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第10話

Author: 一燈月
小夜ちゃん?

まあ、間違いではないのかもしれない。若葉と圭介は同い年で、自分は一つ年下。大学でも圭介は一学年上の先輩だった。

だからといって、彼女とそんな親しげに呼び合うような間柄だったかしら?

小夜は若葉が差し出した手を、ただ黙って見つめ返した。目の前にいるこの人たちに、話すことなど何もなかった。

「まだ仕事中ですので、お構いなく」

小夜は淡々と告げた。その声には、明らかな拒絶が滲んでいた。

若葉は気まずい素振りも見せず、差し出した手を自然に動かすと、小夜の目の前で樹の頭を優しく撫でた。

「私たちも、もう何年も会っていなかったわね。前に樹くんから、あなたの辛い料理は絶品だって聞いたわ。私も辛いものが大好きなの。いつかお宅にお邪魔したいと思ってたのよ」

そこまで言うと、彼女は圭介の方を向いて甘く微笑んだ。

「圭介もいいって言ってくれたし、ちょうど今日なら時間があるんじゃないかしら。あなたがお仕事終わったら、一緒に帰りましょう?」

帰る?どこへ?

この家の主は、まだ私よ!

小夜が断りの言葉を口にする前に、樹が彼女の腕を掴んで揺さぶった。

「そうだよ、そうだよ!ママの辛い料理、すっごく美味しいんだ。僕も食べたいな。若葉さんがせっかく遊びに来てくれるんだから、今夜は絶対それがいい!」

小夜は息が詰まり、顔に浮かべた笑みが引き攣りそうになる。

樹には失望していた。

しかし、母として、子供の願いを無下にはできない。だが、自分の心を殺してまで応える義理はなかった。

小夜は深呼吸すると、礼儀正しく、申し訳なさそうな笑みを浮かべ、テーブルの向かい側で息を殺している風間に言った。

「風間さん、大変申し訳ありません。こちらで少々込み入った話がありまして。本日は一度お戻りいただけますか。後ほど、改めてお電話いたします」

こんな醜態を、これ以上見せるわけにはいかない。まずは人払いしなければ。

風間は、天の助けとばかりに安堵した。ここの雰囲気はあまりにも息が詰まる。自分がとんでもない修羅場に巻き込まれていることだけは、ひしひしと感じていた。

小夜の言葉を聞くや、履歴書もそのままに、鞄を掴んで逃げるように去っていった。

カフェには他に客もほとんどおらず、席も隅の方だった。風間が去ると、圭介と若葉はごく自然に席に着いた。

樹は小夜の隣に座り、なおも彼女の腕を揺さぶって、夜ご飯を作ってくれるよう催促している。

小夜は樹の腕をそっと押さえると、向かいで微笑む若葉と、窓の外を眺めて我関せずといった様子の圭介を順に見た。心の中で、冷たい笑いが込み上げてくる。

何という茶番だろう。

彼女は樹の方を向き、真剣な眼差しで言った。

「ママは、好きじゃない人のためには料理はしないの」

樹は信じられないといった顔で、途端に目に涙を浮かべた。

「ママ、僕のこと、嫌いなの?!」

「私が好きじゃないのは、この人よ」

小夜は向かいの若葉を真っ直ぐに見つめ、一言一句、区切るように言った。

「私は、相沢若葉が嫌い」

樹には理解できなかった。彼は小夜の手を振り払う。

「どうして?若葉さんはすごくいい人なのに!僕もパパも大好きなのに!」

ママはなんて失礼なんだろう、と彼は思った。若葉さんの目の前で嫌いだなんて言うなんて。恥ずかしくて、顔が熱くなった。

振り払われた小夜の手がソファに落ちる。氷のように冷たく、麻痺した感覚が広がった。今の彼女の心境そのものだった。

しかし、彼女は前言を撤回する気は全くなかった。

嫌いなものは、嫌いなのだ。

一方、若葉は樹をなだめるように軽く背中を叩くと、面と向かって嫌悪を示されても、なお優雅な笑みを崩さなかった。

「小夜ちゃん、何か誤解があるんじゃないかしら?私、あなたに何か悪いことした覚えはないのだけれど」

ここまで見せつけられて、まだ何を言うことがあるというのか。

小夜は「ふん」と鼻で笑った。

「一つ一つ挙げて差し上げましょうか?それと、ちゃん付けで呼ばないで。私たち、そんなに親しい間柄じゃないでしょう」

「高宮小夜!」

今まで黙っていた圭介が、突然、叱責するような声を上げた。

「若葉がお前と穏やかに話そうとしているのに、いつまでそうやって突っかかるんだ!」

若葉?ふふ。

「圭介、怒らないで」

若葉はテーブルに置かれた圭介の手にそっと自分の手を重ね、優しく言った。

「小夜ちゃんは、何か誤解しているだけよ。私がちゃんと話してあげるから」

彼女は再び小夜に向き直ると、諭すように言った。

「小夜ちゃんも、落ち着いて。子供もここにいるのよ」

小夜の喉まで出かかっていた棘のある言葉が、ぴたりと止まった。

彼女は若葉の隣に立つ樹を見た。その驚いたような目は、まるで初めて自分を見るかのようだ。

そうだった。この七年間、彼女は一度も子供の前で怒りを表したことはなかった。ましてや、こんな棘のある言い方などしたこともない。彼が自分を別人であるかのように感じるのも、無理はなかった。

自分が努力して維持してきた平穏は、今日、完全に引き裂かれた。

いや、もしかしたら、最初から粉々だったのかもしれない。

小夜は目を閉じ、胸に込み上げる息苦しさをこらえた。膝の上の手は強く握りしめられ、爪が掌に食い込む。

彼女は静かに口を開いた。

「樹、少し向こうで遊んでいなさい」

樹は動かなかった。若葉に促されて、ようやく別のテーブルへ移って遊び始めたが、時々こちらを窺っている。

心臓が締め付けられるような痛みに耐えながら、小夜は初めて、顔に貼り付けた笑顔の仮面を剥ぎ取った。氷のように冷たい嫌悪を込めて言い放つ。

「あなたたちが芝居をしたいなら、他所でやって。私の目の前ではやめてちょうだい。吐き気がするわ」

若葉は叱ろうとする圭介を制し、笑みを浮かべたまま言った。

「小夜ちゃん、圭介の会社の社長に就任したこと、怒っているんでしょう。あなたがずっと努力しても入れなかったから。でも、これは私が自分の実力で勝ち取ったものなの」

小夜は頷いた。

「ええ、分かっているわ」

若葉は、彼女がそんな反応を示すとは思わず、一瞬言葉に詰まった。何かを言い続けようとしたが、小夜はもう聞く気がなかった。

彼女は圭介を見た。その瞳には、もう何の感情も映っていなかった。

「あなたと話があるの。今、ここで」

若葉に席を外せ、という意味だった。

圭介が躊躇するのを見て、小夜は続けた。

「そんなに時間は取らせないわ。三十分でいい」

「圭介、陽介(ようすけ)たちと会う約束の時間、もうすぐよ」

若葉が不意にそう言った。

「夜、家に戻ってから話そう」

圭介はその一言を放つと、小夜が引き留めるのも待たず、樹を連れて足早に立ち去った。

若葉は小夜に微笑みかけ、礼儀正しく別れを告げてから後を追った。

ママが若葉さんに失礼な態度をとったことに腹を立てていた樹は、小夜の方を見もせず、挨拶もなしに、父親と若葉さんと一緒に去っていった。

小夜は椅子に座ったままだった。

彼女は窓越しに、彼らがカフェを出て車に乗り込み、走り去っていくのを静かに見ていた。その瞳は、がらんどうそのものだった。

しばらくして、彼女はテーブルの上のコーヒーを手に取り、一口飲んだ。氷のように冷たく、苦かった。

彼女は静かにカップを置くと、窓の外で寒風に舞う雪を眺め、ふっと自嘲の笑みを漏らし、囁くように呟いた。

「冷めちゃった……」

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