手術室から押し出された私は、下腹部に鋭い痛みを感じていた。
骨盤の肉を無理やり削られるような痛みよりも、心臓の奥の痛みのほうが何倍も辛かった。
三時間前、私は予定通り妊娠維持専門医のいる病院に到着していた。
だが、支払いカウンターで通帳を確認すると、長い時間をかけて貯めたはずの金が一夜にして消えていたのだ。
信じられない思いでスマホを握りしめ、何度も画面を更新した。
妊娠が不安定だと分かってから、私は必死にお金を貯め、ようやく専門医の診察費用を用意したばかりだった。
支払いカウンターで焦りに焦って汗が噴き出し、下腹部に異変を感じ始めた。
この金は、私の子どもの生死に関わる重要なものだった。
後ろに並ぶお年寄りたちが頭を突き出し、私に非難の声を浴びせた。
「何グズグズしてんだよ?他の人も支払いあるんだぞ。若いくせにマナーもないのか!」
汗が額から滴り落ち、どうしていいか分からず、目の前が涙で霞んでいった。
そんな私に気づいたのは、近くで自動精算機をサポートしていた看護師だった。
彼女に支えられてようやく座り込んだが、どんなにスマホをいじってもお金は戻らなかった。
ついに崩れ落ちそうになった私は、まず彼氏・高橋俊介(たかはし しゅんすけ)に詐欺に遭ったことを知らせようとした。
だが、SNSを開いた瞬間、目に飛び込んできたのは雨宮絵里(あめみや えり)の投稿だった。
【私の心を掴みたいなら、まず胃袋を掴まなきゃね。高橋さんってマジで理想の男!
今日の幸せは、最後の一点をゲットしたバッグから始まる〜】
写真には、厨房で忙しそうに料理する男の背中が写っていた。
写真の隅には、最新モデルの高級バッグがしっかりと映っていた。その値段は、私が妊娠維持のために貯めた金額とぴったりだった。
目眩がして、激しい腹痛が襲い、温かい液体が下半身を濡らした。
手術室に運ばれる際、私は医師の焦った声を耳にした。
「流産しそうなのに、家族の付き添いはどこ!?もう手遅れだ!!」
看護師が何度も俊介に電話をかけていた。
ようやく繋がった時、彼の口から出たのは冷たい一言だった。
「俺を犬みたいに繋ぎ止めるのやめてくれない?俺が一生懸命働いてるのは、お前に一番良い薬を飲ませるためだろ?」
……
病室のドアを開けて入ってきた俊介は、まだ苛立ちを隠しきれていなかったが、私の青白く冷たい顔を見ると一瞬言葉を失った。
私の腹の中の命が失われるその時、彼は別の女のために料理をしていたのだ。
私は、彼がゼロから立ち上がるのを支えた正式な彼女。それなのに、彼の作ったご飯一口すらもらえなかった。
看護師の冷たい視線に、俊介はバツの悪そうに頭をかいた。
「美貴、こんな大事なこと、なんで俺に電話しなかったんだよ……」
私が黙っていると、看護師が眉を吊り上げながら口を開いた。
「高橋さんですよね?藤田さんがベッドで出血していた時、あなたが彼女の番号をブロックしていたこと、忘れましたか?」
俊介は面子を何より大事にする男だ。看護師の悪意に満ちた言葉に、私を睨みつけた。
彼は、私が看護師に吹き込んだとでも思っているのだろう。
看護師が出ていった後、彼はもう演技すらやめた。
「藤田美貴(ふじた みき)、俺が出張してただけで、なんで子どもを守れなかったんだよ?」
私は唇が乾き、まぶたが重たくて上がらなかった。
返事がない私に苛立ったのか、俊介は私の肩を押し、指先で額を指す勢いで責め立てた。
「お前、何の役に立つんだよ?俺が外で必死に働いてるのは、お前たちのためだろ?
何だよ、その目。睨んでんのか?
俺の稼いだ金で生活してるくせに!」
私は唇を動かし、目の奥にある嘲笑を隠さずに言い返した。
「私のため?俊介、家にいて安静にしろって泣いて頼んできたのはあなたでしょ?
出張だって?他の女の家に行ってただけでしょ?」
私の表情があまりにも哀しげだったのか、彼は少しだけ態度を和らげた。
「急に金が必要になっただけだよ。まさか今日に限って流産なんてな……
俺がその金使ったおかげで、今や部長に昇進したんだぜ?もう貧乏生活とはおさらばだ!」
私は冷笑しながら、彼がスマホを取り出して支払いしようとするのを見つめた。
だが、画面には支払い済みの表示が出た。
「もう友達が払ってくれたわ」
私は力なくベッドに横たわり、彼の歪んだ顔すら見る気も起きなかった。
気まずい静寂の中、彼が低く罵る声が聞こえた。
ベッドの端が沈み、誰かが私の額の汗をじっと見ていた。
「ほら、プレゼントだよ」
胸に何かが投げつけられ、傷口がチクチクと痛んだ。
私は苛立ちと痛みに目を開けると、俊介が誇らしげに顎を上げていた。
「これ、中古のブランドバッグだよ。お前が買おうとしてたやつ。
安心しな、俺はもう昇進したから、言うこと聞いてくれたら、また買ってやってもいいぜ?」
私はその見るからに使い古されたバッグを手に取り、眉をひそめながら開けた。
中には、髪の毛が絡まったヘアゴムが入っていた。染められた髪の毛が数本ついており、バッグの安っぽさと私の無知さを嘲るようだった。
私はバッグを力いっぱい投げ飛ばした。
「こんなゴミ、誰が欲しいってのよ。いらないわよ」
バッグが飛んでいくのを見た俊介は、怒りに任せて跳ね起きた。
「美貴、調子に乗るなよ。お前、自分が何様だと思ってんの?お嬢様気取りか?」
私は喉の奥から短く笑い、小腹を押さえた。
「私がお嬢様じゃないと、誰が決めたの?」
俊介は眉をひそめ、まるで私が頭のおかしい人間でも見るかのような目で私を見た。
「お前が本当にお嬢様だったら、俺と一緒にボロアパートで苦労なんかしないだろ?」
私は黙って彼を見つめた。彼が皮肉を言い終えた後、ふと私が長年にわたって尽くしてきたことを思い出したようだった。
「もういいだろ。俺と絵里はただの兄妹みたいなもんだ。
俺の仕事には彼女の力が必要なんだ。少しは俺のこと考えてくれよ」
彼はまるで恩着せがましい態度で私の手を取ってきたが、目には明らかに苛立ちが浮かんでいた。
私は彼の顔をひっぱたきたかったが、もう疲れ果てていて、ただ静かに眠りたかった。
看護師が私を車まで押してくれたとき、彼女は心配そうに私を見ていた。
私は俊介に手伝ってもらおうと声をかけて、彼がすでに運転席に乗り込んでいるのを見た。
私がなかなか乗らないのに、彼は苛立ったように何度もクラクションを鳴らした。
「何してんだよ、俺がどれだけ忙しいか分かってんのか?」
車の窓が下がり、俊介の口が動いた瞬間、私は看護師に支えられているのを見て気まずそうな顔をした。
看護師の胸は怒りに震えていたが、私は俊介の性格を知っていたので、彼女に迷惑をかけたくなくて、思わず彼女の手を取ってしまった。
助手席に座ると、汗が額に滲み、体中が痛みと疲労で熱を帯びていた。
我に返ったとき、視界に飛び込んできたのは、助手席に貼られた可愛らしいイラストとメッセージだった。
【高橋さんの助手席は契約済み〜】
運転中の俊介が気まずそうにこちらを一瞥し、乾いた声で言い訳を口にする。
「子供のいたずらだよ、気にしないでくれ」
絵里のことを「子供」と呼ぶ彼の言葉を聞いた瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
子供?25歳にもなって?
呆れて反論する気力もなく、私はただ顔を窓の外に向けた。
同時に、心の奥底から後悔の波が押し寄せてきた。こんな男に本気になってしまった自分の目の節穴ぶりに。
彼に合わせて身を低くし、ボロアパートでの同居までした。
彼のプライドを守るために、自分が富裕層の娘であることも隠して、苦労を共にしてきたというのに――
窓にもたれて苦笑する私の横で、俊介は気まずさを紛らわせるように音楽をかけ、適当にナビを起動させた。
「高橋さん、こんにちは〜。今からは美しくて可愛い絵里がナビゲートしますよ〜」
絵里のわざとらしく甘ったるい声が車内に響き渡り、目を閉じかけていた私は堪えきれず顔を向けた。
「俊介、適当にごまかすにも限度があるでしょ?
あなたが中古品をプレゼントしてきたこと、私は黙ってたよ。それをいいことに、私を舐めてるわけ?」
さっきまで気まずそうに話しかけようとしていた俊介は、私の怒声に呆然とし、次の瞬間には陰険な表情に変わった。
「ふざけんなよ美貴。そうだよ、俺は絵里に惹かれてんだよ。
だけどさ、お前は自分の問題を考えたことある?
彼女は帝国製薬のご令嬢なんだ。彼女がいれば俺は上流階級に入れる。
お前は?騒いで喚いて、それしか能がねぇじゃねえか!」
俊介は私の腕を乱暴に引っ張って車から引きずり下ろした。走り去る車が跳ね上げた泥水が、私の靴を濡らした。
耳にはまだ「帝国製薬のご令嬢」という言葉が残っていた。
なるほど……あの古臭い肩書きを他人に奪われたってわけね。
私は半ば目を細めながら、遠ざかっていく車のテールランプを見つめ、心の奥に燃え上がる憎悪の炎を感じていた。
どうにかして家に帰り着いた私は、掌いっぱいの薬を、出前で届いたケーキと一緒に一気に胃へと流し込んだ。
久しぶりに家族へ電話をかけ、そして深い眠りについた。
だが、夢の中に逃げたはずなのに、腹部の激しい痛みが私の体から汗を絞り出していく。
やっとまともに休めると思った矢先、玄関のドアが激しく蹴り破られた。
誰かが遠慮なく私の腕を掴み、まぶたを乱暴にめくる。
「美貴、起きろ!お前、外で余計なこと言いやがったな?」
ぼんやりと目を開けると、そこには怒り狂った俊介の顔があった。
「言えよ、絵里のことを愛人って言いふらしたのはお前だろ?」
乱暴に引っ張られ、私はふらつきながらも彼の手にあるスマホの画面を見た。
誰かのSNS投稿。内容は、ある女を遠回しに非難する陰湿な文章だった。
「は?何言ってんの?この人誰よ?」
ソファに手をついて体を支えながら、怒りで内臓が煮え返るのを感じた。
「お前以外にこんな酷いやり方する奴がいるかよ?絵里はこの投稿見て泣いたんだぞ!」
俊介は私の言葉をまるで聞かず、掴んだ腕にさらに力を込めてきた。
痛みに顔をしかめ、私は彼の手を思い切り振り払った。
「俊介、あなた頭おかしいの?他人が愛人って書いたら、絵里が自分のことだって思うって……それ、本人がやましいことあるからじゃないの?」
かつて私に優しく微笑んでいた俊介の顔と、今目の前にいる狂気じみた男の顔が重なって見えた。
またしても、自分の見る目のなさと愚かさに嫌気がさした。
「絵里の言うとおりだよ。お前は陰険で性悪な女だ。
俺の人生を縛ってばかりで、今度は陰でコソコソと汚い手を使いやがって!」
俊介は上から目線で、痛みで涙を浮かべた私を見下ろしていた。
「だったら絵里と付き合えば?なんでまだ私と別れないの?
ああ、外で誠実アピールしてるのがバレたら困るからか?」
私ももう黙ってはいなかった。彼の偽りの仮面を、きっちりと引き剥がしてやった。
俊介は何も言い返せず、黙り込んだ。
しかし次の瞬間、怒りに任せて手を振り上げてきた。
私は眉を上げ、軽蔑の眼差しで彼を見返した。
「やれるもんならやってみなよ。私が先にあんたを刑務所にブチ込むか、あんたが先に私を殴り殺すか、試してみれば?」
かつての私は、決して穏やかな性格ではなかった。ただ、社会に揉まれて、少しは角が取れただけの話。
その角を削ったのも、俊介との付き合いの中で、彼の付き合いや見栄のために我慢を重ねてきた結果だった。
俊介の手は高く振り上げられ、顔には本気の殺気が浮かんでいた。今にも殴りかかってきそうな勢いだった。
だが、次の瞬間、絵里からの電話が鳴った。
さっきまで怒りに燃えていた男が一転、まるで別人のように口元に笑みを浮かべて電話に出た。
「もしもし、絵里?どうしたの?」
彼らの会話には耳を傾けず、私は自分の体を見下ろして、傷口がまた開いていないか確認していた。
俊介が時おりこちらを横目で睨む視線で、だいたいの内容は察しがついた。
案の定、通話の終わりになると、俊介はスピーカーモードに切り替えた。
「ごめんね、美貴姉。あの子、勘違いしてたみたい。ドラマの話だったんだって」
電話が切れた後、俊介はバツが悪そうにスマホをしまった。
私が冷笑を漏らす中、彼はキッチンへと向かった。
しばらくして、彼は湯気の立つお粥の碗を持って戻ってきた。
「お前のために新しく覚えたレシピなんだ。ちょっと食べてみてよ」
テーブルに置かれたカボチャ粥からは、ふんわりと甘い香りが立ち上っていた。
俊介は、まるで褒めてもらいたい子供のような顔で私を見つめていた。
私はもう、彼のその場しのぎの嘘に付き合う気力すらなく、ただ淡々とその碗を彼の前に押し戻した。
「いらない。下げて」
俊介の顔に浮かんでいた笑みがピタリと消え、エプロンを脱ぎ捨てて床に叩きつけた。
「美貴、お前マジで頭おかしいんじゃねぇの!?俺が折れてやってるのに、調子に乗りやがって!」
彼の怒り狂った声に対し、私はソファに身体を預け、呆れたように乾いた笑いを浮かべた。
「私、カボチャにアレルギーあるんだけど」
その一言で、俊介は何も言い返せず、最後はドアを乱暴に閉めて出て行った。
かつて、彼のキャリアが軌道に乗り始めた頃は、私は彼が他の女に誘惑されないかと心配していた。
でも今となっては、何度も朝帰りするようになった彼の背中を見るたび、私の心はむしろ軽くなっていた。
それから半月、俊介からの連絡は一切なかった。
そんなある日、私はマッサージの施術を受けている最中、久しぶりに彼から電話がかかってきた。
「美貴、明日はちゃんとした格好でパーティーに出てこいよ。文句言うな。これが流産したお前へのせめてもの償いってことでさ。ちゃんと着飾って、俺に恥かかせんなよ?」
まるで施しのように上から物を言う俊介の声。その背後には、絵里の甘ったるい声も混じっていた。
電話が一方的に切られたあと、私は少しの間、無言で画面を見つめていた。
そして、ふっと意味深な笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん、ごめんね。私が悪かった……ちょっと、手伝ってほしいことがあるの」
私はベッド下の木箱を開け、中から古い携帯電話を取り出した。充電を済ませ、一番上に固定されている連絡先に電話をかける。
かつて、私は金に冷たくなった実家を軽蔑していた。
でも、世間の冷たさを思い知った今、気づいたのだ。
本当に寒々しいのは、打算でしか動かない親じゃない。
真心を踏みにじって平気な顔をする人間だ。
――真心を裏切る者こそ、一万本の針を飲むべきだ。
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