だとは、とても信じられないほど、非の打ちどころのない顔だった。
「今日は疲れたので、先に失礼しますね」
真喜はどうにか会場へ戻った。
けれど耳をかすめる人々の声は、すべて水の中から聞こえてくるように、ぼんやりとくぐもって響くだけだった。
顔すら、まともに見ていなかった。名前が何かも知らなかった。
それなのに、理性ではなく、手が、体が、あの女を覚えていた。
走る車の中。
信号でしばらく止まった車の中で、ミレは自分の手のひらをゆっくりと広げてみた。
『僕が支えていますから、安心してください』
ミレはゆっくりと目を閉じた。
車窓の外を、道谷洞の街灯の光が、星の瞬きのように速く流れていった。
家の中は、ひどく静まり返っていた。
ミレは浴室に入り、長い時間、熱いお湯を浴び続けた。煮えたぎるような湯の筋が、白い背中を伝ってとめどなく流れ落ちた。その水の流れが、闇の中であの男の大きな手のひらが触れていた場所を、そっとかすめていった。
ミレはしばらく手を伸ばし、その場所をそっと押さえてみたが、やがて物寂しく手を引いた。
ドレスルームの前に立ち、とても薄く柔らかなシルクのスリップを取り出して身にまとった。
誰にも見られることのない深夜であっても、安未来は自分自身のために、一番美しいものを選ぶ、プライドの高い、自分を大切にする女だったから。
鏡の中の女は、それでも眩しいほどに美しかった。
ずっと遠い昔には、夫も囁いてくれたことがあった。
今日の君は本当に綺麗だ、と。
その優しい褒め言葉が、いったいいつから煙のように消えてしまったのか、正確には思い出せなかった。
寝室のドアを開けて入ると、夫はすでにベッドの片隅で、無関心そうに横になっていた。
「……今日、病院のエレベーターが、途中で止まったんです」
「そうか」
「暗くて……少し怖かったです」
「もう大丈夫だろ」
それで、会話は終わりだった。
ミレはベッドの脇に立ち、夫の大きな背中をじっと見つめた。
広く、頑丈な背中。十数年もの歳月をともに生きてきた、自分の夫の背中だった。
けれどあの背中は、ただの一度も、ミレに向かって「辛かったら僕に寄りかかっていいよ」という優しい安らぎを差し出してくれたことはなかった。
「電気、消すか?」
「ええ」
カチッ――。
闇が部屋の中を呑み込んだ。
同じベッド、同じ布団をかぶり、同じ天井を共有する家。それなのに、世界でもっとも遠い距離に置かれた二人。
ミレは寝返りを打ち、ゆっくりと目を閉じた。
深い闇が下りてくると同時に、脳裏をよぎって浮かび上がった姿は、意地悪なことに、十七年をともに生きた夫の顔ではなかった。
耳元に響いていた、あの男の低い声。
自分が崩れ落ちないよう支えてくれた、硬い腕。
シルクの布地を突き抜けて、肌にまで沁みこんできた、あの手のひらの熱。
闇の中で何も見えなかったはずなのに、不思議なことに、彼の体だけはあまりにも鮮明に記憶に残っていた。
いや――目で見たときよりも、ずっと鮮明だった。
今夜初めて出会った、名前も知らない見知らぬ男の腕の中のほうが、十年をともに擦り合わせてきた夫の肌よりも、ずっと熱く、安全だった。
それが、ひどく甘美であることこそが、問題だった。
名前も、顔も知らない。
けれど、彼の呼吸がふと止まった、あの一瞬を、体じゅうの細胞が覚えていた。