Войти剥き出しの刃物に動じる事なく、店主の女は真っ赤な口紅をペロりと舐めただけだった。
微笑を浮かべたまま、静かに男の次の言葉を待つ。「俺がよ……。食い終えたら……ちょっと電話貸してくんねぇか ? 警察呼びてぇんだ」
「自主でしょうか ? 」
「ああ。そういうことだ」
「分かりました。
どうぞ、ゆっくり召し上がって下さい。ご飯はおかわり可能です」「あぁ……じゃあ、もう一杯頼むよ。
……姉ちゃん、驚かねぇんだな。なんつーか、ここにパトが来られちゃ迷惑だろうに」動じる様子の無い女店主に、男性の方が拍子抜けし気を緩めてしまう。
「ここで待たせて貰う事にしようとしてるんだが……いいのかい ? 」
「ふふ。大通りの警察署と教会、この先の国道から数キロ先には刑務所。
こういったお客様は、よくお見かけしますので」「マジかよ。世も末だな」
「そうですね。まさに世界の終末でございますね。
人間はとても身勝手な生き物で……。しかしわたしはこうも思います。 人をそう創った神も疑問だ、と」「ほんと。そうだよなぁ……はは。違いねぇ。だがよ。全部が全部を、神や仏のせいにしてらんねぇだろうよ。
実は俺ぁ、ここに来るまで三人殺ってんだ」男性は下を向きながらも、血走った目をしていた。
「そうでしたか。ですが、自主の判断は素晴らしいです」
犯行後に『素晴らしい』等と言われても気休めや、気が変わらないようにする為の言葉だと、男は思わず苦笑いを女店主へ向けた。
「いやいや、素晴らしいとは言わんだろ。
でも……逃げたところで……時効が無い今、人生詰んでんだろ……」「事情を聞いても ? 」
「なぁに簡単な事だ。歳の割にゃ釣り合わねぇ話に乗っちまったのよ。去年職場が倒産してな。SNSで『ドライバー募集』なんてDMしてくる怪しいアカウントに誘われて話に乗っちまった」
「闇バイトと言うものですか」
男性は頷くと、再び目の色が変貌する。
「奴ら…… ! 俺を消そうとしやがったんだ ! どの道共犯だってのに、強盗で押し入る先で誰が行くか揉めに揉めて。ドライバーが運転だけで、現場に行かねぇのはおかしいだろって言い出しやがった。俺が運転だけの仕事だと言い張ると、激昂して俺を殺そうとしやがった」
「では正当防衛です」
「おいおい。そんなわけねぇだろ。オマヌケ強盗の仲間割れってだけだ。正当防衛にゃ当てはまんねぇよ」
女店主は冷えた瓶ビールを取り出すと二つのグラスに注ぎ、片方を男に差し出す。
「サービスです。刑期を全うしたら、また奢ります」
「ありがてぇ ! くっ……はあっ ! ウメェ !
実は手持ちがギリギリでよ。我慢してたんだ。うめぇなぁ〜」「強盗は成功しましたか ? 」
「……いや。結局……。
俺も頭に来てよ。乗り合わせた連中を殺っちまったんだ……。 俺ぁ、何しに行ったんだか…… ! やれば良かったんだ強盗くらい ! 金は欲しい !! 闇バイトって分かって行ったってのにな ! 笑えるぜ ! しかし……爺さん婆さんみてぇな弱い奴から、殺してでも金を取って来るってぇのは……いざその時となると、踏ん切りがつかなかったんだ。その為だけに、ドライバーって役目に甘えちまった腑抜けだ ! ただの強盗になるだけのはずが、殺人犯になっちまった……」「……発想の転換をしてみては ?
罪のない人が助かった、と考えるのはどうでしょう ? 」「姉ちゃん、綺麗な顔してドライだなぁ……。
それにしても、結構な豪邸だったよ。川沿いに公園があんだろ ? あの目の前の瓦屋根の家。 だが……もう目は付けられてるだろうし、俺が行かなくても誰かしら別な奴が行くだろうな。リーダーはや指示役は別にいやがるんだ」「…………物騒な事ですね」
「ああ。本当にな。
ご馳走様。美味かった。ビールもありがとうな。 さて……電話貸してくれ」その後、赤色灯に照らされながら男は車に乗り込む前──深く女店主に頭を下げたのだった。
□□□□
それから数十分後。
「くそ ! 早くしろ ! 」
「うげぇ ! こりゃひでぇ」
実行犯の連絡が途絶えたことで指示役は、ボス格からの圧力により自らが現場へ駆り出される羽目になっていた。
豪邸の車庫には家人の持ち物ではない乗用車が一台。中年男性が犯行に使った車だ。その中で血まみれの男達が重なり合う様にシート下へ雑に押し込まれていた。「窓にまで血が…… ! 」
「家人は留守だ。早く ! 」
「…… ? 一人、二人、三人……おい、こいつら人数足りねぇ。そうだ ! 運転役のジジイがいたはずだ ! 」
「土壇場で仲間割れしやがったんだよ。そいつが捕まる前に済ませる ! もうサツが向かってるかもしれねぇ ! 」
この二人は組織のピースにしか過ぎない。リクルーターと指示役だ。
首謀者は上にいる以上、不測の事態が起きれば尻拭いの消耗品に過ぎないのだ。「…… ? 玄関開いてるぞ ? 夫婦二人旅行中だよな ? 」
(用心しろ。中に子供や世話人がいるかもしれねぇ)
(……雨戸も閉まってんのにか ? )
チャキ……。
バタフライナイフを開いたリクルーターの男が、そっとダイニングを覗く。
シーリングライト、給湯器、間接照明、テレビ。家電類が点いている雰囲気はない。水滴の一つも滴らない乾いた空間。(ただの施錠忘れか ? )
(二階を見てくる。一階を探れ)
二人が階段下から単独行動に移る。
リクルーターは暗闇でナイフを握りしめたまま、長い廊下をゆっくりと歩き、閉まった襖を一つずつ開け放つ。
( …… ? )
しかし、どの部屋も人の気配はない。
家人は旅行中。これはいよいよ、本当に施錠忘れだろうと思った矢先、廊下の天井に稼働しているカメラを見つける。「くそ ! 」
ガッ !! ゴッ !
動体感知式。廊下を歩いている者がいる時点で録画はされ、警備会社へ通告が即発信される。
ビリリリリリリ !!
当然そこへ衝撃を加えたら、それは非常事態の確定だ。
耳を劈く様なけたたましい音を上げ始める。「だァァくそぉぉぉっ ! 」
そもそも、これ程の豪邸でカメラ一つ無いとは考えられない。
この男も経験がまだまだ浅い、若い男なのだ。そしてもう一つ。
この屋敷は確かに施錠されていた。
その鍵を破ったところで、既に警備会社へ通報は届いている。更に運転手の男が自主した事で、管轄の警察官が時期にここへ向かっている頃だった。この屋敷は強盗被害に合う前に事なきを得たはずだが、鍵は破られていた。
そして──その鍵を破った張本人は、今もこの屋敷に潜み続けていた。
「くそ ! 止まらねぇ ! 」
ソレはリクルーターの真横に佇んでいる。
しかし男はまだ気付かない。「と、とにかく ! き、金庫 ! なんでもいい ! 金目の物 ! 」
『それはルール違反です』
「ひっ !!? 」
突然聴こえた女の声に男は身を竦めて、周囲を見回す。
「だ、誰だ ! 」
『ここ。ここです。……あなたのすぐ横に……』
男がゆっくり廊下の壁に首を向かせる。
大きな絵画にドライフラワー。 その下に。 固定電話の乗った木製のアンティーク台があった。「……っ !! 」
男の身体が強ばる。
冷や汗と酷い動悸で声も出せない。視線の先の固定電話。
まず睫毛が生える。 そしてパタパタと瞬きをし、鋭い瞳が現れたのだ。『ここです。ほぉ〜ら』
そして台の猫足が八本の触腕に変貌し、うねりながら大きく延びていく。キャビネット部分はふくよかな乳房を垂らした蠱惑的な女体へ。固定電話は美しい女性の頭部へ変わる。
「ぎゃぁぁぁっ !!!!」
若者の叫び声を聞いた二階の指示役の男が、足を止めて階下を覗く。
「おい、どうした !? 」
二階の探索を一度取りやめ、一階へ降り廊下の先を懐中電灯で照らす。
「う……っ !!? 」
目の前には、得体の知れないモノがリクルーターの若い男の血肉を貪っていた。
よく見れば長い黒髪の下、細い腰の先──程よく盛り上がった尻の形が、何やら常人と違うことに気付く。
女の脚は吸盤の付いた縞模様の八本の触腕だった。 闇に蠢き、まるで巨大蜘蛛のように廊下を塞いでいた。「ヒ、ヒィィィっ !! ば、化け物 !! 」
堪らず尻もちをついて、壁の血飛沫を見上げる。
女はゆっくりと振り向くと、口元から若者の手指を咀嚼しながらにっこりと微笑んだ。『化け物。言い得て妙です。化けてはいますが、あなたがたの方が余程の怪物なのでは、と思うのです。
わたしはミミックオクトパス。擬態能力最強と自負しています』「〜〜〜っ ! ???? 」
女はズルリと脚を這わせると、指示役の男の上に伸し上がる。
『困ったものです。陸で暮らすには人間のルールが必要らしいです。ですが、わたしも諸事情により人肉を戴きたい……。ならばせめて、『悪いお人』をいただこうという、気遣いなのです。大変申し訳ありません』
「ク、クリーチャー女め !
お、俺の用事は金庫だけなんだ ! ど、どけよ ! テメェもカメラに写ったんだ、共犯って言い切るぞ ! 」『誠に申し訳ございませんが、この姿のわたしは撮影機器の類には映りません。お気遣いありがとうございます。あなたは背中がとても美味しそうです』
「な、なんなんだよ〜 !
なぁ、誰にも言わねぇ ! 助けてくれ ! 」『その言葉。あなた自身が、散々聞いてきた言葉なのではないですか ? あなたは今まで、その方達の命乞いを聞いたのでしょうか ?
否、慈悲は無かったはず。 故にやはりあなたは、わたしがいただこうと思います』吸盤のついた触腕が男の首に絡みつく。
「ぎゃぁぁぁっ ! かっ、かはっ !! た、助け…… !! 」
窓に赤色灯が照らされた頃。
飛び出してきた警察官達を後目に、勝手口から這いずるように屋敷を後にした。『ご馳走様でした』
「まぁ、お巡りさん」 件の事件から数日後、二人の刑事が八本軒を訪れていた。「刑事課の鏡見と」「柊と申します ! 」 どちらも若い刑事だ。有り余るエネルギーを制服で抑えているような印象。「店主の黒月 紫麻さんで間違いないですか ? 昨日の崎森の自主の件で、もう一度経緯をお伺いしたいのですが」「ご苦労様です。どうぞ、暑いので中に」「あ、お気遣いありがとうございます」 警察署から近い立地だ。勿論二人もこの店を知っていた。 だが、実際に入店したのは初めてだった。 店内には客がいない。 現在は16:00。 八本軒は15:00〜17:00までは中休憩がある。 紫麻は仕込みの手を止め、鏡見と柊をテーブル席へ案内し冷水を差し出す。「外は暑いでしょう。温暖化は深刻な問題です」「ええ〜。もう本当に真夏は日差しが強いですね」 柊がケラケラと話す。 一方、鏡見は仕切りに指で背広の胸元を擦りながら、銀縁眼鏡の鋭い瞳で店内をチラチラと観察。神経質そうな男──というのが、世間一般での鏡見の印象だろう。 鏡見がふと、雑誌置き場にある風変わりな物に目を止めた。紫麻はそれを敏感に察知し鏡見へと話を振った。「春画は違法ですか ? 」「え ? あぁ、少し気になっただけです……。 あ……。まぁ。ここは食堂なので似つかわしくはないかと……見方によっては猥褻物になる可能性もありますが……。 いや、しかし春画は文化的なものですからね……どうでしょう」「これは残念な事なのですが、この店にはお子様連れのお客様は滅多にいらっしゃらないので、つい。 配慮が足りませんでしたね。すぐ別な場所に移動しますので」「え、ええ。でも、凄い量ですね」「常連客の方で、お読みになる方がいますので。芸術的観点
剥き出しの刃物に動じる事なく、店主の女は真っ赤な口紅をペロりと舐めただけだった。 微笑を浮かべたまま、静かに男の次の言葉を待つ。「俺がよ……。食い終えたら……ちょっと電話貸してくんねぇか ? 警察呼びてぇんだ」「自主でしょうか ? 」「ああ。そういうことだ」「分かりました。 どうぞ、ゆっくり召し上がって下さい。ご飯はおかわり可能です」「あぁ……じゃあ、もう一杯頼むよ。 ……姉ちゃん、驚かねぇんだな。なんつーか、ここにパトが来られちゃ迷惑だろうに」 動じる様子の無い女店主に、男性の方が拍子抜けし気を緩めてしまう。「ここで待たせて貰う事にしようとしてるんだが……いいのかい ? 」「ふふ。大通りの警察署と教会、この先の国道から数キロ先には刑務所。 こういったお客様は、よくお見かけしますので」「マジかよ。世も末だな」「そうですね。まさに世界の終末でございますね。 人間はとても身勝手な生き物で……。しかしわたしはこうも思います。 人をそう創った神も疑問だ、と」「ほんと。そうだよなぁ……はは。違いねぇ。だがよ。全部が全部を、神や仏のせいにしてらんねぇだろうよ。 実は俺ぁ、ここに来るまで三人殺ってんだ」 男性は下を向きながらも、血走った目をしていた。「そうでしたか。ですが、自主の判断は素晴らしいです」 犯行後に『素晴らしい』等と言われても気休めや、気が変わらないようにする為の言葉だと、男は思わず苦笑いを女店主へ向けた。「いやいや、素晴らしいとは言わんだろ。 でも……逃げたところで……時効が無い今、人生詰んでんだろ……」「事情を聞いても ? 」
「おい ! おめぇ、何者だ !? 」 暗い屋敷の廊下。 押し入り強盗の懐中電灯で照らされたソレは、光りに気付きゆっくり振り返る。 顔は女人。 首下も人間。振り返った拍子に、裸体の豊満な乳房が上下に弾む。 だが男はその不可解な異形に、思わず懐中電灯を落とし声を漏らした。「ヒッ !! 」 女の瞳の瞳孔は山羊のように横長で妖しく吊り上がり、玩具のように真っ赤な唇が笑みを浮かべる。その唇は何かを咀嚼している。転がった懐中電灯が照らす女の口の端に、まだピクりと動く人の小指が引っかかっていた。 一緒に来た強盗仲間の青年に馬乗りになり、血肉を咀嚼しながら、人間とは思えぬ冷笑を浮かべる。 女の下肢は大きな蜘蛛のようで、床に粘膜を撒き散らしながら這いずる。黒々とした縞模様が蠢いて、青年の臓物を次々と口に運ぶ。 壁に当たって止まった懐中電灯が、天井にまで飛び散った血飛沫を照らした。 男は堪らず腰を抜かして尻もちを付いて命乞いをするのだった。「頼む !! 命だけは !! 」「……今まで老人達にそう言われた時、あなたは命を助けましたか ? 」「……んな事、言われたって…… !! 」「あなたも美味しそうです」 □□□□□ 海の日。 七月のその日、洗ったばかりでペトペトのシャツを着た中年男性がふらふらと歩いていた。 男の背のベルトには、たった今使用したばかりの包丁が挟まれていた。 都会から程遠い田舎町だが、新幹線の駅街が出来るとたちまち人口が増えた市街地になった。 駅前通りは華やかではあるが、駅裏は些かまだ商業施設は少なく、代わりに市役所や警察署が大通りに建ち並んでいる。 交差点の教会を住宅地方面へ曲がれば、すぐに地元民しか立ち寄らないような寂れた路地裏が四方に伸びている。 男性は一度立ち止まり、辺りを見渡す。 その路地裏の一角に町中華の看板が見えたのだ。 真っ赤な下地に黄金色の筆字で書かれた『大衆中華 八本軒』という、ケバケバしくもどこかレトロな存在感。 店先に並んだプランターの朝顔が、何本も綺麗に軒先まで延びてグリーンカーテンになっている。 男性は古くても手入れの行き届いていそうな店だと思った。背の包丁を黄ばんだシャツで簡単に隠し、暖簾をくぐった。「いらっしゃいませ」 厨房から女が一人振り返る。 店の規模からすると、この女一人